step 19 恋する小函

 

 第26話『恋する小函こばこ

 

 イアンの雑記帳

 

 言葉とはなんともはかなく、軽く、もろい武器だ。

 しかし時としてそれは、自身がしるされた紙をダマスク鋼よりもつよい刃に変えて、読む者の心臓を鋭く刺し貫く。

 才ある詩人の渾身の力作や、恋の狂気の宿った手記なども同じく。

 僕は…僕の言葉は…ここに記した、命をかけて守り抜くべき個人的秘密のかずかずは…果たしてどれだけのものなのだろう?なにがしかの価値や意味を持つものなのだろうか?

 マクシミリアン。あの人に対する心。僕の気持ち。生まれてこのかた他人に抱いたことはなく、きっと二度目はない想い。かつての大学時代に経験した浅はかな夢想の如き好意ではない。本物の、(一文字分を二重線にて消している)だ。

 間違いなく断定できるのは、あの人と出会ったことは、これまでの苦難と苦渋ばかりだった僕の人生における、幸運のクライマックスであるという点。

 そしてまたこうも言えるのだろう。あの人と出会えたことは生涯における随一の不幸でもある、と。

 なぜなら僕は、もはやあの人なしには…生きていくことすら容易ではなくなってしまっているのだから。

 すっかり酒に溺れた人間が、酒を知る以前のたのしみを思い出せずにいるように。一度味わってしまった美味は、消そうとしても残り続ける深い刺青いれずみとして魂を縛りつけるのだ。優しく、甘く、耐え難いほどの幸福で。

 啓典に記された『楽園』の男女がかじったという禁忌の果実。パリで親友にてられ恋人と信じていた女性に裏切られた後、僕は自らの出自を呪い、民族の奉じた信教について諧謔かいぎゃくと侮蔑を抱いていた。

 しかし今ではアダムの愚にいくばくかの同情を寄せている。彼はきっと、いや彼もまた、幸福だったに違いない。

 僕自身が知り得てしまったこの感情を、呪いではなく運命の祝福であると思うからだ。

 

 

7月∂日

 いよいよ来週には先生と僕とブレーズでの旅行と相成あいなっている。

 今回は昨年末から今年の年頭にかけての東方旅行より期間は短くなるが、移動距離は相当なものになりそうだ。なにせこのウィーンを出発して僕の故郷ダルマチアの州都へ赴き、さらに取って返してウィーンを通り過ぎ、ブレーズの郷里であるフォアアルルベルクの寒村を訪れてみようというのだから。

 ざっとみての計算で一ヶ月半。それだけの期間事務所をとざす事には相当の懸念がある。各方面への連絡、訴訟案件の調整。あらかたの準備は済ませてあるが、不慮の事態について考えるとどうしても不安がつきまとう。

 旅費に関しては先生が全額持つと大言を吐いているが、折半する点は譲れない。ブレーズは「先生が『いい』っつってんだから払わせればいいべ」と呑気に構えている。無責任にも程がある。僕達のような零細事務所にとって、僅かな支出も無駄にはできないというのに。

 にもかかわらず、先生の支度が一向に進んでいない様子を見て、流石に朝から苦言を呈してしまった。

「もう出立しゅったつまで十日もないというのに、本当に先生は時間に対して寛容の念がおありですね。このままいけば、家具にほこりよけの布をかける頃には秋になってしまいますよ」

 たっぷりと皮肉を込めたつもりだったのだが、先生は例の無邪気な笑顔で悪びれず

「ふむん、10月には戻っていないと困るな。兄上の出演する音楽祭に間に合わない」

 などと言う。欧州各地で活気づいている芸術祭や舞台上演に活躍目まぐるしい先生の兄上は、既に今秋ウィーン中央劇場で開催されるプッチーニ音楽祭にメインで出演することが決定しているそうだ(演目は恐らく『トスカ』であろうとのこと)。

