第14話 終焉への序曲

その他IP電話や事務機器、パソコンに至るまでそれぞれが違うリース会社やファイナンス会社が関わって、零細企業でも細かい借入れは際限ない。

それらも一旦放りだし、彼らの追求を受けて立つ積もりで腹を決めていた。

彼らは裁判を起し、自宅の家具を差し押さえ、回収を迫ってきた。

妻は田舎とは言え実家は地元の名士として豊かな家庭に育ってきた。

裁判所等という一般人に取って別世界の揉め事はテレビドラマのワンシーンとしてしか想像できないでいた。

突然自宅に裁判官が訪れた時は思考がパンクし何をしていいか可なり慌てたが、女の資質の凄いところはその先の腹の据え方が違う。来たものは仕方ない、どう処理するかを考えるしかないと達観し、純一に電話を掛けるころには落ち着きを取り戻していた。

「あなた、一体どうしたの、いきなり裁判官が来て差し押せて行ったわ」

事の重大さの割に落ちついた口調で電話を掛けてきた。

妻から久しぶりの連絡が差し押さえでは洒落にならない。日頃の不義理も重なって口内の唾液が不足し言葉が絡んだ。

「本当か、心配掛けてご免。兎に角一旦戻るよ」

「そうして頂戴、私にはどうしていいか解らない」

土曜の早朝8時頃自宅に戻ったのは一年振りだった。

自宅の玄関付近で数人の子供たちが遊んでいた。

その中に薫と勇太が純一の姿に気付き、薫が満面の笑を綻ばせて駆け寄り抱きついてきた。

「わーい、お父さんだ、お父さん生きてたんだ、わー良かった」その言葉に純一は一瞬息が詰った。

勇太は少し距離を置きリアクションに迷っていた。物心付く以前に父親は姿を消し存在を理解できないでいた。

それでも2人共久し振りの対面で見違えるほど成長していた。

そして薫は自宅に駆け込むと大きな声で母親に純一の帰宅を告げた。

「お母さん、お母さん、お父さん帰ってきたよ。お父さん生きててよかったね」

純一は再度その言葉が胸にズキズキ突き刺さった。

「ご免、放っておいて」

純一が玄関先で妻に声をかけた。

妻は純一の顔をみると溢れだしそうな涙目を堪え黙って台所に去っていった。

薫が小首をかしげ不思議そうに妻の顔色を覗込んで聞いた。

「お母さんどうして泣いてるの。お父さん帰ってきたのに。嬉しくないの」

「・・・・・・」妻は何も語らずお茶の用意をしていた。

娘は無心を繕っているが全て承知し純一に一番堪える表現をしている気がした。

純一は薫の笑顔の抗議に耐えがたい後悔の念を感じ心の中で(許してくれ)黙して娘に両手をあわせた。

茶を注ぎながら妻が穏やかな口調で裁判官が来た状況を説明した。

一通り押さえられた家具の裏側に貼られた赤紙と差し押え勧告書と見比べた。

そこに総額68,000円の競売価格が明記されていた。

純一は競売当日知人にその金額を渡し、裁判官立ち会いのもと知人に買い取らせる算段をしてた。

今日は当然自宅で過す積もりで戻ってきた。

薫と勇太は父の存在に安心し、べたべたと絡み付いたり近所の公園に出かけたり一日じゅう元気よくハシャギ廻っていた。

純一自身も久しぶりの家族との団欒を穏やかに過ごす事ができた。

夕飯を済ませ子供たちが寝静まると純一が切りだした。

「心配掛けて済まなかった」

「貴方なら、ちゃんとやれるわ」責任から逃すまいとした意味合いが込められていた。

「どんな事が有っても生活費だけは心配掛けない積もりだ」

密かにゴルフ会員権を売却し用意しておいた現金三百万円を妻に渡した。

