第三話 ウィンスレットの館

 昼間は高くそびえる山々を目印にして、夜は星の位置で進路をとった。上空は地上よりもはるかに冷え込み、オレは持ってきたセーターを重ね着した上からローブを羽織り、さらにその上から首元に毛糸のマフラーをぐるぐると巻きつけた。

 レーンホルムまでの道すがら、名も知れぬ田舎町の小さな宿で幾度か休憩をした。カストリア入りした翌朝、立ち寄った宿で代金を支払った際に、亭主から返されたおつりを見てオレは思わずにんまりしてしまった。手渡された紙幣は数年前に発行されたカストリア国教会のもので、エメット三世が総主教に即位したときの記念紙幣だった。

 カストリア国教会とは、五世紀ほど前にカストリア国で成立したマリア教の教会だ。もともとはル・マリア教会であったが、政治的な問題に端を発して分裂したのだ。ちょうどオレが生まれる十五年前、カストリアでは王室と国教会の一部の人々が私利私欲のために魔法教の王国と繋がりを持った。いわゆる『ランズ・エンドの悲劇』のことである。その後、悪辣な権力を淘汰する革命が起こり王政は廃止され、カストリア国教会は民によって選出された新たなる総主教を迎えるに至った。それがエメット三世である。

 実際に記念紙幣を目にするのは初めてだった。表に描かれている肖像の下には淡い薔薇色の文字でエメット・ル・マリア・ルティアーノの名が刻まれ、背景に暁の魔法使いのモチーフである流れ星が描かれていた。即位記念の紙幣は出回っている枚数が少ないらしいので、これはかなりの幸運だった。オレはベルトから吊り下げている小さな皮の鞄に紙幣を突っ込み、浮かれた足取りで鼻歌交じりに宿の外に出た。


 黄金の朝陽とともに広大な丘陵が広がると、気分は一段と高揚し、高鳴る胸を押さえきれないくらいの興奮に襲われた。懐かしの故郷、旧レーンホルム伯爵領。無数の湖と森の木々が織り成す景観は、相変わらず夢のように美しかった。爽やかな風に乗って、レーンホルム特有の深く澄んだ土の匂いがする。

「きれい……」

 ルリアが溜息混じりに呟いた。

 きらきら光る湖の先を指差しながら、リーブル先生がルリアに言う。

「丘の向こうの建物が見えるかい? あれがウィンスレットの館だよ」

「すごい大きなお屋敷!」

「まあ、王制が廃止されたとはいえ、まがりなりにもウィンスレット家はこの付近一帯を治めていた領主だからね」

 オレたちは美しい自然の庭を通り抜け、屋敷の正面に降り立った。石造りの重厚な邸宅は昔と何ひとつ変わっていない。古びた扉の上には薔薇の花をモチーフにしたウィンスレット家の紋章があった。

 ルリアは緊張した面持ちでオレの後ろに隠れるように身を潜めた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

「だって、メグと先生のおじいちゃんって伯爵なんでしょう?」

 先生が箒の柄で扉を叩きながら苦笑した。

「昔の称号さ」

 突然、扉が勢いよく全開したのでオレとルリアはビクリと肩を震わせた。屋敷の中に人影が見当たらないところを見ると、どうやらばあちゃんが魔法を使って開いたようだ。

 リーブル先生はすたすたとホールに入って床の上に荷物を下ろす。オレとルリアが後に続いて屋敷に入ると、ようやく金髪の巻き髪を揺らしたばあちゃんが姿を見せた。相変わらず歳をとらない呪いのせいで、その姿は後から駆けつけたメイドたちとそう変わらないくらい若かった。

「よく来たねえ、二人とも!」

 ばあちゃんは両腕を広げてオレとルリアを同時に抱きしめた。大きな胸に押しつぶされて窒息しそうになり、意識がほんの一瞬遠のく。「また会えて嬉しいよ!」

 オレたちの頭をぐりぐりと撫で回しながら、ばあちゃんは横目でリーブル先生に探るような視線を傾けた。

「まさか本当におまえまで来るとは思わなかったよ。一体どういう風の吹き回しだい?」

「ご挨拶だね。来いと言われたから来たんじゃないか」

 そのとき、階段の踊り場からじいちゃんの声が降ってきた。

「久しぶりだね、リーブル、メグ!」

 踊り場に顔を向けたオレたちは、じいちゃんの姿を捉えた瞬間に全員一様にして目を丸くした。なんと、レーンホルム伯爵は真っ白なタイツに薄水色の透けるようなシフォンのドレスを身に纏い、背中に羽根のような物をつけて踊り場に立っていた。真ん中分けされたシルバーブロンドの前髪を撫でつけるように頭に花冠を乗せ、頬には真っ赤な頬紅をさしている。

 爪先立ちでくるくると回りながら華麗に階段を下りて来たじいちゃんは、最後の段で足が絡まり、よろりとオレたちの前に転がった。彼は慌てて体勢を立て直し、息切れしながらルリアの手をしっかりと握りしめた。