「兄上の新居祝いもまだしていなかったし、公演の前には伺わないといけないだろうしなあ。なにせいつもせわしないひとだから。…よし、急ぐとするか!」

 付け足した内容──『兄上の邸宅』──に不安を覚えて確認した。その結果、

「いやなにね、今回のヴァカンスついでにフェルダー家当主の邸宅見学会を催すつもりなんだよ。きみと、ブレーズ、それに私だけなんだがね」

 という計画を明かされた。

 眩暈めまいがした。

 オーストリア領を東(正確には南東、ほぼ縦断だが)へ移動するだけでもいかほどの時間と路銀を必要とするか。だのに、さらに西方のスイス国境近くまでも行く計画に、さらなる寄り道を加えようというのだ。

 僕がそれこそ年の初めから綿密に立てていた事務所におけるスケジュールの余裕のどれほどを食い潰す付加要因であるかを訴えようとしたのだが、

「我が事務所の片翼を担うきみは、イアン、もはや家族も同然だ。ならば兄嫁や彼らの可愛い子供達にも会わせてあげたいと思うのは当然だろう?私は本気で言っているんだぞ」

 と真摯に見つめられてはも出なかった。

 こうなったら一刻を争う。出発日をこれ以上延ばしてはいけない。本来なら先生が自身ですべきサロンなどへの手紙の代筆も僕が一手に引き受けるから、身の回りの物品の準備のみに専心するようにと厳しく言い置いた。

「悪いなイアン。君に尻を叩いてもらわないと、どうにも私は気がかないみたいだなあ」

 螺子ねじの壊れたオルゴオルのように急回転に慌てふためく僕を見て、おっとりと笑う先生…本気で尻を叩いてやろうかという気にもなろうというものだ。

 まったく、がたい!

 

(ここまで次第に筆跡が太くなり、書体も荒れているが同一人物の記録に間違いないものと鑑定する)

 

7月⇔日

 最近、先生は寝坊が多くなった。大事な面会や裁判への欠席などは論外なので、そんな日の前日は早目に起こすようブレーズに注意している。彼も

「おっしゃ任せるだ!おらの太腕にかかりゃあ先生の寝坊助だってイチコロ、もとい楽勝だでよ」

 とやけに快く了承してくれた。その言質げんちは外れる事がないのだが、今日になってその内容を聞き、つい口論になってしまった。

 あの不埒ふらちな犬人め、先生を起こす手段として朝方にまどろむ寝床を急襲し、あろうことかシーツを引っ張ってゴロンと一回転させる「娼館の伊達だて男」やら、泡立てたサボンを顔中に塗りたくって力任せにこする「めっちゃ理髪屋」などの方法をとっているというのだ。

 せめてもっと文化的な方法を取るように指示しても、

「そったらすっトロいことやっとってもらちがあかねえべよ!つべこべ文句つけんならイアンさん、あんた様がやればいいべ⁉︎」

 と気色けしきばむ。それにはまたしても僕がつねに泊まり込む必要があるわけで(しかも同じ部屋に!)、世間の手前外聞がいぶんがよろしくない事この上もないといたが

「はぁ?世間?そったらもんが好いた惚れたに関係あるだか?ったく男のくせに細けぇことぶちぶちと。いっそ下宿に戻ったりしねぇでここで暮らして、先生と同じベッドに寝起きすりゃ済む話でねえか」

 な  ど    と       無

(筆跡が唐突に途切れ、赤茶色の染み。科学判定の結果ヒト由来のヘモグロビン反応あり)

 

(四行ほどの空白)

 

 問題解決には、別の問題をぶつけるしかないということか。

 眠り姫を起こすようにとは言わないが、せめてもっと手を和らげて欲しいという僕の要望。恐らくブレーズには聞き入れてもらえまい。彼の言い分には確かに合理的な点が否めないのだから。

 先生とブレーズとの身分の差を考えるなら、まるで一つの寓話アイロニィのようだ。ティロルの山岳地帯に先祖を持つ根っからの山人やまうどのブレーズが、男爵家(昨今では金で買える位階の爵位ながら)の次男であり祖先は大公爵だという貴種の出の先生を、年下の子分のように扱うのだから。

 こうしてブレーズによる独創的かつ乱暴な妙案の数々が増えていくのだ。僕が協力できない限り仕方のない事だが…

 僕があの人の事を、あの人との師弟かつ友人という関係にこだわる限り、この苦悩は続くのかもしれない…

 

7月↓日

 今日は僕の全集中力を使い果たした。法的機関及び省庁、各方面への伝達と通知、依頼の整理、そしてご近所への申し伝えを完遂した。嗚呼、酒が美味い!

