第十話 東の塔

 狭い路地裏の石段を上りながら夜空を見上げると、ランズ・エンドに来るときに目印にした星の瞬きが一段と近くなったように感じられた。月が薄雲に隠れた静なる夜の海で、星は何かを訴えるかのように激しく光を放っている。

 隣を歩いていたリーブル先生が、一緒になって空を見上げた。

「星が燃えているのがよくわかるね。この空の向こうには一体何があるんだろう。空には果てがあるのかな。君は箒で雲の上まで飛んだことがあるかい?」

 惨めにも、すぐに答えることが出来なかった。

「実はオレ、上手く空を飛ぶことが出来ないんだ」

 小さな声で白状すると、リーブル先生は驚いたようにオレの顔を見た。

 肩に担いでいたラルフ君の箒を今すぐにでも投げ出したい心境だった。魔法使いのくせに空を飛べないだなんてかっこ悪すぎる。オレは恥ずかしさと悔しさから足早に石段を駆け上がった。

 途中、ふいに子供の歌声が聞こえてきたような気がして足を止めた。星十字の刻まれた石碑が並ぶ王家の墓地で、幼い子供が墓石に寄りそうようにして悲しげな歌を歌っている。対岸で見かけた黒髪の少年だ。

「どうかしたの?」

 追いついたリーブル先生が背後から声をかけてきた。

「あそこに男の子が……」

「男の子?」

 しかし、再び墓地に顔を向けると、そこには静謐な空間が広がっているだけで、少年の姿はどこにも見当たらなかった。先を行く総長とゴドウィンさんが石造りのアーチの下でオレたちを待っていたので、少し気にはなったものの、オレは急いで先生と一緒に彼らの元へ向かった。



 岩山の頂にそびえ立つサン・スクワール城の裏手は断崖になっていて、オレたちはアーチにかかる蔓草をよじ登り、崖に突き出た城内庭園に入り込んだ。回廊を抜ければ、その先には東の塔が立っている。聖オーロラ狩りにあった魔法使いたちがそこに閉じ込められているのだ。

 庭園を横切ろうとしていたとき、ちょうど二人組みの衛兵が手前の階段を下りて来たので、オレたちは慌てて近くの茂みに身を潜めた。衛兵たちはこちらの存在に気がつくことなく、夢中で何かを話しながら遠ざかって行った。彼らの話に耳をそばだてていたゴドウィンさんが、神妙な顔つきで茂みから立ち上がった。「なんてことだ。言い伝えは本当だったのか」

「言い伝え?」

「やつら、禁書を持って逃げていたカストリアの王女を捕らえたらしい」

「禁書……?」

 オレとリーブル先生はなんのことやらと言わんばかりの顔をした。

聖書マリアバイブルの最終章には実は続きがあるって言われてるのを知ってるか? 聖書マリアバイブルは聖ノエルによって書かれた聖女の旅の記録だが、その年は閏年で最後の一日の記録が欠けてるんだそうだ。それを禁書としてカストリアの王家が代々隠し護ってきたと伝えられている。禁書には決して表沙汰にしてはならない『秘密』が綴られているそうで、俺たち魔法教徒のあいだじゃ魔法陣から聖エセルバートを解き放つ方法が記されているのではないかと信じられてきた」

「聖エセルバートを解き放つ……?」

「ああ。ようやくサン・スクワール王室が聖オーロラ狩りに絡んでいた理由が見えてきたぜ。やつらは聖エセルバートを復活させようとしてるに違いない。聖エセルバートが閉じ込められた魔法陣を打ち破るには、聖ノエルと聖ユーフェミアに匹敵する魔力を持った者が必要だ。かけられた魔法は術をかけた魔術者より優れた魔法使いでないと解くことが出来ないからな。だからやつらは、聖女の末裔であり大いなる魔法使いと呼ばれる暁の魔法使いを探していたってわけさ」

 ゴドウィンさんはそこで話を終えると、青ざめた顔で話を聞いていた総長の背中を押して、一緒に回廊の松明を取りに行った。

「なんだかとんでもないことになってきたな」リーブル先生が脱力したように回廊の柱に寄りかかった。「マリアが聖オーロラ狩りに遭うはずはないと思っていたけど、やつらの狙いは禁書だったのか。彼女がそんなものを持っていただなんて全然知らなかった」

 その言葉を受けて、オレの脳裏にはあるひとつの出来事がよぎった。マリアさんが持っていた禁書とは、森でカストリアの密使に渡していた羊皮紙の束ではないだろうか――?

