第19話 メガフロート

 上海市の東側。長江デルタには広大なメガフロートが建設されて、洋上に浮かべられている。これらは上海市に流入してくる移民を受け入れる土地を確保するために、急ピッチで造成された人工島であったが、完成よりも早く移民たちは上海の古い街の中に溶け込んでしまい、メガフロートは本来の目的を果たすことができず、半ば見捨てられた存在となっていた。せいぜい、大規模イベントの屋外会場くらいしか利用価値がなかった。

 だが、ここ数年徐々に増えつつあるフォーリンエンジェルズやグリゴリが、メガフロートに拠点を持ち、街を作りつつあった。街といっても、掘っ立て小屋が立ち並ぶ貧相なものだったが。

 彼らは自らを全く新しいグリゴリであると宣言し、自治区を作ったものの、その規模は小さく、高く掲げたスローガンの割には尻すぼみな感じが否めなかった。

 馬火茂の飛行により、魔遊、ラマシュの三人は、そのグリゴリたちの拠点へと向かっていた。

 李美耽たちが秘密裏につかんだ過激派グリゴリを潜入捜査中に戦闘になり、苦戦しているとのことだが、果たしてあの李美耽やベルゼバリアルが苦戦するほどのパワーズがいるだろうか? 魔遊はずっとその疑問が晴れなかった。

 広大な土地に馬火茂が降り立つと、魔遊、ラマシュも降り立った。何もない、ただの広場だ。その先には長江の河口が見える。そして静かだ。

 魔遊が辺りを見渡すと、右手の方に小屋が立ち並んでいる場所がある。ポツリ、ポツリと立っているのが、いわゆるグリゴリたちの自治区なのか。ここから恐らくサイバー攻撃等を行っているのだろうが、これでは街というより、山奥にひっそりと暮らす仙人となんら変わりがない。まだ日本人街の方がマシだ。

「こっちだ」

 馬火茂が魔遊たちを案内する。やはり街の方に向かっている。そこで戦闘が行われたというのか。

 木材というより、廃材を用いて作られた掘っ立て小屋はみじめなくらいみすぼらしいものだった。風雨を防ぐことができればいいのかもしれないが、隙間から雨漏りやすきま風が入ってきそうだった。魔遊はここでの生活がどれほど苦しいものか、想像を絶するものがあった。もっと言えば、ここで自治区を立ち上げてまで、グリゴリ活動を行うほど今の世の中に不満があるのだろう。そのやり玉といえば、きっとARK社でありドミニオンズであろうことは言うまでもなかった。魔遊自身がかつてARK社やドミニオンズに敵意を抱いていたのに、今では全く立場が逆転しているのだ。

 その時、魔遊はゾッと背筋が凍りつく感覚にとらわれた。ハッと気づくと、赤黒い手が自分めがけて伸びていたのだ。とっさに後ろに逃げる魔遊。

 前方には毛手碓がいる。何がうれしいのか、ニヤニヤとしまりのない顔をして魔遊を睨みつけている。その後ろには李美耽とベルゼバリアルがいる。

 魔遊は状況がつかめなかった。なぜ彼らがあそこにいて、毛手碓が攻撃を仕掛けてきたのか。馬火茂を振り返ったが、いつのまにか馬火茂は李美耽の後ろにいた。

「魔遊、罠よコレ!」

 ラマシュが叫んだ。罠、と聞いて、鈍い魔遊の頭でもようやく理解できた。以前、毛手碓を負かしてやった時にひどい恨み買ってしまったが、今まさにそれを晴らそうというのだろう。ARK社ビルで決闘をしては目立ちすぎるし、博士やアザエルに止められてしまうだろう。だからこんなへんぴなところを選んだのか。では、メガフロートのグリゴリたちは? 魔遊は横目で小屋のすき間を見たが、中には誰もいなかった。

 魔遊は自分の後ろで強烈な光が発せられているのを感じた。振り返ろうとするとラマシュが止めた。

「振り返っちゃダメ! わたしの智力、光を操るシャープ・シャインで、毛手碓たちの目を眩ませているから、その内に逃げましょう」

 ラマシュは強烈な光をカメラのフラッシュのように連続して明滅させている。直接攻撃ではないが、効果は抜群のようで、毛手碓たちは目を押さえてその場で立ち尽くしている。

 だが、魔遊は懸念があった。自分がそうなのだが、ネガティブ・ジェネレイターは目が見えなくても、相手の感情を読み取ることで場所を特定できるのだ。だから目をつむっていても攻撃が可能なはずである。

