あの子に触れたくて

 

 この街、尖山とげやまではほぼ9割近い人間が日常的にオルタナティブ・グラス、いわゆるウェアラブル端末を眼鏡のように装着している。

 グラスにはカメラやマイクのような各種センサー類が搭載されていて、身も蓋もない言い方をすれば進化した小型のスマートホンのようなものだ。

 超小型のスピーカーで音を発し、透明なパネルに文字や映像などの情報を。

 グラスはネットワークに存在するあらゆる情報を、視覚と聴覚を通して分かり易く表現してくれる。

 気象情報のアプリを使用して空を見上げれば、翌日の天気の様子が映像で表示される。

 この街に流れている現在主流の気象アプリであれば、数日間以内なら実際の天気とほぼ違いがないレベルで予想できる精度を誇っていた。

 地図に関連する機能だけでも、ナビ機能を使えば目の前に矢印アイコンが現れ、目的地に辿り着くまで音声案内しながらふわふわと目の前を漂う。

 建物をグラスを通して見るだけでも、飲食店なのか?公共施設なのか?それとも個人の家屋なのか、法人のものなのかアイコンや音声で示してくれる。

 アパートなどは一目見るだけでも、築年数から所有者から、現在の空室の数など、公開されていればいくらでも情報を得ることができる。

 街を歩いている人間を見れば、彼らが公開している情報に限り閲覧することだって可能だ。

 無線によるグラス同士や別端末との接続で、いくらでも機能が拡張できるのも特徴の一つだった。

 グラス同士のネットワークを利用したサービスも、数多く行われている。

 とにかく細かく挙げていけばキリがない。

 それらはつまり、あらゆるネットワークに存在する架空の情報が、視覚と聴覚によって現実世界に表示されるということ。

 現実世界がネットの情報で補完され、人間に理解できる形で拡張される。それこそがAR、いわゆる拡張現実の本質だ。

 尖山には、それを可能にする視覚や聴覚情報を得るための各種デバイスが。

 カメラやセンサー類が町中の至るところに設置されて、網の目のようなネットワークで繋がっている。

 そして、それらのデバイスから得た情報を検出し、学習し、分類し、蓄積するための大規模なサーバー設備が、同じく網の目のようにネットワークで繋がっていた。

 以前は尖山にこんな最先端の設備は存在しなかった。

 都市部から離れ、どこにでもあるような田舎の、寂れた土地。

 それが今では、どこよりも開発が進み、最先端の技術やデバイスで街中が埋め尽さんばかりに覆われている。

 大小問わず企業が競うように設備を投資し、人が流れ込み、新たな技術が開発され続けている。

 街ではARの活用がどこよりも盛んで、間違いなく最先端を突き進んでいた。一度その利点を知ってしまえば、最早それ無しの生活は考えられなくなる。

 そして、そんな尖山に住んでいる俺達は誓った。

 いつか、この街に存在するデータを、設備を、ネットワークを、人を、ありとあらゆるものを利用して、人工知能を作ろうと。

 この世界の仕組み自体を変えてしまうようなほどの存在を、自分たちが産み出すんだと。

 とても高い志を持って、俺達は約束した。



「これ……お前、これ……」


 自分がどういう状況で、どういう状態で、どういうことが出来る存在なのか実感が沸き上がり、軽く震えてきた。

 震えながら、手袋状のものを手に被せていく。

 何の素材を使っているのか俺には検討もつかなかったが、手の表面に吸い付くような自然なフィット感があった。やけに心地良い。


「ちょっと待ってね、今、色々調整してるから……」


 石崎が、AR上でアイコンを浮かべながら何やらいじっている。

 気が付いたら、手の感覚が元に戻っていた。

 というか、手に何かを装着しているという感覚そのものが無いのだ。

 空中で軽く振ってみたり、机や椅子に触ってみても、完全に俺の手そのものだ。

 装着した手袋自体が肌色なせいで、付けていること自体自分でもよく分からなくなりそうだった。


