3話 幽霊と炎の失恋

「呪われろ。呪われろ。呪われろ」


 恨みの言葉が世界に満ちる、炎の涙が大地に落ちる。


「裏切り者。裏切り者。裏切り者」


 死者の指先が西方を指す。恨みを果たせと生者をののしる。


「死ね。死ね。死ね」


 死者どもが言う。の者に報いを与えよと。あのとき裏切られたように、

あの場所で殺されたように、あの呪われしものに報いを与えよとわめき立てる。

悲しみを、怒りを、憎しみを、すべてあのものに返さねばならない。あの白

魚のような腕を引きちぎり、滑らかな皮膚を引きはがし、頭蓋ずがいをなすりつけ、

灼熱の汚泥をめさせてやらねばならない。彼の者が我らにそうしたように。

 我らは幽霊ウイスパを殺さねばならない。恨みのため、復讐のため、正義のため、

西方の魔女を殺さねばならない。

「殺せ殺せ」

 死者が言う。恨みを果たせと過去が言う。もはや嘆くことすらできなく

なった亡者共がマキア・エレクトスの記憶のなかで喚いている。

「幽霊は死ななければならない!」

ささやく者は死ななければならない!」

「ディー・エンジー・ストラトミトスを、我らの手でちゆうさねばならない!」

 彼らは言う。幽霊が憎いと。復讐を遂げ、善良なる魂は弔われなければい

けないと。……それができるのはもはやお前だけなのだからと、言わんばか

りに。

 そしてそれこそがマキアの力の根源だった。死者の恨みを己のものとし、

炎に変えて拳に宿らす。それはあの日の弔いの火。祖国をたきぎとして燃える破

壊の拳だ。


『だのにお前は!!』


 死者が言う。

『なぜだ! なぜ彼の者を殺さない! 裏切り者め!』

 炎がマキアを責め立てる。なぜ復讐を果たさないのか、

『なぜ殺さない。彼の者はもう目の前ではないか! さあ今すぐその拳を振

り下ろせ!』

「違う」

 マキアは答える。答えたと思う。もはや彼本人とはかけ離れてしまった異

能に向かってぽつりと呟く。

「あれはもう幽霊ではない」

 幽霊はもう、変わってしまった。人を殺し、人に囁き、世界の酸化を早め

て終わらせようとした西方の魔女はいなくなってしまった。

 今のあの娘は世界を滅ぼそうなどとは思っていない。

「だからどうした!」

 死者が、言う。

「だから! どうしたというのだ同胞よ! 改心した? 変わった? だか

らなんだ! そんなものがわれらの狂気と何の関係がある!?」

 勢いを増した炎が体を包む。もはや腕と体の境界はなく、マキアは恨みそ

のものとなる。

「なにを! 理性なんぞに! すがりついているのだ! もとより我らは狂

気。理から外れし炎の車輪だ! 貴様が願ったのだぞ! 我らを! 彼の者

を殺すための力を!」

「だが……」

「殺せ!」

 うねり、よがり、ほとばしり、狂おしいまでの妄執が両腕を焦がす。それ

は、ある一時までは、たしかにマキアを生かした力だった。黒ずんだ激情は

えた足を立ち上がらせ、ギラギラと輝く炎は暗黒の道を確かに照らした。

「燃やせ! 刺せ! 満たせ!」

「断る」

「腹を割れ! 瞳をえぐれ! 首を絞めろ!」

「断るといっている!」

 いまや、異能は当人の思いを完全に逸脱し、頭蓋に反響して脳を揺さぶる。

「やつの生死は俺が決める! 俺だけが決めるのだ! 亡霊共は黙ってい

ろ!」

 そして、マキアは目を覚ました。


                   †


 夢と現実の境界はあまりに遠く、目を開けたマキアはしばし、みずからがどこ

にいるのか分からなかった。

 カチ、カチ、と柱時計が鳴っている。しんしんと雪が降っている。目の前

には冷たく広がる廊下と、凍り付いた乾いた空気があった。

「……ここは?」

 備え付けの椅子からゆっくりと立ち上がり、右手で軽く指を鳴らすスナツプ、途端

に小さな炎が指先に灯った。

 まるで息をするように何気なく行われた超常の動作を、マキアはいまさら

のようにまじまじと見つめて、己という存在を強く意識した。

 マキア・エレクトスは異能者である。その拳には超常の力が宿り、千の軍

勢を向こうに回して一歩も引かず、世界を貫く塔すら倒した。異能が根ざす

願いは『復讐』。破壊の拳は故郷を焼いた西方の魔女への恨みでできていた。

 だが、超常の力をもってしても幽霊をほふることは叶わなかった。彼女の特

性である『霊体化』は、あらゆる物理攻撃を無効化するため、破壊も炎も

まったく届かず、マキアはただ、ジリジリと燻くすぶるばかりだった。

 状況が一変したのは最近になってからだ。『幽霊が無敵の体を失った』そ

の知らせを聞いたマキアは狂喜乱舞してこの街を訪れ、ついに、彼女の細首

をその手に掴んだ。

 復讐は目前にまで迫っていた。マキアの旅はついに終着へと至り、過去は

清算され、恨みは果たされ、正義の名の下になにもかもがおしまいになる。

はずだった。

 なのにマキアはまだこんな場所にいた。

「…………」

 虫でも払うように炎を消すと、マキアは目の前のドアを開いて一歩踏み込

んだ。

 向こうは光の夜だった。

 窓から漏れる月光が思いがけないほど遠くの床を照らしている。細かな埃

虹光ホロウまとって漂っている。家具には埃よけの掛布が掛けられて主人の不在

を物語っていた。

 凍ったかびの匂いの中で、ディーは健やかに眠っていた。

 管理会の制服すら着替えずに、くったりと倒れて眠っている。そのまなじりは涙

の跡で歪ゆがんでいた。

「…………」

 安堵と居心地の悪さが同時に訪れた。他人の秘密に勝手に触れているよう

な、そんな気分にさせられる。

 乾いた床を踏んでベッドに近づき、そのすみっこにきしりと座る。

 見下ろす顔は疲れ果てていた。頬はけ、息は浅く、眉間みけんに刻まれたしわ

