第七話 すれちがう心

 カルマの宿に戻ると、エントランスでじいちゃんとばあちゃんが心配そうにオレとルリアの帰りを待っていた。奥の長椅子に腰をかけていたラルフ君も、オレたちの姿を見つけるとすぐさま立ち上がって駆けつけた。

「急に飛び出して行ったから、みんな心配してたんだぞ」

 彼はオレの隣で黙り込んだままでいるルリアの様子がおかしいことに気がついて、気遣うように言葉をつぐんだ。

 柱の影になって今まで見えなかったのだが、長椅子にはすでに目を覚ましたリーブル先生も座っていた。先生はオレたちの方に歩いてくると、二番弟子の額にかかる髪の毛に指先で触れた。

「一体どうしたっていうんだい? びしょ濡れじゃないか」

 ルリアはあからさまに顔を背けると、そのまま自分の部屋に駆け込んだ。そんな彼女の行動に深い溜め息をついてから、わけがわからないと言わんばかりに先生が肩を竦める。「ここんところずっとあの調子だ。僕が何したって言うんだか」

 オレは平静さが保てなくなって、思わず責めるように口を開いた。

「先生がマリアさんの夢なんか見るからだよ」

 その言葉に、師匠は一瞬ぎくりとしたようだった。

「先生が寝言で、マリアさんの名前なんか呼んだりするから、だから……」

 だから、ルリアは突然あんなことを言ったりしたのだ。


『カストリアに行く。お父さんと一緒に暮らすの』


 オレは唇を噛み締めて、先生の顔を真っ直ぐに見つめた。

「ルリア、さっきオレにカストリアへ行くって言ったんだ」

 先生はほんの一瞬こちらに視線を走らせたが、すぐにそのまま瞳を伏せた。

「……そう」

 その声は随分と抑揚のないものだった。オレは愕然とした面持ちで問い返す。

「そうって、それだけなの?」

「ルリアが決めたのなら、仕方がない」

「仕方なくなんかないよ! ルリアが本気で行きたいと思ってるわけないじゃない! 本当は先生に止めて欲しいんだよ!」

 オレは抑えきれぬ興奮のあまり、気色ばんで叫んだ。「先生は、いつもそうやって本当の気持ちを隠すんだ! いつもどんなときも……」

 自分の気持ちを押し殺して、殻に閉じ込めて、本当は誰よりもつらいくせに、それを人に見せようとしない。先生は、ずっとそうやって自分を犠牲にして生きてきたんだ――。

 でも、そんな先生が体裁を投げ捨ててまで離そうとしなかったものがある。つい先日の大都市エデンでのあの一件だ。子供のような剥き出しの感情にひどく混沌としながらも、先生はラルフ君の家へ二番弟子を迎えに来たのだ。

「先生は本当にそれでいいの? 先生がルリアをカストリアなんかに行かせたくないってこと、ちゃんとわかってるんだから! 先生の本当の気持ちは……」

「僕の気持ちは君にはわからないっ!」

 リーブル先生がオレに対して声を荒げたのは、たぶんこれが初めてだった。

 呆然と立ちすくんだまま、オレは黙って目の前の師匠の姿を見つめる。窓ガラスに打ち付けられる雨音の激しさも、辺りの人々の談笑も、一気にどこかに消えてしまったように感じられた。

「……そうだよ……わからないよ」

 色々な出来事が渦のように意識を侵食し始めて、眩暈のように押し寄せてくる。

「先生の気持ちなんか……先生が何考えてるのかなんて、どうせオレにはちっともわからないよ! ゴドウィンさんの裁判のことだってそうだ! どうして先生がオレやルリアに一言も話してくれないのか、オレには全然わからない!」

 その言葉を聞いた先生は、即座にラルフ君をにらみつけた。階段の手すりに寄りかかっていた我らが幼馴染は、片手で顔を覆い、肩を落として項垂れていた。

「ラルフ君は悪くなんかないっ!」

 訴えるように叫んだが、ラルフ君の体はリーブル先生の魔法によってあっという間に桃色のオウムに変身してしまった。先生は杖の先を剣のように突きつけて冷ややかな声で言う。

「おしゃべりにはぴったりの姿だろう、ラルフ? その姿で好きなだけ話したらいいさ」

 オレはオウムになってしまったラルフ君を抱き上げ先生に抗議した。

「ひどいよ先生!」

 すると、ラルフ君が言葉を真似してくぐもった声で鳴き喚いた。「ヒドイヨ、センセイ! ヒドイヨ、センセイ!」

「裁判の話は二度としないでくれ。いいね」

 突き放したようにそれだけ言うと、先生は踵を返して階段を上がっていく。

「よくないよっ……!」

 搾り出すような声で叫んだが、先生はオレの言葉に振り向きもしなかった。立ち去る師匠の後姿は溢れた涙で蜃気楼のようにぼやけ始め、滴が床に落ちるのとほぼ同時に、オレはカルマの宿を飛び出した。

 じいちゃんやばあちゃんの呼び止める声が、雨音に紛れて微かに耳に届いた。



『僕の気持ちは君にはわからない』



 頭の中で幾度となく先生の言葉が駆け巡る。

 そうだ。オレは別に先生の理解者でもなんでもないのだ。一体彼の何を知っているつもりでいたのだろう――? 

