第五話 甲州の嵐(二)

 この人里離れた隠し湯に、唐突に侵入者が現れていた。

 奇怪な容貌の男だった。

 年齢不詳。

 ぼさぼさに乱れた髪、長年洗濯もされていなさそうな薄汚れた衣服。

 片目には眼帯。

 輝いているほうの瞳は、飢えた狼のようにぎらぎらと光っていた。

 口元には、不敵な笑みを浮かべている。

 さらに、片足を引きずっていた。

 戦で傷を負い役目を果たせなくなった浪人侍か、なにかであろうか。

「きゃっ? な、なにやつ? み、見ないで!」

 まさか、男が入ってくるなんて?

 いくら一人になって考えたいといっても、せめて源五郎ちゃんに見張って

いてもらうべきだった!

「あ、あ、あたしを武田勝千代たけだ かつちよと知っての狼藉ろうぜきっ?」

 勝千代は思わず湯の中に身を沈めて、この奇怪な浪人から身を守るすべを

考えはじめていた。

 だが、男は困ったように首を振ってあわてている。

「あいや。それがし、刺客ではござらん。この足ゆえ、満足に槍も扱えぬ。

そなたはすでにさきほど、刺客に襲われておったようでござるが」

「そ、そうね。あなたは、刺客には見えないわ。ということは……あ、あ、

あたしの身体を覗きに来たのね!」

「かーっ! それがし、年頃の娘の裸体になど興味はなーい!」

「……え?」

「それがしは全人生を軍師としての知略を積み上げることに費やしてきた、

天下一の大軍師・山本勘助やまもとかんすけめにござりまする! 月のものがある乙女になぞ、

これっぽっちも惹かれ申さぬ!」

「じゃあ……衆道の者?」

「衆道の者でもなーい!」

「でも、あなたはどう見てもかなえられぬ欲望にぎらぎらとまみれている、

鬱積うつせきした中年男だわ! 全身から、煮えたぎる黒いなにかを発しているも

の!」

「まったくもってそのとおりだが、それがしの欲望は天下人の軍師として兵

を動かし、戦に勝つことのみ! 俗な欲望への執着などすでに、長年の独り

身暮らしで解脱したわっ!」

 まただ、またしてもこの面妖な容貌ゆえにそれがしは信用されぬ、ああ、

ああ、今川義元いまがわよしもとに続いて武田勝千代にも相手にされぬのか! それがしの顔

がもっと男前であったなら! と、山本勘助を名乗る怪しげな浪人男が地団

駄を踏みはじめた。

 どうやら、勝千代の身体には、まったく興味を持っていないらしい。

「それがしは足の古傷が痛むゆえ、療養できる温泉を探して歩いておった。

山国である甲斐には温泉が多いゆえに。決して、覗きではない」

「それじゃ、偶然ここに? 都合よすぎるわ」

「偶然でもない。それがしは天下人の器を持つ武将を探して諸国を放浪して

参ったが、甲斐の武田勝千代なる姫武将にその才気ありと見てそなたに仕官

を願う機会をうかがっておった。しかしそれがしは宴の席などには顔を出せ

ぬ下郎ゆえ、そなたが温泉で一人きりになる時を待っておった」

 やはり変態じみている。

 さらに山本勘助は「とはいえ、そなたはまだ当主ではなく、それどころか

廃嫡されかけておる。ゆえにそれがしも、一時は駿河の当主となっている今

川義元に仕官しようとしていたのだが、この醜悪な面相と身分の低さゆえに

相手にされなんだ。今川義元は、それがしに対して身の危険、貞操の危機を

感じるので召し抱えぬと。隻眼は侍の勲章ゆえ気にせぬが、それがしの脂

ぎった顔と飢えた目つきが気に食わぬと。いかにも生まれてこのかた女人と

ふれあったことのない歪んだ初老男に見える、それはつまりそれがしの邪悪

な性格が顔に出ているのだと。おお、おお。それがし、いい歳をした乙女な

どに興味はないといくら言っても誰も信じてくれぬ!」と悔しげに泣きはじ

めた。

「諸国の情勢に通じているのね」

左様さよう。若い頃は忍びまがいの真似もやっておりましてな。信濃の忍びの者

どもにもツテがあり申す。この足は、忍び稼業の際に痛めたもの」

 治水・築城から忍術・金山掘りまでなんでもござれ、さらには天の星から

人の運命を読む「宿曜道すくようどう」なる秘術も修めておりまする、われながらまさに

軍師になるために生まれてきた奇才にございます、と勘助は自画自賛。

「星から、運命を? そのわりに仕官に苦労しているようだけれど……」

「かーっ! 陰陽道おんみようどうでも宿曜道でも、自分自身の運命を覗いてはならぬので

す!」

「そうなの。ならば、あたしの命運が尽きようとしていることもわかるで

しょう?」

「はあ、それは。そうですな、このままでは」

「あたしは知ってのとおり、明日にでも父上から廃嫡される身。駿河出向を

命じられ、二度と甲斐には戻れないの。断れば蟄居ちつきよ、廃嫡。駿河からの使者

は明日には甲斐との国境に着く。あなたを召し抱えることはできないわ」

「それより勝千代さまは、それがしの面相容貌の醜悪さを気にかけませぬ

か」

「え? あなたがぎらぎらと脂ぎった桁外れの野心家であることは見ればわ

かるけれど、あたしはそういうのは父上で慣れているから。むしろ、あたし

自身にも父上のそういう血が流れている……今日、思い知ったところよ」

「醜い浪人男に風呂を覗かれた、手打ちにせねばとは思いませぬか」

 妙なことにこだわる男ね、と勝千代は不思議に思った。

「醜いも美しいもない。男はみな同じよ。人間の外見の美醜など、皮一枚だ

けのこと。顔の皮を剥ぎ取れば、みな平等よ。血筋に意味がないのと同じ。

貴族だろうが甲斐源氏だろうが百姓だろうが、血は血でしかないでしょう。

人間にとって大切なのは、心根であり頭脳であり能力」

 勝千代は人見知りする少女だが、なぜか、この狂っているとしか思えない

風変わりな男のことは、怖くなかった。

 なぜなのかは、勝千代にもわからなかった。

「お……おお……男の美醜など、皮一枚にすぎぬ、と」