眠りの中であっても取れる様子はない。まるで傷ついた獣のよう。

 思考の前に手が伸びた。傷と厚皮に覆われて、石ころじみた外見となった

右手が額に張り付く髪を払ってやった。毛布を引き上げ、細い肩まで掛けて

やった。

 そんなことが、いちいちマキアの心を引っいていた。もうすっかり目は

さめたというのに亡霊共の嘆きが聞こえるようだった。『その手はそんなも

ののために生まれたのではない!』と。

 ちがいない。マキアは自嘲するしかない。なぜこんなことになったのか、

いまだに自分でもよく分からなかった。

 いま、マキアは驚いたことに――本当に驚いたことに――ディーの護衛の

ようなことをしていた。

 彼女は変わった。

 変わって、しまった。

『世界の酸化を早めて滅ぼす』と囁いていた幽霊は消え去ってしまい、残っ

たのは疲れ果てて涙にくれる十六歳の少女だけだった。

 故に、マキアの復讐も終わってしまった。なぜなら破壊拳が望んだのは正

義であり。恨んだのは世界を滅ぼす魔女だったからだ。

 今の彼女を殺すことは、もはや正義ではない。そう、マキアは思っている。

 思っては、いるのだ。

「…………」

 記憶の中で亡者が言う。ころせ、ころせと死者が言う。奇跡の元となった

あの日の残り火が、マキアの胸を焼いている。

「……ぐっ!」

 そこに宿った炎をもみ消すように、マキアはシャツの襟元をぎゅうと絞っ

た。これでは見張りもなにもない。これ以上ここにいては、己こそが彼女を

殺してしまいそうだった。

 だから、立ち上がろうと腰に力を込め、部屋を出て行こうとしたのだが。

「なーんだ。殺さないのかぁ」

 この女はいつもこうだ。

 意識が力へと変わる瞬間を正確に狙い撃たれて、マキアは中途半端な姿勢

のまま首をかしげた。布団の中には猫のような笑みがひとつ。

「……起きていたのか」

「さぁ、どうだろうねぇ。まだ夢の中かも」

 闇の中に光が灯る、ましろいまぶたがつるりと開き、血が滴って色がつくよう

に、凍った表情がふにゃりと溶ける。紫色の瞳が月光を返し、ディー・エン

ジーが目を覚ました。

 掛けたばかりの毛布が落ちて、熱を蓄えた上半身が冷気を突っ切って起き

上がる。僅かに立ち上る湯気と匂い。思いがけないほど白い手首が、意識の

間隙を突いてぬらりと伸びて、

 ふに、

「ふふん。どうかな。これって夢? それとも現実?」

「……現実だ」

 右の頬に引っかかる、まるで痛くもない手を叩いて落とすと、ディーはケ

タケタと童女のように笑った。

 マキアはいらつくほどに荒れた鼓動を無理矢理に押さえ込んで深呼吸をする。

この女は、出会った頃からずっとこうだ。まるでそれが趣味だとでも言わん

ばかりに人の心をかき乱し、おもちゃにしては楽しんでいる。そういった性

格はいまも変わらないようだ。

「どしたのマキア? こんな夜中に珍しい。殺しにでも来たのかとおもっ

ちゃったよ」

「……おれはそんなにひどい顔をしていたのか」

「いやぁ、ひどくはないよ。勇者って感じで、カッコ良かった」

 確かめるように顔をでると、指と頬の両方にざらざらとした粗い感触が

伝わってきた。まるで石を擦り合わせたような乾いた感触だった。

「……嘘だな」

「嘘って、なにが?」

「だったら貴様はなぜそんなに平然としている。本気で思っているのなら、

逃げるなりなんなりするはずだ」

「なぜって、そんなのきまってるじゃん」

 きょとん、とした表情のない頬に、出し抜けに涙がぽろりとこぼれた。

「死んじゃってもいいかなって、思ったからだよ」

「…………」

「ひっく」

 ディーはぽろぽろ涙を流した。悲しくて、悲しくて、それでもまだ悲しく

て、どうしようもできなくて、彼女はただ泣き続けた。

 世界を滅ぼすとうそぶき、誰も彼も敵に回した幽霊が、ひたすら一途に涙をこ

ぼした。

 なにがそんなに悲しいのかを、マキアはよく知っていた。

 あれは、雪が降り始めたばかりの、冬の初めのことだった。

 その日、十六歳のディー・エンジーは生まれて初めての失恋をした。

 世界人類と天秤に掛けて、過去の全てを閉じ込めて、それでも叶えたかっ

た一つの恋と、決定的な別れを告げた。

 それが悲しくて、苦しくて、ディーはずっと泣き続けている。

 十六の心が命じるままに。

 たかが失恋、たかが恋と人は言うだろう。正直に言えばマキアも思う。あ

の幽霊がなんてざまだ。もっとしゃんとしろと怒鳴りたくなる。

 だが言葉にすることはできなかった。

 なぜならマキアは知っている。彼女が世界を滅ぼしたのは、ある意味では

その恋心がためだったのだから。おりのように積み重なった思いは幾多の運命

を経て暗黒色に発酵し、やがては世界を滅ぼす願いへといたった。その正否

はともかくとして、思いの丈は理解していた。なぜならマキアの復讐心もま

た、似た感情を元にしているのだから。

 叶わぬのなら、死んでしまってもいい。

 そう思って、今日まで生きてきたのだ。

 だのに、ディーは生き残ってしまった。それはある意味では自分も同じだ。

故に、マキアは彼女の気持ちが理解できた。

「首吊っちゃってもいいんだけど、折角ここに、ボクのことを殺したい人が

いるんだから、それくらいはやらせてあげようかなって、思ってさ。流石に

仕事があるから、墓守までは勘弁だけど、そのくらいなら、いいよ」

 流れる涙をぬぐいもせず、ディーはへらりと笑って襟元のボタンを外した。

つん、張り詰めていた布地が緩む。「はい。どーぞ」まるでキスでもせがむ

ようにあごが上がり、白い喉が寒気に触れて仄白ほのじろく染まる。

 心臓がたやすく動揺した。両手の内側にじわりとした嫌な汗をかいた。か

