笑顔の監獄

白井京月

第1話 県立心理センター

 タケルは県立心理センターのカウンセリングルームにいた。まだ、興奮はおさまっていない。合理的な理由もなく、ここに収容されてまだ3日目だ。タケルは恐怖と絶望を感じていた。

 県立心理センター。これは4年前に改訂された精神衛生法に基づく施設だ。精神疾患の定義が拡大され、新しい精神科医療に基づく社会的矯正施設が全国に誕生した。そのことはタケルもニュースで知っていた。しかし、まさか自分が収容されるとは想像もしていなかった。それも、もうすぐ大学を卒業するというこの時に。

 グレーのストライプのスーツに白いシャツを来た若い女性が部屋に入って来た。

「お待たせしてすいません。中島タケルさんですね?」

「はい」

「カウンセラーの新藤ユカです。はじめに、この書類に目を通してサインしてもらえますか?」

 それは誓約書だった。カウンセリング時の守秘義務と、その例外事項が書かれている。

1.本人または第三者の生命が危険にさらされるおそれがあると判断した場合。

2.本人または第三者が虐待を受けている可能性が高く、直ちに対応しなければ本人または第三者の生命が危険にさらされると判断した場合。

3.法令などにより開示が求められた場合。

4.他のカウンセラーや精神科医のアドバイスを受けるとき。

 タケルはなぜ自分が治療される側にいるのかもわからなかったが、しっかりとボールペンでサインをした。

「はい。ありがとう。今日は最初だから、ゆっくりと話を聞かせてもらうわ。緊張しなくても良いし、しゃべりたくないことを無理にしゃべらなくても良い。安心して」

 ユカはそう言うと誓約書をファイルにしまった。カウンセリングルームは、その伝統なのか応接セットが置かれていた。タケルもユカもベージュのソファーに座っている。壁には抽象画が飾られていて、ゆったりとした気分を演出する。

「まず、どうしてここに来ることになったのか、話てくれる?」

 ユカとタケルの目が初めて合った。

「どうしてここに。それは、大学での心理アセスメントの結果に基づいて、県の精神心理委員会の判断で、ここに来るように指示されたからです。心理アセスメントに引っかかるとは、まるで想像していませんでした。意味がわからないです。僕は本当にそんな理由で、今この県立心理センターにいるのでしょうか。他の理由で監禁されているような、そんな気がします」

「監禁か。もっと気楽に、合宿研修とは捉えられないかな。それに、他の理由って、何か思い当たることでもあるの?」

「いえ、別に何もないです。しかし、私の精神は異常ではありません。薬も飲んでいない。それなのに心理アセスメントで引っかかった。あれには多面評価もあるんですよね。大学の先生や、他の学生による。僕は嫌われていたということですか?」

 タケルはそう言うと、ユカの目を見た。一瞬の沈黙。

「そうね。悪かったのはただ一つ、笑顔らしいわ。笑顔が良い悪い以前に、笑顔を見た人がいなかった。理由はこれだけみたい」

「笑顔?」

 タケルは呆気にとられた。そんな理由で県立心理センターに放り込まれるのか? 笑顔がないというのは犯罪と同格、いや病気と同格なのか? 確かに僕はあの日から笑っていない。それは知っていたが、精神は正常だ。タケルはそう思った。

「ちょっと笑顔を作ってみてくれないかな?」

 ユカがそう言ったので、タケルは笑顔を作ろうとした。しかし笑顔にならない。作り笑顔など意識したこともなかった。まして今は笑える気分でもない。

「本当。表情は全然変わってないわよ」

「可笑しくもないのに笑えないですよ」

「作り笑顔は可笑しくなくても作れるの。普通はね。タケルさんて呼んでいいかしら。タケルさんは笑顔だけだから軽傷よ。きっとすぐに良くなるわ。今日は時間があるから、ゆっくりと話を聞かせてね」