「レーンホルムへようこそ」

 じいちゃんは中世の騎士さながらの立ち膝で、彼女の手の甲にキスをした。

 リーブル先生が額の真ん中に理解不能と言わんばかりの縦筋を作ってじいちゃんに尋ねる。

「レイ、その格好は一体……」

「見てわからんのか、リーブル。妖精だよ、よ・う・せ・い! せっかくレーンホルムを訪れてくれたからには、この土地を知ってもらいたいと思ってね。湖水地方の民間伝承といえばまず美しい妖精だろう」

 黙って座っていさえすれば物憂い銀髪の紳士なのに……。妖精のダンスとやらを披露するじいちゃんの姿を見つめながら、ばあちゃんが呆れたように溜め息をついた。

「朝から部屋にこもって何をしていたかと思えば、飛びっきりの登場ってこれだったのかい? 恥ずかしいったらありゃしないよ。ルリアちゃんにあたしが変態と結婚したと思われるじゃないか」

 気取らぬ伯爵の姿に安心したのか、ルリアは緊張が解けたように普段どおりの笑顔を浮かべてクスクスと笑っていた。

 じいちゃんの奇行には何かしら意味があったりするのだから本当に驚かされてしまう。いや、果たしてそれが意図的なのか、はたまた天然なのかは実際には判然としないのだが――兎にも角にも、レイモンド・ル・マリア・ウィンスレットという人は、オレにとっては永遠の謎だった。


 二階の客室に案内されたルリアは、生まれて初めて見た天蓋付のベッドにお姫様の部屋みたいだとしきりに喜んでいた。オレと先生の部屋は子供時代に使っていた当時のままで、何ひとつ変わっていなかった。

 その晩、じいちゃんとばあちゃんと食卓を囲んだのは、実にかれこれ五年ぶりのことだった。天井から吊るされた豪奢なシャンデリアに負けじと、テーブルの上には旬の素材を使った郷土料理が燦然と輝いている。

「今年は例年に比べ、気候が一段と良かったんだ」

 ようやく普通の紳士の格好に戻ったじいちゃんが、オレとルリアにレーンホルム産の葡萄酒をすすめてくれた。透き通った赤紫色の葡萄酒は、ふわりとした甘みがあってとても飲みやすかった。アルコールが苦手なルリアは微妙な顔つきで無理矢理喉の奥に流し込んでいる。

「無理して飲むことなんかないんだよ、ルリア。君はまだお子様なんだから」

 挑発的な先生の言葉に、早くも耳まで赤く染まったルリアはすわった目つきで言い返した。

「いい歳して未だにお酒も飲めないなんて、先生の方がよっぽどお子様じゃない!」

「僕は君と違って飲めるけど、あえて口にしないだけだよ」

「嘘ばっかり!」

「嘘じゃないさ。お酒に酔うのが好きじゃないんだ。……思い出したくないことまで思い出すから」

 そう言ってから、先生は口走ったことを後悔するような顔つきをして、まるで話を終わらせるかのように食卓から立ち上がった。

「悪いけど、僕はそろそろ休ませてもらおうかな。メグとルリアもあまり遅くならないうちに寝るんだよ。一睡もせずに空の旅をして来たんだから」

 立ち去る先生を見送るばあちゃんの表情が何やら思わし気で、オレはなんだかそれが妙に気になった。先生の「思い出したくないこと」とは一体何だろう?

 思い起こせば、リーブル先生はこの五年間一度もレーンホルムに帰ろうとはしなかった。めずらしいオレンジ色の髪のせいで、先生は近隣の人々からよく思われておらず、嫌な思いをたくさんしたと聞いたことがある。もしかしたら先生にとっての故郷レーンホルムの存在は、オレが抱いている輝かしい思い出とは違ったものなのかもしれない。

「食後の余興に占いでもしようかね」

 その場の空気を取り持つようにして、ばあちゃんが得意の占いを披露した。明日の天気は晴れのち雨だとか、忘れていたことを思い出すとか、次から次へとさまざまなことが予言された。レーンホルムの魔女は探るような手つきで水晶玉に手を翳していたが、突然眉を片方ぴくりと動かし、一瞬曇った表情をした。

「どうしたの? ばあちゃん」

 しばらく無言で神経を集中させていたばあちゃんは、まるで警告でもするかのように唐突にルリアに言った。

「鏡に気をつけるんだ」

「え?」

 ルリアはきょとんとして鸚鵡返しに繰り返した。「鏡?」

「目をそらさずに自分自身と向き合うんだ。そうすれば、道は自ずと開かれる。……まあ、おまえがついているから大丈夫だろう」

 そう言って、ばあちゃんはオレに向かって微笑んだ。何のことかさっぱりかわからず問い返したが、ばあちゃんもそれ以上のことはわからないと言う。予言とは得てして掴み所のないものだ。だから、オレはあまり占いを信じない。


 宴の後、ルリアを部屋まで送ってから、自室へ向かう途中に通りかかったリーブル先生の部屋の扉が少しだけ開いていることに気がついた。わずかに漏れる明かりの筋が、暗い廊下に伸びている。

「先生、まだ起きてたの?」

 扉に手をかけてそっと押し開くと、先生は暖炉の前の揺り椅子に腰をかけ、読んでいた本を胸に置いたままの格好で目を閉じていた。暖かな炎に照らされて、オレンジ色の髪の毛が揺らめくように輝いている。

「こんな所で寝たら、風邪ひいちゃうよ」

 オレは長椅子の上に置かれていた膝掛けを手に取り、先生の体にかけてやった。

「……リア」

 何やら寝言を呟きながら、先生が揺り椅子の上で寝返りをうった。きっとルリアの夢でも見ているのだろうと思い、オレは密かに微笑んだ。

「……行かないで、マリア……」


 マリア……?