 なんと、それがしが考えていた以上に明晰なお方だ! と山本勘助は感激

したらしい。

 勝千代の前に土下座して、「それがしを軍師としてお雇いくだされ! そ

れがしは古今東西のありとあらゆる兵法書をそらんじ、かつその兵法を戦場

で縦横無尽に操ることができる天下一の軍師を自認しております! にもか

かわらずどこにも仕官できぬまま、もはや初老の身。このまま朽ち果てたく

はないのです。なにとぞ、それがしの才をお使いくだされ!」と鼻水と涙に

まみれながら叫びはじめた。

 およそ、大名家に仕官を許されるような男ではなかった。

 非礼にもほどがあった。

 頭のどこかが壊れている。

 そもそも、どこの馬の骨とも知れない、出自のわからぬ男だ。

 並の姫武将なら「ひいい襲われる!」と逃げだすところだが、勝千代は、

この山本勘助というおかしな男がどこか自分に似ているような気がして、憎

んだり嫌ったりするつもりになれなかった。

「そう。天下人の軍師になりたいのね、勘助は」

「左様。天下人に必要なものは器でございます。軍師や武将や官吏は、その

器の中でおのが才を存分に発揮できてこそ生きるのでござる。それがしの面

相を見てもそれがしをいやしまぬ勝千代さまには、おそれながら、その器が

あるとお見受けいたす!」

「ならば、甲斐の国主である父上の軍師になりなさい」

「あいや。信虎のぶとらさまは、軍師など必要とせぬお方。すべてご自分の存念で動

かれるお方。才も武もあれど、器がござらぬ。器があれば、勝千代さまを廃

嫡などせず天下盗りのために生かす道を見つけていたでありましょう。それ

に」

「それに?」

「信虎さまはすべてをご自分で成し遂げられるお方だけに、戦国大名の宿命

たる悪名を背負いすぎました。その残忍苛烈さは、甲斐のみならず周辺諸国

にも知れ渡っております。むろん天下盗りのためには、悪事に手を染めねば

なりませぬ。大勢の人をあやめ、陰謀を巡らし、義理人情を裏切らねばなり

ませぬ。信虎さまはそれをすべてご自分でやった。これすべて、悪名を引き

受けさせる生贄いけにえとなる家臣を用意しなかったがため――天下人はあくまでも

民に崇拝される人徳者でなければならないのです。徳なくば民を治めること、

かないません。ですから、その裏で悪事を背負い込む影の存在が、それがし

のような軍師が、必要なのです」

 すさまじい形相で、勘助がまくしたてた。

「おそれながらそれがしが、勝千代さまを天下人に育ててさしあげまする!」

 この男には、天下人の軍師として生きてそして死ぬ覚悟がある、と勝千代

は心の底から理解した。

 この者は軍師としての有り余る才能の行き場を見いだせないまま、何十年

悶々もんもんとしてきたのだ、それ故に狂人のように見えるのだ、しかし狂っては

いない。むしろ正気すぎる、ただ頭の回転が速すぎて聞いている者がついて

いけぬだけだ、と、勘助の本質をいきなり理解した。

 なにごとも考えて考えて考えぬかなければ動けない用心深さを持つ勝千代

とは、好対照の存在だった。

「でも勘助。甲斐は山国。海に出ようにも、南の駿河は今川義元に押さえら

れ、東のかた関東には北条氏康ほうじよううじやすが進出してこちらも手を出せない。唯一、侵

攻できる余地がある信濃にも、海はないわ。その上、信濃は広大で、かつ高

い山脈に分断されていて、統一することすら困難。現に、今も信濃では複数

の大名国人が分裂している。わかるでしょう。甲斐から天下を目指しても、

もう、間に合わない。あたしは、絶望的なほどに地の利に恵まれていないの

よ」

 さきほど自ら初めて意識したばかりの、次郎にも語ったことのない勝千代

のほんとうの思いだった。

「しかもその信濃の中央に位置する要所の諏訪すわに今日、妹の禰々ねねが嫁に入って婚姻同盟を結んだばかり。諏訪家の当主・諏訪頼重よりしげもまた、あたしを煙た

がって殺そうとしている。どうしようもないのよ」

「あいや。勝千代さまにはたしかに地の利はありませぬが、あなたさまは人

の和を得られる天性の持ち主。父上の信虎さまさえどうにかすれば、優秀な

次郎さまをはじめとする武田一族、そして立派な家臣団が勝千代さまに忠誠

を誓いその才を発揮いたしましょう。信虎さまの暴虐さゆえに甲斐の主立っ

た人材は他国へ逃亡してしまっておりますが、人材をこよなく愛される勝千

代さまが国主となればどんどん人材のほうから集まってきます。人を育てな

され。あとは、天の時が訪れるのを、待ちます。天の時を見計らうのはまこ

とに困難ですが、それがしの宿曜道が、必ずやお役に立ちましょう」

「でも、地の利は?」

 勘助は、とうとうと語った。

 勘助の脳髄の中には、日ノ本すべての地図が暗記されているかのようだっ

た。

「まず駿河の今川義元は、足利将軍家の分家。必ずや東海道を進んで上洛し、

足利幕府の実権を握り天下に号令しようといたしまする。東海道の途上にあ

る三河、尾張、美濃をくだせば、あとは近江六角家のみ。この近江六角家は

やはり足利幕府における名門ゆえ、今川家と歩調を合わせましょう。東海道

最大の難所である尾張を併呑へいどんすれば、京まではすぐです」

 ゆえに今川義元は、上洛戦略とは無縁な北の山国にすぎぬ甲斐・信濃には

かかわり合いになりたくない、そのため武田家から義妹を迎えて同盟したの

です、と勘助。

「だがまだ今川義元が上洛するには問題があります。東のかた・相模小田原

の北条氏康です。北条と今川は不仲。今川義元にとって、北条家は今川家の

家臣にすぎない伊勢いせ新九郎しんくろうなる素浪人あがりの男が伊豆を乗っ取り、箱根を

越えて小田原を奪うことで立てた家。名門・今川家にしてみればそもそもは

家臣であり、下郎です」