「はい」

「まず、ご家族のことについて聞かせてくれる。家族構成とか、思うこととか」

「え え。両親は離婚していて、私は父とマンションで暮らしています。父は高校で数学を教えています。頭は良いのですが、欲のない人で、それが離婚の原因かもし れません。母も高校教師でした。父とは違って向上心の強い人で、教育に情熱を持っていました。家事も父がやることの方が多かったですね。父と母は、私が中 学二年の時に離婚しました。母はパトロンを見つけて高校教師を辞め、英会話の塾を開きました。経営は順調のようです。今はそのパトロンと再婚しています。 あ、私は一人っ子で兄弟はいません。中学の頃から、朝食や夕食など、父が出来ない日には私が作っていました。父には勉強もよく教わりました。父の趣味は囲 碁で、夜は碁盤に向かって楽しんでいましたね。母は、父のそんな姿も不愉快だったようです。二人は高校で知り合ったそうです。母は父の才能に魅力を感じた んだと思います。本当に頭が良い人ですからね。結婚も母が主導権を握って進んだみたいです。でも、根本的な人生観の違いから、溝がどんどん大きくなった。 私は母のことも嫌いじゃないですよ。それぞれの人生。それで良いのだと思います」

「中学の頃から家事を手伝っていたのね。で、ご両親が離婚されてショックだったでしょ。何か変わった?」

「まあ、ショックでしたよ。でも、離婚は特別なことじゃないし、お互いが幸せになる道を選んだのだから、良いことだと思いました。もともと母は家事をあまりしていませんでしたし、私は離婚前から家事を手伝っていましたから、特に何かが変わったということはありません」

「しっかりしてたのね。勉強とか部活動はどうだった。友達関係とか、恋愛とか」

「中学では部活動はしていません。家事もあったし、勉強優先だした。友達は普通にいましたよ。休みの日に一緒に遊びに行ったりしました。恋愛は片思いだけですね。高校では水泳部でした。一応、部長でした。普通の青年でしたよ」

「でしたよ・・・」

 ユカはそう言うと沈黙の時間を置いた。タケルは下を向いている。ユカは表情を変えることもなく、タケルの変化を待った。2、3分が経っただろうか。タケルがようやく顏を上げた。

「大丈夫?」

「はい」

「無理にしゃべらなくても良いのよ。さっき、普通の青年でした、って言ったけど、何か事件でもあったの?」

 ユカはつとめて軽い口調で言った。タケルは大きく深呼吸した。

「高校三年の時でした。水泳部は結構強くて、県大会の優勝候補でインターハイを目標にしていました。その県大会でのことです。平泳ぎのリレーで私がアン カーでした。第三泳者はキムラ君。一位で来ていました。その引き継ぎに私は失敗しました。途中までキムラ君を見ていたのですが、突然頭が真っ白になり飛び 込めなくなりました。タッチから数秒して、タケル行け、という声で意識を取り戻して飛び込みましたが、もう逆転されていました。泳ぎもだめで、入賞すら出 来ませんでした。これは、ただインターハイに行けなかったという話ではないんです。キムラ君はインターハイに出られれば学校推薦で希望の大学に行けるはず でした。しかし、それは叶わなかった。すべて私の責任です。それ以降、キムラ君と話すことも、目を合わせることもありませんでした。キムラ君は部活にも来 なくなりました。謝ろうにもその機会もなくて。私が暗くなったのはその時からです。キムラ君の人生を変えてしまった責任を背負ってるんです」

 ユカは表情を変えない。少し間をおいて口を開く。

「辛い思いをしたのね。今はどんな気持ち?」

「なぜあの時、頭が真っ白になったのか理由がわからないんです。ふがいないですね。悔しいです。このことは、いつも頭の片隅にあって離れないんです。もう、4年以上前のことなのに。今、この話をして、また胸がもやもやしてきました」

「笑顔がなくなったのは、その時から?」

「そうかもしれません。多分そうです」

「衝撃が大きかったんですね」

「はい」

「話してくれてありがとう。気分は大丈夫?」

「ええ」

「それじゃあ今度は楽しかったことの話を聞きましょうか。いつ頃のことでもいいですよ」

 ユ カは表情を変えない。それがユカのカウンセラーとしての流儀だ。カウンセラーが反応するとクライアントが動揺する。どんな話でも冷静に聞くスキルは訓練の 賜物だ。ユカはもっとタケルのことを知る必要があると考えた。そこからカウンセリング計画を組み立てて行く。大学院を卒業して四年。ユカには自信もあった。

