第九話 最果ての地

 ランズ・エンドは潮の干満の差が激しく、一日に二度満潮になるそうだが、今は引き潮によって現れた陸の上を歩いて渡ることが出来た。浅瀬に映る町の灯を眺めながら、リーブル先生がファインズ総長に問う。

「カストリアの現状を教えてもらえませんか?」

 総長は少しのあいだ口を閉ざしたままだったが、やがて、考えを変えたのかおもむろに話し始めた。

「パッシェン総主教が亡きジルベール王の庶子フォルスター公爵の側につき、それによりマリア王女が亡命を余儀なくされたことは知ってのとおりだ。以来、カストリアは未だ熾烈な政権争いや信仰の対立が耐えない状態だ」

 パッシェン総主教という人はひどい生臭坊主で、当時のカストリア国教会は教会にお金さえ注ぎ込めば、すべての罪が赦され神の恩恵を受けられるような状況にあった。つまり、完全なる腐敗だ。

 総長の話によれば、マリアさんの父君であるジルベール王は熱心なマリアーゼ《ル・マリア信者》で、カストリアを再びル・マリアに戻そうとして国教会の反感をかっていた。王の死後、カストリア国教会は国教会派のフォルスター公爵を推し、ル・マリア派のマリアさんから王位継承権を剥奪しようとしているらしかった。

「君は先程、なぜ我々聖ユーフェミア騎士団がカストリアを離れ、この地にいるのかと尋ねたね?」

 内密の事情をこんな子供に話してよいものか、最後まで考えあぐねていたに違いない。総長はわずかに間を置いてから、リーブル先生に向かって再び重たげに口を開いた。

「パッシェン総主教がフォルスター公をそそのかし、ランズ・エンドのサン・スクワール王室と手を結ぼうとしているのだよ。各所で不穏な動きが見られる。それで我々はこの地で待機するよう命ぜられたのだ」

 それを聞いた先生は、ひどく愕然とした様子で肩を落とした。

「聖エセルバートを崇拝する魔法教の王国と手を組めば、マリアーゼもカストリアーゼも黙っているはずがない。民衆は暴徒化し、各地で反乱が起こるに決まってる。……みんな、不幸になるんだ。……ハリエットもレイも、父さんも母さんも、ジョアン伯母さんも……みんな……みんな不幸になってしまった。愚かな魔法使いや宗教のせいで……」

 先生の口から飛び出した『ジョアン伯母さん』というのは、オレの母親のことだった。

 昔一体何があったというのだろう――? なんだか尋ねるのが怖い。心の奥底に眠る意識が触れてはならないとでも言っているみたいに、口を開くのを躊躇わせる。

 結局、オレは先生に尋ねることが出来なかった。オレたちはそれぞれの想いを胸の内で葛藤させながら、しばらく沈黙のまま干潟を歩き続けた。

 湿った砂地はぐちゃぐちゃとしていて一歩踏み出すのも大変だった。流砂床にはまり込んでしまった片足に格闘していると、ファインズ総長が手を貸してくれた。泥の中にすっかり埋没したオレの靴を探しながら、彼はおもむろに言った。

「もしかすると、私は君たちが現れなくとも、ひとりでランズ・エンドに乗り込んでいたかもしれない。少し前のことだ。魔法使いの妹が神隠しにあってね。メルカトラーゼによって拉致されたという確証はどこにもないのだが、私には彼女がここに囚われているような気がしてならないのだよ」

 泥だらけの靴を探し当てた総長は、途方にくれたような顔をしてそれをオレに手渡してくれた。

 それからしばらく歩き続けると、孤島を取り巻く城壁が眼前に威圧的な姿となって押し迫った。とうとう目的地に着いたのだ。要塞のような魔法教の王国に入り込むには、松明の灯る大きな門を潜り抜けなければならない。そこには当然、衛兵が居るに違いなかった。