「そうね。『北条』を名乗ったのも、今はなき鎌倉幕府の北条家の威光を借

りるためだと言われているわね」

「おそらく、もうひとつ理由があります。北条家は、関東に独立王国を築き

たいのです。京の都とはかかわらない北条王国を。それが初代伊勢新九郎以

来の北条の悲願でございましょう。ゆえに、京の室町に幕府を開いた足利の

血統をかたらず、鎌倉幕府の執権として関東に君臨していた北条の家名を名

乗ったのでしょう。つまり」

「足利の分家である今川義元は西のかた、京へ。北条氏康は東へと進み、関

東へ。両者が争う理由は、本来はないということね?」

「左様。両者に同盟を結ばせまする」

「今川義元と北条氏康は、でも、噂になるほどの不仲よ。今川義元は北条を

成り上がりと見下しているし、関東を愛する北条氏康は今川義元の京好みを

嫌悪しているとか。つまり、両者ともに疑心暗鬼で、手を取り合う可能性は

ないわ」

「同盟を監視し機能させる、立会人を入れまする。三国同盟です。武田家の

家督を継いだ勝千代さまがこの両者の仲をとりもち、甲斐・駿河・相模の三

国で不可侵同盟を締結するのです」

 されば、今川は西へ、北条は東へ全力をもって進軍することとなり、甲斐

は安泰、信濃は勝千代さま率いる武田軍が切り取り放題。三者ともに得があ

るゆえに、この同盟は実現できます、と勘助がほくそ笑んだ。

「三国同盟!」

 勘助の頭の中に渦巻く壮大な戦略に、勝千代は身が震える思いがした。

「むろん甲斐一国の領主の身では、今川・北条と対等にふるまうことはでき

ますまい。動くのは、ある程度信濃を切り取って、武田勝千代ここにあり、

と両国に勝千代さまの実力を知らしめてからです。まずは信濃の中央にある

諏訪を滅ぼします」

「えっ? 諏訪頼重との婚姻同盟は? 禰々は?」

「大事の前の小事。諏訪を盗らねば、信濃侵攻は不可能ですぞ。信虎さまは

血筋を重んじられるゆえに、諏訪大社の神氏みわしである諏訪家を滅ぼせぬのです。

これでは何年かけても信濃を奪えなかったのも道理。信濃のへそである諏訪

さえ盗れば、この諏訪を拠点として信濃の東西南北に自在に出兵できるよう

になり、順番に伊那・佐久・北信濃を呑み込めます。しかし信濃もまた山国。

各地域間を素早く行軍する機動力が重要となるゆえ、奪い取った領地では街

道を整備するがよろしいでしょう。孫子そんし の兵法にいわく、はやきこと風の如く。

戦の勝敗を決するものは『速度』です」

 なに、武家としての諏訪家だけを滅ぼし、諏訪神社は丁重に扱えばよろし

い、民を治める上で信仰心を守ることは重要です、そもそも神に仕えるべき

神官が兵を率いて戦国武将を気取っているのが時代遅れです、諏訪頼重を殺

さねば信濃は奪えませんぞと勘助は涼しい顔だ。

 街道を整備せよという献策も、常識を外れていた。

 普通は、敵の侵入を防ぐために、敢えて道を整備せずに行軍をはばむのが、

常道なのだ。

 山国である信濃・甲斐でえて「行軍速度」を重視するのも、常識の逆

だった。

「勝千代さま。いえ、御館さま。戦法というものは、すべて逆張りです。他

人がやらぬことをやるのです。人間というものは、意味もなく常識やしきた

りにとらわれております。その裏をつけば勝てます。孫子いわく、兵は詭道きどう

なり、と申します」

 勘助はどこにも仕官できなかったはずだわ、戦での常識をことごとく裏返

して勝つことのみに執着しているのだもの。きっと、今までほんとうに誰に

も理解されなかったのね、と勝千代は勘助の心情をおもんばかって顔を伏せ

た。

「わかったわ、勘助。でも禰々はどうなるの、そもそも父上からどうやって

家督をいただけばいいの?」

「禰々さまはおいたわしいこととなりますが、新たな良縁をあてがってあげ

ればよろしい」

「……勘助は乙女心がわからないのね」

「それがし、乙女には興味がござらん。そこは御館さまの器で、禰々さまを

お慰めいただければ結構でしょう。すべてはこの勘助がやらせたことになさ

いませ。なにしろ乙女に不快感を与えることにかけては天下一のこの面相で

す、憎まれ役に適しておりますれば」

 勝千代は「その件はあとで考えましょう」と禰々のために諏訪家から話題

を逸らした。

 たしかに、諏訪頼重は火事場泥棒のような真似をして自分の命を狙った。

 それは武田家への裏切りであり、あの男はもはや武田家の敵である。

 だが今の勝千代にとって最大の障害は、実の父である武田信虎だ。

 座していれば、明日にも廃嫡される。さりとて信虎の命令に従って駿河へ

行けば、そのまま帰れないだろう。

「勘助……父上から家督をいただく方法は」

「おそらく信虎さまは御館さまを駿河へ出向させてそのまま帰さぬおつもり

でしょう。この罠に、乗ったふりをなさいませ。駿河へ向かいなさいませ。

ただし、さきほどの刺客の件をありのままに伝え、道中が危険であると訴え

て、信虎さまと重臣たちに見送らせるのです。そのまま御館さまと信虎さま

は、今川方の使者と国境の峠で落ち合います」

「? 父上に見送らせて……どうするの? まさか」

 まさか。

 勝千代は、ふと自分の心中から浮かび上がってきた「策」の恐ろしさに、

身震いした。

 勘助が「すでに御館さまとそれがしの策は一致しておるようです、さすが

にございます」とうなずいて、そして、ニタリと犬歯を剥き出しにした。

「その場で信虎さまを、駿河に引き渡してしまうのです」

 武田家の重臣たちには前もって御館さまと次郎さまが説得にあたり、今川

義元にはこちらから先に使者を送って、話をつけてしまえばよろしい。今川

義元にしてみれば、妹ぎみに続いて父親まで人質にとってしまえば、御館さ

まは決して今川家には逆らえまいと考えて、この誘いを受け入れましょう。