「笑顔は知りませんが、大学生活は楽しかったですよ。プログラミングが好きで、ネット上の仲間とゲームソフトを作っている時は本当に楽しいです。いろんな個性を持った優秀な仲間がいて、思いもよらないゲームが出来上がるんです」

「それはビジネスでやってるの?」

「まあ、利用者が増えれば多少のお金にはなりますが、嬉しいのは自分たちの作ったゲームで遊んでくれる人がいるということですね。レビューで褒められたりしたら、最高に嬉しいですよ」

「仲間とはリアルでも会ったりするの」

「時々、オフ会で会います。あ、お酒も飲みますよ。そういう飲み会は本当に楽しいです。笑顔はないけれど・・・」

「今の声は楽しそうよ」

「声だけですか」

「うーん。表情は動いてない」

「治るんですかね?」

「まあ、今は気にしない方がいいわ。それよりキムラ君とのこと。ちょっとワークをやってみましょうか」

「ワークですか」

「そこにパイプ椅子が二つあるでしょ。一つが貴方の席、もう一つがキムラ君の席。話やすい位置に置いてみて」

 タケルは立ち上がると、二つの椅子を視線が合わない斜めの角度に置いた。距離は約三メートル。位置はこれで良いと思った。

「このワークでは、タケルさんとキムラ君の架空の対話をします。まずタケルさんから。椅子に座って。キムラ君に言いたいことを言ってみて」

 タケルは椅子に座ったものの、頭を落として考え込んでしまった。言葉が出てこない。時々、キムラ君の席の方に目をやるのだが焦点が合わずにすぐ下を向く。数分間その状態が続いた時、ユカが言った。

「はい。じゃあ次はキムラ君の席に移って。今度はタケルさんに話しかけてみて」

 タケルはキムラ君の席に座り、じっとタケルの席を見た。

「どうして目を合わせないんだよ。どうして何も言わないんだよ。俺達は友達じゃなかったのか。失望したよ。頼むよ、何か言ってくれよ」

 そう言い放つと、キムラ君を演じているタケルの目から涙が溢れた。

「じゃあ、今度はタケルさんの席に戻って、何か言って」

 タケルは席を移動する。今度は正面からキムラ君の方を見ている。

「ごめん。頭が真っ白になったんだ。どう謝っていいのかわからなくて。僕は逃げてたんだ。本当にごめん。許してください」

 タケルはまた下を向いてうなだれていたが、呼吸は前より苦しくないようだ。

「もう一回席を移って」

 タケルがまたキムラ君になってしゃべりだす。

「謝って欲しいんじゃないんだよ。話をして欲しかったんだ。友達のままでいたかったんだ」

 言葉が言葉にならない。また涙が溢れる。

「タケルさんの席に戻ってくれる」

 ユカの言われるままにタケルは席に戻る。呼吸が落ち着くのを待ってユカがしゃべりだす。

「いま、どんな気持ち?」

「胸につかえていたものが、少し取れた感じです。やはり僕は病んでいるのですか?」

「このワークをすると、ほとんどの人が泣いたり、怒ったり、取り乱すものなの。気にすることはないわ。でも、ちょっと表情が柔らかくなってる。あの時、タケル さんは言いたいことを言葉にできなかっただけ。それは誰にでもあること。誰だって誤解や挫折を経験する。それを上手く乗り越えるかどうか。カウンセリング は、そういう時のお手伝いをするの」

 タケルは不思議な感覚に襲われた。県立心理センターに来たときには気が動転していた。何かの間違いだろうと思った。しかし今、このワークを経験して良かったと感じている。カウンセラーにも好感が持てる。ただ、やはりここは特殊な場所なのだ。大学生としての普通の就職は、もう無理だと思う。タケルはまだ二十二歳だ。人生における決定的な出来事。将来に対する絶望。タケルには考えることが多すぎた。

 ワー クが終わると、カウンセリングは雑談のようになった。相変わらずタケルは笑わなかった。ちょうど60分で最初のカウンセリングが終わった。タケルは御礼を言って部屋を後にし、自分の部屋へと戻った。ベッドだけが置かれた病室のような部屋。いったいいつここを出られるのだろう。タケルにはそれが気がかりだった。

