六章 胎動

 道中、坂部はまゆらに手短に日奈子のことを説明した。とは言ってもすぐに火野家に着いたので説明したのは日奈子の子供が去年の風祭中に消えたということだけだった。

 玄関には長い間使われていない日奈子の靴と、その両親の靴、それともう一つ、草臥れた便所サンダルがあった。

 坂部はそれを見て事の重大さを改めて確信した。

「おお、俊郎か」

 玄関に出てきたのは、火野家の者ではなく、皺だらけの白衣を纏った六十を超えた辺りの男だった。

「藤田先生、ヒナに何が?」

 藪と名高い藤田内科の藤田医師は、険のある顔に目一杯皺を寄せて坂部達を押し退け、便所サンダルを履いた。

藤田内科うちまで来い。話はそこでしてやる」

「その前に、ヒナの様子を見ておきたいんですけど」

「なら後でもいい。どうせ俺ぁ暇だから、話が聞きたくなったらいつでも来ていいぞ」

「あ、ありがとうございました」

 宗佑が礼を言うと、藤田は片手を挙げて悠然と去っていった。

 宗佑は坂部とまゆらにここで待つように言って、一度家の奥に入っていく。

 じりじりと焦燥感が身を焼く中、ちらりとまゆらの横顔を見ると、今まで見たことのないような険しい表情を浮かべていた。

 宗佑が玄関に戻ってくると、坂部とまゆらは中に招き入れられた。

 日奈子の寝ている座敷の前まで向かうと、宗佑が二人の顔を窺う。

「今は落ち着いてるみたいだけど、あまり刺激はしないで」

 頷くと、宗佑は音を立てないように襖を開けた。

「うっ――」

 まゆらが思わずといった様子で息を詰まらせる。

 日奈子は畳の上に敷かれた布団に、きちんと毛布をかけて眠っていた。

 見た目は別段変わった様子はない。むしろ昨日顔を見せた時よりも――眠っているせいだろうが――落ち着いて見える。

「わかる?」

 宗佑に訊かれ、坂部は首を横に振る。

「まあ確かに、この格好じゃわかりにくいか。俺も一目見ただけじゃわからなかった」

「子供――」

 まゆらが独り言のように声を漏らす。宗佑はそれを聞くとはっとして、まゆらの蒼白な顔をしげしげと眺めた。

「わかるの?」

「これは――私にはどうしようもないですね」

 苦々しげに呟くまゆらのその言葉を、宗佑は肯定と受け取ったらしかった。

「妊娠――してるらしいんだ」

 坂部は最初その意味がまるで解せなかった。暫く日奈子の寝顔を見ながら、十二分に宗佑の言葉を咀嚼し終えて、漸くその意味するところを理解した。

「ヒナが――妊娠?」

 宗佑は重々しく頷く。

「姉ちゃんは自分から風呂に入ろうともしないから、母ちゃんが毎日タオルで身体を拭いてるんだけど、どうもおかしいことに気付いたらしいんだ。腹が出てる。太った訳じゃない。第一姉ちゃんはご飯にも殆ど手を着けないんだ。でもどんどん腹が出ている。それで今朝、朝食を運んだ時に、服越しにでも腹が膨らんでるのがわかった。もしやと思って藤田先生を呼んだら、案の定だった」

「じゃあ――その、生理が止まってたのは知ってたのか?」

「姉ちゃんはあんな状態だったから、二、三箇月生理が止まることも珍しくなかった。それに俺は詳しく知らないんだけど、ナプキンはトイレのゴミ箱に一纏めにして捨ててるし、母ちゃんもまだ閉経あがってないから、きちんとは把握出来てないんだ。姉ちゃん、トイレには自分で行くし、始末も自分でやってたみたいだから」

 布団越しにはわからないが、日奈子の腹の中には新しい命が宿っているのだろう。

 だが――。

 ――なんだ、この厭な感じは。

 本来妊娠とはめでたいものである。だが、日奈子はこの一年、この部屋から殆ど外に出ていない。トイレに向かうと言ってもそれは所詮室内であって、家の外には恐らく一度も出ていないのだろう。