 毛手碓は攻撃が単なる光でしかないと分かると、落ち着きを取り戻した。そして目をつむったままゆっくりと魔遊たちへ近づいてくる。

「けっ、おどかしやがって。ただの光じゃねえか。大したことねえな。やいラマシュ、おまえいつも魔遊にベッタリとして威張りやがって、気に食わなかったんだよ」

「毛手碓だって、いつも李美耽と一緒に威張ってるじゃない」

「なにを? きさま、ゆるさんぞ。まずはきさまから殺してやる」

 殺す、などという言葉を簡単に使う毛手碓はきっと狂人なのだろう。魔遊は憐れみの目で毛手碓を見た。

 毛手碓がまた一歩前に歩み出ると、たくさんの赤黒い手が伸びた。相当な数である、これだけの手を可視化させられるということは、頭の中は相当負の感情で埋め尽くされているはずだ。魔遊はゾッとした。魔遊も腕を出そうと集中したが、毛手碓ほどの腕は出せなかった。

 魔遊と毛手碓の赤黒い手が触れ合う。しかし、この間のように光の玉は現れず、手は互いに反発しあうようにバチンと音を立て消え失せた。お互い腕のエネルギーが弱くて負の感情が相殺されてしまうのだ。次々に手が触れ合っては消えを繰り返し、魔遊の腕がなくなった。しかしそれでもまだ毛手碓の腕が残っている。そしてその腕はラマシュへと伸びていく。

 とっさに魔遊はラマシュにタックルし、上に覆いかぶさった。自分が身代りになろうというのだ。

 毛手碓の腕が魔遊に触れる。魔遊の頭に負の感情が大量に流れ込んでくるのを感じた。そうか、これがネガティブ・ジェネレイターの智力か。苦しいが、耐えられないものではない。いつもの他人の負の感情が流れ込んでくることを考えれば、無茶な苦しみではない。

 魔遊は鼻血を出しながら、ラマシュに笑顔を見せた。ラマシュは何事か言っているが魔遊には聞こえていなかった。

 だが、毛手碓の手の内の一本がラマシュに触れてしまったのだろう。その途端、ラマシュはカッと目を見開き恐怖にとらえられた恐ろしい形相で、ビクンビクンと大きく痙攣しだした。そして大量の鼻血を流し、耳から脳髄が流れ出し、静かになった。

「ラマシュ」

 魔遊が呼びかけても二度と彼女は返事をしなかった。

「やっと、目が見えるようになってきた。ケッ、ふたり仲良く抱き合ってよう。でもやっと目障りな女がいなくなってスカッとしたぜ。さあ、次は魔遊お前の番だ」

 同じドミニオンズ隊員を殺しても、何ひとつ気にも止めないどころか、気分が晴れる毛手碓に、今度は魔遊が負の感情を抱く番だった。

 ラマシュへの悲しみ、毛手碓への怒り、自分自身の苦しみ、痛み……。

 魔遊から一本の太く赤黒い腕が伸びた。それを見た毛手碓は鼻で笑った。

「たった一本かよ。その程度か、きさまの智力は。大したことないな。がっかりだよ過大評価しすぎていたようだ」

 魔遊の一本の腕に対して、毛手碓はまたしてもたくさんの手で対抗してきた。そして毛手碓のたくさんの手が、魔遊の腕にしがみついてくる。が、その瞬間、毛手碓の腕が白くなって粉々に砕けた。

「なに? 俺の手が? きさま何をした?」

 魔遊の赤黒い腕がまた一段と太く大きくなった。大きな一本の腕が毛手碓に向かってつかみかかる。頭よりも大きな手のひらで、頭をつかむと毛手碓の絶叫がつかんだ手から漏れ聞こえた。その中には「俺がセラフィムなんだ」という声もかすかに漏れていたが、誰も聞こえていなかった。毛手碓は手足をジタバタさせていたが、やがてだらりと力が抜け、絶叫も止んだ。

 魔遊の赤黒い大きな腕が消え失せると、割れたスイカのような物を首の上に乗せた哀れな亡骸が崩れ落ちた。

 魔遊は虚しくなった。ラマシュの仇をとったところで彼女は帰ってこない。思えば、自分がふさぎ込んでいた時も、ラマシュだけは笑顔でいてくれた。なぜその笑顔に応えてやれなかったのか。魔遊はいまさらどうにもならないことを考えていた。

「ちっ、毛手碓の奴。もう少し魔遊にダメージを与えられないのか。口だけで大したことのないのはお前だ。おい魔遊!」

 魔遊は名前を呼ばれて顔を上げた。李美耽とベルゼバリアルがいる。

「もうわかっていると思うが、あたしたちがグリゴリにやられそうになったというのは真っ赤な嘘だ。まんまとだまされてきたということは、馬火茂の演技力が良かったのか、それとも魔遊がお人好しだったのか。そんなことはどうでもいい。あたしはあんたが邪魔なんだよ。どれだけ智力があるか、今の戦いを見てよくわかった。博士がオファニムに任命するのもよくわかる。だが、セラフィムの座はあたしがいただく。あんたのように新米でやってきていきなりセラフィム候補になられては、古参としては納得がいかないんでね。たまたま毛手碓も魔遊に個人的な怨みを持っていたから、今回の件に加えてやったが、しょせん殺人狂でしかないな。オファニムには程遠い。ラマシュもだ。安堂博士は魔遊を買っているようだが、あたしとベルゼバリアルで消さしてもらうよ。馬火茂。ちゃんと距離を取っておくんだよ。巻き添え食って殺されても知らないからね。魔遊、死ぬ前に教えてあげるわ。このメガフロートはとっくの昔に見捨てられた廃墟よ。形だけは残っているけど。あたしはドミニオンズに気に入らない奴が入ってくるたびにここを使って、始末をつけてきた。今度はあんたの番よ」