むろん、三国同盟の件をちらつかせて『武田勝千代が甲斐の国主となれば上

洛作戦は実現できる』とあおるのです。『武田勝千代は父と違い、噂通りの戦

嫌いで臆病者である。血なまぐさい合戦を避けるために三国同盟にすがりつ

きたがっている、和平のためなら父でもなんでも人質に出す腰抜けである』

と吹き込めば、あの世間知らずのお姫さまはだませましょう――。

 同じだった。

 勝千代自身がひらめいてしまった策と、寸分たがわない。

「……悪人ね、勘助は」

「御館さまのお心も同じでございます。北条氏康のほうは疑い深く、そう簡

単には騙せませぬゆえ、諏訪を滅ぼし武田の武威を見せつけてから同盟の話

を切り出せばよろしいでしょう。もしも武田が関東に進出してくれば厄介に

なると怯えさせるのです。その頃には今川義元は上洛準備で忙殺されており

ますから、勝千代さまが実は好戦的だとわかっても気に留めますまい。なに

しろ父親が人質になっておるのですからな。ふ、ふ、ふ」

 勝千代は迷った。

 実行すれば武田家の和を乱すことになる、父親を追放して家督を奪えば武

田勝千代は悪名を背負うことになる。いくら勘助がその悪名を肩代わりする

と言っても、やるのは勝千代自身なのだ。

「こうして信濃を平定すれば国力は三倍増となりましょう。満を持して駿河

を奪います。三国同盟を成立させれば、いずれ天の時が訪れます。今川義元

が上洛軍を興して尾張に攻め込んだ時です。その時、背後から空っぽの駿河

をかすめ取ればよいのです。北条が怒るでしょうから、北条とも一戦を交え

る必要は出てきましょうが、その難関を乗り切れば駿河の海と港が、そして

東海道が御館さまのものとなります。海と東海道、すなわち地の利――」

 駿河へ到達すればあとは東海道を西へ進み都に武田菱の旗を立てるのみ、

上洛する野心がない北条には望み通り関東全土を支配させて関東管領の職で

も与えればよろしい。北条氏康は、ひとときは御館さまに一杯食わされたと

激怒しても、生まれ育った関東からは決して離れようとしないでしょう。小

田原城の大げさな造りといつまでも終わらない増改築工事が、氏康の性格を

表しております。東海道と都を押さえて足利将軍を担いでしまえば東国はあ

とでどうとでもなります、かくして御館さまが天下人となります。

 勘助の策は、なにからなにまでが騙しであり欺きであった。

 父親を騙して追放し、諏訪頼重を裏切り、今川義元を騙して背後から空き

巣狙いをやれ、という。

「むろん、このような真似はやらぬにこしたことはござらぬ。しかしおそれ

ながら、地の利なき御館さまが詭道を用いずして天下を奪うことは、不可能

かと。それほど、甲斐という国は天下争いにおいて不利でございます」

「でも。同盟を二度も破棄すれば、諸国の信頼を失うわ」

「いえ。勝者のみが歴史を語る資格を持つのでござる。天下を奪えば誰もな

にも言わなくなりましょう」

「武田家には、一門を守るという掟があるわ。父上は言うまでもなく、諏訪

に嫁いだ禰々や、今川の義妹になった定をも、裏切ることに。それでは、武

田家は――」

「あいや。御館さまにとって、武田家は武田の血をひく者のみではないはず。

武田家に仕える者みなが、武田家の人間でござろう。むろん一門を策略の犠

牲にすることはおつらいでしょうが、一門の人間を決して殺さねばよろしい

のです。信虎さまや禰々さまたちには、後々までとことん礼を尽くせばよろ

しい」

 武田が天下を盗れば、信虎さまも御館さまへの怒りを忘れ、お喜びになる

でしょう、すべては武田家のためであったと認めてくださるでしょう、と勘

助は結んだ。

「これも武田家存続のため。貧しい甲斐に逼塞ひつそくしていては、いずれ天下人に

育った他の者に滅ぼされるか、服従するかしかありませぬ。戦わずしては生

き延びられません。それが甲斐に生まれた御館さまの宿命」

「……あたし一人きりでは、たとえ思いついても口にはできなかったことだ

わ……」

「すべて、山本勘助が御館さまをそそのかしてしでかしたこと。宿老たちに

は、それがしを恨ませればよいのです。宿老たちも御館さまを支持している

とうかがっておりますし、そもそも当の次郎さまが御館さまを次の主と頼ん

でおります――信虎さまが御館さまを追放しても、次郎さまは決して国主に

はなりません。御館さまが追放されればその時は次郎さまも駿河へ逃亡する

か、あるいは信虎さまに対して反乱を興しましょう。甲斐は途方もなく混乱

します。滅びるやもしれません。武田家の宿老、板垣信方いたがきのぶかたさまや甘利虎泰あまり とらやす

まは、信虎さまにとっては兄弟のような長いつきあいですが、それだけにそ

のように甲斐が武田一族の内紛で滅びるさまを黙って見ていられるお方たち

ではないはず。ゆえに老いた信虎さまには、そろそろ引退していただくので

す」

 どうしてこんなにも父上との仲がこじれてしまったのだろう、と勝千代は

心の中で泣いた。

 だがもう、ほんとうの涙を流すことはなかった。

 目の前に、山本勘助がいる。

「おそれながら御館さまはさきほど涙を流しておられた。それは、自分が不

幸だと思われたからです。なぜ不幸なのか。天下を奪えるほどの才能を持ち

ながら、その才を父親に認めてもらうことかなわず、才能を発揮する機会に

恵まれずに終わろうとしておられるからです。並の人間でも不幸ですが、万

人に匹敵する才をお持ちの御館さまにとっては、それは万人分の不幸! あ

きらめてはなりませぬ! そのようなあきらめは許されない! 人は、最後

には必ず死にますゆえ!」

「……勘助」

「最後には死ぬからこそ、生きねばなりません。この現世に生まれたからに

は己の才能と野望の限りを燃やし尽くし、生き尽くさねばならぬのです! 