 それが、何故妊娠しているのか。

 その大きな疑問から、これは喜ばしい出来事ではなく、得体の知れない事件ということになる。恐らくそれは火野家の中でも同じ認識のはずだ。

 ――トシ兄ちゃん。

 頭の隅に、断片的な情景が現れては消える。

 荒い息遣い。甘い嬌声。揺れる身体。

「トシ兄ちゃん?」

 宗佑の声で坂部は我に返る。はっとして宗佑とまゆらに背を向けた。

 ――何を考えてるんだ俺は。

 必死に心を落ち着かせ、平時の状態に戻ったのを確認すると再び日奈子の寝顔を見る。

 昔に見た夢を急に思い出していた。今の今まで忘れていたが、強烈な夢だった。もう二度とないとばかり思っていたにも関わらず、その朝は下着を濡らしていた。

「坂部さんと日奈子さんはその――」

 座敷を後にして宗佑と別れ、藤田内科までの道を重い足取りで進んでいると、まゆらがおずおずといった様子で訊いてきた。

 考えてみればこうして坂部についてくるのも変な話だ。まゆらは一度藤田から話を聞いておきたいと完全な部外者にも関わらず身を乗り出し、坂部と並んで歩いている。

 坂部は仕方なく自分と日奈子の関係について話した。

 かなり端折ったが、話し終える頃には藤田内科が見えるところまで着いていた。

 昭和の終わり頃に建て替えられた医院は、こぢんまりとしているが清潔感に溢れている。人が来ないから綺麗なままなのだと村の中では言われているのだが。

 坂部は実際には知らないが、藤田内科は前の院長――藤田の父の頃は文句なく繁盛していたらしい。名医などと呼ぶことはなかったが、前代の院長の時代には藪だという話は一切出なかったという。それが代替わりすると、あっという間に藪医者の烙印を押されてしまった。それでも必要不可欠な病院ということもあり、ある程度は繁盛している。

 午前の診療時間中だったが、中の待合室には誰もいなかった。

 藤田内科では入口に三和土があり、土足で上がらずにスリッパに履き替える。受付では藤田の妻のすえが半分寝入っている。ぱん、とスリッパを床に落とす音が響くと、末より先に藤田の方が気付き、奥の診察室から顔を覗かせた。

「おお俊郎か。で、その子は彼女か? 火野の家でも一緒だったが」

「違いますよ。こちらは湯山の爺さんが雇った霊能者です」

「いや、私は、その……」

「へえ! 霊能者の先生ねぇ。その子が一緒だと話しづらいかと思ってここに来るように言ったんだが、聞かれても大丈夫なんだな?」

 坂部は改めてそう言われて少し考えるが、まゆらはそんなことはお構いなしに頷く。

「あ、一緒が厭でしたら後で私一人で――」

 どうあれ藤田から診立てを聞く心づもりらしい。今更どう言っても無駄だと坂部は腹を括った。

「構いません。というより、俺に話して大丈夫なんですか?」

 坂部はそもそもの疑問をここで漸く口にした。坂部は確かに火野家のご近所で、日奈子とは幼馴染だが、そんな踏み入った話を聞いてもいいものか。

「お前なあ、宗佑がなんで真っ先にお前に知らせに来たのかをちょっとは考えろ」

「あっ――」

「お前と火野の家はつい昨日までお前の方から一方的に絶縁状態だったそうだが、昨日それも解けたんだろう。修一しゅういち早苗さなえ――日奈子の両親はそれで大層喜んだって話だ。あの二人は揃っていつかはお前と日奈子を添わせようなんて考えてたらしいし――」

「えっ!」

「話は途中だ。それでお前のことは実の息子のように信用してる。絶縁状態のままでも、宗佑を使いに出しただろうな。日奈子の一大事はどうしてもお前に伝えなきゃならんのだろう」