らかうにしてもほどがある。いっそ本当に絞めてやろうか? と冗談に逃げ

ようと考えたら体が勝手にそのようにした。

 あたたかい。

 炎の使い手であるマキアにして、その首はあたたかく感じられた。そして

柔らかい。片手で簡単に回り込める細首は鼓動と呼吸を同時に伝えていじま

しかった。

 まるで口いっぱいに頬張った肉のようだった。噛み締めたい。引きちぎり

たい。顎を閉じて肉汁をたっぷり味わって飲み下したい。あとちょっとでそ

れができた。

 だがマキアは耐えた。

「……折角だが、遠慮しよう」

 麻痺まひしたように首に絡んで離れない右手を引きはがし、食欲にも性欲にも

似た渇望を抑え込んで、マキアはなんとか呪縛じゅばくから逃れる。

「お前を殺したがっている者はおおいからな。俺が抜け駆けしてしまっては

申し訳が立たない。……それに、俺が貴様を殺すのは、貴様が幽霊に戻った

ときだけだ」

「ちぇー」

 眠気が戻ったのか、それとも興味を失ったのか。ディーはそれっきりぱた

りと倒れて寝床に戻った。視線の外でマキアは密かに溜息をいた。

「……おい小娘。失恋だなんだとやさぐれるのは勝手だが大人を巻き込むの

は止めろ。さや当てにされるなど冗談ではない」

「そんなの誘惑に乗っちゃうほうが悪いんでしょ。っていうか大人ってなに

よ。マキア今いくつ?」

「二十四だ」

「うわ、老け顔。――じゃなくて、そんなの全然ボクより年下じゃん。えー

と今ボク三十一くらい?」

「時間で考えればその通りだが、違うな。貴様はただの、十六の小娘だ」

「む、この魔女さまを捕まえてずいぶんと言ってくれるね。ふんだ。すっか

り擦れちゃってさ。十年前のキミは今よりずっとかわいかったぞ」

「違う。十一年と五ヶ月前だ」

「よく覚えてるね」

 しまった。と思ったときにはもう遅い。

「…………」

 いきなり沈黙のとばりが下りて、すぐにそれ自体が意味を持つ存在へと化けて

しまった。こうなるとなにを言っても言い訳にしかならず、マキアは黙った。

 まるで先程の鏡写しだ。ディーの手は精神の喉をがっぷりとくわえ込んで

離れず、わずかな力を込めるだけで絶死たらしめる。

 しかし、ディーはなかなか口を開かなかった。獲物をもてあそんでいるの

かと思ったが、違う、彼女はなにかを迷っていた。

 やがて、長すぎる沈黙がまた、違う意味を帯び始め、マキアがどさくさの

うちに外に出ようかと考え始めた、その時だった。

「……ねえ、マキア。十一年と、五ヶ月前のことだけどさ」

 果たして、ディーは言った。

「キミ、ボクのこと好きって言ったの、覚えてる?」

 そして、マキアは死んだ。

 それはもう綺麗に死んだ。呼吸が止まり、脳みそが爆発し、体がバラバラ

になって下水道を流れていった。それは反則だろうと思った。ひどすぎるだ

ろう。人としてやってはいけないことだろう。

「ね、どうなの?」

 しかし、死してなお続いてしまうのがこの世界の理だった。ディーはいき

なり元気になった様子でずずいと近づくとキラキラした瞳でこちらを見上げ

てきた。

 マキアはもう話もしたくない。

「……いきなりなんだ」

「いまから、さ」

 呪縛のような色をした、紫の瞳が見上げている。

 ああ、マキアは思う。俺はずっと、この瞳にとらわれてきたのだ。初めて出

会ったあの日も、裏切られたあの瞬間も、そして十年がたったいまでも。閉

じ込められて一歩も出られない。

「あのときの問いに、答えてあげよっか?」

 あの時からまったく変わることのない紫色の中に、マキアは在りし日の幻

視を見た。


                   †


 あれは十二年前。

「おーい、マキアー! マキアはどこだー!」

「はい、父様!」

 返事をして駆けだしたマキアはまだ十二で、その髪は羽毛のように柔らか

く、両手は小さな剣ダコの他はゆで卵のようにつややかだった。

「おお、そこにいたのか俺の王子よ!」

 そして父。もはや記憶と思い出の中にしかいない少年マキアにとっての神

は、こうして見ると存外自分に似ていたかも知れなかった。だが顔つきが違

う。彼には深く刻み込まれた苦悶くもんの表情も、悪夢によって塗られたくまも存在

しなかった。

「父様! お帰りなさいませ!」

 失われてしまった快活さで、少年のマキアが父親の胸に飛び込んだ。いま

だ、鎧をまとったままの王は我が子を傷つけぬようやわらかく受け止め抱き

上げた。

「勝ったぞマキア!」

 王は言った。

「見ろ! 大戦果だ! ははは! どうだバナン爺! なにが負けるだ!」

 マキアを抱えたまま、王は庭を横断してバルコニーへとやってきた。ここ

からは城下が一望にできた。

 今は影も形もなくなったローギンの城はこのとき、最後の絶頂期を迎えよ

うとしていた。

「どうだ、見えるか!」

 城下街は熱狂のなかにあった。騎士団どころか傭兵団まで加わった戦勝の

パレードは街路を南北に練り歩き、蛮族から奪った財宝を積んだ馬車を誇ら

しげに見せつけていた。娘たちが花を投げ、若い兵士が赤ら顔ではにかんで

いる。

「し、信じられません……」

 ひいひいと、しわ深い顔を真っ赤にしてようやく追いついたとおぼしき爺

――ローギンを治める元老の要にしてマキアの師であるバナン爺だ――が唖

然として言った。

「相手はゴーラの正規軍ですぞ! どうやって勝ったというのです!」

「無論! 神のご加護によってだ!」

「そんなおためごかしを聞きたいわけではありません!」

「ふん、バナン。貴様、ずいぶんと不信心だったようだな。あいにくデマカ

セではないのだよ――皆の者! 聞け!」

 マキアを抱いたまま、王が柵から身を乗り出した。途端に兵がこうべを垂れ、