死が敗北なのではない、己の生を生ききれずに、ただ敗北することに怯えた

ままで死んでいくことこそが真の敗北なのです! すべての悪名はそれがし

が引き受けまする、どうか前へ進みなされ!」

「……あたしがほんとうに恐れているものが、あたし自身の野望だとすれ

ば?」

「この勘助の身を、その野望で燃やし尽くしなされ!」

「あたしは、父上のような、悪鬼になりたくない。戦は、きっとあたしの心

を黒く汚していくわ」

「ですから、それがしが御館さまの身代わりに悪鬼となりまする。御館さま

は戦乱の世を武力をもって平定する戦う不動明王となられませい」

 勘助の前では、もう、今までのように泣き虫でいてはならなかった。

 勝千代は、勘助のささくれだった手をそっと握って、「お願いするわね」

と頭を下げた。

「苦労をかけることになるけれど、あたしは自分自身の力を、この戦国の世

で試してみたい。いつか父上に、武田家の当主にふさわしい名将と認められ

たい。次郎やあなたたちがいてくれれば、きっと、悪鬼にはならないわ」

 勘助が、また、ぶわっ! と鼻水まじりの涙を溢れさせた。

「おっ、御館さま! 詭道を彷徨さまようわが策を認めていただいて感謝しており

ます。それがしは、御館さまが真の天下人、完成された武田家当主に成長す

るまでは、決して死にません。いかなる悪名をかぶってでも生き延び、必ず

や御館さまを京へお連れします!」

「……軍師とは不思議なものなのね。天下を奪うことを夢見るのではなく、

勘助はただ自らの才のみを発揮する場所を、求めていたのね」

「はっ。家族なく宿もないそれがしにとって、夢はただ軍略のみ」

「あたしも、とんでもない者に見込まれたものね……」

「やめますか」

「いいえ。今ここであきらめたら、あたしは生涯悔やむことになる。あなた

の言うとおりよ。前へと進む。あたしはきっと、変われるはず」

「天下の名将に、おなりなさいませ」

 勝千代は、決断した。

 謎の風来坊・山本勘助の途方もない野望に、乗った。

「次郎、太郎、孫六、そして板垣たち四天王を今夜のうちに説得しなくては。

四天王全員を説得できなければ、この策は成功しないもの。そして、次郎は

今、すでに四天王を一堂に集めてくれている」

「お見事。再び孫子いわく、侵掠しんりやくすること火の如く、でございます。御館さ

ま。四天王全員を説得できるという目算はございますか」

「するしかないわ。怖いけれど、この賭けに勝たなければ、あたしは父上か

ら自立できないもの。ただ、板垣、甘利、横田よこた の三人は、父上とともに労苦

を重ねてきた宿老たち。彼らの心情をかんがみれば、容易には承知できない

と思うの」

「おそらく、御館さまを駿河へ追放するという策は信虎さまお一人の胸の内

に秘めたる陰謀。それがあのお方の気性。四天王はみなまでは知らされてい

ないはず。そこに乗じるのです。手を打ちなされ。自ら顔を出す必要はあり

ませぬ。むしろ大物らしく、ただ座って吉報を待つのです」

「そんな勇気が、あたしにあるかしら」

「あります。会議の席では、頃合いをはかり『勝千代さまにお味方もうす』

と誰かに叫ばせなされ。それで、会議の空気を決めてしまうのです」

「次郎、ね。次郎にとっては辛い役目だけれど……」

「御意。信虎さまが追放されることで御館さまと次郎さまの絆を引き裂く者

は消え、武田家の結束はますます固まる。それを、四天王に知らしめなさ

れ」

 山本勘助は、勝千代が慎重さと臆病さによって自ら封じ込めているさまざ

まな着想を、次々と引き出してくれる、まるで霊媒師のような存在だった。

 自分自身の心の中でも、今まで押し隠してきた野望の炎が激しく燃え上が

りはじめていることに、勝千代は気づき、少しだけ震えた。

「勘助。今川からの使者は明日、甲斐との国境に到着するわ。今から山道を

進んでくる今川の使者にこちらから使者を送って間に合う?」

「馬の足では間に合いますまい。ですが幸運にも、今この場に、間に合う者

がおりまする。奇怪なる忍術を用い、神速で駆ける化生けしようの者が」

「……なるほど。いるわね、一人」

「これも、天の時、でありましょう」

 それにしても、年頃の乙女がこうしてあられもない姿で湯に浸かっている

というのに、山本勘助は勝千代の柔肌などまったく見えていないようだった。

ちらちらと湯の中から大きく実った胸が見えかけているというのに、意識す

らしていない。ほんとうに、勝千代の裸身に関心がないようだった。

 勝千代はひそかに自分の容姿が男にとって途方もなく魅力的で、とりわけ

性的な魅力を持ちすぎるほどに持っていることに気づいていた。

 そのことが内心、嫌でもあった。

 勝千代は、男というものに、そういう意味での興味がない、あるいは薄い

らしい。

 しかしこの山本勘助は、男ならば誰もが勝千代の美貌に対して抱くそのよ

うな感情を、まるで忘れてしまっているかのようだった。

 これが軍略と兵法にすべてを捧げた純粋軍師なのだろうか。山本勘助、ほ

んとうは少年のように心の清らかなすばらしい人なのかもしれないわ、と勝

千代がひそかに感動していると、なぜか勘助は勝千代の手を取りながら「残

念無念!」と悲鳴をあげはじめた。

「おお、おお。これで、御館さまが年頃の乙女でなく、あどけない幼子で

あったなら! 惜しいッ! それだけが惜しいッ! ああっ! 天は二物を

与えずとはこのことか!」

「えっ?」

「えっ?」


 この間、すでに切れ者の次郎が武田家の重臣たち「武田四天王」を召集し

ていることは書いた。

 武田家は、血の結束を誇る一門衆と、忠誠無比の家臣団によって支えられ

ている。

 その家臣団のうち、頂点に立つ者が「武田四天王」。

 次郎から「明日、父上が姉上を駿河へ出向させるのは、実はそのまま甲斐

に戻さぬためなの」と打ち明けられた四天王は、どうすればよいのか、悩み

に悩んでいた。

 なにぶん、信虎はかかる大事をたいていは一人で決めてしまうので、四天

王にとっては寝耳に水だ。

「よもやそこまで親子の間に溝ができていたとは。この板垣信方としたこと

が、大殿を甘くみていた……なにより、水くさい」

 信虎股肱ここうの臣の一人・智将板垣信方は、これまでけんめいに信虎と勝千代

の仲をとりもとうと奔走してきただけに、苦り切っていた。

 なにかと暴走する信虎をいさめて、どうにかここまでやりくりしてきた苦

労人だけに、そのため息は深い。

「おうおうおう。わしと板垣は、大殿とは兄弟も同然の長い長い腐れ縁。勝

千代さまがお生まれになられた夜は、大殿もあれほど喜んでおられたという

のに。泣けてくる話じゃのう! うおおおお!」

 股肱の臣の一人・猛将甘利虎泰は、酒が回ったのか、「あの頃の武田家は

よかった」と男泣きに泣いている。

「俺たちが仕える主君はただ一人。迷うことはない、大殿に従うのみ」

 常に槍一本を担いで先鋒をつとめる命知らずの男・横田備中びちゆうは、感情より

もしきたりによって動くらしかった。さかずきを傾けながら、ぶっきらぼうに「二

人の主君は国にはいらねえ」とつぶやいている。

「なんじゃと、横田! うぬ、勝千代さまを駿河へ追い出すというのかっ? 