 まあ上がれ――と藤田は二人を診察室へ招き入れた。パーテーションの薄いカーテンで仕切られているだけで待合室に会話は筒抜けだろうが、幸いなことに診察客はいない。

「大体六箇月ってとこだな」

 診療デスクにもたれかかりながら藤田は言う。

 坂部は診察用の丸椅子に、まゆらはその後ろの付添人用の少し小振りの丸椅子に腰かけている。

「本当に――妊娠してるんですか?」

「診たところはそうだろうな。家族が気付いたんだから、それが何よりの証拠だろう。藪の俺より信用出来るだろ」

 自嘲気味にくつくつと笑う藤田に、今度はまゆらが質問をぶつける。

「あの、それは――本当でしょうか?」

 殆ど同じ質問を投げかけられ、藤田は寸の間呆気に取られたように顔を弛緩させたが、すぐに感じ入ったように低く笑った。

「先生、何か見えなすったかね?」

「えっ――いや……先生はやめてください……久遠です」

「そうだな――俺ぁ藪だから、あんまり信用しちゃいけないってことは俺が一番わかってやってるつもりだ。俺が匙投げて市民病院に紹介状書いた回数はもう数え切れん。だから――日奈子も市民病院の産婦人科に診てもらえと言っておいたんだが――」

「ヒナは――家から出ようとしない……」

「そうだ。あんな状態になってからずっとな。だから、きちんとした医者が診立てるまで断言は出来ん。もしかすると――」

「想像妊娠――でしたっけ」

 まゆらが引き継ぐと、藤田は深く頷く。

「俺が診た限りじゃ妊娠六箇月。だが日奈子はあんな精神状態だ。きちんとした精神科に診てもらった訳でもない。言ってみれば放置してきた訳だから、何が起きてもおかしくはない」

 すまんな――藤田は小さく呟く。村の中の家の中から出ようとしなかった日奈子を診てきたのは藤田だった。それでも先程の口振りからするに、自分以外の医師に診察してもらえるように取り計らったこともあったのだろう。それが実現しなかったのは、日奈子を無理矢理連れ出さなかった家族と、それを勧めなかった藤田の責任ということになるのだろうか。だが、無理強いをして余計に状態を悪化させる恐れもあった。それを責めることがどうして出来よう。

「とにかく、いずれにしても日奈子は早いところ産婦人科に診せなきゃならん。俺も知り合いに頭下げて、往診に来てくれるようには頼むつもりだが、一番いいのは自分から外に出ることだ。頼むぞ、俊郎」

「いい先生でしたね」

 藤田内科を出て自宅の方へ戻ろうと歩き出すと、まゆらが真剣な顔で呟いた。

「藪だけどな」

 それでも子供の頃からかかりつけになってもらっている藤田には、坂部も信頼を寄せている。なんだかんだで医院を訪れる診察客の話を親身になって聞いているという立場上、村の中の事情にも詳しい。何より驕っているどころか自分から藪だと卑下するところが、かえって頼もしく思えてくる。

 まゆらもそこに気付いたのだろう。坂部の自宅の近くまで来ると、急に踵を返した。

「すみません、もう一回藤田先生にお話を聞いてきます」

「え? 何か聞き漏らしたことでも?」

「ちょっと、個人的なこととかを――。じゃあ、また後で」

 まゆらはそう言うと会釈をして元きた道を足早に戻っていった。

 それにしても今日――日付は変わっていたから今日で合っている――は立て続けに色んなことが起こりすぎてやしないか。

 湯山の家の裏山の祠への放火。

 存在しないはずの二体目の樒鬼。

 その装束を纏った千葉の毒殺未遂。

 それによって起こった風祭の中断。

 そして、日奈子の妊娠。

 それらが関係しているかはわからない――いや、全く無関係に思える。

 だが、一度上がった火の手は風を巻き込み、全てを焼き尽くす炎へと姿を変えていく。

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