 中でも一番手こずったのが、近在の住民への申し伝えだ。

 この界隈に暮らす平民階級の彼等はもとから身分をわきまえない連中が多い。事あるごとに「俺らのフェルダー先生」などとうそぶく馴れ馴れしさだ。まるで自分達の所有物であるかのような感覚を育てているため、ちょっとした不在でも大げさに騒ぎ立てる(せんにあった気狂きちがい彫刻家の襲撃事件の際にはそれに助けられもした)。

 八百屋、肉屋、魚屋、パン屋、鋳掛いかけ屋、錠前屋、床屋、雑具店…きりがない。

 ともかく、一ヶ月半は先生と会えずに過ごす彼等の不満や心配をなだめすかし、押しつけてくる『フェルダー先生の旅先のための差入れ』(毛布や飴玉、拾い集めたシケモクから穴の空いている水筒、蹄鉄の御守りなど訳の分からぬガラクタの数々)を受け取り、這々ほうほうていで事務所に帰り着いた。

 山盛りの品の包みを背中に担いでドアを開けると、折しも先生はデスク前の床に旅行に携帯する品々を広げ散らかしていた。

 多分、僕は鬼の形相になっていたのだろう。

「わわわ忘れ物がないかどうか、改めて最終チェックをしているところだよ。け、け決してサボっているわけじゃないぞ。決して」

 とどもりながら、意味のわからない言い訳をされた。

 どう見ても多すぎる衣服に靴、旅先での用途に疑念を生ずる雑貨(真鍮しんちゅう製のピエロのペーパーウエイトなど持って行ってどうするのか)の数々。僕は無言で運び入れたガラクタをテーブルに下ろし、これまたガラクタに近い先生のお気に入りの品物を整理していった。

「やめてくれ、そのピエロはこないだ兄上のれたローマの土産で、マルコと名前をつけたばかりなんだ。それが枕元にないと安心して眠れないんだ、勘弁してくれ」

 とわめく先生の額を掌で押し戻し(これは尊敬の念が欠けているからではなく、そうしなければならないほど子供っぽく暴れるからだ)、僕の持ち前の合理性のふるいにかけていった。

 結果、残ったものは決済に用いる手形と小切手、衣類に最低限の靴、雨具、わずかな文房具。旅行鞄二つに十分収まった。

 それからブレーズとドロテアを指揮して大掃除をさせている間、先生は(邪魔だからそこに居るように指示した)デスクの上で恨みがましく

「イアンのケチンボ。うるさ屋。いいじゃないか、ちょっとくらい」

 と文句たらたら膝を抱えてじけていたので「食料庫をカラにしておかなければ、鼠なんかの巣窟そうくつになってしまいますから」という名目のもと、夕食にはどっさりと塩漬けニシンと酢キャベツを出してやった。

 この魚料理(先生に言わせると「まともな料理とはとても呼べない戦時の非常食」だそうだが)は当然ながら先生から大いに顰蹙ひんしゅくを買った。

 だが、僕は最近、どうやら先生をいじめることが楽しくて仕方がない。

 なぜだろう。

 

7月★日

 夕食時、先生から父の事を話題にされた。いよいよ明後日に差し迫る僕の郷里へのヴァカンス(『旅行』という言葉よりもこちらの方がエレガントだろうと先生は言うが、さしたる違いはなかろうに)前に、るべき情報を仕入れておきたいのだそうだ。