民がわっと歓声を上げた。

「皆! もはやゴーラの圧力も、北方の脅威も、そして死の呪いも心配する

ことはないぞ! 我らは神のご加護を得たのだ! 此度の勝利もそのひとつ

だ!」

 市民たちがざわざわと戸惑っている。マキアも、そしてバナンもそうだ。

王が何を言っているのか分からなかった。

 だが次の瞬間、理解した。

「諸君! 見よ! 我らが神が使わした『天使』の姿を!」

 光が集まる。

 王の、マキアの、バナンの、そしてローギン三十万の民の前で光が集まり、

宙の一点で凝縮した。群れた光はやがて塊となり、少女の姿をかたどった。

 紫色の瞳をしていた。

 真っ白に輝く服を着ていた。

 今思えばすこし笑える、あの時、彼女は演技をしていたのだ。それらしい

服など身にまとって、幽霊の技で演出までして。

「諸君! 怯えることはない! 彼女こそが我々を勝利に導いた天の使い

だ!」

 光の中で、天使が優しく微笑んでいる。人々が求める姿そのままに、慈愛

の笑みを浮かべている。全ては世界を滅ぼすために。

「これをもってローギンは黄金時代を迎えるのだ!」

 熱狂的な怒号が城下街を支配した。信心深い老婆がひざまずいててのひらを擦り、すで

に彼女の助言によって命を救われている兵たちが最上位の敬礼で迎えている、

僅かに含まれた真の賢者たちだけが、国家に入り込む害虫を感じて戦慄せんりつして

いる。

 マキアは、見ていた。

 宙に浮かび、優しい瞳で世界を見下ろす、紫の瞳を。

 ただ、見ていた。


                   †


 父王の言葉は事実だった。

 ローギンは瞬く間に強大な国家へと成長した。軍隊は連勝につぐ連勝を重

ね、農にいては種と道具の両方に革新的な技術導入がなされ、まつりごとうみ

真実の告発によって焼き出され、まさしく黄金時代を迎えたのだ。

 その全てが、天使の助言によって導かれたものだった。

 千金に値する言葉を、天使は惜しむことなく囁き続けた。南に戦があれば

敵軍の弱点を教え、東に埋もれし金鉱あれば夢枕に立って大地を指した。言

葉に嘘偽りはひとつもなく、ローギンはそのたびに窮地から脱し、莫大な富

を手に入れてきた。

 囁きの天使ウイスパス。いつしかそう呼ばれるようになった彼女は民草たみくさの信仰を一身

に集めた。事実、彼女は天使であり女神だった。少年マキアにとっても、む

ろんそうだった。

 だが彼は他の人間達よりはほんの少しだけ、天使を身近に感じていた。


                  †

                   

「王よ! お聞き下さい! 王よ!」

 バナン翁が執政室の扉を叩いている。

「ゴーラを攻めるなど正気の沙汰とは思えません! どうかご再考くださ

い! 王よ!」

 国家の重鎮たる元老の翁が、みっともなくもすがっているというのに、扉は

僅かたりとも開かなかった。それどころか、警備の兵までもがうざったそう

な顔で蔑みの瞳を向けている。

「あの者の言葉は、確かに我が国に利してきました! ですが無償の助けな

ど存在しないのが世の常というもの! いまに報いが来ますぞ! 王よ!」

「だまれバナン!」

 扉が爆発したような勢いで押し開かれた。

「貴様がざまに言っている彼の者は正院の長より奇跡認定された正真正銘

の天使であるぞ! 背教の烙印らくいんを押されたくなくばとくと去るがいい!」

「しかし――」

「くどい!!」

 それっきり、王は老人を見向きもせずに歩き始めた。その身は金色の鎧に

覆われて、心は肥大した自尊心と欲望に満ちていた。

 側近たちが続いていく。誰も彼もが鎧を纏い、戦の準備を終えていた。

ラッパが吹き鳴らされ、軍歌のとどろきがこんなところにまで届いていた。

 誰も彼もに取り残されて、老人はへたりと座り込んだ。思えば、彼はこの

国に残された最後の理性だった。だが九十九の狂気に取り残された一の正気

に何の意味があろうか。彼は髑髏どくろのような顔で座り込むだけだった。

 マキアはずっと見ていた。

「バナン爺」

「……おお、王子。これはみっともないところをお見せしましたな」

 バナンは、王子の教育係であり、祖父がわりの人物だった。その厳しくも

優しい人柄がマキアは好きであり。ずっと敬愛していた。

「王子。王子よ。我が宝よ……」

 最後の希望を見いだして、バナンは老いさらばえた双眸そうぼうを歪ませた。その

瞳には涙さえ浮かんでいた。

「王子は、染まってはなりませぬよ。自分で考え、自分で行動するのです。

甘い言葉の裏にはとげが、美しく誘う花には毒が、必ずあるものなのですから。

……せめてあなただけは、彼の者の囁きに耳を貸してはなりません……」

「…………」

「王子?」

 だが、この時のマキアもまた、狂気に染まった一人でしかなかったのだ。

「おねえちゃんのことを、悪く言うな」

 突き飛ばされた老人の顔が驚愕に歪んだ。彼は尻餅しりもちをついたまま、マキア

を見、そしてその肩口をぼんやりと見上げ。

 何者も存在しないその場所には、うっすらと微笑む天使が……。

「おのれ!」

 賢者は叫んだ。

「おのれ魔女め! おのれ悪魔め! なにが天使だ! なにが女神だ! 呪

われるがいい! よくも王を! よくも王子を! よくも我が故郷を!」

 長老乱心の報は瞬く間に正院に伝わり、バナンは即座に拘束された。理性

を叫んだ彼の言葉は狂気の前ではもっとも狂的であり、もはや誰の心にも届

かなかった。

「呪われろ! 呪われろ! 呪われろ!」

 怨嗟えんさ の叫びから逃れるように、マキアはその場を駆けだした。

 天使はいつまでもわらっていた。


                  †

 