 そういえば、茂みに引っ掛かっていた紙を一枚だけ拾ったはずだ。オレは羊皮紙を取り出そうと革の鞄に手を突っ込んだ。しかし、なんとも奇妙なことに、出てきたのはレーンホルムに来る途中に手に入れたカストリアの記念紙幣だけで、羊皮紙はどこを探しても見つからなかった。

「どうしたんだい、メグ?」

「羊皮紙がないんだ。確かにここに入れておいたはずなのに」

「羊皮紙?」

「マリアさんが森でカストリアの密使に渡していた羊皮紙だよ。先生が転んで紙の束をばら撒いたとき、一枚だけ集め損ねていたらしくて、それを拾っておいたんだ」

「ああ、あれのことか。あんな恋文、気にすることないよ」

 思いもよらぬ返答に、オレは自分の耳を疑った。「恋文?」

「相手は誰だか知らないけど、マリアにはカストリアに想いを寄せている人がいるんだ。僕があの手紙の束を捨てようとしていたのは、ただのやきもちだったのさ」先生はそう言って自嘲気味に肩を竦めた。

「あれは恋文なんかじゃなかったよ! 羊皮紙にびっしりと書き記されてあったのは、複雑な魔法陣の紋様と呪文の言葉だった」

「魔法陣と呪文? まさかメグ、君はあれが禁書だったとでも言うのかい?」

 先生が笑い声を上げて返してきたので、オレも思わずつられて笑った。オレたち二人は気が抜けたようにひとしきり笑いあったが、それから顔を向き合わせたまま互いに深刻な表情になった。

 そのとき、松明を手にしたゴドウィンさんたちが戻ってきた。

「集められた金髪の魔法使いたちが暁の魔法使いでないとわかっちまえば、命の保障はないに違いない。早く彼らを救出してやらなけりゃ」

 ゴドウィンさんは急かすようにオレたちを先導したが、聖ユーフェミア騎士団の青年騎士は松明を握り締めたまま険しい顔でその場に留まっていた。

「ファインズ総長?」

 振り返って声をかけると、総長は重々しい口を開いてこう言った。

「聖エセルバートが復活すれば、この世は本当に破滅への序曲を歩むことになるだろう。……君たちは友達を助けてあげるのだ。そして、無事救出したら皆を連れてここからすぐに抜け出しなさい」

「総長は?」

「私は聖ユーフェミア騎士団の騎士として、この陰謀を阻止せねばならぬ」

 総長はポケットから星十字の留め金を取り出し、それをオレに手渡した。

「捕らわれの魔法使いの中に妹のロズモンドがいるかもしれない。もし彼女を見つけたら、君たちで助け出してやってくれないか。そして、うまく外に出ることが出来たら、この留め金を聖ユーフェミア騎士団に見せ、彼らに応援を頼むのだ」

「総長ひとりで乗り込むなんて危険だよ! 騎士団の人たちと一緒に……」

「それでは手遅れになるやもしれん」

「でも、サン・スクワール王が本当に禁書を手に入れたのかわからないよ? ここに来る前、マリアさんが――カストリアの王女が密使に何かを渡しているのを見たんだ。もしそれが禁書だったとしたら……」

「そうである方が望ましい。禁書は誰の目にも触れさせてはならぬ物なのだ。だがどちらであれ、カストリアの王女が捕らわれの身になっている今、私はここに残らねばならない。王女を助けるのは騎士の務めだからね」

 そう言って、総長は柔らかな微笑を浮かべオレにウィンクして見せた。それから、彼はすぐに普段の厳格な表情を取り戻し、ゴドウィンさんから城の簡単な略図を教わり懸命に頭の中に叩き込んだ。

 気高い騎士の後姿が闇に溶け込むのを見届けながら、オレは彼に神の加護がありますようにと心の中で祈りを捧げた。

「さあ、俺たちも急ごう」

 ゴドウィンさんに促され、オレたち三人は東の塔に向かって歩き始めた。



ドカッ

ゴンッ

ボクッ



 鈍い音とともに、塔の入り口を護っていた衛兵がその場に倒れ込んだ。オレたちは彼を殴ったレンガを各々地面に置き、星十字をきって祈りを捧げた。

「死んでないよね?」

「大丈夫。気絶しただけだ」

 塔の扉についていた小窓を開き、オレはそこから中に向かって声を潜めて呼びかけた。

「ルリア、ばあちゃん、そこにいるの?」

 すると、すぐに聞きなれた可愛い声が塔の中から返ってきた。

「メグ?」

 小窓の中を松明で照らすと、大きな瑠璃色の瞳がこちらを覗いていた。

「助けに来てくれたんだ!」

 ルリアの声に反応して、塔の中から人々の歓声が沸き上がった。オレは慌てて自分の鼻先に人差し指を立て、皆に声を抑えるように伝えた。金髪の魔法使いたちが集められた塔の中で、ひとりだけ黒髪のルリアは異色な存在だった。

「怪我はない?」

「うん。大丈夫。海に落ちて気がついたら魔法教徒に捕まっちゃってたの。あたしは黒髪だけど、とりあえずあやしい魔法使いとしてここに閉じ込められたみたい」

 リーブル先生がオレに変わって塔の中を覗き込んだ。

「ルリア、無事かい?」

 先生が声をかけると、ルリアは急に息が詰まったように黙り込んでしまった。

「ルリア?」

「……うん……無事だよ、先生」

 オレにはわかる。その声は、ルリアが泣くのを我慢しているときの声なのだ。気丈に振舞ってはいたものの、彼女は小さな体で必死に不安と戦っていたのだろう。

 オレは先生の背後から小窓を覗き、錆び付いた鉄格子の向こうに声をかけた。

「ルリア、ばあちゃんとマリアさんもそこにいるの?」

「マリアさんはここにはいないけど、おばあちゃんなら元気だよ!」

 その言葉を遮るようにして、ばあちゃんの怒った声が降ってきた。

「まったくあんたたちは人のことをばあさん呼ばわりして! 未来から来たとかわけのわからない話を散々聞かされたけど、あたしの美貌をよくご覧よ! 一体どこがばあさんだって言うんだい!」