あのような家臣思いの優しいお方を!」

「甘利。俺は筋道を言っている。感情で動くな、武田家の和が乱れるばかり

だぞ」

「うぬぬぬぬ!」

「しかしな横田。大殿が勝千代さまをあれほど嫌うのが、そもそも感情のも

つれゆえのことではないのか。勝千代さまが凡庸であればともかく、あの方

は知勇兼備にして器の大きなお方。今はしおれておられるが、あれはただ大

殿に責められて萎縮しているのだ」

 板垣信方は、勝千代の守り役をつとめてきただけに、勝千代の実力を次郎

なみに買っていた。

「わしはとにかく、大殿がわしら四天王に無断でお家の大事を決めようとし

とるのが納得いかん! たしかにわしらは武田家の一門ではないが、武田を

おのが家族同然だと思って数十年もの長きにわたって仕えてきたのじゃ!」

 甘利虎泰はおうおうと泣き続ける。

「当主は感情で動いていい。甲斐の王だからな。だが家臣は家臣だ。家臣は

感情など持たず王に従えばいい」

 横田備中は、信虎を支持する姿勢を、いささかも変えようとしなかった。

「しょせん家臣は、主君の犬よ」

 そう笑いながら、ひたすらに飲んでいる。

 一対二で勝千代が優勢だが、次郎は四天王全員を説得しなければならない。

飯富兵部おぶ ひようぶ、あなたはどう?」

 四天王最年少、ただ一人の姫武将・飯富兵部虎昌とらまさに、次郎はたずねた。

 飯富兵部は信虎がその腕前を認めざるを得ないほど、姫武将離れした卓越

した馬術と槍術の使い手で、まだ少女でありながら異例の出世を遂げて四天

王の一角にまで食い込んでいる。

 戦場では自らと郎党とで真紅の「赤備え」なるかぶいた異形の鎧兜よろいかぶとを揃っ

て着用して縦横無尽に暴れ回り、「飯富の赤備え」と呼ばれて他国に恐れら

れていた。

 なぜ鎧を赤く染めるのかと信虎にたずねられた時、「どうせ戦場で血にま

みれるんだから、最初から赤く染めておきゃ手間が省けるさね」とぶっきら

ぼうに答えたという。

「あたしは興味ないね。誰が親分だろうと、あたしはただ戦場で敵の首を狩

るだけさ」

 飯富兵部はくちゃくちゃとスルメをかじりながら、にやりと笑った。

「暴れさせてくれるなら、誰が当主だって関係ないよ。なんなら、親子で合

戦をはじめるかい?」

 鋭い視線で次郎をにらみながら、楽しそうに笑っている。

 そんな戦闘狂の少女・飯富兵部の隣には、太郎が座って「ほうとう」を食

べていた。

 飯富兵部は太郎の小姓あがり、二人は実の姉弟のような関係だ。

「そうなりゃ甲斐中至るところで合戦だね。太郎はどっちにつく?」

「え、俺? そんなもの決められるかよ。親父どのは俺の親父で、勝千代姉

さんは俺の姉さんだぞ?」

「はあ。あんたも家族のことになると甘いよねえ。どさくさにまぎれて長男

の俺が家督を継いでやる、くらい言えよな」

「だから、あの二人を一対一で勝負させりゃ済むって」

「済まないよ。あんたら武田家の人間は、身内に甘すぎるよ」

「武田家の家族同士で仲違いなんてあっちゃいけねえ。筋道から言えば親父

どのに味方すべきだが、どっちも裏切れるかよ!」

「はあ。太郎らしいな」

「だがよう、諏訪頼重の野郎は殺してやりてえな! 禰々を嫁にしておきな

がら姉上を殺そうと企むたあ、あんなやつは武田家の一門とは認めねえ! 