「もう。ひどいなぁマキアは、お爺さんにあんなこと言うなんて」

 静寂と知恵だけが存在することを許された王家の図書室。マキアがディー

と喋るのは、いつもここだった。なぜなら他の場所だと彼女はろくに話もして

くれず、つんとすまして微笑んでばかりいるからだ。

 でも、こうして二人きりでいるときは、彼女は怒ったりすねたり大笑いし

たりと、マキアにいろいろな表情を見せてくれるのだ。

 だからマキアは、この場所が好きだった。

「だって、ディーおねえちゃんの悪口をいうんだもん……」

「そっか、マキアはボクをかばってくれたんだね。ありがとう」

 紫の瞳が優しく歪んで、天使はマキアを褒めてくれた。それがくすぐった

くて、照れくさかった。

「マキア」

 そう、優しく呼ぶ声を、いまでも鮮明に思い出せる。落ち着いた色の輝

く瞳、すらりと伸びた両の手足。マキアは十二で、彼女は十六。そのとき、

ディーはたしかに年上で、大人の女性に見えたのだ。

 あれから月日を重ねて、彼女の歳を追い越した今でも、マキアにとって初

恋とは年上の、淡いあこがれを呼び起こす存在だった。

「じゃあ、そろそろ始めようか」

 そして、二人は勉強を始めた。マキアが取ってきた本を広げ、一緒になっ

て覗きこむ。体を持たない彼女は物に触れないため、こうして広げてやらね

ばならないのだ。代わりにディーは広い知識でもって解説を行い、教師役を

務めてくれた。

 これが二人の日課だった。このことを、当時のマキアは大変誇らしく思っ

ていた。国中が憧れる天使が、一対一で教鞭を執ってくれることが嬉しくて

たまらず、自分がなにか特別なものに選ばれたのだとうぬぼれた。いや、実

際はそれよりも、もっともっとうぬぼれていた。すべてをいい方にいい方に

と考えた。彼女が自分を買ってくれるのは決して王子という立場だからでは

なく、なにか特別な、マキアにしか存在しない魅力があるのだと思い込んで

いた。自分が彼女を好きなのと同じくらい、彼女も自分が好きなのではない

かと思っていた。

 愚かしくも。

 実際の幽霊は王家にしか閲覧を許されていない書物が読みたかっただけな

のに。

「ねえ、おねえちゃん」

「なぁに、マキア」

 やがて、日も傾きかけた夕暮れのことだった。マキアはついに我慢するこ

とができなくなった。

「あのね、僕、おねえちゃんのことが、好きなんだ」

「あらま」

 他の誰も見たことがないようなびっくり顔。それだけでマキアは嬉しかっ

た。が、同時にむっともした。

「うん、そっか~。ありがとね。ボクもマキアのことが大好きだよ」

「そういうんじゃなくて……」

 余裕に満ちたその態度が幼い心に火をつけた。「ごめんごめん」目尻を下

げて頭を撫でるようにする。現金にも、機嫌が直りかけている自分がまた悔

しい。

「でも、そうか。こうなったか。ちょっとサービスしすぎたかなー。……

ん? いや、なんでもないよ。コッチの話。……さて」

 そして、ディーはわらった。

「マキアってば、ボクのことが好きなんだぁ」

 みだらな笑みだった。

「おねえちゃん?」 

 マキアはびっくりした。天使のそんな顔を見たのは初めてだったのだ。

 笑みは、腐れた果実の色をしていた。聖なる印に思えた紫の瞳は毒魚に似

禍々まがまがしさを増し、少年のように輝いていた紅玉の頬は夜鷹の安化粧のよう

に充血している。

 ちろり、肉その物の色をした舌が、同じだけ赤い唇を舐めた。

「そっか~。うれしいなぁ。ありがとね。じゃあボクも答えてあげないとい

けないね。……と、言いたいところだけどさ」

 嗤い。

 思えば、幽霊とはこの笑みそのものだった。世界を嗤い、己を嗤い、生と

死を等しく嗤ったこの笑みこそが西方の魔女の本質であり、幽霊の本体だっ

たのではないかと、マキアは思う。

 腐臭ふしゅうを放つ嗤いはやがて、ディーの全身にまで広がり、行動を真逆に塗り

替えた。彼女は天使のまま悪魔になり、生きたまま死者の声でうたった。

「じゃあ、もう少しだけ、待ってよ」

「少しって、いつ?」

 無論、当時の少年にそんなことは分からなかった。彼は幽霊の言葉を他の

大人達が言う「大人になるまで待ちなさい」と同じものだととらえて、小さ

な怒りを燃やしたりした。

 だが、幽霊はむろん、そんな誤魔化しを使いはしない。

「そうだね、今日の午後、とかかな?」

 どういう意味? そう、聞き返そうとした、瞬間だった。

「敵襲――!!」

 ガーンガーンと鐘が鳴った。物見やぐらで、大鐘楼しょうろうで、街の小さな正院で、何

十もの鐘が打ち鳴らされて震えている。