 自分自身の父親…他でもない生みの片親の事なのに、あの人について語ることがどれほど難しいか。実際に話してみてはじめて自覚させられた。

 まず父の経歴をかいつまんで説明した。大層な苦労人であるという事。ダルマチアの田舎町でユダヤ人地区の貧家に生まれ、二人の姉と両親とは死別して身一つでアグラム(学芸員注・現在のクロアチアはザグレブの旧名)の街に出て身一つから財をした。…これだけならば大層な立志伝が書けそうだが、しかしその内容なかみは冷淡で簡素なものだ。もし伝記にしたとして、書き手が父の実像に忠実に描写すればするほど、読み手がウンザリするような拝金主義と排他主義とを強情と傲慢ごうまんというのりでくっつけたようなものにならざるを得まい。

 貧家といっても血筋そのものは悪くない。祖父が存命中は啓典の民ユダヤ人ほまれである律法家ラビを目指していた父。しかし都会では一介のユダヤ人の若者にすぎず、まともな職を見つける事は難しかった。日雇い仕事で食いつなぎ、そのかたわらでさまざまな商店や職人の元を訪れては商売を起こすための知識を身につけていった。

 …そう、父の過去は言わば、我らが事務所のブレーズにも似た境遇だ。しかし彼との大きな違いはユダヤ人である点。そうでなければ安アパートを転々とする暮らしなど必要なかったろう。

 よわい四十しじゅうの坂を越えて父は生まれて初めて商店を構える。それは移動販売に着想を得た、半分出張・半分店舗型のわびしい商店だった。

 だが人並み外れたガッツと卑しいまでの倹約根性でみるみるうちに本物の店舗を構えるまでになり、数年のうちにはアグラムの目抜き通りの一角にやかた(自宅兼商店)を手にするまでに至った。

 恐らくというかほぼ百%の確信。父を吝嗇りんしょくにしたのは、若い頃の苦労の記憶なのだろう。他人を信用するを良しとしない人柄については定かではないが…

 やがて父は自宅を全て店舗に改装し、アグラムの片隅に大きな屋敷を構える程に財を成した。そして彼の飽くなき金銭への欲求は現在、最終的な到達地点として手堅い投機にも及んでいる。

 ほんの10分ほどの家族史を語るつもりが、気付いたら二時間近くも話し込んでしまい、時計は真夜中を過ぎていた。

 他人に話すと…いや、ごく近しい人達の間でリラックスして話していると、昔見聞きした事を連鎖的に思い出すものらしい。僕に対して行われた幼い頃の父の折檻せっかんや、無気力だが柔和な母の思い出。それに快活で優しい姉達の事までわれもせぬのに語ってしまった。

 今夜は不思議な夜だった。事務所の台所兼食堂で。テーブルを囲んでフェルダー法律事務所の面々が勢ぞろい。

 僕の正面には先生が、その隣にはドロテアが、僕の横にはブレーズがいて話を聴いてくれていて(貧乏ゆすりをすることもなく)…

 電灯は明るいのに、旅人が炎を囲んでする古風な昔語りの風景のように思えて。

 僕の声のほかには戸外を荒らす風鳴りにも耳を貸さず、先生は小さな身体に対し大きな頭から乗り出して語りに集中する。あのひとの、吸い込まれそうに丸く大きな孔雀石マラカイトの輝きの瞳。

 ブレーズは注意散漫さも軽口も発揮せず、ただいつものようにだらしなく足を組んで静かに半目になっていて。

 いつもなら(僕が算術や書き取りを教える時には)すぐ転寝うたたねしてしまうドロテアは真剣に膝を揃えて聴き入り、単語が分からない時は控えめに意味を尋ねてきて…

 あの静けさ…頭のどこかがクッキリと透明になって…心のどこかを取り戻していくような感覚…

 家族…家族(『?』の文字の上に取り消し線)。僕の、郷里を離れたウィーンでの大切な人達。

 胸が暖かい。これは、いつからか置き忘れてきてしまった何かが、僕の体の内側に宿ってくれたからなのかもしれない。

(二行分の空白)

 …馬鹿馬鹿しい…

 …だが非常に…

(一行の空白)

 彼らは…僕にとっての…

(この後には書き出しと思しきペン先のインク跡があるが、次の日の記述まで空白になっている)

 