武田家がこんなことになったのも、あいつのせいだ! 今から諏訪の宿所を

襲ってやろうぜ! さらし首だ!」

「ああもう。諏訪頼重は今、大殿とサシで酒を飲んでるんだ。襲われねえよ

うに手を打ってるんだよ。だいいち今は大殿と勝千代の姫さまの話だろうが。

太郎はほっとこうぜ。朝までにこの会談が終わらなくなる」

 飯富兵部は、中立――というよりは「戦をやらせてくれるなら、どうでも

いい」という立場を取った。

 たった一晩でこの四人全員を説得するのは、どうやら困難らしい。

 みな、考え方や性格、立場が違いすぎる。

 信虎がこの四人を扱えていたのは、問答無用でなにごとをも独断専行し、

四天王の意見や同意など求めなかったかららしい。

 家臣団同士で大事を話し合うという作業に、彼らは慣れていないのだ。

 次郎が(家中をまとめるって大変な仕事だわ。姉上はわたしに任せると

言ってくださったけれど、どうしよう)と頭を抱えていると、「ほうとう」

のおかわりを持った孫六が室内に入ってきて、次郎に小声でなにごとかをさ

さやいた。

 その言葉を聞いて――。

 次郎の表情が、一変した。

 そして、四天王に向けて、言い放った。

「聞きなさい。わたしの――武田次郎信繁の心は、もう決まったわ。わたし

は誰になんと言われようとも、姉上に自分の命を託す! 武田家の当主は、

姉上しかいないと信じている! 明日、駿河から姉上を迎えに来る今川の使

者には、姉上ではなく父上を引き取らせる! そして、そのまま甲斐には帰

さない!」

 すでに姉上は今川方と接触、今川方に人質を武田家から取れるなら父でも

娘でもどちらでもいいと承諾させ、万事その予定で動いている、と次郎は宣

言した。

「今、孫六から姉上よりの伝言をいただいたの。明日より、武田家の当主は

姉上よ」

 四天王は、顔を見合わせた。

「なんですと? 勝千代さまが、すでに動いたと?」

「『動かざること、山の如し』とでも言うべき慎重なお方だと思っておった

が、いざとなれば神速じゃな!」

「フ。だとすれば、宴でのあの泣き虫ぶりは演技か。実は食えないお人か」

「うわ信じられねえ。たばかってるんじゃねえのか、あたしたちを」

 話の展開の急激さについていけない太郎が「どうすんだよこれ」と頭をか

きむしっている。

「偽りではないわ。姉上は忍びの者を用いて、甲斐へ向かっている今川方の

使者と交渉し、内諾を得たの」

「忍び? 今日、駿河行きを命じられたところなのに、ずいぶんと早いです

な」

「はて。甲斐にそのような足の速いものがおったかのう」

「おおかたよそ者、諏訪頼重が連れてきた信濃の乱破らつぱ か。あそこには猿飛さるとび

術を用いて空を飛ぶが如くける者がいるという」

「へえ。でも信濃の忍びとうちらに接点あんのか?」

 信濃の真田一族と面識がある山本勘助が、勝千代がこもる温泉を見張って

いた猿飛佐助さすけを逆に雇い返し、今川方へ使者として放ち、信虎引き取りを内

諾させたことまでは、次郎もまだ知らない。

 押し出しの強い山本勘助は駿河のみならず信濃にも詳しく、真田一族と知

己の関係にあった。貴族趣味の今川義元には嫌われていたが、異形異才の忍

び集団を抱える真田一族とはそれなりに親交があったようだ。

 猿飛佐助とも顔見知りだったゆえに、交渉することができた。

 主君の勝千代を暗殺しようとした忍びをその場で雇い返すなど、まっとう

な武人のやることではないが、勘助は駿河から甲斐に向かっている今川の手

の者に今夜のうちに勝千代の書状を送るためには佐助の猿飛の術が必要だ、

と知っていたのだ。

 佐助は、「武田が信濃に進出したあかつきには真田の旧領を取り戻し真田

家を復興させる」と約束した勝千代を信じたのか、あるいは手ぶらで帰ると

稼ぎにならないからなのか、勝千代の器にすっかり参ったらしい山本勘助の

百面相を面白がったのか、ともかくこの仕事を受けた。そして、存外にうま

くいったのだ。

「四天王! どちらにつくか、今すぐに返答しなさい!」

 孫六からの勝千代の伝言を聞いたとたん、次郎の毅然きぜんとした言葉と態度に

輝きが生まれた。

 姉上を支持しない者がいれば四天王であろうが生かしてはこの館から出さ

ないという迫力が、今の次郎には溢れていた。

 最初に「承知した。俺は勝千代の姫さまに仕える」とうなずいたのは、意

外にも横田備中だった。

「策略に対して策略で返す。一夜にして大逆転か。たいしたタマだ。陰に大

殿にまさるとも劣らぬ軍師でもついているのかもしれん、大殿の負けだな」

 横田備中は死線をかいくぐってきただけあって、見切りが速い。

 もともと勝千代を心情的に推していた板垣信方は、断腸の思いで「拙者も

勝千代さまにお味方いたそう。次郎さまが勝千代さま側についた以上、大殿

はもはや甲斐一国を保てぬ。これも甲斐の安寧のため」と涙目でうなずいた。

 甘利虎泰は大泣きしながら、「姫さまは今宵、勇気を奮い起こされて甲斐

の虎になられた! 大殿にもいつかわかっていただけるはずじゃあ」と叫ぶ。

 太郎が「おいおい。どうなっちまうんださっぱりわからねえ」とぼやいて

いると、飯富兵部がその太郎の頭をこづいた。

「あんたの姉さんが、無血で当主の座を奪ったってことさ。切れ者だよ。実

の父を駿河へ追放しようだなんて、とんでもねえ女だぜ」

「え? 親父どのが駿河へ姉上を追放するんだろ?」

「ちげえよ! その陰謀を逆に利用して、父親を追放しちまおうってんだ

よ!」

「……わかんねえなあ。なぜ、殴り合わないんだ?」

「あのな。んなことしたら、どっちかが死ぬだろうが。いくら下克上の世で

も親殺しをやらかしたら姫さまは終わりだ。自分を守るための最善手を選ん

だんだ。とはいえ、普通の女なら考えもつかねえ悪行だがな!」

 こりゃあこれから思う存分戦場で暴れられるかもな、と飯富兵部の切れ長

の目がぎらぎらと光っていた。

「父上には駿河で、なに不自由ない贅沢な隠居暮らしを過ごしていただくわ。

姉上いわく、武田家が上洛したあかつきには都に父上の邸宅を建ててお招き

すると」

 上洛!?