「ばあちゃん! よかった、無事だったんだね!」

 嬉しさのあまり、言われたそばから『ばあちゃん』と呼びかけてしまったものだから、歳をとらない魔女は力なく前のめりに倒れ込んだ。

「あ、そうだ。ねえルリア、塔の中にロズモンドさんっていう女の人がいるか確認してくれない?」

 ルリアは捕らわれの魔法使いたちに歩き回って声をかけてくれた。だが、ファインズ総長の妹さんはどうやらここにはいないようだった。そのとき、横たわる衛兵の服をまさぐっていたゴドウィンさんが言った。「どうやらこいつは塔の鍵を持っていないようだ!」

 先生は扉のそばに屈み込み、すぐさま鍵穴の仕組みを観察し始めた。扉を開けようと試行錯誤してみたが、うんともすんとも言わなかった。オレは試しに鉄格子を両手で掴み、力任せに揺すってみた。しかし、赤い錆がぱらぱらと地面に落ちるだけで鉄の棒はびくともしない。

「塔の中に集められている人たちはみんな魔法使いなんだよね? 魔法でどうにかしてこの小窓から抜け出せないかな? たとえば、何か小さな動物に変身するとか」

 切迫した表情で発案すると、ルリアが塔の中で首を横に振った。

「それが、さっきおばあちゃんが試してみたんだけど、この塔全体に魔法封じの呪文がかけられてるらしくて、魔法を使うことが出来ないの」

 呪文をかけた人間よりも強い魔力を持っていなければ、魔法封じを解くことは出来ない。オレは小窓の向こうに手を振りかざし、試しに鳥に変身させる魔法の呪文を唱えてみた。だが、魔法の光は何かに弾かれるように拡散してしまった。未来の先生がよく使う魔法だったので真似してみたものの、オレ自身は成功した前例がなかったので所詮は無理な話だった。幼いリーブル先生もオレの隣で真似をして呪文を詠唱したが、魔法教徒によってかけられた術だけあって全く歯が立たないようだった。

 ルリアは固唾を呑んでオレたちの様子を格子の向こう側から見守っていた。しかし、やがて意を決したように切り出した。

「二人とも、マリアさんを助けに行ってあげて」

 その言葉に、オレと先生は言葉を失った。

 夜風に乗ったルリアの声は、かすかに震えていた。彼女は不安な気持ちを押し隠すようにして笑顔を取り繕う。

「ここにはたくさんの人たちがいるけど……マリアさんはひとりぼっちで捕まってるんでしょう? きっと心細いと思うんだ。だから……」

「君を残して行ったりなんか出来ない!」

 ルリアの言葉を遮るように先生が叫んだ。

 塔にわずかな沈黙が訪れた。岸壁に寄せる遠い波音だけがかすかに耳に届く中、天を仰ぎ見ながら、ルリアが再び口を開いた。

「塔の上の方にある天窓から、お月様が見えるの」

 リーブル先生は顔を上げて夜空を見上げた。

「今夜はリーブル先生の髪の毛みたいなオレンジ色の満月なんだよ。先生が一緒にいてくれてるみたいで、なんだかすごく安心するの」

 薄雲は風に流されいつの間にか形を変えていた。きらきらと瞬く星々の間から、大きな満月が温かな光を放っている。リーブル先生は無言のままにその様子を眺めていた。

 先生の後ろ姿は背後から見るととてもちっぽけだ。未来の先生よりひとまわりも小さいのだ。それでも、明るいオレンジ色の髪の毛や、紡ぎ出される言葉に込められた深く揺ぎ無いものは、何ひとつとして変わりはしない。

 包み込むような優しい声で、先生は二番弟子に言った。

「君の事を必ず助けに戻って来る。僕らを信じて待っていてくれるかい?」

 少しの間を置いてから、ルリアははっきりとした声で返事をした。

「……うん。待ってる」

 オレは小窓からルリアに手を差し伸べた。彼女の小さな掌がオレの手をぎゅっと握りしめる。

「メグ」

「大丈夫。必ず助かる。一緒に元の世界に帰るんだ」

「うん」

 ルリアの目から涙がこぼれた。

「二人とも、気をつけてね」


 オレたちを待っていたゴドウィンさんが、城の内部への近道を案内してくれた。どうやら最後まで付き合ってくれるらしい。

 庭園を駆け抜けながら、オレは遠ざかる東の塔を振り返った。石造りの塔の上に輝く優しいオレンジ色の月。そして、それよりも更に上部で燃えるように光を放つ星。オレにはなんだかこの星の存在が妙に気になった。星は何かを語ろうとしている。なぜだか、そんな風に感じた。

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