「これで、今年一年やりくってくれ。多分今月から給料入れられなくなる。その後の事も考えている」

「解りました」

「それからこの家のローン止めたので、その内競売の通知が来ると思うが心配しなくていいから」

「えっ、それって此処に住めなくなるの」一瞬驚いてトーンが上がった。

「大丈夫、俺が何とかする」

「子供たち折角此処に馴染んできたし、引っ越しは可愛そう。何とかして」

「解っている。心配いらないよ」

「貴方を信じています。それから貴方いつまでこの生活が続くの」

「ご免それも少し時間が必要だ。暫く我慢してくれ」

「子供たち見て判るでしょ、あんなにはしゃいで。貴方がどれだけ必要か」

「判っている。本当に済まないと思っている」

「それって答えになってない」既に涙が滲んで声が擦れていた。

「・・・・・・・・」純一は何一つ回答できないでいた。

いつもなら妻はこの辺りで追いつめる事を止めるが今日は勝手が違った。

「貴方、いつも肝心なところで返事をしない。狡いわ」

「今は何も解決できない。お前が別れたいと言うならそれも仕方ないさ」

「私はそう思っても子供たちはどうすることも出来ないの。そんな勝手な事言えるなら今子供たち起してくるわ。ちゃんと子供に説明して」結論を出さず煮え切らない純一の優柔不断さに妻が怒りの沸点を越えた。

純一は慌てて。

「ウッ、チョ一寸待ってくれ」子供達を巻き込むのは余りに過酷だ、それだけは避けたいと思った。

「兎に角現況を何とかするしかない。必ず結果を出すから待っていてくれ」

その晩は出口の見えない会話が続いたが、幾ら問いつめられても答など出せない。

未決のまま翌日の予定を子供達に使うことを約束させられ、明け方眠りについた。

翌日昼過ぎに起きて、子供たちのリクエストでディズニーランドに出掛けた。

久々の家族団欒に子供たちは嬉しさを溢れさせ、一日中ハシャギ廻っていた。

本能の中枢に笑う壷が位置してか、くだらない事でもよく笑いよくしゃべりパワーが弾けていた。

その嬌声は純一に心地よく響いたが妻の日頃の哀楽はタフなものなのだろう。日頃の疎遠で妻に任せっきりの子不幸を反省してた。

勇太は父との接触の少なさから妙に引いていたが慣れてくると自然に手を繋ぎスキンシップを求めた。

夕刻自宅に帰る前に妻が言い出した。

「今日は外食したいわ。今迄全然この子達何処にも連れてってあげてなかったし。たまには良いでしょ」

「判った。近所でも良いかな」

「何処でも良いの、ファミレスでも回転寿司でも何でも喜ぶわ」

「判った」

久し振りに子供のハシャグ姿に包まれながら酒が飲みたい。そう思いを巡らせ自宅近辺の焼き肉屋に入った。

食事中も子供たちは良くしゃべり、良く笑った。

子供たちの喜ぶ姿や、にこやかに見守る妻の穏やかさが疲れた心に滲みた。(家族とはこうして過すものだ)

純一は自身の不徳を反省した。

今の境遇は自分で蒔いた種がツルを伸ばし、純一自身を絡めて身動き取れなくさせている。

食事が終わって会計を済ませ最後に純一が表に出た。

家族は表で純一の出てくるのを待っていたが扉を開いた純一はギョッと驚愕した。

家族の背後の電柱の陰にミユキが立って此方を見ていたのだ。

純一は目が合い慌てて素知らぬ振りで家族を連れ、その場を離れた。

ミユキが鋭い視線でその背後をジッと見つめ、背中を矢が射ぬくような痛みを感じていた。

純一は混乱した。(何故ここに来た。何が有った、一体どうした)