7月●日

 出発前に買い忘れた物があり街に出たところ、古道具屋にて、細工物の美しい木のはこを購入。なんということはないのだが、磁力に引き寄せられるように手に取ってしまった。

 りょこ(中途半端な二重線)…ヴァカンスの準備を済ませた余裕があったとはいえ、まったくどうかしている。通りすがりのウィンドーの片隅に、忘れ物のように立てかけてあったそれが目について、気がついたら店の中に佇んで凝視ぎょうししてしまっていた。

 幾多の人手に渡ったのだろう、木造りの全体がすっかり飴色に変色してしまってはいるが、それがかえってなまめかしく美しい。天板の表面には貝殻が蝶の形に埋め込んであり、光を当てると美しい虹模様にきらめく。

 店主の説明によると『ヨセギザイク』という名の東洋の仕掛け箱というもので、決められた手順通りにしか開けられないという。なぜこんな役立たずなものを帝国銀貨三枚(なんという無駄遣い!)と引きえにしたのか我ながら理由が思いつかない。全く、わけがわからない。

 ただ一つ言えることは、この品は確実に先生の気にいるだろうということだ。

 馬鹿馬鹿しい。こんなものでこびを売ろうとでもいう魂胆が無意識下にあるとしたら、僕の精神は相当に浅ましくなってしまったものだ。

 しかし買ったものを無駄にもできない。明日、先生に渡そう。時期外れのプレゼントと思われるのもしゃくだから、開けられたられてやるとでも言っておこう。

 

7月♂日

 事務所の机に出しっぱなしにしていた例の木函きばこを見つけた先生が、雷に撃たれたように立ち尽くして頓狂とんきょうな叫びを上げた。

「イアン、これは⁉︎どうして君のデスクにこれが置いてある‼︎」

 その驚きようにこちらも周章狼狽しゅうしょうろうばいしてしまった。事のあらましを伝えると得心とくしんした様子で窓辺にそれを持ってゆき、明るい昼の太陽にかざして、感無量という様子で絶句していた。

「これは…私が幼い頃、何より大事にしていた父ゆかりの品だ。まだ歌手になりたての兄上が劇場に出るのに苦心していた頃、兄上の衣装代のとして売り払ってしまった宝物なんだ…」

 そして僕を見て、泣くような笑うような、胸を締め付けてくる表情で

「言葉に尽くせぬとはこのことだ、イアン。君が買い戻してくれたんだね。しかし困ったな、もう私には君に返す恩があり過ぎて手に負えないよ」

 と礼を言った。

 愚にもつかない言いように僕はつい腹立たしくなって、「そんなに簡単に恩だの義理だの口にするものではありません。安売りされては却って信頼を失いますよ」などとぶっきらぼうに言い捨ててしまった。

 先生は知らないのだ。自分がいかに僕に対して多大なものを与えたか。救いなどという言葉では及びもつかぬほどの温もりを、幸福を、しげもなく降りそそいでくれているか。

 先生はただ黙っている僕に微笑むと、「これはね、開き方はもう家族の誰も知らないけれど、本当に昔からフェルダー家に伝わるものなんだよ」と教えてくれた。

 それはそのままであれば、先生のデスクかベッドの枕元に置かれて、また再び大事にされるだけの物だった。しかし時あらずヒョイと顔を出したブレーズとドロテアにも先生が見せたところ、

「そんなら開くわけだべ?中にどんなお宝が入ってるか見てみてぇだ!ちょいと拝借はいしゃく‼︎」

 とブレーズが腕力に物を言わせて上蓋うわぶたを引きちぎろうとしたので僕は慌てて殴って止めた。

 さらに頭に血が上ったブレーズが僕に飛びかかり、あわや喧嘩になろうというところ、足元に落ちた函を拾い上げたドロテアがどこをどうやったのかいとも簡単にそれを開いてしまった!…本当に驚いた。子供の方が頭が柔らかいとはよく聞くが…

 函の内には小さな手帳と手紙の束があった。先生は小躍りするほど喜んで、ドロテアを褒めて小遣いを与えた。

 ブレーズにはドロテアをメニエ夫人の許へ送りに行かせ、僕と先生は昼食もそっちのけで息を潜め(周りには誰もいないというのに)、その解読と時系列順の並べ替え作業に没頭した。

 手帳の古い羊皮紙はくっつきかけていたが、先生の小さな指で器用にページをがすと、なんとそれは大貴族、アウエルバッハ公爵マクシミリアン一世その人の直筆じきひつの日記だった。

 アウエルバッハ公爵!マクシミリアン一世!