「さてと。それじゃあメグ、魔法で僕とファインズ総長の服を黒いローブに変えてくれないか」

 唐突にリーブル先生から言われ、オレは間抜けな顔を向けたことだろう。

「そんな魔法使えないよ?」

「使えない? だって、君、魔法使いなんだろう?」

「まだ見習いだし、使った試しもないし、無理だよ」

 未来のリーブル先生はしゅっちゅうオレやルリアにドレスを着せたりリボンをつけたりして楽しんでいたが、この手の魔法は日常生活では不必要なものだったし、たいした魔力を持たぬオレは効力を持続させることも出来なかったので、自分が使う機会はこれまで一度もなかった。

「弱ったな。僕は君の魔法をすっかり当てにしていたよ。魔法教徒が羽織るローブは必ず黒と決められているから、せめてローブだけでも魔法でどうにか出来ればと思ったんだけど」

 どこかの村まで戻ってローブを調達する時間など到底なかった。そんなことをしていたら何日もかかってしまうに違いない。せっかく頼ってもらえたというのに、オレはなんて無用な魔法使いなのだろう。

 情けなさに落ち込んでいると、総長が大きく両腕を広げて言った。

「物は試しだ。とにかくやってみたまえ」

 自ら魔法を受け止めんとする総長の熱意に心が動かされた。やるだけやってみよう――。オレは未来の先生を真似て左下から斜め上に腕を振り上げながらパチンと軽く指を鳴らした。すると、聖ユーフェミア騎士団の青年騎士は一瞬眩い光に包まれた。

 光がおさまった後、オレとリーブル先生は直立不動のままその場に凍りついてしまった。なんとも恐ろしいことに、目の前に立っていた総長は、小花模様の可憐なドレスに身を包んでいるではないか。がっちりとした体つきなだけに、その姿は悪夢としか言いようがない。

「どうした? うまくいったのかね?」

 オレたちの表情を見ていぶかしそうに尋ねてきた総長は、自らの体を見下ろすと、再びゆっくりとオレに視線を戻した。

「早く……元に戻したまえ」

 総長の声の低さに驚いて、思わずその場で飛び上がる。

「だから無理だって言ったじゃないか!」

 半べそ状態で声を上げると、リーブル先生が笑いながらオレたちの間に入った。「今のでだいたい要領は得たよ」

 そう言って、先生が例のごとく腕を振り上げ軽く指先を鳴らすと、総長の服装はあっという間に黒いローブに変化した。

「すごい!」

 オレの称賛に得意気な顔をして、先生はこれみよがしに魔法で自分の服装も黒いローブに変えた。一度見ただけで軽々と魔法を使うことが出来るなんて、やっぱりリーブル先生は天才だ。尊敬すべきオレの魔法の師匠なのだ!

「いいかい、メグ。君はメルカトラーゼに捕らわれの身になった魔法使いの役なんだから、門を通るときには怯えた演技をするんだよ」

 実際、オレは本当に怯えていたので演技は全く必要なかった。人跡未踏ではないにしろ、悪名高い異国の地に入り込むだなんて想像しただけで足が竦む。

 心の準備が整わぬうちに、先生は大きな門扉を箒の柄で二回ほど叩いた。

 しばらくしてから扉が開き、黒い帽子を被った門番が顔を覗かせた。深緑と黒を基調にした服装に皮ベルトを締め、脹脛までのキュロットをはいている。靴下も靴も黒だったので、白い立ち襟だけがやたらと目立ち、まるで宙に顔だけ浮いているみたいだ。

 先生と総長はオレの腕に手を回し、引きずるようにして門を通り抜けた。アーチ型の頑丈そうな二つ目の石門には、また別の門番が立っていた。オレは緊張のあまり衛兵と目を合わさないで済むよう顔を上に向けたのだが、鋭い鉄の吊り格子が今にも落ちてきそうでかえって心臓がドキドキした。

 門の先に町明かりが見え始めたまさにそのとき、門番が急に槍を突き立ててオレたちに何かを話かけてきた。悪魔の姿を象った紋章入りの旗が、向けられた長い槍の先で不気味に揺れ動いている。体中から冷や汗が噴き出した。

 オレの意識が恐怖で遠のきそうになる中、リーブル先生は落ち着いた口調で言葉を返した。すると、門番は何事もなかったかのように槍の矛先を収め、姿勢正しく元の持ち場に直立した。