純一はその事が気になって自宅に戻ってからも答えを求めて不安が拡がっていた。

既に9時を廻った頃、純一は苦しい言訳を考え言い出した。

「ご免、今日会社に戻らなきゃならない事がある」

「えっ何で、もう9時過ぎよ、こんな時間に何処行くの」

「今夜どうしても済ませないといけない仕事が残っているんだ」

「どうして、自宅に戻ってまであの女が気になるの」

妻は今迄見せたことのない険しい剣幕で食い下がってきた。

「そんな、信用してくれよ。明日朝一で持ち込む企画書を書き上げなきゃならない」

「いい加減にして。私にそんな嘘が通じると思ってるの」

この期に及んで解りきった嘘が通じる相手ではない。

それでもその先に追詰める事を押さえていた過去の妻とは今日は気概が違っていた。

「勝手にすれば。帰りたきゃ帰れ。もう二度と来るな。小娘に狂った大馬鹿野郎」

大声で叫ぶと一人、寝室に飛び込みバタンと大きな音をたて扉が閉じた。

その奥で嗚咽を伴ってすすり泣く声が純一の耳に突き刺さった。此れ程激しい妻の姿を見た覚えが無い。

松谷の奥さんの激昂は当然だろう。

穏やかな妻でも嫉妬を理性で押さえ込む事は不可能だった。

純一は予測外のその激しさに一瞬身体が凝固しその処理方法が浮かばない。

残るも地獄、去るも地獄、やり切れない曖昧な思いがうずうずと純一の胸を絞め、何も解決しないまま自宅を後にした。

忸怩たる思いをぶら下げながらマンションに戻ったのは既に10時を廻った辺りだった。

ドアを開くと部屋は真っ暗で暗闇にジッとしているミユキの気配がし純一は言い知れない不安が過った。

恐る恐る電気のスイッチを押すとミユキがテーブルに向かって黙って坐っていた。

「ミユキどうした。電気もつけないで」

「・・・・・・・・」ミユキは此方を見ようともせず。ジッと目を伏せていた。

「一体どうした」

純一はミユキに近寄って肩に手を当てた、途端生きなり手を払いのけ、手前のテーブルを思い切りひっくり返した。

物凄い音を立てテーブルが宙を舞い花瓶や茶器が砕け散った。

「一体何なんだ。何が有った」

次の瞬間壊れた花瓶が投げつけられ純一の顔面に的中して眉間から血が顔面を裂くように伝わった。

「どうした、訳を話せよ」

暴れるミユキを組押さえて問い質した。

その最中も殴りかかり暴れまくった。

「待てよ。何なんだ」

次の瞬間「ワー」と大声で泣きながら純一の胸に縋ってきた。

「一体何が有った」息を弾ませながら聞きただした。

「再発したの」

「えっ、何が」

「癌」その後は言葉に成らない程泣きじゃくった。

「まさか」純一は言葉を失った。

確り抱きかかえたまま二人とも固まった。

暫く時間が経ってミユキが声を詰まらせながら口を開いた。

「死にたくない」

「死ぬなんて、馬鹿なこと言うな」

「本当に、本当に、まだ死にたくない」ミユキは朦朧と繰り返した。

「馬鹿な、死なせやしない」

ミユキは顔をくしゃくしゃにして泣いた。

その頭を抱え純一も額から流れ落ちる血と溢れる涙を拭いもせず堅く抱きしめた。

人は底なしの悲しみを感じる瞬間が有る。

此れ程残酷な感覚は今迄の激しい人生でも経験したことがない。

会社の窮状や幾多の失意をタフな精神で乗り越えてきたが精神や行動で補う事がまるで叶わない。

悲しみから逃れる術をもぎ取られもがいた。

ミユキが少し落ちついて漸く普段の口調に戻った。

「先生が再発したのに手術は出来ないって。それって手遅れの意味なの」

「そんな、何か方法が有るはずさ。ミユキには強い魂が有る。今ちゃんと生きているじゃない。負けちゃ駄目だ。

明日一緒に病院行こう。今迄チャンと検診してきたのに急に再発なんて、何か方法が有るはずさ。絶対気持ちで負けちゃ駄目だ」

「明日は一緒に病院行って」

「勿論さ。それからご免ね、ミユキに無理させた。許してくれ。俺がミユキに甘えすぎた。本当に済まない」

「・・・・・」それには応えず。

「純一さんしか頼れない。私を助けて」

「俺が死なせない」

「今日ご自宅に行って幸せそうなご家族の姿をみて初めて嫉妬した。優しそうな奥さん、可愛い娘さん、利発そうな息子さん、どれもこれも理想を絵に描いたような家族の姿。私は結婚もできない、出産も出来ない。

このまま死んでいく、そう思ったら純一さんが滅茶苦茶憎たらしくて傷つけたく成ったの。ご免なさい。本当に傷付けちゃった」

「幾らでも当たりなよ。気が済むまで」

その晩は抱きあったままいつしか眠ってしまった。

翌日二人は築地にある同愛がんセンターに向かった。

ミユキが呼びだされると二人で診察室に入り純一は付添の理由を先生に告げた。

「僕はミユキの内縁の夫です。放っておけなくてお話を伺わせて下さい」

「どうぞお座り下さい」二人が丸椅子に案内され、着座すると純一がきりだした。

「再発って何故ですか。経緯を聞かせて下さい」

担当医から一通り説明を聞いて疑問をぶつけた。

「手術を済ましてから、何もせずに再発を待って結果任せって、納得がいかないのですが」

「手術は完璧でした。後は転移を注意するしか方法がありません」

「それは違う。完璧なら再発しない。不完全だから再発したのでしょ。癌は生命にかかわる。徹底的に探査して削除しなきゃいけないのじゃありませんか。それに子宮頚癌は完治率が高いって聞いているけど」

