第四話 鏡に捕らわれた魔女

 ウィンスレットの館に戻ると、満面の笑みを帯びた銀髪の紳士がオレたちの帰りを待ち構えていた。暇を持て余していたじいちゃんの発案で、オレたちは屋敷中のすべての部屋を使って壮大なかくれんぼをすることになった。リーブル先生は無関係を装って部屋に戻ろうとしていたが、じいちゃんによってがっしりと腕を掴まれた。

「おまえも一緒に遊ぶんだよ、リーブル」

「冗談じゃない。老人の相手は子供がするもんだろ」

「まずは鬼を決めなくてはな。じゃんけんで決めることにしよう。それじゃあ行くぞ、じゃーんけーん……」

 じいちゃんの掛け声につられ、先生は条件反射でオレたちと一緒になって咄嗟にじゃんけんに手を出してしまった。オレとルリアとじいちゃんの三人はパー。先生はグー。遠い目をして自身の拳を見つめる先生の顔には、不本意という文字が浮かんでいるかのようだった。「どうして僕が鬼なんだよ」

 じいちゃんは一目散に左の部屋へと姿を消した。オレとルリアは階段で二階へ上がり、自分たちの隠れる場所を捜し求めて各々屋敷の中をさ迷った。

 ここでいいかなと思って隠れてはやっぱり見つかるかもしれないという気持ちに駆られ、幾つもの部屋を出たり入ったりして繰り返した末に、オレは物置のような屋根裏部屋に辿りついた。側面の割れたカンテラがあったので試しにスイッチを入れてみると、ゆっくりと時間をかけて鈍い光が部屋の中を照らし出した。薄暗い部屋の中には使われなくなったランプの傘や古びた絨毯などが所狭しと置かれていた。それらはうっすらと埃を被り、所々に蜘蛛の巣が張り付いている。

 小さな丸テーブルの上に本が一冊置かれていたので、何気なくパラパラと捲ってみる。

「△年○月×日、彼女の名前はハリエット。こんなに美しい女性に未だかつて出会ったことが無い――って、これじいちゃんの日記じゃないか」

 見てはいけないものを見たような気がして慌てて日記帳を閉じた。そのとき、誰かが階段を上ってくる音が聞こえ、焦ったオレは白い布の掛けられていた大きな絵画らしきものの影に身を隠した。

 足音は部屋の前で止まることなく通り過ぎた。どうやらリーブル先生ではなかったようだ。というよりも、そもそも先生はきちんとオレたちを探しているのだろうか? 先生のことだから、勝手にひとりでかくれんぼを放棄して優雅にティー・タイムなんてことも在り得ない話じゃない。

 部屋から出ようとしたときに、絵画に掛けられてあった白い布をするりと引き落としてしまい、隠れていた絵が顕になった。清廉な表情をした美しい少女の肖像画だった。

 陶磁器のような白い肌に、薔薇色の頬。腰の辺りまである波打つような黒髪。肖像画に描かれている少女はまるで人形のように端正な顔立ちをしていた。その顔をオレは確かにどこかで見たことがあると思った。この少女は誰かに似ている。

 そのとき、突然背後から声がした。

「メグ、見いつけた!」

「わあ!」

 驚いたオレは悲鳴をあげて仰け反った。勢いよく背中に飛びついてきたのは小悪魔のような二番弟子だった。

「驚かさないでよ、ルリア!」

 悪戯が成功した嬉しさでルリアは満面の笑みを浮かべていたが、オレの背後にある肖像画の存在に気がつくと、次第に真面目な顔つきになっていった。

「……マリアさんだ。本当にいたんだ」

「え?」

 ルリアは肖像画の右下を指差した。そこには小さな文字で『マリア』と名前が記されていた。先生の寝言に登場したマリアさんの存在が現実の世界で認められた。このとき、同時に心に引っかかっていた謎もあっという間に解けてしまった。そうだ。この肖像画の少女は誰かに似ていると思ったが、ルリアにそっくりではないか……!

 オレは肩越しにルリアの顔を盗み見た。

「二人ともこんなところにいたのかい。そろそろお茶の時間だよ」

 突然扉の方から第三者の声がして、オレとルリアは反射的に肖像画を自分たちの体で覆い隠した。声の主はばあちゃんだった。オレたちの後ろに隠されていた肖像画の存在に気がつくと、ばあちゃんは懐かしそうに目を細めた。

「それは……マリアの肖像画じゃないか」

 レーンホルムの魔女はそう言って肖像画に近寄ると、親しみを込めた眼差しで絵の中の少女を見つめた。どうやら、ばあちゃんはこの少女について何かしら知っているようだ。

「ばあちゃん、マリアさんって一体何者なの?」

 単刀直入に尋ねると、部屋の古びた空気さえも変えてしまったみたいな妙な沈黙が訪れた。もしかしたら、聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない――そう思い始めたとき、ようやく肖像画に視線を留めたままレーンホルムの魔女が言った。

「マリアは……リーブルの初恋の人さ」

「ええ!?」

 オレとルリアは二人同時に、口を揃えて叫んでしまった。「初恋の人!?」

 リーブル先生の浮いた話など、それこそ子供の頃にファースト・キスの場所くらいしか聞いたことがなかったので、なんだか妙にこそばゆい感じがした。ルリアも同じような気持ちなのか、わずかに頬を赤らめて複雑な表情で肖像画を眺めている。

 そんなルリアの様子を横目で観察していたばあちゃんは、まるで静かに混乱しているような眼差しを湛えていた。彼女は二番弟子に何か言おうと口を開きかけ、思い留まるようにして唾を飲み込んでから、暫しの葛藤の末、やがて意を決したように切り出した。

