第五話 狂いだした歯車

『ある日、我が娘ジョアンに尋ねられた。


「ねえ、お父様。聖エセルバートはマリア様を愛してらっしゃったのよね? マリア様の方は一体どうお思いだったのかしら」


 マリア様もまた、聖エセルバートを愛していたに違いない――。私がそのように答えると、ジョアンはまるで自分のことであるかのように幸福そうな顔をした。だが、私たちの話を聞いていたエリアスは、熱を帯びた口調でそれに対して反論した。


「偉大なマリア様が愚かな悪魔を愛するはずがない。仮にマリア様が聖エセルバートを愛していたとして、どうして魔法陣から助け出してやらなかったのさ?」


 エリアスは自分の考え方のみが正しいと信じきっていた。


「ねえジョアン、僕は君を愛しているんだ。だからこそ、君が過ちを犯すのを赦すわけにはいかないんだよ」


 彼はジョアンに『悪魔』の所へ行かないようにと懇願した。

 その頃のジョアンは例の青年宣教師にすっかり心を奪われており、彼女にとってそのほかの何もかもが、まるで霧のベールがかかったようにぼんやりと霞んで見えていたに違いない。エリアスは確実にその異変に気がついていて、最愛の姉を再び自分の方へ振り向かせることに必死だった。

 それまでの二人は大変仲むつまじく、どこへ行くにも何をするにもいつも一緒だった。双子である自分たちの間には一種のテレパシーのようなものが存在し、相手の気持ちがまるで自分のことのように手に取るようにわかるのだと、二人は口を揃えて言っていた。それがこんなに容易く変わってしまうとは……。


 二人の仲が決定的に壊れてしまったのは、今思い返してみればきっとこのときだったに違いない。

 ある日のこと、ジョアンは怒りに満ちた様子でエリアスを探しに私の元へと駆け込んで来た。聞くところによれば、エリアスがすっかり彼女になりすまし、日中例の青年宣教師に逢いに行ったというのである。

 変装したエリアスと青年宣教師が連れ立って歩いていたところを、知り合いのシスターが目撃していたらしく、その後同じ方角から本物のジョアンが現れたものだから、彼女はまるで幽霊でも見たような顔を向けたのだそうだ。

 ジョアンの怒りは収まらず、その日、エリアスが戻るまで屋敷は激しいピアノの音色に包まれた。元来喧嘩っ早い性質のジョアンは、エリアスが戻るや否や顔を真っ赤にさせてすぐに彼に飛びかかって行った。そして、どうしてこんなことをしたのかと責めるように問いただした。傍から見れば、その様子はまるでジョアンが鏡の中の自分に向かって文句を言っているかのようだった。

 意外にも、憤っていたのはジョアンだけではなかった。エリアスの方も大変憤慨していたのである。彼の言い分はこうだった。


「あの男は君のことをこれっぽっちも愛してなんかいなかった。ねえ、ジョアン、このままでは君は必ず不幸になってしまう」


 ジョアンは怒りのあまり体を震わせながら叫んだ。


「愛されていないことなんか知ってるわ。それでも、いつか振り向いてくれるかもしれないじゃない! 愛されるには、まず愛することが必要なのよ! いいことエリアス、金輪際私になりすましたり、あの方のことを悪く言ったりしないでちょうだい。もしもまた同じようなことがあったら、あなたとは絶交よ!」


 ジョアンが部屋から立ち去った後、残されたエリアスはショックのあまりしばらく口もきけない有様だった。姉を失ってしまった現実が彼から表情というものをすっかり奪い去っていた。

 思えば、あの瞬間にこそ、エリアスの中で決定的な何かが崩れたに違いなかった。――悪いのは僕じゃない。僕はジョアンを愛しているのだ。僕は彼女を心の底から心配しているだけなのだ。

 惨憺たる悲劇に向かって、歯車は確実に回り始めた。しかし、私はまったくの傍観者としてそこに存在していただけだった。子供たちの異変に気がついていたにも関わらず、何も手を差し伸べてやれなかったのだ。

 それから幾日もたたぬある日のこと。ハリエットがひどく青ざめた様子で、娘の部屋へ私を導いた。ジョアンは例のごとく出かけていた。

 ハリエットに促されるまま、部屋の中央に視線を投じると、床の上には数種類のハーブや煎じ汁が雑然と置かれており、中央には燃えかすの入った小さな器があった。

 フェンネル、コリアンダー、ブラック・ポピーの煎じ汁、サンダルウッドにドクニンジン。私にはこれらの材料が何を意味するのか理解出来なかったが、ハリエットが神妙な顔つきで教えてくれた。これが悪魔を呼び出す儀式の残骸なのだということを――。


 一度狂いだした歯車は、止まることを知らなかった』

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