 思いも寄らぬ先生の寝言を耳にして、オレの心は少しばかり動揺した。しばらくその場に留まり様子を伺ったが、後には静かな寝息が聞こえるのみだった。

 先生は一体誰の夢を見ているのだろう――?



 翌日、燦々と陽の光がさす気持ちの良い日中、オレとルリアと先生は屋敷の周りを散策することにした。近くの湖で小船に乗ったり、野草を摘んだりしてから、レーンホルムを一望出来る小高い丘に登った。

「やったあ! 一番!」

 息を切らせながら、ルリアが得意気に丘の上の大きな樫の木に手をついた。

「別に競争なんかしてないだろ」

 彼女の後にようやく樫の木に辿り着いた先生が、疲れた様相でごろんと草の上に寝っ転がった。

「そろそろお昼にしようよ」

 ゆっくり丘の上までやって来たオレは、持ってきた敷物を樫の木の根元に広げ、バスケットからミートパイと紅茶を取り出した。

「レーンホルムって、本当にきれいな所だね」

 雄大な景色を見渡しながら、ルリアが改めて感嘆した。爽やかな風が吹き、木々の葉がかすかな音を立てて揺れ動く。そういえば、幼い頃よくリーブル先生がこの木陰で本を読んでくれたっけ……。そんなひとつの思い出を皮切りに、古き良き時代の出来事が次から次へと心の中に蘇り、しまいにオレはどうでもいいことまで思い出した。

「そういえば、先生のファースト・キスって確かここだって言ってたよね?」

「そんなこと言ったっけ?」

 先生はとぼけるような顔をしてミートパイを口にしたが、ルリアは興味津々で身を乗り出した。

「相手はどんな人だったの?」

 女の子というものは、この手の話に異常なまでに関心を示したりする。

「秘密だよ」

「どうして?」

 リーブル先生はしばらく無言でルリアの顔を見つめていたが、やがて実におかしそうに腹を抱えて笑い出した。オレとルリアは何がそんなにおかしいのか意味が分からず、二人で顔を見合わせた。先生は笑いを堪えようとしたものの、ルリアがきょとんとしている様子を見るなり再び吹き出してしまった。

「もう、なんなの? なんでそんなに笑ってるの!?」

 憤るルリアの隣でオレはふと昨夜の先生の寝言を思い出し、冗談のつもりで口に出した。

「わかった。先生のファースト・キスの人って、マリアさんでしょう?」

 すると、リーブル先生は驚いたように目を見開いて、オレの肩を強くつかんだ。

「君、どうしてその名前を――」

「痛っ……!」

 あまりの力の強さに、オレは思わず声を上げた。

「ご、ごめんメグ。大丈夫かい?」

 先生は我に返ったように、肩に掛けていた手を慌てて離した。オレは痛みで少しばかり顔を顰めて言う。

「昨日の夜、先生が寝言でマリアって言ってたから……」

「僕が?」

 ルリアがここぞとばかりに意地悪な笑みを携え先生に問いただした。

「ムキになるところを見ると、もしかして大当たり?」

 先生は普段どおりの冷静な様子に戻り、人差し指でルリアの額を軽く小突いた。

「ばーか。僕は敬虔なマリア教徒だぞ。大方マリア様の夢でも見てたんだろ」

 いや、そんなはずはない。オレがマリアと言った瞬間の先生の様子はなんだか尋常ではなかった。もしかしたら、ルリアの言うとおり大当たりで、マリアさんという人は本当にいて、その人が先生のファースト・キスの相手だったのではないだろうか――?

「ところで、午後はどうする?」

 まるで話題をそらすかのようにして先生が切り出した。オレはふいに樫の木の根元に埋めた宝箱のことを思い出した。

「宝箱を探そうよ!」

 だが、ちょうどそのとき、頭上からポツリポツリと小さな雨粒が落ちてきた。丘の向こう側の空は、いつの間にやら分厚い銀色の雲で覆われている。

「レーンホルムの天気は相変わらず変わりやすいな。宝箱はまた今度だ。一旦屋敷に戻ろう」

 先生が立ち上がると、魔法で皿やカップがバスケットの中に素早く収まり、敷物がひとりでにくるくると巻かれ始めた。

「おばあちゃんの占い当たったね」

 雨雲を見上げたルリアが、感心したように呟いた。

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