「発見が若干遅れた感があります」

「遅れたって何故だ。ミユキは再発を恐れ、注意深く定期検診を受けていた」

「その時点で所見が現れなかったのです」

「それは違うだろ。病院の指示通り検査にきて、いきなり再発していたは、無いだろう。

先生の指示に従って手遅れじゃどうすりゃ良いんだ」純一のよく通る声と険しい剣幕に医師はたじろいだ。

「現在の医療は未だ限界があります」

「見落として、医療に限界っていい加減じゃないかな」

「私達も真剣です。旦那さんがおっしゃる程いい加減にしていたわけじゃない。手術も最善を尽くました。

このまま5年以上経てば高い確率の生存が望めます。然し我々にも再発は予見できません」

「患者は先生を信頼して命を任せているんだ、言訳は聞きたくない。再手術が出来ないのも納得いかないんだが」

「・・・・・」そのことに返答しなかった。

勿論医師が不備を認める筈はないが純一はやり切れない思いを絞りだすようにぶつけた。

「兎に角彼女を救いたい」

「勿論承知しています。全力を尽くします」

「妻も命懸けです。先生も命懸けで助けて下さい」

「これからは、放射線と抗がん剤治療に移行します。辛い治療ですが頑張って下さい」

これ以上の抗議で解決する術は見当たらない。現状を受け止めて打破するしか手段が無いのだ。

「ミユキ頑張ろう。戦いは気持ちで決る。ミユキなら負けない」

医師も口を挟んだ。

「何人も復活した人がいます。負けない意志が大切です」

ミユキは医師と純一のやり取りを、口をきつく結んで聞いていた。

「判りました」くぐもった声が擦れていた。

抗がん剤治療が半端じゃない苦痛を伴うことを看護婦の経験で充分承知していた。

ミユキが検査と抗がん剤治療の説明を受けている間、純一だけ診療室からでてミユキの診察の終了を待っていると、担当医に再度呼ばれた。ミユキは検査中で不在だった。

医師は先程の質疑よりもっと押さえた低い声で話し始めた。

「旦那さん、既にリンパ腺に転移していました。リンパ腺は体全体に渡っていて手術が出来ません。奥様は残念ですが余命六ヶ月です」

一気に結末まで言い切られた。その言葉が純一を暗黒の海底に引摺り込み、水中で響く声を聞いている感覚に陥った。

「まさか、そんなの嘘だろ」虚ろな反論も、自身に遠くに聞こえた。

「月に一度1週間程の抗がん剤治療をします。その副作用は可なり辛いのですが。我々も全力を尽くします。

旦那さんも一緒に戦ってあげて下さい。」

「入院の必要が有るのですか」

「いえ、治療以外はご自宅で自由にして構いません。抗がん剤は毎日続けると身体が持ちません。

むしろ自由に楽しく過していたほうが、抵抗力が付きます」

待合室に戻り死の宣告を告げられ、いたたまれない心境で待っているとミユキが戻ってきた。

「純一さん有り難う。先生にあれだけ刃向かって私を本気で助けようとしている姿が嬉しかった」涙目を堪えて言った。

それをどう受け止めれば良いのか、もやもやした胸がはち切れそうに痛かった。

「もう心配要らないよ。ミユキは俺が守ってあげる」

「抗がん剤辛いのはわかってる。でも私も負けていられないわ。先生も言っていたけど。日常は普通に生活して良いって。

折角だから精一杯人生楽しもうと思って」

「そうだよ」

ミユキが思いの他元気に振る舞って純一を元気づけているような錯覚さえ覚えた。

純一は会社のスタッフ募集を広告掲載やハローワークで準備を始めた。

そうした中でもミユキは会社に毎日顔を出し、注文が来れば営業に出掛けた。

幾ら純一が注意しても仕事を休むことをしなかった。

「ミユキ、お願いだ。会社に来るのは構わないけど営業は止めて」

「純一さん、私の命純一さんにあげることにしたの」笑いながら言った。

「馬鹿な、ミユキが元気なら俺は何も要らない」

「私が後どの位生きられるか自分で判っている。多分半年位でしょ。どうせ残り少ない命、貴方にあげるわ」

その言葉にドキリとした。

切なさに一瞬息が詰まったが殊更明るく言葉で跳ね返した。

「勝手に決めるの、止めてくれる。俺より先に逝かせるか」

ひと月に5日間程入院して抗がん剤治療を受け退院してくるとげっそり窶れて出てきた。

流石に堪えるらしく、1〜2日は会社に出られなかった。

会社は求人募集で二人の男女の採用を決めた。

少しでもミユキの負担を軽減させることが優先課題で、善し悪しを検討している時間も無かった。

新入社員にミユキの補佐からいずれ仕事を引継がせる積もりだ。然し個人の信用が仕事の根幹に位置し、人が変わると応対がぬるくなる。純一は何度も経験した社員に幾ら丁寧に引継いでも結果は、じり貧、先細りになる。

悩んできた苦手な教育が完成しないイツも付いて回る課題だ。

それでもミユキの貢献と純一の新規開拓で最盛期に近い売上げに戻していた。

事業内容が好転し資金的に余裕ができ定期預金まで積み始めた。

しかしその金額を債権者に曝すことはしなかった。むしろ苦境を装って返済を渋らせていた。

純一はある日或る信念を胸にミユキを登山に誘った。

「昔登山に嵌まってた時期が有ってさ、山に浸ると神に包み込まれる感じがしてミユキの心に響くものが見つかると思うのだけど。一寸冒険だけど登ってみない」

「いいわ、連れてって。純一さんの気の済むようにして。何処でも付いていく」

10月の初旬2人はバスで上高地に向かった。

明け方車窓を透し霧に霞む大正池の湖面を無造作に突き刺さった古木が水墨画のように幻想的な表情を映していた。

カッパ橋でバスを降りると遥前方に構えた雄大な穂高連峰の峰々に目を奪われた。山腹に一線を引き稜線に向かって初冠雪を頂き陽光に白銀を輝かせていた。その下を紅葉の艶やかな暖色の帯、そして深緑の森が奥深さを裾野へと拡げ、三段紅葉の美しい姿を輝かせていた。