「これでリアルやAR上のものに自然な感覚で触れるようになったよ。あ、でもデバイス同士を接触させると混乱するかも」


 俺はプログラを見つめた。彼女は立っているのに疲れたのか、机にもたれ掛ってそわそわしていた。


「なんか逆に触れるのが怖くなってきたんだけど……」

「別に変なことしろって言ってるわけじゃないっての。ほら早く!」


 石崎に文字通り背中を押されて、俺は前方につんのめった。

 目の前にはプログラの姿が。

 ぶつかると思い、俺は反射的に手を身体の前方にやった。

 プログラの身体に俺の手が重なる。

 いや、違う。

 彼女の肩に、触れた。

 やわらかい、人の肌のような感触が手の触覚を通して伝わってくる。

 確かに感触があった。

 それも、ピースの単純で単調な電流や振動による子供だましに近い錯覚などではない。

 繊細な、押し返してくるような人の肌の柔らかさが。

 一瞬だったからこそ、それは感覚として強く手に刻み込まれた。

 そしてそのままの勢いで、俺はべちゃりと地面に腕を突いて倒れ込んだ。

 主に精神的な凄まじい衝撃のために。


「なんか……なんだ今の感触……」

「すごいでしょう?」


 身体を起こし膝立ちの状態で振り返れば、石崎がニヤニヤ笑っていた。

 プログラを呼び出して以来終始こんな調子だ。

 ARの存在にごく自然に触れられるという衝撃。

 そしてその触れた対象が、人間そのものにしか思えないということ。

 筆舌に尽くしがたい初の体験だった。衝撃のあまりいつのまにか総毛立ってすらいた。


「……MVRワールドも凄いとは思うけど、何が違うんだ……? あれも同じ仮想体験だろ……」

「ARやVRの仮想体験の違いと言うよりは、リソースをどこに振るかの問題だよね。向こうはワールドや各プレイヤーの描写なんかに分散されてるけど、こっちは特化してる上に触れるための専用デバイスまで付いてる」


 プログラを見ながら、石崎はまるで独り言のように言った。

 ぶつかる寸前に身をかわしたのか、いつのまにかプログラは石崎の隣にいる。

 そして、倒れた俺を不思議そうに膝手に見下ろしていた。


「つまり、突き詰めればここまでのヴァーチャル体験が可能だってことだよ」

「そう、か……」


 意味の無い言葉を呟きながら、ゆっくりと俺は立ち上がり、膝に付いたゴミを払った。

 その姿を見て、少女がくすりと笑った。わざとらしくない、ごく自然な仕草で。

 俺は沸き上がる昂揚感を抑えるように、ゆっくりと深呼吸をした。


「まさか、こんなに簡単に念願が叶うなんてな」

「何言ってんの。まだまだ全然これからじゃん。まだ学習させてないこといっぱいあるし、開発絶賛進行中だよ」

「そうなのか?それにしては……」


 俺はそこまで言って、今更ある事実に気づいた。


「そういや、さっきから全然喋らないな、プログラ」

「え、今更……」

「会話、出来ないのか?」


 石崎が頭をポリポリと手で掻いた。


「んー、まぁ色々あるんだけど、音声入力に関してほぼ手つかずなんだよね。現状だとまだ納得いく段階ではない。自然言語の学習もハードル高いし、対面での会話ともなると交互に作用する要因が余りにも増えすぎるんだよ。調整するとなると時間がかかってしょうがないし。言語と音。この壁を越えないとどーにも」

「なんで音の入力を後回しにしたんだ。一緒に進めた方が効率的じゃないのか?」


 一緒に人工知能を作るという企画を立ち上げたとはいえ、技術的なことに俺はあまり詳しくない。

 それに今進行しているプロジェクトには、これっぽっちも関わっていなかった。

 だからこそ頓珍漢とんちんかんなことを尋ねている可能性もあったが、それでも浮かんだ疑問をぶつけずにはいられなかった。


「んーまぁそれにも理由は色々あって……映像処理に関しては技術が成熟し切ってたから作りやすかったんだよね。触覚は結構誤魔化しが効くし。それに、映像処理はモデルの見た目に直結するんだよ。それって、すごく重要じゃない?」