 それは他でもない先生つまりマクシミリアン=フォン=フェルダーの御先祖、直系の遠い父祖、フェルダー男爵家の開祖その人だ!

 

(半ページほどの空白)

 

 やはり、これは忘れないために書いておくべきだ。

 内容はこうだった。

 

〝愛は天使の翼、悪魔のはねたまは見慣れし地上の景色を離れ、未だかつて目にした事のない地平へと放たれた。

 ルイーゼ。宮廷の片隅かたすみにて花瓶に百合を生ける立姿たちすがたを、指先に一羽の蝶を留まらせたるに居合いあわせた刹那せつな。吾が胸は激しく狂おしき嫉妬をば一寸のむしに覚えたる。嗚呼ああ何故なにゆえこの身はあの蝶にあらずやと。〟

 文字とはなんと強靭きょうじんで、無言のうちに雄弁な無敵の勇士であることか。

 先生の先祖の公爵、もとい『元』公爵のマクシミリアン一世。リヒテンシュタイン侯と同じく宮廷を持つ事を許された大貴族の当主であった男。

 彼が典雅てんが安寧あんねいを約束された人生もろともにアウエルバッハ家を捨て、小間使いの女性ルイーゼを恋女房にしたために爵位を堕とされし栄誉ある物語。こいしはじめの頃から、猛烈に強烈にルイーゼに愛を訴え、身分の違いから繰り返して拒絶されながらもついには結ばれて幸福を得るまでの道程みちのりと、一族に非難され公爵位を剥奪された後にささやかな家庭を築いて生涯を終えた顛末てんまつが手帳には記されていた。

 手紙の束の方はマクシミリアン一世の水茎みずぐきうるわしい筆跡のものと、ルイーゼ本人のつたない小さな女文字のものと二種類の入り混じったものだった。

 その内容は…途方もなくロマンティックで、ため息抜きには読むことも言葉を発することもできないような恋物語。

 忘れぬように記しておきたい。これは僕が記録する常のものとは異なるが、どうしてもそうせずにはいられないのだ。

 オーストリアがまだハンガリー国王を兼ねる前の時代、オーストリア内に強い地位と広大な領地をいだく大貴族であったアウエルバッハ家の当主にマクシミリアン一世がいた。

 彼は小男ながら見目麗しい、人品共に気高く宮廷の貴婦人達の恋のさや当ての渦中に身を置くべき人物だったが、彼には物心ついた時からの秘密のおもいびとがいた。

 それがのちに彼と結ばれることになるアウエルバッハ家の小間使い、『新緑の木の葉よりも瑞々みずみずしく翡翠ひすいよりも誇り高い翠の瞳持つ』エリーゼである(なんととお以上も歳上としうえだった!)。手帳には身分という障壁になんらおくすることもなく一人の人間として、男として相手の女性を思慕した公爵の誠実な心が刻まれていた。

 そして手紙のやり取りから察するに、エリーゼもまた真摯な恋情を公爵に対して彼以上に大きく燃やしていたのだ。

 そもそも公爵という身分であれば、力ずくでもエリーゼの全てを奪い『所有』することができた筈だ。…現在もそれに近しいとはいえ、現在以上にそれが許される時代であったのにも関わらず、公爵はそれを良しとはしなかった。

『我という男は幸運である。男として生まれた以上、幾多の艱難かんなんあろうとも、そなたの夫たる権利を勝ち取り得るのだから』

 これが公爵の人柄だ。まるで立場が反対であるかのように、哀れな奴隷が公女プリンツェスンに愛を捧げるような態度を終始変えようとはしなかった。

『マクシミリアン様。もしかなうのでしたら、私は一生結婚致しません、どうか一介の婢女はしためとして殿下の所有のままにあらせられ下さいまし。私のねがいは、生涯殿下の呼吸される空気をもってこの魂を養うことなれば』

