四章 言葉はまるで

 翌日から、まゆらは家庭教師としての務めを開始した。

 晶は前日までの会話で気になるところが山程あったので、本当に家庭教師なのだということにちょっと驚いた。

 まゆらの教え方は上手かったし、晶もそこまで勉強が苦手ではないので、まゆらの用意したプリントはすぐに片付いてしまった。

「じゃあ今日はここまでね」

「はい。ありがとうございました」

 まゆらは鞄にプリントやペンをしまうと、晶のすぐ隣に並べていた椅子から立ち上がる。

「よし。じゃあ私は部屋に戻るね。何かあったらいつでも呼んで」

「はい」

 まゆらは笑顔で手を振りながら部屋を出ていった。

 晶は一気に脱力し、布団に倒れ込む。

 基本的に、晶に出来ることは殆どない。

 テレビにも本にも携帯電話にも触れることが出来ない晶は、一日の殆どを何もせずに過ごしている。

 それに不満を抱くようなことはない。それが当然という環境で育ってきたし、周囲と比べようにも比べる相手が冴子しかいないからだ。

 冴子と話している時に自分がいかに世間知らずかを痛感するのだが、冴子はそれすら笑って受け入れてくれる。

 冴子のことを羨ましいと思うことはない。憧れはするが、冴子が晶のことを認めてくれさえすればそれでいいと思うからだ。

 隣の部屋のドアが開く音がした。

 ということは、まゆらが外に出た音だ。

 晶はむくりと起き上がり、自分も部屋を出ていた。

 廊下に出ると少し困惑した顔のまゆらと顔を合わせることになった。

「晶さん? あ、ごめんなさい。ドアの音が大きかった?」

 首を横に振る。

「あの、まゆらさん。家のことを調べるんですよね?」

「う、うん」

「私も一緒じゃ、駄目ですか?」

 まゆらはじっと晶の顔を見る。

「う、うーん。どうかなあ……」

「邪魔はしません。それに、気になるんです」

「そっか……。うん。あんな思わせぶりなことを言った私も私だもんね。じゃあとりあえず、今日は一日お家の中を案内してもらえるかな」

「はい!」

 黒金家は広い。晶も隅から隅まで知り尽くしている訳ではない。それでも当然まゆらよりは詳しい。

 まずまゆらが行ったのは、屋敷の全体像を把握することだった。今後調べる際に迷うといけないからという理由だそうだが、実体は晶と会話をしながら家の中を歩き回るというものだった。

 黒金家は山を無遠慮に削り取ったように建てられている。この山自体が黒金家のものなので、土地は殆ど無尽蔵と言ってよかった。

 まず平らな地面一帯に平屋が伸びる区画――まゆらは便宜上母屋と呼ぶようにしたようだ――には、家族やまゆらのような客人の部屋、台所にダイニングなどがあり、基本的には殆どこのエリアで過ごすことになる。正門もこの母屋に面し、玄関や晶が出入りした裏口もここにある。

 母屋の東端から斜面を伝わる階段を下りると、広い畳の座敷を持つ区画になる。ここには風呂場や物干しのスペースなどもあり、母がよく出入りする。母の話によると、座敷は大勢の来客が訪れた時のためのものらしいが、晶はそんなに大勢の来客が現れたところなど見たことがない。この辺りも含めてまゆらに説明すると、まゆらは優しく礼を言ってここを下座敷と呼ぶことにしていた。

 階段を上がって母屋――まゆらの呼称だがわかりやすいので晶もこれから使おうと思った――に戻り、一番奥まった突き当たりまでいくと、上に延びる階段が現れる。

 ここを上がると、祖母の部屋になる。無論部屋はそれ以外にもあるのだが、使われているのは祖母が使っているところだけだった。

 まゆらは迷うことなく、祖母の部屋の前まで歩いていくと、晶に目顔で訊ねてきた。

「あ、ここはお祖母様のお部屋です」

「晶さんは、お祖母さんとは――」

「あ、いえ。お祖母様は私が小さな頃から殆どここから出てこないので、あまり……」

「そっか。じゃあちょっと、お祖母さんに挨拶してこようと思うんだけど……」

 晶はどうする――そう訊かれている。強制はされていない。正直祖母とは殆ど話したことがないし、顔も随分長い間見ていない。なのでわざわざ晶まで一緒についていいく必要はない。

 ただ、晶はどうしてもまゆらの行動が気になった。まゆらの小さな行動でも、見逃したくないと思っている。

 だから、晶はまゆらと一緒に部屋に入った。

 久しぶりに見る祖母は、安楽椅子に座って新聞を読んでいた。煩わしそうに老眼鏡をずらしずらし、新聞の文字を追っている。

「初めまして、翡翠ひすい刀自。私は久遠まゆらと申します」

 祖母――翡翠は新聞から目も上げずに呟く。

「仰々しい物言いをするね」

「私はそちらのお方にも話しておりますので」

「ほう。単なる詐欺師という訳でもなさそうだ。暁美はあれで抜けたところがあるから、下手なものを掴まされたかと思っていた」

「そんな大層なものでもありません」

「じゃあ何をしに来た」

「呪いを解きに」

 まるで真剣での立ち合いのような緊張感。互いに距離を測り、どちらも間合いに踏み込ませない。

「ですから、お話を伺いたいのです」

「見ればわかるんじゃないのかい」

「見るのと聞くのでは違います。刀自の口からお聞かせ願いたいのです」

 翡翠は鼻を鳴らし、老眼鏡を仕舞う。

「話すことはないね。だが、嗅ぎ回るのはいくらでも自由にやればいい。それは許してやる」

「残念ですが、感謝します」

 まゆらは恭しい、だが芝居臭さは微塵もない礼をすると、すっと踵を返した。

「晶」

 翡翠に呼ばれ、裏返った声で返事をする。

「お前はそう長くは持たない。その女を頼りなさい」

「は、はい。お祖母様」

 なんのことだかまるでわからなかったが、この家の実権を握り続ける祖母に逆らうことは躊躇われる。

 晶は慌てて一礼すると、まゆらの後をついて部屋を出た。

「まゆらさん、今のは――」

 まるで命のやり取りのような先程の会話を思い出し、晶は恐る恐るまゆらに訊ねる。

「うん、単にお祖母さんに家を調べる許可をもらっただけ」

 だがまゆらはさっきまでの気迫をまるで感じさせない笑顔で答える。

 どう考えてもそんな生易しい話ではなかったように思うが、晶が下手に口を挟んで事態を拗らせたら洒落にならない。

「さてと、これで家の中は大体見たよね?」

 母屋に戻ってまゆらに訊かれ、晶は頷く。隅々とまではいかないが、全体像は掴めたはずだ。

「次は町中に出てみたいんだけど、晶さんはどうする?」

「えっと、それって、私が一緒じゃ邪魔ですよね……?」

 晶は当然のことを訊ねる。

 黒金家の子供というだけで、颪町の人々は晶を特別な目で見る。分け隔てなく接してくれる冴子が特別なのであって、他の住人は皆よそよそしい態度しか取らない。

 そんな晶がまゆらと一緒に山を下りれば、まゆらの行動を大きく阻害してしまうことになるのは火を見るより明らかだ。

 まゆらはそこで悪戯っぽく笑った。晶は少しどきりとした。この人はこんな表情も見せるのか――。

「これは間違いなく言えるけど、私についてきてこの家の評判を聞けば、晶さんは絶対に厭な思いをする。それでも晶さんが私についてきたいなら」晶はこくりと頷いていた。「一度私の部屋にきて。とっておきの秘策があるから」

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