ミユキはこうした雄大な景観は始めてのようですっかり感激していた。

「絵はがきで見たけど、スケールが違うわね」

「そうさ、僕が昔嵌まってた気持ち判るでだろう」

「なんで苦労して重い荷物背負って山に登るのか不思議だった。物好きがいるものだって・・・フフフ一寸馬鹿にしていたかも、ご免ね。ここに来て何となく理解できたわ」

「これから行く先はもっと感動的だよ」

「うん、頑張るから連れてって」

これから先のタフな登山を前に事のほか元気そうにしているミユキに少し安堵し勇気が湧いてきた。

純一は何処でもビバーク出きるようにテントや寝袋、食料等凡40kgの荷をぎっしりキスリングに詰めて担いだ。

ミユキには身の回りの荷物を纏め、軽量ザックを背負わせ2人は縦に並んで歩き出した。

「ミユキ行ける処まで行って、気侭にテント張るから。辛かったら言って」

「大丈夫、空気が澄んでて凄く気持ちいいわ」

上高地の良く整備された遊歩道は直ぐ終わりを告げ、道とは名ばかり幾多の風雪や濁流が削り取った狭間を人間が少し手を加えた不規則な山道が続いた。

斜面に剥き出された木の根や岩の階段など険しい登り坂、落ち葉の絨毯でびっしり埋まった平坦地を弛まなく踏み進めた。

無限に突き抜ける天空の群青色。さし込んだ陽光が朱赤の紅葉を透き通しその鮮やかさが目にしみた。

朝方の秋の冷気も少し歩くと汗ばんだ。

純一はミユキを気遣って歩調に間を持たせた。ミユキも小気味よく軽快な足取りで純一の後に続いた。

途中幾度か休みながらそれぞれの景観を楽しんで唐沢カールに着いたのはまだ4時を廻った辺りだった。

雄大な穂高連峰にすっぽり包まれた唐沢カールは標高2200メートル。森林限界に達し視界を遮るものは何もなく巨大すり鉢の底にいる小人のような感覚に覆われた。

純一は水場の脇に陣取り、慣れた手つきでテント張りを開始した。ミユキも手伝い順調に今夜の宿が完成した。

テントライフの諸々の準備を済ませ次は食事の準備だ。

2000mを超える高地では水の冷たさで手が切れる。それでも2人分担して作る料理は穏やかな会話を交え順調に進んだ。

人は体を病むと自ずと弾ける若さに押さえがかかり初老夫婦のような会話に落ちつく。

純一はそれはそれでいいものだと感じていた。

カレーライスを主食にインスタント麺がスープの代用、缶詰めの副菜が今夜のディナーだ。

石のテーブルに石の椅子、間に合わせのキッチンが揃った。

気圧のせいで米はガンタ飯、火力が弱く料理が美味い訳が無い。

しかし作り立てのカレーは冷えた身体に滲みるように美味かった。

「美味しいわ、不思議ね」

「人って境遇で最高の味覚を感じるように出来ているみたいだよ」

「そうね、多分街でこの料理出されたらクレームつくわね」

食事の最中辺りはいつしか夕闇に包まれていった。