「ほらね、うまくいっただろう?」

 町を貫く通りに足を踏み入れた先生は、満足そうに微笑んだ。いささか辺りを警戒しながら、ファインズ総長が言葉を返す。「無事潜入出来て何よりだ。しかし、これからどうするつもりだね?」

「もちろん、ルリアたちを助けるのさ」

「だが、どうやって? メルカトラーゼに捕らわれた魔法使いたちがどこにいるかもわからないのに」

「まずは酒場へ行きましょう。酔った魔法教徒から何か有益な情報を聞き出せるかもしれない」

 そう言うと、先生は魔法でオレの緋色のローブも黒に変えた。



 ランズ・エンドの城下町は、高台にあるサン・スクワール城を取り囲むようにして緩やかな傾斜地になっていた。城壁に沿った石畳の通りには、石造りの家や店が向かい合わせに軒を連ねている。一軒の古びた酒場を見つけ、オレたちは先生を先頭に恐る恐る中へと足を踏み入れた。

 店の中は多くの魔法教徒たちでひしめき合っていた。酔っ払って陽気に歌を歌ったり、激しく何かを論じ合う人々の姿は、聖エセルバートの街でも見られるごく普通の酒場の光景だった。

 先生と総長が店の奥へ探りに行っている間、オレは扉近くのテーブル席に座って二人の戻りを待つことにした。極力目立たないよう縮こまっていたにも関わらず、席についてまもなく赤ら顔の若い男が隣に座り込んできて、何やらしきりに話しかけてくる。いやらしい手つきで腰の辺りに手を回され、オレは思わず男の体を突き飛ばした。

「やめろよ! 気色悪い!」

 自分が口走ったのがランズ・エンドの言葉ではないことに気がついて、すぐにはっとして口を押さえた。

 椅子から転げ落ちた男は、先程よりも真っ赤な顔で怒ってなにやら喚き始めた。辺りの人々が急にジロジロ見始める。オレがランズ・エンドの人間ではないことをほかの客たちに知らせたに違いなかった。現状がどれだけの危機に瀕しているのかは、カウンター横に立つリーブル先生の蒼白な表情から読み取れた。

 体を起こした男がオレのローブに手を伸ばしたとき、突然、隣のテーブル席に座っていた猫背の男が振り向かずに何かを叫んだ。すると、辺りからどっと人々の笑いの渦が巻き起こった。若い男は喧嘩を買うようにして猫背の男に怒鳴り返したが、相手が二言、三言言葉を返すと辺りは再び爆笑に包まれた。言い負かされてしまった若い男は、ひどく決まりが悪そうに酒場から立ち去った。

 店内は再び和やかな雰囲気に戻り、先生と総長がオレの元に駆け寄ってきた。

「危ないところだったね。さっきの男、君のことを他所者だって喚き立てていたんだよ」周囲の人々に聞こえないよう、小声で先生が教えてくれた。

 オレはすぐそばで酒を飲んでいる猫背の男の背中を見つめた。

「あの人、オレを助けてくれたんだよね?」

「ああ。彼のおかげで助かったよ。君は気分を害するかもしれないけれど、若い男を追い払った彼の決め台詞は最高だった。『女に相手にされないからって、寝ぼけたことを言うんじゃねえ!』」

 言いながら、リーブル先生は我慢しきれず噴き出した。

 オレたちの視線を感じ取ったのか、振り返った猫背の男と一瞬だけ目が合った。彼は無愛想にすぐさま顔を背けたが、オレの方は驚きのあまり目を丸くした。

「ゴドウィンさん!」

 酒瓶を片手に酒を飲む猫背の男は、少し若かったがゴドウィンさんに間違いなかった。魔法祭以来、まさかこのような形で彼に会うことになろうとは!