 ユカはドキュメントを書いていた。タケルとの初回のセッションの一番の目的は信頼関係の構築だ。安心できる環境の中で、タケルは素直に感情を出した。ここでは、ミスなく仕事をすれば良いだけ。ユカはカウンセリングを単なる仕事と割り切っていた。いや、この仕事は割り切りがな ければ出来ないのだ。そうも考えていた。後、10分するとアユミが来る。アユミとは、もう一ケ月の関係だ。手強いクライアント。ユカはタケルのドキュメン トを書き上げると、高橋アユミのドキュメントに目を通した。

 アユミは境界性人格障害に近い。24歳。1年前、愛人と別れてけら、自傷行為を繰り返すようになり、精神科から心理センターに 送られてきた。母親はスナックの経営者。アユミは母子家庭で育った。最初のセッションで仕事を尋ねたら、元愛人だと言った。性依存症の傾向も見られる。おかしくなったのは、愛人と別れてからだ。母親のスナックを手伝っていた時期もあったが、母親と合わなくなった。気の強い親だった。アユミは折れてしまった。

 精神科医との連携は難しい。精神科医主導の場合はまだ良いが、主導権を押し付けられる場合がある。それに臨床心理カウンセラーには独立性と守秘義務があって、医者、看護者、ソーシャルワーカーが討議するカンファレンスには参加しない。アユミの場合、精神科医は何も言わないようだ。心理センターのY医師は、アユミを薬物療法の必要な患者だと見ていない。ユカは、精神病理学についての知識も当然持っているが、医者相手にそんな議論をすることが無意味などころかマイナスであるといことくらいは心得ている。ミスなく対応すること。大事なのはそれだけなのだが、本音ではアユミとのセッションが苦痛で、気が重かった。また、いつもの男自慢を聞かされるのか。アユミにとっての生きる価値とは性的魅力なのだ。そこを否定されるとアユミは自傷行為に走る。かと言って、男がすべてアユミの言いなりになるわけではない。他の価値を見つけ、認めること。これが課題 だった。

 ノックの音がした。アユミは定刻より早くに部屋に来た。

「失礼します」

 金髪にダブダブしたTシャツ、破れたジーンズ、厚い化粧。香水は禁じられているので匂いわしない。

「調子はどう?」

 ユカが声をかけた。

「こんな所にいて調子が良くなると思いますか?」

 アユミは不満をぶつけるかのようにそう言う。

「作業療法で友達は出来ない?」

「ぜんぜん。ここには良い男いないですから。あ、最近来たタケル君は良い身体してるな。筋肉がおいしそう。でも、ここじゃ食えないしね」

「タケル君と話はしたの」

「いや。話す雰囲気じゃないんだな。暗いし。あれ、先生なんでタケル君のことを知ってるの?」

「さっきまでここに居たわ。私のクライアントになったの」

「へえ。どうだった?」

「それは守秘義務があるから言えないわね」

「もしかして、先生のタイプ?」

「私はクライアントをそういう目では見ていません」

「まあ、口ではそう言うしかないよね。先生は彼氏の話もしないし、セックスの話もしない。プライベートを一切話さない。カウンセリングって、そんなに冷たいものなの。こんなことに、何の意味があるの?」

「そうね。あなたはカウンセリングを受けたくて受けているんじゃないからね。でも何か役に立てると思うわ」

「じゃあ、良い男紹介して」

「それは無理ね。アユミさん、男以外で何か興味のあることとか、好きなこととかないの?」

「いっぱいあるよ。お酒とか音楽とか。でも基本は男。男がないと何も無いのといっしょ。私はそういう生き物なの」

「お母さんとの関係はどう?」

「相変わらずよ。ここにも来ないし、話をしようともしない。もう私とは縁を切りたいみたい。でもね、ここを出たらまた同じマンションで暮らすことになる。お金もないし。はやく男を見つけないといけない十分な理由でしょ」