食事を済ませ焚き火を起し灯油ランプの明かりの脇に二人はコーヒーを手に石の椅子に身体を寄せ、互いの温もりで暖を取った。

暗闇に壮大な山並みのアーチが新雪を湛え天空に延び、満月が妖しい光を放ち新雪に反射していた。漆黒の宇宙に無限の星達が宝石を散らしたような小さく鋭い光を放っていた。

「凄いわね」ミユキが感慨深げに囁いた。

「ジッとしていると、身体がこの世界と一体化してこない」

「そんな、感じね」

そしてミユキがボソリと呟いた。

「私は何で生まれてきたのだろう。誰も望んで無かったし、生まれたことを恨んでたのに。チャンと生きようとしたら、今度は癌になっちゃった。神様はどうして私に意地悪ばかりしむけるのかしら」

純一は答えに詰った。生半可な優しさで彼女の不安を拭える程簡単ではない。先が読めないまま、いたたまれず口を開いた。

「どうだろう。生きる意味、理論だてて突き詰めちゃいけないのかも。努力したり苦しんだり、いくら頑張っても最後は誰でも確実に死んでいく。生きる意味真剣に考えたら、全て無意味に思える。

でもこの世に生れた以上、その命が生きて死ぬまでの航跡を刻む事で証を残さなければいけないのじゃないかな。

理不尽な事でも、それも人生の一部として受け入れながら歴史を作っていく感じみたいな」

純一は盲点のぶれた割に鋭利で際どい言葉を滑らせ後悔した。

「昔テレビで見た事が有るの、アフリカのヌーの話って知ってる?」こちらの困惑と違う話に戸惑った。

「命懸けでワニの川を必死で泳いで生きようとしても、仲間に踏まれて命を落すヌーの方がワニに襲われる数より多いんだって。

この世に平等なんて有りっこないし、理不尽だらけだっていう事は解ってるわ。

それでも私は運命に従うばかりじゃいけないと思った。親の轍を踏みたくなかったし、手首も切れなかった。乱暴されたら必死で抵抗もした。虐めにも遭ったけれど必ずやり返した。

それでも親に疎まれた子供は何処にも居場所がなくて捨て猫同然なのよ。

病院で涼さんの親が撒いたビラに書かれたあだ名が野良猫だった。近親相姦の子、畜生の子という意味。

猫の絵と注釈付きで白衣にマジックでにいたずら書きされた事もあったわ。

当時死ぬなんて何とも思ってなかったし、車に轢かれた野良猫みたいに、誰も引き取り手がなくて、ゴミみたいに捨てられるのが自分に合ってると思ってた。その頃の私は決して清廉じゃなかったわ。捨て猫に純血なんて不要だもの。

涼さんが亡くなってそれが自分のせいと思うと何もかも嫌になって、どうにでもなれみたいな生き方してた。

でもそんな時、松谷さんが本気で一緒に悩んでくれてチャンと生きようって私を引き戻してくれたの。

色々有ったけど嫌な事でも幾度も経験を重ねれば成長するわ。

実は純一さんに衝撃を受けた事があった。不渡り出したあの日純一さんの堂々とした対処を見て私の体に電流が走った、何て言うかガツンってやられた感じ。何血迷ってるって叱られたみたいな。