「ゴドウィンさんが助けてくれたんだね!」

 嬉しさから駆け寄って再会を喜ぶと、ゴドウィンさんは慌てたように辺りを見回し、オレの腕をつかんで素早く酒場の外へ出た。裏通りの薄暗い石段に身を潜め、彼ははらはらとした様子でオレに尋ねる。

「おまえ、本当に外の世界の人間だったのか? 聖オーロラ狩りにあったんだな? どうやってあそこから抜け出せた? ここは危ない。早く自分の国に帰れ!」

「『あそこから』? もしかして、ゴドウィンさんは捕らわれの魔法使いたちがどこにいるのか知ってるの?」

 予想外の反応に戸惑ってか、ゴドウィンさんはつかんでいたオレの腕を即座に離した。「おまえ、なんでオレの名前を知ってんだ?」

「みんなはどこに閉じ込められてるの? お願いだよゴドウィンさん! その場所を教えてよ! メルカトラーゼに捕らわれたルリアやばあちゃんが、そこにいるかもしれないんだ!」

 後を追ってきた先生と総長の気配に気がついて、ゴドウィンさんは一瞬通りの方に顔を向けた。

 リーブル先生が不思議そうに彼に尋ねる。

「あなたはなぜ、我々の世界の言葉を話せるんですか?」

 それでようやく気がついた。未来でも当たり前のようにそうだったから全く違和感がなかったが、そういえばゴドウィンさんはオレたちと同じ言語を話していたのだ。

「なぜ外界の言語に精通しているのか……理由は簡単だ。俺がランズ・エンドの外交官だからだよ」

 そう言ってから、ゴドウィンさんは小さな溜め息をついた。「だが、すべては過去のことだ。俺は自分の職務から逃げ出しちまったからな。俺にはもはや、ヤツらのやってることがよくわからない……」

 少し酔っ払っているのだろうか。ゴドウィンさんはよろめきながら石段に腰を下ろすと、肩を落として言葉を続けた。

「聖エセルバートは偉大だよ。俺はその優れた魔法の狭義を生涯をかけて信仰するつもりだった。しかし、魔法の力で世界を統一しようとするなんざ愚かな野望に過ぎないんだ。……ランズ・エンドは今、あやまちを犯そうとしている」

「まさか、本当に世界征服を企てているのか?」

 ファインズ総長が呆れたように声を上げた。

「ああ。だが、この国はもうすぐ終わるから安心しな。こんな緊迫した情勢じゃ潰されちまうに決まってる。メルカトラーゼに王室付き魔法使いを捕らわれた隣国が攻撃を仕掛けようとしているんだ。我が国に脅威を感じている周辺諸国やマリア教の反エセルバート派がそれに便乗しようと機会を伺っているし、密かにカストリアと手を結ぼうとしていることを知った聖ユーフェミア騎士団がランズ・エンドを取り囲んでいる事も知っている」

「陸の孤島であり、世界から隔絶した存在であることを自ら望んでいたはずのランズ・エンドが、なぜ今になってカストリアと手を結ぼうとしているのだ?」

「真の意図は知らん。さっきも言ったが、俺は途中ですべてを放棄して逃げちまったんだ。おかげでこのザマさ」

 弱々しく微笑むゴドウィンさんは、ひどく草臥れた風采をしていた。

 高台にそびえ立つサン・スクワール城の鐘楼の鐘が鳴り響く。その音に重なるようにして、彼はおもむろに言葉を続けた。

「メルカトラーゼに捕らわれた魔法使いたちは、サン・スクワール城の東の塔に幽閉されている」

 それを聞いた途端、総長の顔が一気に青ざめた。

「サン・スクワール城だと? 王室が聖オーロラ狩りに絡んでいるのか?」

「そうさ。メルカトラーゼは何も知らずに利用されているだけなんだ。王は聖女の末裔を殺すのが目的で金髪の魔法使いを集めているわけではなさそうだった」

「では、一体何のために……?」

 鐘楼の鐘が鳴り止むと、海風が通りを吹き抜ける音が耳に届いた。その不気味なうねり声は、ひどく心を不安にさせる。まるで体中の体温を奪い去っていこうとしているみたいだ。

「東の塔まで案内しよう」

 突然、ゴドウィンさんが申し出た。オレたちは驚いて彼の顔を見つめた。

「金髪の魔法使いたちに罪はない」

 そう言って、石段を上り始めたランズ・エンドの外交官は、後をついて来いと言わんばかりに人差し指で手招きをした。

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