 石崎がプログラの姿を感慨深そうに眺めている。

 なんだか子の成長を喜ぶ親の姿を彷彿ほうふつとさせた。

 要するにプログラをこの姿にしたいから、真っ先にその研究開発を進めたということだろうか。

 そこで言葉を句切り、俺の方をちらりと見ながら。


「でもさ、いずれは自然に会話したいよね」

「だよなぁ……」


 俺達は何度も頷きあった。とにかく今はまだ会話ができないらしい。


「まぁ、今の段階でもそれなりになってるし、無口な女の子でもなんとか通るってのは繋君の反応でよく分かったよ」

「鈍くて悪かったな」


 プログラが、俺達二人のやり取りを不思議そうに見つめている。

 やはり会話については聞こえていないから理解できていない、ということなのだろう。


「あ、でも、音声の入出力に関するプログラムが一つだけあるんだよ。しかも今回実装した特別な、わざわざ試作用に作ったやつが」

「なんだよ、それ。喋るってことか?」

「うん。あー、でもそのためにはちょっと準備、というか特定の動作が必要なんだ。現状じゃ複雑な音声によるコミュニケーションはできないし。ちょっと待ってね」


 そう言うと石崎はAR上で操作を行い、プログラを壁際に移動させた。

 更にアイコンを操作して作業を続ける。

 持って回った言い方をする石崎に、早く教えろよと続きを急かした。

 そんな俺の様子をさも楽しそうに見ながら、石崎は続けて言う。


「じゃあ指示するからその通りに動いてね。えーと、まずはプログラの真正面に立って腕をあげてください」

「こうか?」


 壁を背にするプログラの前に立ち、俺は腕を上げた。何かいやな予感がする。


「上げた手で壁に手を突いて、かっこいい表情をして下さい」

「ちょっと待てお前」

「もう片方の手でプログラのあごをくいっと上げてください」

「おい」


 耐えられないといった様子で石崎が吹き出した。必死に笑いをこらえている。

 その動作はかなり芝居がかった動作だった。

 いわゆる、古典的な漫画表現というやつだ。

 肝心のプログラは何が始まるのかまるで理解できていない風だった。

 抗議を続けようとする俺を石崎は片手で静止する。


「いや、マジマジ冗談じゃなくて本当に喋るから!騙して無いから!」

「そういう問題じゃねぇって!……あぁもう、くそっ!」


 半ば自棄に、半ばやけくそになって、再びプログラの前に立った。

 たとえ騙されていたとしても、こういう機会は二度とこないかもしれない。

 いや、そういう問題じゃない気もするが。

 数々の未知の体験と、その場の雰囲気に完全に呑まれていた。

 昂揚感と気恥ずかしさと非現実感から頭が混乱している。


「合図するから、よく聞こえる大きな声で決め台詞を言ってね!じゃないと認識しないから!あ、ちなみに決め台詞は好き、愛してる、から選んでね」

「嘘だったらお前あとで殺す!」


 胸中が全て恥ずかしさで埋まっていた。

 だというのに、何故か止める気が沸かなかった。

 腕を壁に突き立てるようにして、もう片方の手でプログラの顎に触れようとした。

 かなり逡巡した後に、ゆっくりと、彼女の顎を持ち上げた。

 途端に彼女が横を向き、視線を逸らした。頬が紅潮しているのが分かる。

 心臓の鼓動まで伝わってきそうだった。


「今だ!」

「す、好きだ!」


 プログラの表情が、頬が、淡く朱に染まった。

 とまどいがちに、ためらいがちに自分の頬に手をやって、顔にかかっていた髪の毛をそっと指でかき上げる。

 そして、僅かに戸惑いながら正面の俺の方に向き直った。

 うるんだ目を上目遣いにこちらと視線を合わせ、口を開き、確かに声を発した。


「生理的に無理です」

「断られてんじゃねーか!」


 俺は叫んだ。

 石崎が大爆笑した。

 それは数十秒間続き、声にならない笑い声を上げながら、石崎が苦しそうに腹に手を当てている。

 ひゅーひゅーという呼吸の漏れる音が聞こえる。


「……っし、死ぬ。……笑いすぎでっ……死んじゃうっ……」

「そのまま死んでくれ……」


 しばらく待って、二人とも落ち着いてから会話を再開する。

 プログラはといえば、まるで何事もなかったかのように両手をぶらぶらさせながら、天井を見上げていた。


「ともかく、現段階じゃこれぐらいしか出来ないんだよね。もっと色々拡張していくつもりではあるけど」

「いや、これでもう十分……いや、十分じゃないけど、すごい完成度だな」

「うん。でもまだ全然だよ。とにかく今後も開発を続けて完成度を高めて。目下のところは細かい部分をもっと詰めて、会話によるコミュニケーションを目指してる。もしできるようになったら、その時はフィードバックよろしくね。ユーザーの反応を収集するってのは大切だし」

「馬鹿にしてたの間違いだろ……」

「いやいや、大切なんだよ。開発側が想定してないことだってあるかもしれないしね。それじゃ、さっきのもう一回」

「石崎お前……」

「まーまー。冗談であんな台詞にしたけど一応音声会話の試作の一部みたいなもんだから、これも研究の一部なんだってマジで」


 石崎は立場を利用して人をからかうのが趣味だった。

 だからいまいち信用できない。

 ただ、研究の一部になっているのは間違いないとも思う。

 というかそうであってほしい。


「……分かったよ、もう」

「とにかく一連の動作と好きって言葉に反応するようになってるから、色々試してみようよ」


 結局研究の一部につきあうことになった。

 さっきの出来事で一生分の恥をかいてしまった気分だ。

 そのせいか、なんだか吹っ切れてしまった。


「そうそう。今度はもっと格好良く」


 勢いよく壁に手を突いて、右手でプログラの顎を持ち上げる


「好きだ……」

「生理的に無理です」


 今度は二人で爆笑した。


「もっと、もっと脚とか曲げてキザな感じで!」


 肘を曲げて壁に体重を乗せるようにしながら、プログラの顎に優しく触れる。


「好きだよ、お前のこと」

「生理的に無理です」


 再び爆笑。


「これ……これやばいな!ハマる。イケメンになった気分だよ。雰囲気だけ!」


 気が付けば、いつのまにかノリノリで研究の一部に参加していた。

 むしろ自分から様々な動きを提案しながら、プログラの反応を試してみる。

 手で壁を叩き付けながら、上から覗き込むようにして、彼女の顎を持ち上げる。


「好きだぜ、マジで」

「生理的に無理です」

「結局断られてんじゃん!」


 妙なテンションで、色々と好きのバリエーションを試して、その度に爆笑する。

 この繰り返しだった。


「じゃあ、じゃあさ!次こういうのどうよ!足絡ませて、こう……」


 ねっとり壁に手を這わせながら、何度も繰り返した言葉を呟こうとした時だった。


「す……」

「うわぁ」


 この場にはいない筈の声がした。視界の隅に、いつのまにか誰かがいる。

 この場には、いない筈の。

 泉が、立っていた。

 その姿を認識した途端、俺と石崎は絶句して固まった。

 幻影の少女だけが無邪気な表情をして、落ち着かない動きできょろきょろと三人の顔を見回していた。

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