「仕事はどうする?」

「だから、私にとって愛人だけが天職なの。もう、何回言った?」

「考えは変わらないということね」

「先生だって、カウンセリングを取ったら何が残る?」

「私はピアノ講師もできるし、教員免許も持ってる。OLだって出来ると思うわ」

「じゃあなんでカウンセラーをやってるの?」

 ユカはハッとした。咄嗟に適切な答が浮かばなかった。

「さあ。特に理由はないかもしれない。気がついたらカウンセラーだった。そんな感じかな」

「なんだ。頭は良いけど、結構軽いんだね。ちょっと好きになったかも。で、彼氏はいるの?」

「勘弁してほしいな。いないわよ」

「へー。男もいないのに仕事してるなんて、順番がおかしいんじゃない?」

「あ、あなたも今はいないんでしょ」

 アユミの表情が変わった。ユカはしまったと思った。しかしもう遅い。つい感情的になった。アユミの一番痛いところを突いてしまったのだ。

「ごめん。でも、アユミさんはモテるから彼氏はすぐ出来るわ」

「いや違う。いま欲しい」

「ところで、米川先生は何か言ってる?」

「ああ、あいつは話にならないよ。診察中に胸をチラチラ見るんだよ。まあ、私が挑発してるんだけど。ただのエロオヤジ。キモイね」

「ここを出てから、どこに住むかとか相談しないの?」

「いつも手を握って、手首の傷をなぜるんだよ。触りたいだけじゃないのかってくらいに。そういう話はユカ先生と相談しなさいって言ってたかな」

「そうか。で、どうしたい?」

「とりあえずマミーのマンションに戻るしかないけど、無理なんだよね。泊めてくれる友達もいるけど、迷惑がかかるし」

「お母さんは、仕事のこと、どう言ってるの?」

「ああ。愛人は仕事として認めないって」

 そう言うとアユミはニコッと笑った。ユカはその時やっと分かった。アユミにとって愛人とは特別な女性にだけ許された特権的な職業であり、最大の誇りだという ことが。しかし、恋愛と違って愛人を持てる男性は少ない。ある意味で激しい競争市場だ。そして、アユミが愛人を職業として高く評価するようには、社会は愛 人を評価しない。それどころか、害悪のように言う人もいる。カウンセリングは価値中立だ。しかし、社会通念を無視することもできない。ユカは切り込んだ。

「愛人と主婦って、どこが違うの?」

 ユカは一瞬、意外な顏をした。

「愛人も主婦も契約。でも、結婚は法律で守られたぬるま湯の関係なのね。だからすぐに緊張感が無くなる。愛人は毎日、愛で勝負しているの。つまり真剣っていうこと」

「なるほど。そういう理屈ね」

「先生は愛人になりたくない?」

「私はぬるま湯の方が良いわ」

「へー、結婚願望はあるんだ」

「どうかな。内緒ということでだめ」

「私がダメと言うのも変だし」

 ユカは思った。職業としての愛人に価値を見出すことが病と言えるだろうか。絶対に言えないと思う。しかし、立場上それは公言できない。今の社会は勝手に規範を作る。その規範にとって都合の悪いものには病気という診断をくだす。そうすることで合法的に都合の悪い人々を排除し、精神病院や心理センターに送り込む。そこでは治療という名のもとに人格改造を行う。社会にとって都合の良い人格に変えて、再び社会の生産システムに復帰させる。それが出来ない者は、社会から排除されたまま一生を終える。それが正しいかどうかをユカは判断しない。ただ、その事実に従うだけだ。だから、アユミに愛人以外の職業に就いてもらうこと。そのための心理療法をするのが自分の役割だと思っている。