 エリーゼの懇願こんがんは、悲愴なほどに一途なもの。たとい調度品と同じく日常の風景、人生の背景としてかえりみられずとも、死ぬまで愛していると…彼女はそういう女性だったのだ。

 大貴族と平民。二人はまるで地球の反対側からでも己の伴侶かたわれを見つける野生の鳥のように、恋という名の奇跡に結ばれ、そうせねば生きていられぬという境地で寄り添った。そう、育ちも知力も財力も異なりながらも互いを愛するという点で、二人の霊魂は等しいものだったのだ。

 二人が恋に悩み、傷つき、幾多の障害を経て結ばれる(噂を聞き付けた親族により城館の塔に幽閉された公爵は、武勇をもってそこを脱出し、エリーゼと秘密裏に教会で結婚式を挙げたのだ!)。二人について周囲の貴族たちはやれルイーゼとはとんでもない妖女ロオレライだ、マクシミリアン一世は前代未聞のだと舌鋒するどく非難したらしいが、的外れもはなはだしい。二人はいわばピアノフリューゲルと奏者のように、切り離すことのできない運命の恋人だったのだ。いずれか一方が欠けては存在できず、両者が出会うことにより、愛という天上と共通の音楽を地上にもたらすことができる。そういう恋人達だ。

 …そして物語の終点は、二人の愛の結晶がエリーゼの胎内に宿り、マクシミリアンが公爵家から勘当され、およそ貴族と呼べるもののはしくれである男爵にまで身分をとされたところで終わっていた。

 不思議なことに、僕はこの小間使いよりも元・公爵その人に対し感情が没入してしまった。

 広大な領地、ほまれ高き家柄と采配さいはいを振るうべき数多あまたの家臣。約束された栄耀栄華への王道とそれを支える愛すべき親族、彼らに対しての義理と敬愛のかたわらで、一介いっかい土塊つちくれにも等しい身分の女性への思慕をつのらせていた人物。

 手紙のやり取りの最後の一通は、マクシミリアン一世の求婚の言葉だった(これに心動かされたエリーゼが使用人部屋を飛び出し、脱出してきた公爵と手に手を取ってアウエルバッハ家の城館から最も近い教会に駆け込む姿が目に映るようだ)。

“吾が孤独は筆舌に尽くせぬものなり。あたかも天球の下に吾ただ一人残されしが如くなり。

 汝が姿を一分一秒見逃せば、陸に打ち上げられしうおの如く呼吸いきもかなわぬ。吾をば恋の奴隷とし、つるぎの檻に押しめたるは残酷にして貞節な汝が美徳。家臣なれば褒め称えらるるべき忠節も、ときにほかならぬ主君あるじあだなす害毒とならん。

 この堪え難き苦痛、そを癒せるは汝のみ、エリーゼ。

 吾が地獄に光ば差し込ませ、悪夢のごときこごえから救い給うは汝が眼差し。全身の被毛の一筋ひとすじ一筋ひとすじをば引き抜かれるが如き嫉妬、汝が周囲のあらゆるおのこに対し吾が抱きてやまぬ醜い物思いから解放し給うはひとえに汝がことば

 昼の汝は魔女なり。吾がく他家が城館にも宮廷にもその姿をば見せぬゆえなり。屋敷にて何をするものぞ、誰と笑い合うものぞと思うのみにて無数の百足むかでが吾の胸を食い荒らし、何万の毒牙が吾が心臓を刺す。

 夜の汝は光まとう天使なり。食堂で給仕せしおり、その姿は世界を照らす太陽にもいやまさり明るきが故。わずかな目配せは光り輝き、吾が魂の氷をば溶かすなり。汝に見つめられし時、吾は自身おのれのこの世に生まれたる意味を知る。視線がれし時、吾は絶望にしおれぬ、吹雪が花を枯らすならひなり。

 今生における最後きわの嘆願なるぞ、吾が乙女よ。吾を幾ばくかなり想うているなれば、吾が伴侶つまとなり、永遠とわに離れぬ比翼ひよくの誓いをば交わす栄誉を与えてたもれ”

 なんという、全くなんという想いだろう!