 ペル・サラームの大通りを駆け抜けて行く途中、人波にぶつかって地面に叩きつけられた。うつ伏せになったまま、頬を流れる涙を拭った。だが、降り止まない雨と同じで、溢れる涙は決して止まりはしなかった。先生の存在がとても遠く感じられて、悲しみで胸が潰れてしまいそうだった。

「先生の馬鹿……」

 嗚咽とともに、短い言葉が口から漏れた。

「センセイノバカ! センセイノバカ!」

 怒ったように鳴き叫ぶラルフ君が、オレの頬に身を寄せた。そして、口ばしから丸っこい舌を覗かせて、頬を伝う涙をペロペロと舐めた。

「くすぐったいよ、ラルフ君」

「クスグッタイヨ、ラルフクン」

 珍妙な声で言葉を真似る桃色のオウムを、オレは泣きながらぎゅっと抱きしめた。「ごめんね、オレのせいでこんな姿にさせちゃって」

 そのとき、ふいに現れた影により、オレたちの周りだけ突然雨が止んだ。不思議に思って見上げると、大きな傘を差し出す宣教師ル・カインが、淡い微笑を浮かべて立っていた。

「またお会いしましたね」

 オレは慌てて体を起こした。

「こんなに濡れて、風邪を引いてしまいますよ。宿までお送りしましょう」

 足元の水溜りを見つめながら、オレはしどろもどろと言葉を返す。

「今は……その……戻りたくないんです」

 すると、ル・カインは少しも訝しがる様子を見せずに、優しく微笑んでオレの手を取った。

「そうですか。では、私と一緒にいらっしゃい。あなたの手はまるで氷のように冷え切っている。少し温まらなければ」



 セド・ル・マリアの丘の麓には、巡礼者たちのテントが隙間なく建ち並んでいた。色とりどりのテントからは長い銀色のパイプが突き出して、夜空に白い煙を吐いている。ル・カインは迷うことなくそのうちのひとつのテントにオレを案内してくれた。

 幌を捲って中に入ると、外側から見るよりも中はずっと広々としていて温かかった。オレたちのほかには誰もいない。中央に小さな暖炉がひとつと、木製のテーブルと椅子があるだけで、そこは生活するには不十分な場所のように思えた。テントの側面の至るところに古びた地図が張られており、まるで小説に出てくる騎士団の参謀本部のようだった。

「質素なローブしかありませんが、ひとまずこれにお着替えなさい」

 そう言って、ル・カインはいつの間にどこから取り出したのか、灰色のローブを手渡してくれた。彼が飲み物を作ってくれている間に、オレは素早く着替えを済ませた。

「さあ、どうぞ。体が温まりますよ」

 銀製のカップに入った飲み物はココアだった。甘くて熱いココアは身体を芯から温め、包み込まれるような感覚に妙に心が落ち着いた。

 肩にとまっていたラルフ君にカップを差し出すと、彼は口ばしの先で表面を確かめるようについばんだ。しかし、よほどココアが熱かったのか、「アツイ、アツイ」と顔をしかめて鳴き叫んだ。笑っちゃいけないとは思いつつも、その様子があまりにもおかしくて、オレは思わず吹き出した。

「あなたには笑顔の方が似合います」

 唐突にル・カインが言った。その言葉に顔を赤らめるオレを尻目に、彼は濡れた衣服を手に取って空いている椅子の背に乾し始めた。持ち上げられたローブから、細く短い木の枝のようなものが転がり落ちる。星の形をした石がきらきらと輝くそれは、リーブル先生が大都市エデンで買ってくれた魔法の杖だった。

「これは……」

 ル・カインは実に興味深そうに、拾い上げた杖をまじまじと観察した。「……まさか、聖エセルバートの――いや、失礼。とても素敵な杖ですね。一体どちらで手に入れたのですか?」