純一さんと一緒に暮らして、仕事を手伝っているうちに、懸命に何かに立ち向うと、おかしな不満が消えていく。仕事って意外と強力なバワーを持ってると思った」

ミユキが伏せてきた汚濁を曝し懺悔を含ませて言葉を閉じた。

今更ミユキの過去の事件等生きるためのエキスのような物だ。過酷な境遇から立ち直るには一旦泥に浸かって灰汁抜きが必要なのだろう。

現状では純一の心境に嫉妬という異物は欠片も残っていなかった。

「そうかも知れないな、夢中になれる事って必要かもね。お陰で俺は結果的にミユキに助けられてきたけど」

嫉妬するよりミユキを傷つけずに話を完結できた事にほっとした。

一息ついてミユキが憂いを滲ませて呟いた。

「何か不思議ね、此処にいると気持ちが落ちつく。来てよかったみたい。今は何も怖くない感じがするの」

ミユキは、この大自然を穏やかに受け止め、癌や死に対する恐怖心から開放されているようだった。

「そう感じてくれたら、今日の登山は大正解だね」

ミユキの横顔にランプが灯りたおやかな生気を感じた。それでも新雪を迎えた2000メートルを越える高地では言葉が凍てついて、白い吐息となって漂った。

暫く暗闇に浸っていたが、それぞれの寝袋で休むことにした。

横になると遠く落石の音がひっきりなしに鳴り響いて、その落石の音さえ神懸りのようだ。

翌朝、純一は五時頃起きだしてコーヒーを沸かし始めた。

「どうしたの、こんなに早く」ミユキが気付いて寝袋から声をかけてきた。

「起きておいで、これから凄いドラマが始まるよ」笑いながら言った。

「早すぎない。まだ真っ暗じゃない」

「いいから起きておいで」

不思議そうにしてミユキが寝袋から抜け出すと丁度コーヒーが湧き、熱いコーヒーを注いでカップを渡し石の椅子に座らせた。

暫くすると舞台のカーテンが開くように、朝日が新雪の稜線をピンク色に染め始めた。

「うわー凄い、綺麗」眼前に展開される荘厳な景観に圧倒され、声が出なくなった。

鮮やかなピンクの巨大スクリーンが次第に画面を拡げて山並みを被っていった。圧倒的な迫力と美しさに包み込まれ、神々からの洗礼を受けている感覚がした。

「ミユキ、これが見せたかった。神に包まれている感じがしない」

「本当に、人間って星の子なのね」

「そうだよ人間も宇宙も五百の元素で出来ている。ここに来るとそれが判る」

「判るわ、もう何も怖くない感じがする」

ミユキはそれ以降登山の功績か、以前と比べて生気を取り戻しているように見えた。

恐怖心が退くとゆとりが生まれ自然と体調が良くなるようだ。

その結果に気を良くしその後も幾度か近間の軽登山を続けた。

また厳冬期に入ると温暖な場所を探しては養生に務めた。

熱の岩盤が遠赤外線を放出して癌治療の役割を果すと聞き有名な温泉旅館にも出掛けた。

そして癌に効くと聞けば何でも試した。

或る本に自身の尿が抗体を持っていて、癌にダイレクトに効くと書いてあった。

ミユキにその事を話すと流石にそれは「無理」と躊躇した。

純一は何でも試させたかった。

「僕も試すからそれで問題なければ頑張ってみない」

そしてジョッキに氷を入れトイレに入り自分の尿で試す準備を始めた。氷はせめて未知の味覚からの逃避だ。

自分が用意した物を口に含もうとするとミユキが叫んだ。

「止めて、純一さんがそんな思いすることない」

「何言っている。俺はミユキと一心同体だ。一緒に苦しませてくれ。それが少しでもミユキを救えるなら何でもやる」

「純一さん」ミユキは目頭に滲んでいる液体を堪えていた。

純一はおもむろに口に含むと

「ウッ」とする臭気と例えようの無い味覚に咽が渋った、が我慢して一気に咽に流し込んだ。

然し奥から受入れまいと押し返してくる。余りに、なみなみさせて、失敗したと思った。

その後ミユキもそれに従って同じ要領で口に含んでみた。

「ウッ」同じように呻いたが、その先の咽に通らず苦しんでだ。

それでも目を瞑り必死で呑み込むとその後勢いよくトイレに飛び込んでいった。

トイレに入りゲエゲエ吐いている様子が伝わってきた。

トイレの扉越しに

「ミユキ大丈夫か、ご免無理しないようにしよう。良いよ、もう止めよう」

トイレからミユキが

「ご免、私に無理かも」

「良いよ、もういい」

そうした努力が報われてか体調は鋭気を取り戻しこのまま完治しそうな予感さえした。

然し抗がん剤治療の後はげっそり窶れ背後に隠れた病気の恐怖を感じながらだが。

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