 先生がとくにお気に召したのは、やりとりの始めのほうにあった〝愛は天使の翼、悪魔のはね"の一文だ。先生はり抜いた文言を味わうように、役者が台本を繰り返して読み上げるように飽きずに何度も口にした。

 確かに愛は人を至福の天上へ誘うかと思えば、次の幕間には地獄の苦しみへと連れて行くものだ。今の僕ならばそれが実感として受け取れる。

「───ああ、イアン!我が祖先の文才、詩才がなぜ私の身には受け継がれなかったのだろう!こんなロマンチズム溢れる口説き言葉がつむげたら、私もいま少し女性の気を引けたろうになあ」

 先生に僕は同意せざるを得ない。言葉などというものはただの表記、アルファベットの集合体。それだのに、僕もアヘン患者のように陶然とうぜんと我を失ってしまっていたのだから。

 僕と先生はどうやら僕と同じ状態だったらしい。気がついたら箱と手紙と手帳を並べた机の前に立ち尽くし、お互いの片手を重ねていた。

 まだ夕方にもならない昼の日中ひなかだというのに、黄昏めいた雰囲気があたりに漂い、気だるい感動が事務所の中を支配していた。

「私は少し泣いてしまった」

 と、先に先生が口を開いた。

 僕は…頷いたと思う。他にすべきことは何もなかった。

「いずれ兄上にもお見せしなければならないな。これは、我がフェルダー家が末代まで誇るべき宝だ」

 窓の外には青空が広がり、夏を知らせる蝶が風に流されていた。

「悲しむべき結末…ではないな。これを読み終わって、私はとても納得した気分だよ、うん」

 僕の手の甲をしっかと握り、壁の向こうの遥か遠く、いまはフェルダー家とは絶縁状態にあるアウエルバッハ公爵家の宮殿を望んでいるような表情の先生。口許がわずかにんでいた。

「僕は思うのです。愛するひとは、一人でいい」

 これは……本心だ。それに対して先生は軽く、だが当然だという力を強く込めて

「そうか。私も自分を求めてくれる一人がいれば、それがすべてだと思うよ」

 と応えてくれた。

 それから僕達は、見つめあった。───ただひたすらに、数時間はそうしていたように感じた。まるであれは、そう、魂同士が深く結びついて口づけを交わ(激しい訂正線による書き殴りの跡)

 何を浮かれているのだろう。僕は。あの恋文、いや恋を閉じ込めた小函の魔力にでもてられてしまったのだろうか。

「それにしても、我が御先祖は建前や掟を破ることにかけては超一流だ!私は誇らしく思うよ。それによくもまあその精神を子孫にしっかり受け継がせたものだ。前々から変わり者一族として貴族階級の中では浮いている我らだが…兄上などはその典型だね」

 僕がその言葉の意味を取りかねて尋ねると「ああそれは」と言いかけて、

「それは楽しみにとっておくといい。兄上の新居を訪れた時、きみにもその理由がきっと分かるから」

 とウィンクされた。

 そうこうしている間にブレーズが戻ってきた。僕は先生と寄り添って手を握っている状態でいたので必要以上に慌てふためいてしまい、あのふしだらな思考回路の犬人から

「なんだべ、あんたがたバタバタしくさって。ははん?さては二人っきりでイイことでもなさってただな?」

 とやに下がられてしまった。

 全く、彼の無神経さもさることながら、「そうだよ。もう少しゆっくりしてくれば良かったのに」という先生の言葉に心臓が止まりそうになってしまった。

 先生の冗談は、本当に無神経だ。

 

 19ZZ年 寄贈 

 無記名のスクラップノートより 

 ニューヨーク エリスアイランド  

 移民博物館蔵

 

 

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