「大都市エデンです。杖の専門店で師匠に買ってもらいました」

 ル・カインは「そうですか」と微笑むと、オレに魔法の杖を手渡した。

 気のせいだろうか。今、宣教師の口から『聖エセルバート』という言葉が聞こえたような気がしたのだが……。オレは一瞬尋ねてみようかと思ったが、すぐに考えを改めた。聖人の杖かもしれないだなんて事を聞くことじたい、馬鹿げてる。そんなことはあり得ないのだし、頭がおかしいと思われるだけだろう。

 ル・カインは火かき棒を手に取って暖炉の薪を動かし始めた。消えかかっていた炎は瞬く間に勢いを取り戻す。その鮮やかな手つきはまるで魔法を使ったかのようだった。

 歳の頃は、リーブル先生と同じくらいかもしれない。先生も割と冷静なタイプの人間だが、このル・カインという人は、また違った雰囲気の静けさを持った人のように感じられた。

「ル・カインさんは、ずっとこの地で布教活動をしているんですか?」

 火かき棒を元の位置に戻しながら、彼は静かに首を横に振った。

「我々聖オーロラ信教団は、現在『暁の魔法使い』とともに世界中のあらゆる土地へと布教の旅をしているところなのです。こちらに着いたのはつい先日です」

 暁の魔法使いは本物なんですか? と聞いてみたかったが、それはあまりにも不躾な質問だと思いすぐに口をつぐんだ。しかし、ル・カインはオレが何を言おうとしていたのかを悟ったのかもしれない。暖炉の炎にきらめくプラチナブロンドの髪とは対照的に、瞳にある種の憂いが浮かび上がった。

「私たち聖オーロラ信教団において、マリア様の血を引く暁の魔法使いは神に等しく神聖な存在なのです。しかし、宗派によってはその存在を認めようとしない者たちもいます。彼らは法の力で我々を裁こうとさえ考えている。他人を責め裁くことは真の信仰とは程遠いものだと私は考えます」

 ル・カインが黙り込むと、暖炉からパチパチと薪の弾ける音が響いた。周りにこれだけの数のテントがあるというのに、とても静かな夜だった。雨もすでに止んでいるのかもしれない。

 彼は静かに言葉を続けた。

「多くの人々はひどく盲目で臆病だ。物事をよく考えもせず、自分たちのみが正しいと信じきっている。彼らと意見を違える者、脅威になりえる者はすべて『異端』となるのです。あらゆる不安を一方的に『異端』扱いすることで、自分たちを守っているのです」

 その言葉は裁判の最中にいるゴドウィンさんの存在を思い出させた。オレの表情がみるみるうちに沈んでゆくのを感じ取ったのか、ル・カインが気遣うように尋ねてきた。

「どうかされましたか? 何か気がかりなことでもあるような顔をしていらっしゃる。私でよければ話してごらんなさい」

 ほんの一瞬躊躇ったが、あまりにも親身な態度に心を揺さぶられ、オレは言葉を濁しつつ語り出した。

「知り合いが……今、一方的な裁判の真っ只中にいるみたいで、彼を少しでも助けたいんです。正しい裁きをしてもらえるように。でも、先生は……オレの師匠はそのことについてまともに話すら聞いてくれない」

 立ち去るリーブル先生の後姿が目の前の景色に重なった。オレはそれを打ち破るようにして、奥歯をぎゅっと噛み締めた。

 ル・カインは黙って話を聞いてくれていた。彼は深い眼差しでもって真っ直ぐにオレを見つめ直すと、肩に手をかけこう言った。

「あなたは、あなたが正しいと思うことをすればよいのです」

 穏やかに放たれた言葉には、揺るぎない信念のようなものが感じられた。その柔和な表情には独特の謎めいた世界があって、もっと彼のことを知りたいという衝動にかられた。同時に、この地で初めて会ったはずなのに、ずっと昔から彼のことを知っているような気がしてならなかった。こんな不思議な感覚も、彼が作り出す魅力の一部なのかもしれない。

 ル・カインはおもむろに立ち上がると、幌を捲って外の様子を眺めた。

「どうやら雨が止んだようですね。そろそろ宿に戻られた方がよいでしょう。明日は『魔法使いの試練』があることですし、ゆっくりと体を休めなければ」

 その言葉にオレは驚いて問い返した。

「オレが『魔法使いの試練』を受けるって、どうして知ってるんですか?」

「すべては聖女マリアの御声です」



 カルマの宿に戻ると、じいちゃんとばあちゃんは何も言わずにただ温かくオレとラルフ君の帰りを迎えてくれた。リーブル先生の姿はそこにはなかった。

 ランプの明かりが廊下を歩くオレの姿をくっきりと映し出す。自分の部屋へ向かう途中、描き出されたオレの影が先生の部屋の前で立ち止まることは決してなかった。

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マリア教の魔法使い Lis Sucre @Lis

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