三章 想いだけは

 昼前に山の下まで冴子に送ってもらい、緩やかな山道を上がって家に帰った。

 自分の部屋に入って布団に倒れ込む。そのまま寝入ってしまいそうになるが、部屋の前で聞き覚えのある息遣いが聞こえ、晶ははっと顔を上げた。

 はっはっ、という人懐っこい息遣いの後、爪が床に当たる独特の足音が離れていく。

 あの犬だ。晶を山の中から学校まで導いた後、いつの間にか消えていた。てっきり飼い主の許に帰ったのだとばかり思っていたが、全く気付かない内に晶の後をついてきていたらしい。

 とにかく、家の中に犬を連れ込んだと知れれば大事になりかねない。捕まえて外に返さなければ。

 晶は起き上がり、部屋のドアを開けて廊下に出る。足跡は付いていないが、汚れなくてよかったと喜ぶべきか行き先がわからないと悩むべきか。

 かたかたという足音が聞こえ。晶はその音を頼りに廊下を早足で進む。

 犬の尻尾が角の部屋に飛び込むのが見えた。晶はその部屋に飛び込もうとしたが、部屋の前に来ておやと首を傾げた。

 部屋のドアは閉まっていた。

 引き戸ではないので、ドアが開いていたところに犬が入ったせいで閉まったのだろうか。とにかくこの部屋に入ったのは確かなはずなので、晶はドアノブを掴んで引いた。

「あれ? 晶さん」

 部屋の中には犬の影も形もなかったが、きょとんとした顔のまゆらが立っていた。

「あ、先生……?」

 晶が呟くと、まゆらは苦笑する。

「変なこと言うけど、『先生』って呼ぶのはやめてくれないかな。その、どうにも余計に気負っちゃうから」

 優しく言われ、晶ははあと頷いた。

「えっと、まゆら……さん?」

 まゆらはにっこりと笑う。

「近道するって言ってたけど、学校には無事着けた?」

「あ、はい。そうだ犬!」

「犬?」

「あの、ここに犬が入ってきませんでしたか?」

「さあ……。でもドアはずっと閉まってたから。犬がどうかしたの?」

「私、その、山で迷って。そしたら犬が出てきて、学校まで送ってくれたんです」

 まゆらは暫く考える素振りを見せてから、穏やかに言う。

「それ、狼だったのかも」

「え! でも狼って絶滅したんじゃ――」

「うん、日本にはもう野生の狼はいない。でも、妖怪だったら?」

 妖怪――突拍子もない単語を聞かされ、晶は面食らう。

「妖怪って、そんなの――」

「まあ、話半分に聞いて。送り狼っていう妖怪は、山のある地域では広く言われていてね。山で迷った人を送り届けてくれる狼なの」

「いい妖怪なんですね」

「でも場合によっては、送り狼がついてくる時に転んじゃうと襲われるっていうこともあるの。晶さんは大丈夫だった?」

 急に恐ろしい話になったのに肝を冷やされたが、転んだりはしなかったのでこくこくと頷く。

 だが妖怪だとすれば、不自然な現れ方や消え方にも納得出来る。

「きっと晶さんは送り狼に気に入られたんだと思うよ。家まで帰れば悪さはしないから、安心して」

 頷くと、まゆらは笑って、そうだと部屋の中の窓を指差す。

「晶さん、あのお札に見覚えはある?」

 まゆらと一緒に部屋の中に入って見てみると、窓に大きく崩された毛筆の文字が書かれた札が貼ってあった。

「あ、はい。家の中にいくつか貼られてるから。でもこれがなんなんですか?」

「うん。このお札の字、『此所勝母の里』って書かれてるの」

「はあ……」

 意味がわからず晶が首を傾げると、まゆらは笑ってごめんと謝った。

「これはね、輪入道避けのお札なの」

「ワニュウドウ……?」

「そう。車輪の中に男の顔が付いているっていう――妖怪」

 また妖怪だ。

「でも、思ってたのとちょっと違うんだよね……なんで輪入道なんだろう?」

 それは晶に言ったのではなく、殆ど独り言だったのだろう。

「まゆらさんは、詳しいんですね」

 晶の言葉で我に返ったのか、まゆらは決まりが悪そうに頭を掻く。

「うーん、なんて言うかね、仕方ないの」

「仕方ない?」

「この話はまた今度ってことにしてくれない? それより、他にもこのお札が貼ってある部屋を教えてほしいんだけど――」

「いいですけど……」

 何故――訊く前に、まゆらは答える。

「ごめんなさい。なんか変なことしてるよね。でもこのお家のことを調べるのも、仕事の内なの」

「仕事って、家庭教師じゃないんですか?」

「勿論晶さんの家庭教師だよ。でもね」

 そこでまゆらは妖しい程に屈託のない笑みを見せた。

「もう一つ別の依頼も込みで、来てるの」

「え――」

 しぃっとまゆらは口に指を当てる。

「このことは内緒にしておいてね」

「ちょ、ちょっと待ってください。別の依頼って、なんですか?」

「詳しくは言えないんだけど、そうだなあ、晶さん、自分が他の人と比べて何か不自然だと感じたことはない?」

「それは――色々と」

「例えば?」

「私、すごく世間知らずで、テレビも本も、何も見せてもらえなくて、殆ど冴子先輩から教えてもらったようなもので……」

 言ってから、はっと気付いた。

 まゆらはひょっとして、晶が冴子に抱くこの想いのことを言っているのではないか。

 午前中の会話で、晶はまゆらに熱っぽく冴子のことを語った。そのせいでまゆらに感付かれていたのだとしたら――。

 いや、それはない。まゆらに冴子のことを話したのは今日になってからで、「依頼」というものとは絶対に無関係だ。

「そうだね、晶さんが世間に触れられないというのも、そこにはきっと大きな理由がある」

 冴子について触れられなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。

「それはきっと、呪いなんじゃないかと、私は思うの」

 だがまゆらのその言葉によって、ぎょっと目を剥いた。

「呪いって言っても、その定義は様々でね。言葉を発するだけで呪いになっちゃうこともある。だから晶さんが怖がる必要はないよ。この場合の呪いは、もっと根が深いと思うけど」

 安心させようとしているのか脅しているのかわからないような言い方だが、まゆらの話し方には晶を安心させるだけの力があった。

「その呪いを解くことが、私のもう一つの仕事――でも、内緒ね」

 窓に貼られた札に一瞥をくれると、まゆらは晶を連れて部屋を出た。

「じゃあ、あのお札がある部屋に案内してくれる?」

「はい……でも……」

「ごめんなさい。怖がらせちゃった?」

「いえ、怖くはないです――けど」

 晶のこの想いも、呪いだというのか。

 抱いてはならない感情を抱いてしまったのが、呪われているからだとしたら。まゆらがその呪いを解くということは、この想いを消してしまうということなのかもしれない。

 間違っている――それはわかる。

 でも、この想いは間違いなく自分のものだ。認めることは、言葉にすることは出来ないが、それは胸の中に確かに存在する。

 それが、呪いで、なくなってしまうものなのか。

 ――厭だ。

 消されたくない。失いたくない。認められないものだとしても、言葉に出来ないものだとしても、この想いだけは――絶対に。

「晶さん」

 自分でも気付かない内に掌をぎゅっと握っていた晶に、まゆらは優しく囁く。

「私は、晶さんを否定したりは絶対にしない。それだけは信じて」

 晶ははっとまゆらの顔を見上げる。

 否定しない――そう言ってくれた。

 邪でも。

 間違っていても。

 呪いだとしても。

 否定されないということが、どれだけの救いになるか。

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