「敵だ! 敵が来たぞ!」

 聖なる沈黙が破られ、野蛮な叫喚が巻き起こる。そこかしこでバタバタと

駆け回る音が響き、城中が泡立つように騒然とした。

「て、敵は死者だ! そんな! あんな軍勢がどこから現れたというのだ!」

「陛下は! 陛下はどこだ! あの位置なら出くわしたはずだろう!」

「て、敵の正面に首級しゅきゅうが見えます!」

「ばかな! こんなばかなことがあってたまるか!」

 図書室という、この国でもっとも静謐せいひつな場所で聞くそれはまるで、水底で

聞く声のようだった。まるっきり現実味を感じられないまま、マキアはゆっ

くりと取り残されていく。

 敵だ。

 敵が来たのだ。

「天使様、天使様はいずこか!」

 誰かが叫んだ。

「おお! そうだ! 天使様だ!」

「天使様を探せ!」

「天使様! さあ、いつものように囁いて下され!」

 残された人々が口々に叫び、天使の姿を探し始めた。むくつけき男どもも、

たおやかな女達も、用心深い老人達もが彼の者の姿を探し求めた。

 むろん、マキアも。

「ディー?」

 気付けば、

 彼女の姿は何所どこにもなかった。

 最初からなにもいなかったかのように、右の肩は空っぽだった。


                  †


「殺せ。殺せ。殺せ」


 恨みの言葉が世界に満ちる、炎の笑みが大地に落ちる。


「憎い。憎い。憎い」


 死者の指先が東方を指す。あれが欲しいと我が儘ままを言う。


「死ね。死ね。死ね」


 いったいこの戦闘が何に由来し、彼の軍勢がなにものなのか、ローギンと

いう国家はその最後にいたるまで己を打ち倒した存在を知らずにいた。

 右翼に屍者の群れが居る。

「げらげらげらげらげらげらげら」

 ただ一人の例外なく我が儘になった死者共は、寂しさと飢えを満たすため

に、彼らなりの方法でローギンに寄り添い、愛し、口いっぱいに頬張った。

 左翼に墓守の群れが居る。

「そのたましいに、あわれみを」

 死者を追って現れた彼らは当初、ローギンの味方だった。だが戦闘開始か

らすでに五時間。彼らはただ、両軍に発生した死者を埋める死神と化した。

 主翼に異形の者どもが居る。

「判決! 死刑! 判決! 死刑! アハハハハ!!」

 炎を放つ女がいる。なぜか爆裂するチョコレートをばらまく男がいる。も

はや男とも女とも分からない肉の塊がゴロゴロと転がって家々を倒した。

 そんな地獄の中を、自分がどうやって生き延びたのか、マキアはあまり覚

えていない。

 ただ、あの紫の瞳を探していた。

 彼女のことが心配で、心配で、今すぐ助けに行きたくて、また、自分自身

が助けて貰いたくて、マキアは煉れん獄ごくの淵を裸足であるいた。

「ディー!」

 まっすぐに立ち上る煙がしみる。

「ディ――――――!!」

 つんと鼻突く腐臭がくさい。

「ディー! どこ!? どこにいるの!?」

 そう叫ぶ声はそこかしこから聞こえていた。

 どこですか天使様。

 たすけてください天使様。

 ローギンはまるで、街全体が赤子にでもなってしまったようで、叫びは母

を呼ぶ泣き声そっくりだった。彼らはしっていたのだ。そうすれば全てが良

くなるのだと。ただ、泣きわめいてさえいれば、乳を与え、おしめを替えて、

やさしく頭を撫でてくれる存在がいるのだと、何の疑いもなく思っていたの

だ。

 愚かしくも。悲しくも。

 むろん、いつまでたっても天使は姿を現さなかった。

 無辜むこの愛はやがて、反転の時を迎えた。

「だから言ったのだ!」

 炎の中で賢者が叫ぶ。

「だから! 言ったのだ! わしは! 儂はずっと言っていたのだ! いつ

か報いがくると! いつか裏切られるのだと! あひゃひゃひゃひゃひゃ

ひゃ!」

 炎の涙が大地に落ちる。狂った賢者が西方を指す。

「天使はこない! 貴様らは裏切られたのだ! だから言ったのに! だか

ら言ったのに! だから! 言ったのにぃぃぃぃ!!」

 呪いの言葉は瞬く間に民草の心を捕らえた。

 天使様が裏切った。

 天使様が我らを見捨てた。

 天使様は悪魔だった。

「違う……」

 まるで駒遊びのようにパタパタと反転していく悪意を前に、マキアだけは

あらがっていた。風見鶏のように意見を変える大人達に憤り、必死に心を奮

い起こした。

「違う。ディーは裏切ってなんかいない!」

 これは、なにかの間違いだ。そうに違いない。きっと、彼女にすらどうに

もならないことが起きたのだ。むしろディーは被害者なのだ。

 なんて勝手な奴らだ。今まで散々助けて貰ったのに、たった一度のしくじ

りで掌を返すだなんて!