 李美耽が急に構えを取ると、魔遊の目の前に火柱が上がった。それに気を取られていると、同じく構えを取ったベルゼバリアルが、魔遊のすぐそばに水柱を上げた。魔遊がまごまごしているうちに、火柱と水柱に周囲を取り囲まれてしまった。

「行くぞー」

 ベルゼバリアルの太い声が上がると、魔遊の足元から水柱が上がって、魔遊は空中高く舞上げられてしまった。そして地面に叩きつけられる。水柱の威力と地面に叩きつけられた衝撃で魔遊は意識を失いそうだった。

「今のが水ではなく、あたしの炎だったらどうなっていたと思う?」

 李美耽が意地悪そうに聞いてくる。しかし魔遊の耳には入ってなかった。

「丸焼きになっていたよ!」

 李美耽が声を荒げると、今度は炎を前方に吹き出した。迫り来る灼熱の炎に魔遊は慌てて逃げた。しかし逃げた方向には水しぶきが待っていた。再び吹き飛ばされる魔遊。小屋に叩きつけられる。

 強い。魔遊はドミニオンズのオファニムの実力を実感した。しかもこれでも本気を出しきっていない、手加減したものだとわかる。

 またベルゼバリアルが水しぶきを飛ばしてきた。だが、よく見ると水の粒が確認できるほど大きなものだった。きっとこれは水に圧力をかけて弾丸のように飛ばしているに違いない、と判断した魔遊だったが逃げ遅れた。水の弾丸が体の半分に当たり、肉をえぐった。そして休む暇もなく李美耽の炎が飛んでくる。負傷した体で間一髪逃れる。だが服が焼け焦げた。

 自分はもう終わりかもしれない。魔遊は急に弱気になった。きっと今までも李美耽に嫌われた連中はこうして殺されていったのだろう。自分も同じ運命なのだ。思えばなんと自分は呪われた運命なのだ。生まれもそうだったが、人を呪うことで相手を死にいたらしめる智力を持ったばっかりに、こうやって今殺されようとしている。自分など存在しなければよかったのだ。自分がいなければ世の中は安泰にうまくいっていたかもしれない。ここで殺されれば世の中のためになる。

 そう思うと魔遊は仁王立ちしていた。両手を大きく広げて、この身を捧げるかのように李美耽の地獄の業火を待った。

「なんの真似だ? もっと逃げ回れ! 命乞いをしろ! きさまが無様に死んでいく姿を見せろ!」

 しかし魔遊はじっと目をつむったまま身動きしない。

「ふん、とうとう観念したか。では望み通り焼き殺してやる。ベルゼバリアル、行くぞ!」

 李美耽が叫ぶと、業火と高圧の水の膜が飛んできた。

 だが、その瞬間魔遊は目を見開いた。自らの命をなげうつ祈りよりも、生存本能の方が勝った。呪いの腕が一本伸びると、火と水をすり抜けた。

 魔遊の右肩を水の皮膜がかすり、鋭利な刃物で切ったように切り傷を負わせた。炎は耐火構造になっているドミニオンズ戦闘服をも焼き、火傷を負わせた。

 しかし、李美耽とベルゼバリアルは呪いの腕に軽くかすっただけだったのにも関わらず、地面を転げまわるようにうめいている。頭を抱え、白目をむき、口から泡を吹いている。

「ああああ! 苦しい、なんだこの感覚! ひどい苦しい。助けてくれ! 死にそうだ! だれか! お願いだ!」

 かわいそうな李美耽は、命乞いをするように叫び、地面の上で痙攣している。

「おおおお! なんだこれは! 死にそうだ! 苦しい! 気持ち悪い!」

 同じくベルゼバリアルも大きな体でバタバタともがいている。

 悲しい目で見下ろす魔遊はどうすることもできなかった。他人をひどい苦しみに陥れることはできても、それを助けてやることはできないのだ。

 そして……みじめな毛手碓。さらに哀れなラマシュ。自分さえいなければ命を落とすこともなかったろうに。魔遊の悲しみは一層深くなっていった。

 魔遊はいまだに履いているスーパージェットシューズでこの場を後にした。

 小屋の影に隠れていた馬火茂は苦々しそうに、惨劇のあとと、遠ざかる魔遊を睨みつけていた。

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