第30話 新世界

 数週間後。

 ビッグデータに取り込まれていた魔遊は、世界中のありとあらゆる智力を身につけていた。松田の、アザエルの、李美耽の、ベルゼバリアルの、そして本田の空を飛ぶ能力をも備えていた。世界中どこにでも飛んで行ける魔遊だったが、迷わず上海市の日本人街に帰っていた。また子供たちとの共同生活を始めたのだ。

 そして魔遊は昼間、街の大人たちと一緒に日雇い労働を行っていた。わずかばかりの賃金だったが、それでも子供たちのために食事を買って帰ることはできた。また子供たちも、裏庭の畑で野菜を育てていた。試行錯誤を繰り返しながら、子供たちだけでもできるようになったのだ。

 魔遊にしても子供たちにしても、この意識の変わり方は周囲の大人たちを驚かせた。自分たちが動かないと食べていけない、という危機感もあったかもしれないが、単純に労働することの喜びを見出していたのだ。

 もちろんいいことばかりではない。魔遊の労働現場の監督役である中国人は、相変わらず日本人に風当たりはきついし、警官は何かと日本人街で言いがかりをつけてきた。

 それでも周囲の大人たちと話し合い、我慢をするということを、魔遊は身につけていった。

 そしてなにより一番の喜びは、一日の労働を終え、子供たちとふれあう時間である。特別なことは何もしていない。ただ一緒にいてしゃべって笑って遊んで、楽しくなるのである。それは魔遊にとっての喜びだったし、子供たちの喜びでもあった。

 そして毎日魔遊はオルガンを弾いていた。下手くそなのは相変わらず。しかし簡単な童謡くらいならなんとか弾けるようになっていた。そして子供たちは元気に歌う。

 崩れた教会に不釣合いな男が訪ねてきた。

 真っ白な髪の毛に皮肉な笑みを浮かべた顔の安堂博士だった。何度も会っているはずなのに子供たちが警戒感を強めるが、魔遊は大丈夫だとなだめる。

「見てきたよ。松田の世界を」

 安堂博士は一方的に魔遊に向かって報告するかのように言った。

「松田の完全なる善の世界のことは、魔遊も知っておく権利があると思ってな。また日本からやってきたよ」

「そうか。俺は完全なる悪だからな」

「そう卑屈になるな。お前のおかげで松田の世界は創られたのだから、むしろ感謝したいくらいだ。新世界は全てが光に満ちている。そして影というものが全くない。光があれば影ができるものだが、新世界には影というものがないのだ。ありとあらゆるものが光り輝いているせいだ。そして楽園には善が満ち溢れている。温暖な気候で、いつまでも光が照らし続け、夜というものがない。極彩色の花々や植物に囲まれ、人々は争うこともなく、食べることも、性行為も、睡眠も、衣服も、住居も必要のない世界になっていた。人間の三大欲求や衣食住からも解放された世界なのだ。そこで住人たちは怠惰な生活を送っている。ただ何もせずぼんやりと。悪がないために善のありがたみもわからないようだ。というより善の世界に住んでいるということすら理解していないようだ。知能は低くないだろうが、思い悩む、ということがない。確かにあそこは楽園かもしれないが、何かが間違っている気がする。もし、あんなところに今の人類を移住させたら、あっという間に滅ぼされてしまうだろうな。もっともすでに善の世界には数十億もの人たちが暮らしているから、移住できる場所などないがな。きっとビッグデータに取り込まれた智力の持ち主だろう。だからきっとセフィロトに取り込まれた、わたしのコピーや李美耽もいるかもしれない。また今度訪れた時に探してみよう。人畜無害、毒にも薬にもならない新世界は、いわゆる楽園という定義からは外れている気がする。彼らに知恵の実でも食べさせてやりたい気分だ。いや食欲すら超越してるから食べないか」

 安堂博士はため息混じりに言った。魔遊はただ呆然と聞いていた。多大な苦労と、命とをかけてまで創り上げた世界が、そんな薄っぺらなものだとは。

「ああ、新世界でアスドナを見たよ。彼女は寝ぼけた様子で横になっていて、こちらの問いかけにも全く反応がなかった。もっともあの世界の住人全てそんな感じだがね」

 魔遊はアスドナのことを思うと寂しくなった。その新世界はアスドナにとって素晴らしいものなのだろうか? それとも今自分が日本人街で生活する方が素晴らしいものなのだろうか?

「ヴァーチャーズはまだ活動しているのか?」

 魔遊は安堂博士に質問した。

「もちろんだ。理想郷に人類を移住させる計画はまだまだ進行中だよ。常に世界中からセラフィム候補を探しているし、オリジナル世界ではすでに作られている別次元の中から、テラフォーミングできそうな世界を探す専門チームもいるからな。それはARK社ドミニオンズも同じだ。彼らも再びMAD人類天使化計画によるデータの蓄積は続けている。ただ日本支部は無くなってしまったから、別なところにサーバーを置いてるらしいが、わたしの方ではまだどこにあるのかまでは把握していない」

 安堂博士はまだまだ諦めていない。むしろ次のステップに向けて気持ちを切り替えているようだ。それは今までも期待を込めて新世界創造を目の当たりにしたものの、実際に確認してみると、落胆せざるを得ない世界だったという経験を何度も繰り返してきたからにほかならない。この詩亜の創ったコピー世界もそのひとつなのだろう。

「俺は詩亜の言葉を守り続ける」

「例の、人間から悪の心を吸い取るというやつか? 確かにセフィロトではうまくいったかもしれないが、現実の人間相手にどこまで通用すると思う? 実際今の生活でうまくいったか?」

 魔遊は首を横に振った。

「お前は大馬鹿者だな。世界中の悪の心を吸い取るなどという途方もないことをしようだなんて。得になるどころか、自分が傷つくだけなのに。本当に大馬鹿者だよ。そして、本当に詩亜のことが好きなんだな。ずっとこの教会で子供たちの面倒をみるだなんて」

「あんただって、オリジナル世界に戻ればいいのに、このコピー世界にいるじゃないか」

「もちろんだ。わたしの娘が創った世界だからな。ここを最優先にするさ」

 博士はそう言うと教会を去っていった。こうして時々博士は日々何かあれば報告しに来てくれるのである。EDENを使えばいいのに、わざわざ会いに来てくれるのだ。

 博士に限らず、ここ最近、世界中の人々が直接のつながりの場を作りつつあった。今まではEDENのみで終わっていた他人とのつながりが、直接対話を行うようになっているのだ。しかもわざわざ催し物を開いて、人と人とが直接触れ合う場が設けられている。それが上海市随一のショッピングモールだった。平日の夜や週末になると必ず何かのイベントが開かれ、市内から人々が集まってきてはみんなで交流を深めていた。

 その催し物が開かれている場に、魔遊は時々顔を出していた。そこで魔遊は集まってきた人々からこっそりと悪感情を吸い取っていた。気分は悪くなかった。地道な行動だったが、やがて効果は出てくると信じていた。いずれ子供たちがもう少し成長したら、連れてきたいと思うのだった。

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