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 恨みの言葉が世界に満ちる、炎の涙が大地に落ちる。


 ディー。ディー。マキアは悪夢のなかをフラフラと歩く。もはや彼女の味

方は自分だけになってしまった。すぐに知らせてやらなければならない。敵

よりも、味方よりもはやく見つけだし、そしてふたりで、どこか遠くへ逃げ

なければならなかった。


「裏切り者! 裏切り者! 裏切り者!」


 死者の指先が西方を指す。恨みを果たせと生者を罵る。


「ディー! どこ!? どこにいるの!?」

 そして、マキアはついに彼女を見つけだした。

 戦場の中心、大通りから僅かに外れた路地でのことだった。マキアは一目

れのようにその姿を発見した。

「ディー!!」

「わ、マキア。無事だったんだ」

「それはこっちの台詞だよ! ディー! ああ! ディー! 無事で良かっ

た」

「ふふふ、大袈裟だなぁ。ボクが死ぬわけないじゃないか」

 まるでつまらない冗談でも聞かされたように、彼女は普段通りの笑みを浮

かべた。言葉通り、天使の体に傷は一切なく、その肌は赤子のように滑らか

だった。

 ただ、服装だけが違った。

 なぜかは分からないが、彼女は異国の制服とおぼしき紺の服を着ていた。

「生きてて良かったよマキア」

 嗤い。

「……ディー?」

 おろかな少年がようやく違和感に気付いたのはこの時だった。

「いやね、あの台詞を、もういっかい聞きたかったからねぇ」

「あの台詞?」

「ちぇ、なんだ、忘れちゃったの? あとで答えるって言ったじゃない。

――さあ、言ってよ。ボクのこと好きだって」

 嗤い。嗤い。嗤い。

「どうしたのディー? いまはそんなこと言ってる場合じゃ……」

 そうだ。そうなのだ。こんなところで悠長に話している場合じゃない。

「ディー! 早く皆のところに行って! いつもみたいに囁いて! これか

らどうすればいいのか教えてあげて!」

「なぜ?」

「なぜって……」

 少年はまだ気付かない。いや、気付きたくないのだ。自分が愚かだと断じ

た賢者が、フラフラと意見を変える風見鶏共が、そして目の前で事実をさら

け出してニヤニヤと笑う『魔女』こそが真実なのだと、信じられない、信じ

たくない。

「なんでボクがそんなことしなくちゃいけないの? ねぇなんでぇ? どう

してぇ?」

 ディーは、笑っていた。いつものように、いつも以上に。

「……まさか」

 蜜月が終わる。

「……まさか、そんな」

 赤子の日々が終わろうとしている。騙す者と騙される者の共犯関係が、こ

の瞬間に、


「おい幽霊ウイスパ。なんだそいつは?」


 そのときぞろぞろと、異形の者どもが現れた。中央にいる背の高い男が、

代表するように声を掛ける。

「ああ、キミ達か。よく来てくれたね。は終わった?」

「たった今な。我が父の魂は報われた」

 彼らがなにを言っているのか分からない。マキアに理解できるのはただ、

目の前で起きている現実だけだ。

「そう、それはよかったね。褒めてあげるよ」

 ディーはあっけなく隣を離れると、男を背後から抱きしめて優しく囁いた。

「よくやってくれたねぇ。ありがとう」

 そして、おろかしくも、ようやく、やっと、いまになって、


「ああ! あああああああああああああ!! ああああああああああああああ

ああああああああああああああ! ああああああああああああああああああ

あああ!!」


「うるさいなぁ」

 マキアは、

「騙したのか!」

 心臓が半秒ごとに爆発する。血管の中を溶けた鉄が流れている。

「騙したのか! 僕を! 僕たちを! ずっとずっと騙していたのか!!」

 まるで誰かが脳みそに手を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき混ぜている気分。

「なんで! なんでだ! あんなに優しくしてくれたのに! あんなによく

してくれたのに! 騙して! 裏切って! 僕たちになんの恨みがあるん

だ!!」

「恨みなんかないさ」

 平然と吐き出される声は、やはり人のものとは思えなかった。

 もはや正体を隠しもせず、幽霊はニタニタと笑っている。

「ただ、僕は世界の酸化を早めたいだけ。時計の針が進むのを、ちょっとだ

け助けているだけなのさ」

 マキアには理解不能だった。そして幽霊もそんなものは求めていなかった。

「ねえ、そんなことより、さっきの会話を続けようよ」

 幽霊が嗤う。『嗤い』そのものに身を任せ、顔も体も精神すらも、たった

ひとつに特化した表現となる。


「ねえ、マキア。僕のこと好きぃ?」

 天使の笑み。悪魔の声。きらめく紫は毒蛾の輝き。たゆたう姿は聖母のよう。

「あ。う……」

「これがボクの真実だよ。そして同時に虚構きょこうだよ。さぁ言ってよマキア。ボ

クが好きだって。こんなボクのことが大好きだって言ってごらんよ。そした

らボクも好きだって言ってあげる。また、キミの天使になってあげるよ。さ

あ。さあ。さあ。さあ。さあ!」

 ぐにゃぐにゃと視界が歪む。ぎりぎりと蝸牛かぎゅうが締め付けられる。

「さあ! さあ! さあ!」


 殺せ。殺せと死者が言う。


 あまりの激情にマキアはもはや耐えられなかった。頭を握りつぶすように

抱え込み、けた大地に顔面から落ちた。舐めた大地は油と血にまみれ、大

気は怨嗟で充ち満ちていた。

「ありゃ、こわれちゃったか」

 どこか他人事のような声が聞こえる。

「遊ぶのはその辺にしておけ幽霊。そいつは王子だろう。ならば俺の仇の一

人だ」

「あっそ、好きにしなよ」

 

死ね。死ね。死ねと、亡者が言う。


「あ、あ、あ……」

 現実が形を失い始める。父王の首が炎に燃える。優しい思い出が黒煙にま

みれる。何処かで賢者が狂っている。死者共が炎に躍っている。

 

裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。

「あ、ああ、あああああ……」

 呪いの言葉が世界に満ちる。死者の涙は炎の色。あれは誰の声か? 自分

の声か? それすらマキアには分からない。マキアという言葉の意味も分か

らない。目の前で燃えている死体は自分だ。あそこで吊るされている首は僕

だ。ここでうちひしがれている僕は彼だ。

 

死者共が言う。彼の者に報いを与えよと。


 今、裏切られたように。

 この場所で、殺されたように。

 あの呪われしものに報いを与えよとわめき、立てる。

 あの白魚のような手を引きちぎらねばならない。あの滑らかな肌を引きは

がし、鮮やかな臓物をばらまいてやらねばならない。裂いて切って刺し穿うが

て、骨の一片にいたるまで焼き尽くさねばならない。我らがそう、されたよ

うに。

 やがて、炎がマキアを包み込んだ。父も、母も、街も、バナン爺も、何も

かも飲み込んだ炎はむしろ優しく、仲間や家族の手触りがした。

 そして、マキアの狂気は完成した。

「ああ! あああああああああ!!」

 逆巻く炎が突如逆流。両の拳に吸い込まれて赤熱する。男達が目をいた。

その目を一瞬で焼き払う。

「ああ! ああ!!」

「異能者だ!」

 マキアは見た。真実の姿を。世界の形を。在るべき姿を。誰が死ぬべきで、

誰が生きるべきか決めつけた。独断と偏見が一瞬にして入れかわる。狂気の

力が理を侵し、認識の主従が逆転する。いま、マキアは世界を奴隷とする。

「まだ目覚めたばかりだ! すぐに殺せ!」

 生き残った者達が即座に行動を開始する。剣が抜かれ、撃鉄が起こされ、

ささやかな争いが幕を開ける。

「じゃぁぁまぁぁだあああ!!」

 マキアは一瞬で処女を捨てた。心臓をえぐり出し。肉を焼き飛ばし。兵隊

共をあしのようになぎ払った。

「殺す!」

 叫ぶ。

「殺してやる!! 父のように! 母のように! 絶対に貴様を殺してや

る!」

 魔的な両手を一杯に開き、血の赤色を炎の赤で上書きして、マキアは世界

を引き裂いていく。死者を焼き、異能者を焼き、何もかもを上書きしていく。

 殺せ殺せと亡者が言う。幽霊が憎いと。復讐を遂げ、善良なる魂は弔われ

なければいけないと。それができるのはもはやお前だけなのだと!