「ルリアちゃん、このあいだ聖エセルバートの家で一緒に寝泊まりしたときに、どうしてリーブルが自分のことを引き取ったのか――あたしに尋ねたね?」

 突然、思わぬ話題を蒸し返され、ルリアは訝しげにばあちゃんを見上げた。

「まだ、知りたいかい?」

 ばあちゃんの様子が普段よりもずっと厳粛なのを感じ取って、ルリアは戸惑ったように押し黙ってしまった。瑠璃色の瞳が不安げに揺れ動いている。

「本当はあのとき話すべきだったのかもしれない。でも、リーブルはルリアちゃんにすべてを隠し通す気だったから、勝手にしゃべるわけにもいかなかったんだ。でもね、もしもルリアちゃんが真実を知りたいのなら、あたしはやっぱり包み隠さずそれを告げるべきだと思ってる」

「真実?」

 ばあちゃんは深く頷いた。

 沈黙が行き場を無くしたように再び部屋の中で腰を下ろした。ルリアはレーンホルムの魔女をその大きな瞳でじっと見つめていたのだが、やがて固い声色で、その真実について聞かせて欲しいと言った。オレは自分の胸の鼓動が高まっていくのが感じられた。

「この肖像画の少女は――マリアは……ルリアちゃんの母親なんだ」

 ばあちゃんのその一言は、ルリアの表情を一瞬にして強張らせた。いや、ルリアだけではない。オレの受けた衝撃も相当の物だった。

 しばらく経ってから、ようやくルリアがショックに打ち震えた声でこう言った。

「嘘、そんなの、信じられない。だって、そんな話聞いたことない。あたしは修道院の前に捨てられていたんだって――先生そう言ってたもん。それなのに、あたしのお母さんのことを知ってたなんて――」

「驚くのも無理はないよ。でも、真実なんだ。あたしもリーブルも、ルリアちゃんが生まれたときから知っていた。修道院の前に捨てられていたっていうのは作り話で、本当は修道院にいるマザー・エレオノーラにあたしとリーブルがルリアちゃんを預けたんだ。マリアのたっての願いでね」

 ルリアの心はひどく動揺しているようだった。ばあちゃんの話を受け入れることすらままならず、彼女は剥き出しの感情をただひたすら肖像画にぶつけていた。

 オレは興奮のあまり、ついルリアを差し置いてばあちゃんに尋ねた。

「マリアさんは今どこにいるの?」

「亡くなったんだ。ルリアちゃんを生んですぐに。生まれつき体の弱い子でね」

 亡くなった? 先生やばあちゃんは一体どういった経緯で彼女と知り会ったのだろう? 彼女は一体何者なのだろう? いや、なによりもまず気になるのは、やはりこの謎についてだろう――。

「どうしてリーブル先生は、このことをルリアに隠しているの?」

 オレの言葉に反応して、ルリアが顔を上げた。

 ばあちゃんは弱りきった様子で、弁解するようにこう言った。

「隠したくて隠しているわけじゃないんだ。あの子は、マリアと約束をしたんだ。ルリアちゃんを守るって。だから――」

「守る? 守るって、何から?」

 矢継ぎ早に尋ねるオレに対して、ばあちゃんは言いにくそうに言葉をつぐんだ。

 そのとき、重たい扉がギイと音を立てたので、ルリアがその場から立ち去ったことに気がついた。オレが顔を上げたときには、ドレスの裾が屋根裏部屋の外に消えて行くところだった。

 オレとばあちゃんは言葉もなく互いに顔を見合わせた。ばあちゃんは沈鬱な表情で溜息をつき、再び肖像画に向き直った。オレは尋ねたいことが山ほどあったが、とりあえず今は二番弟子の様子が心配だったので、ルリアの後を追いかけることにした。


 窓の向こうにはいつの間にやら真っ黒な雨雲が立ち込めており、外は本格的な雨だった。ルリアは階段の踊り場にある大きな鏡の前で立ち止まっていた。繊細な細工が施された金色の縁取りの、大きな楕円形の鏡だ。彼女は鏡の中に映る自分の姿をじっと見つめていたのだが、やがて、右手を伸ばして探るように鏡に触れた。

「先生があたしを引き取ったのは、初恋だったお母さんにあたしが似ていたから?」

 オレが後を追いかけてきた気配を察したのか、ルリアがぽつりと呟いた。その後姿は今にも壊れてしまうのではないかと思えるほどに儚かった。オレには鏡の中のルリアがなんだか泣いているように見えた。

「ルリア……」

「先生が見てるのは、あたしじゃないんだ。……リーブル先生は……あたしのお母さんのことを見てるんだ」

 ルリアがそう呟いたとき、鏡の中に映っていたもうひとりの彼女が突然悪戯気に微笑んだ。オレはギクリとして正面に立っているルリアの顔を見た。だが、こちら側のルリアは決して笑ってなどいない。すると、次の瞬間、まるで光が乱反射したような輝きが鏡一面から溢れ出た。

 ルリアは驚いてその場から離れようとしたが、鏡の中のルリアが彼女の手をしっかり捕らえて離さなかった。

「メ、メグ……」

 二番弟子は困惑した様子でオレに助けを求めた。


『鏡に気をつけるんだ』


 ばあちゃんの占いを思い出して、はっとした。

「ルリア!」

 慌ててルリアの手をとった。だが、まるで吸い込まれるかのようにして、オレとルリアは鏡の中に引き込まれた。


『目をそらしてはいけない。自分自身と向き合うんだ。そうすれば、道は必ず開かれる』


 オレたちは奇妙な感覚とともに、ゆっくりと鏡の中に堕ちていった。

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