「アユミさん、昔、洋服のショップで働いてたこともあるのよね」

「友達に頼まれて、少しだけね」

「仕事は楽しかった?」

「結構はやってる店だったから退屈はしなかったわ。でも、お金のことを考えたらちょっとね」

「お金か。お金は何に使うの?」

「ほとんどが美容とファッション。後は友達との飲み会かな」

「料理も出来るんでしょ?」

「まあ、人なみ以上には上手いよ。勘が良いからね」

「貯金はある?」

「そんなことまで聞かれるの? ある訳ないじゃない。あったら全部使う主義なんだから。でも、借金はないよ」

「お母さんのスナックを手伝ってたこともあるんだよね」

「そう。高校に行ってる頃から手伝ってたわ。違法だけどね。男って本当にバカだなって、よく分かった」

「そんなバカの愛人が良いの?」

「バカって可愛いのよ。特にお金を持ってるバカわ」

「なるほどね。アユミさんは接客が上手そうね」

「そうね。私は相手が考えてることがわかるからね」

「すごい才能じゃない」

「まあ、そういう言い方もあるね」

 ユカはアユミの多面性を重視した。頭は良い。ただ、環境から勉強に興味がなく、大学に行かなかっただけだ。高校は卒業しているし、友達もいる。ただ、愛人を失ったことで自傷行為をした。リストカットは自殺とは違う。ストレス解消の一種だという人もいる。最近の若者のリストカット経験率は12%。その程度のことなのかもしれない。

 ユカは話がなるべく男や愛人に行かないように注意した。しかし、いつのまにか男の話が出てくる。それでも、カウンセリングとしての意味はあった。そのことを確認できてユカは満足だった。アユミは気楽に本音を話すという点ではやりやすいクライアントだ。時間がきて、カウンセリングは終わった。

 県立心理センターは山の上にある。300床のベッド数がある中規模施設。二年前に完成した立派な建物だ。精神病院ではないので、完全な精神科領域の患者はいない。問題を早期に発見し、事前に対策をとること。これが県立心理センターの役割だ。

 カウンセリングが終わると、午後5時になっていた。ユカは専用のバスで市街地の駅に行き、そこから電車で郊外にある自宅に帰った。家には定年で公務員をやめた65歳の父と、60歳の母がいる。弟は大学を卒業し東京で働いている。今は3人暮らし。料理などは母がやっており、ユカはほとんど家事をしない。

 夕食はいつも3人で食べる。しかし、会話はあまりない。ユカは32歳。高校までは音大志望だった。しかし、両親は音大への進学に大反対した。無理矢理、地元の私立大学の英米文学部に入れられた。しかし興味を持ったのは社会学だった。特に、精神の管理社会という問題に衝撃を受けた。治療する側になるのか、治療される側になるのか。それは資本家と労働者のような立場関係だと思った。ユカは別の国立大学に転校し、心理学を専攻した。治療する側にならなければ危ない。そんな危機感がどこかにあった。

 大学院に行き資格を取った。両親はこの選択に賛成だった。少なくとも音楽家よりは安定しているだろうし、教師より良いと思った。時代なのか、カウンセリングのニーズも増える一方だった。心の専門家。ユカはそれを時代が作り出した幻影だと考えていたが、両親にとっては誇れる娘だった。

 夕食を食べ終えると、ユカは防音設備のあるピアノ室へ向かった。趣味というよりもストレス発散なのだと思う。上手 く弾こうなどという想いはない。ただ、気持ちをピアノにぶつける。好きなのはショパン。この日も「英雄ポロネーズ」を激しく弾いた。ミスタッチも多かった がそんなことはどうでも良かった。今日一日を忘れること。それが重要だった。

 彼氏か。いつもは切り替えられる頭が、今日は切り替わらな い。バスルームの中でアユミの言葉を思い出してしまった。結婚も悪くないと思う。選り好みをしなれば相手はいるだろう。しかし、バカは嫌だ。また、高収入 で安定した仕事をしている人が良い。ただ、ユカの頭の中では、この二つの条件が両立しない。つまり、高収入で安定した仕事をしている人間などバカだということだ。そうすると、結婚相手は存在し得ないという結論になる。幸か不幸 かユカはアユミのように性欲が強くない。もしかしたら、まだ本当の官能を知らないのかもしれない。男の欲望を満たすだけのセックスしか経験していないようにも 思う。セフレもいない。男友達もみな真面目なのだ。特に大学院時代の仲間は真面目過ぎる。

 家族。会話もない家族だが、そこには生活がありつながりがある。単身者は孤独になりやすい。カウンセラーだからといって、孤独でも大丈夫というわけではない。社会的にも単身者は不利だ。35までには結婚しようか。ユカはふとそう思った。

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