「あはははは!」

 鉄拳が宙を渡ってディーを捉えた。だが拳はむなしくすり抜け背後の壁を

ぶち抜くだけだった。

「いいよぅマキア。殺されてあげる! もう自分でも死に方は分からないけ

ど。キミがしたいなら、させてあげるよぅ!」

 続けて熱線。砲弾じみて放たれた熱の帯が幽霊を空間ごと焼き切った。そ

れでもあの嗤いは止まらない。フワフワと逃げ惑いながら笑い続け。亡者達

を苛さいなみつづける。

「ふふふふふ! くくくくく! あはははははははは!」

「待て!」

「くすくすくす、ぷぷぷぷぷ、けらけらけらけら!」

「待て! 幽霊!」

「待たないよーだ! ボクは忙しぃんだもの! あーはっはっはっはっ

は!」

 あの日から十一年。マキア・エレクトスは幽霊を追いかけ続けている。彼

女を真っ先に殺せるように、時に敵対し、また味方をしてまで足跡を追った。

「あはははは!」

「待つんだ! 幽霊!」

 結末はどちらかの死。それ以外は、あり得なかった。






 だというのに。


「ね、マキア、どうなの? ボクのことまだ好き?」


 ハッとして意識を取り戻すと、目の前に上目遣いのディーがいた。その体

は柔らかなベッドに沈みこみ、肉体の有無を否応なしに感じさせた。

 あの日から、なんて遠い場所まで来てしまったのだろうと、マキアは改め

て思った。

 ディーはもう幽霊ではなく、マキアも十二の少年ではない。

 どちらかの死で終わるはずだった物語はねじ曲がり、二人は互いの傷を慰

めあうまでになっている。そのことに怒りも戸惑いもない。それが少し悲し

かった。

 あれほど恨んでいたのに。

 あれほど傷つけられたのに。

 マキアの心にはもう鮮血を噴く傷口はなく、薄皮を張った古傷が残るのみ

だった。

 何もかもが変わってしまった。変わらないのは十六のままの、ディーだけ

だった。彼女だけが天使の頃のまま、取り残されている。

「……ディーよ」

「へ! ちょ! こら! なにすんだ!」

 出し抜けに、マキアはディーを抱きしめた。過去、確かにそう望んだよう

に、その身を抱いて熱を感じた。

 そして、ようやく気付いてしまった。

 彼女はもう、自分の「おねえちゃん」ではないのだと。

 本当に、すべては過去のものになってしまったのだ、と。

 また、新たなステージに立つときが来たのだ。そう、マキアは感じた。

「な、なんだよぅ。やっぱりボクのこと好きなのか。へへ、悪い気はしない

ねぇ。あ! でもごめんねー。ボク別に応える気はないんだー。いまは優越

感に浸りたいだけで……」

「よし、決めた。やはり告白しよう」

「わー! バカバカ! 応えないって言ったでしょ! 気まずくなるから止

めてよぅ!」

 そして、マキアは決断した。ディーをぽいっと突き放し、すっくと立ち上

がって宣言した。

「俺はナサリアさんに結婚を申し込む」

 へ? と何処かで誰かが言った。

「そうと決まれば仕事と住処すみかだな。おいディー、監視のついでに警備をしてやるから給金をよこせ。福利厚生もだ。それとナサリアさんには十七になる

娘さんがいてな、その子が結婚するまで再婚は難しいそうなので手頃な男を

紹介してくれ。むろん、下衆は駄目だぞ。いい男にしろ」

「ちょ、ちょちょちょ! ちょっとまった !!」

 折角のやる気に水を差すように、ディーが腕をぶんぶんと振った。

「…………えっと、誰さんに告白するって?」

「だからナサリアさんだ」

「…………だから誰だよぅ」

 ナサリア・エイトンズは国を追われた未亡人であり、息子と娘を一人で育

てた強い女性である。彼女は黒面の噂を聞いてこの街にやって来たのだが、

土壇場のところで迷ってしまい、いまでは大通りで焼き饅頭の屋台をやりつ

つ、新世界に行くか悩んでいる。

 マキアが彼女と出会ったのは、そんなときだった。

「彼女の売る饅頭が故郷の物に近くてな、そんなところから話し始めたら気

が合って、ちょくちょく会っているのだ。俺よりだいぶ年上なのだが可愛い

人で。正直、とても好みのタイプ――」

「どうでもいいよそんなことは!」

 ぎゃー !! ディーが叫びを上げつつゴロゴロ転がる。

「つまり! なに! キミもうとっくに他の人好きになってたの !?」

「まあ、そういうことになるな」

「んにゃ――!! 裏切り者! 不潔! 色魔! サイテー! 最悪!」

 お前が言うな、と喉から出かかった言葉を、マキアはすんでのところで飲

み下した。

 正直なところ、まだ、未練はあった。

 あの時、あの場所で抱いた初恋の記憶は、今でも鮮やかにこの胸にある。

 だが、それを今の彼女に向けるのは、やはり違うと思ったのだ。

「ちぇー。なんだよ、これじゃボクが馬鹿みたいじゃないか」

 ちがう、そうではないのだと、やはりマキアは言いたい。

 だがそれはきっと他の誰かの役割なのだろう。

 ぶつぶつと悩むディーの姿が、マキアにはもう幼い乙女にしか見えず、初

恋の面影は影も形も見られなかった。

「ふん、なにが未亡人だよ。そんなのどこがいいんだか……」

 いつか、この娘にもまた、違う人生が始まればいい。そうマキアは願いつ

つ、最後に応えてやるのだった。

「なに、俺は年上がタイプなんでな」

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