 四天王が、また声をあげた。

「そうよ。姉上は信濃を併呑し、国力をつけて上洛し、天下人になるとご決

意」

「おいおい。そんなことできるのかよ? 都で暴れられればそりゃ最高だけ

どさあ」

「なんと途方もない夢を。あの戦上手の大殿が、信濃一国どころか諏訪すら

平定できず婚姻同盟に及んだばかりだというのに……だがあるいは、勝千代

さまには、天下盗りへの道筋が見えておられるのかもしれぬ」

「じょ、上洛たあ! うおおおおん、親孝行じゃねえか!」

「ふん。あの姫さまは、実は大悪人かもしれんな。俺たち四天王全員を戦場

で使い潰すつもりか。面白い」

 みな、内心では諏訪家との同盟に不満を持っていたらしい。

 これでは武田家は信濃平定の野望を半ば捨てたも同然で、これからは細々

と甲斐に逼塞するしかなかったからだ。

 板垣と甘利は武断派ではないが、長年の信濃攻略に半生を捧げてきた老体

だ。あきらめきれないものがあるのだろう。また、信虎がこの諏訪との同盟

から勝千代追放に至る大きな武田家の方針転換に関してすべてを独断で決め

たことにわだかまりというよりも一抹の寂しさを感じていた。

 横田と飯富は、そのようなことに寂しさを覚える性格ではないが、信濃で

暴れられるのであれば、そのほうが甲斐にこもってしまうよりずっとよかろ

うという武断派だった。

 板垣と甘利は信濃攻略に失敗して行き詰まっていた武田家に光明が戻ると

信じ、横田と飯富はこれから信虎時代以上の激戦が待っていると打ち震えた。

 そして次郎は、姉の重い決断を聞かされ、しかもその姉の命運は今自分に

託されているという感激に襲われ、長い戸惑いから覚めたかのようだった。

「わたしは信じる。可能よ。わたしたち武田家の面々が姉上を支えれば」

 明日から、武田家に一門と家臣の区別はなくなる、みな姉上にとって大切

な「武田家の家族」となるのよ、とけんめいに訴えた。

「ははっ。拙者ども老骨には、過分のお言葉」

「時代は変わっていくのじゃのう、板垣よ。おうおうおう」

 老将板垣と甘利は、長年の盟友・信虎を追放することへの罪滅ぼしとして、

この夜、ともに戦場で武田家のために散ることを決意した。



 信虎を駿河へ引き渡す策略は、周到に進められた。

 策を立てた山本勘助が、諏訪頼重に雇われて甲斐に来ていた猿飛佐助と知

り合いだったことが、この策を成功に導いた第一の要因。

 勝千代自身は四天王の前に姿を見せず、代わりに次郎が勝千代から全権を

委任されて四天王に向かって勝千代を推したことが第二の要因。

 この夜、信虎が諏訪頼重に引き留められて二人で夜を明かしたことが第三

の要因。勝千代に刺客を放った諏訪頼重は、勝千代暗殺の嫌疑を信虎にかけ

られることを恐れて、わざわざ信虎と一晩をともに飲み明かしたのだが、こ

れが諏訪頼重にとっても信虎にとってもあだとなった。次郎たち武田家のきょ

うだいと、四天王がひそかに集まって会談を開いたことに、二人は気づけな

かったのだ。

 第四の要因は、今川館で朝日を眺めていた駿河の国主・今川義元が、駿河

と甲斐の国境近くにあがった烽火のろしを見て、

「あらまあ。勝千代さんを引き取れというお話でしたのに、こんどは信虎さ

んを引き取れと言いだしたのですの? いかがします?」

 と、軍師の太原雪斎たいげんせつさいにたずねたことだった。

 太原雪斎がこの夜、義元のもとにいたことが、ぎりぎりの綱渡りだった勘

助の策を幸運にも「間に合わせた」。

 太原雪斎は、駿河の政治・外交・軍事のすべてをつかさどり八面六臂はちめんろつぴ の活

躍を見せている万能宰相。出家の身ゆえに黒衣に身を包んでいるが、戦場で

は馬に乗って自ら戦線に立つ「戦う僧」、そしてうら若き姫大名・今川義元

を幼い頃から教育してきた義元の家庭教師でもあった。

 今川義元も、一族の内紛を経て家督を継承した。「今川家はいずれ上洛し

天下に号令する。この戦乱の世を平定し人々のすさんだ心を慰撫いぶする天下人は、人柄・ご容姿が華やかで雅な『姫武将』でなければならぬ」という太原雪斎の見立てによって、義元は国主の座につけたのだ。

 雪斎は、もはや男に乱世を任せてはおけぬ、これからは姫武将の時代が来

ると予感していた。ゆえに可憐かつ高貴な美貌と気高い性格を併せ持つ姫武

将である義元が、雪斎の見立てにかなった。

 能力の不足については、自分が補えばいい、と自信家の雪斎は割り切って

いる。

「これは信虎どのと勝千代どのの、親子げんかでしょうな」

 雪斎は僧のくせに大酒飲みで、この日も朝から淡々と飲み続けていた。

「あらあらまあまあ。勝千代さんは気が弱い女の子なのでしょう? やられ

たらやりかえすなんて、らしくありませんわね」

窮鼠きゆうそかえって、という言葉もあります。父と娘、どちらかしか甲斐に残れ

ぬという土壇場にあって、武田家の一族・重臣たちが勝千代どのを選んだと

いうことでしょう」

「まあまあ。どこの大名家も家督を巡って争いたがること。でも、甲斐なん

て山国にはわらわは興味ありませんの。わらわが目指すは京! 厄介なこと

にはかかわりたくありませんわ。どうしますかしら」

「どちらを人質にしても同じことですが、おそらく信虎どのを支持する者が

少なかったのでしょうな。家臣にも容赦なく、血の気の荒いお方ですからな。

一方で勝千代どのは温和で家臣や領民にも優しいお人。つまり、勝千代どの

を引き取れば、信虎どのは喜ぶでしょうが、甲斐の面々に恨みを買いましょ

う」

「信虎さんを引き取れば?」

「少なくとも、勝千代どのが正面きって駿河に攻め込んでくることはござい

ますまい。父親を追放した駿河にさらに娘が兵を率いて攻め入るなど、あっ

てはならぬこと」

「それじゃ、信虎さんを連れてきましょう。すぐに烽火をあげて、返事を」

「ただ、勝千代どのの豹変ぶりがいささか気がかり。もしやこれまで猫を

被っていたのではないかと」

「いえいえ。あの子は、追い詰められて切れただけですわ。いじめられっ子

にありがちなことですわよ。甘くて気弱だからこそ、信虎さんにどんどんつ

けあがられて、結局ここまで追い詰められてしまったのですわ」

 たしかにそうだが、それにしては手際がよすぎる、と雪斎はいぶかしんだ。

「どのみち、妹に加えて父親まで駿河に引き取られたとあっては、今川に対

して手も足も出なくなりますわ。ここは恩を売っておきましょう」

 太原雪斎は(勝千代どのが化ければ上洛は厳しくなる。そもそも甲斐にこ

れほどの鬼謀を献策できる軍師などいなかったはずだが――信虎どのご自身

を除けば)といささか不安を感じないでもなかったが、我の強い信虎がこの

ような自分を犠牲にする大芝居を打つはずはない、義元のやる気を削いでは

ならなかった。

 なにぶん義元は気まぐれなので、時々すべてを投げ出してしまう癖がある。

 それに、勝千代という姫武将がどれほどの者なのか、興味もあった。雪斎

はもともと駿河に英邁えいまいと噂される勝千代を引き取って英才教育を施し、未来

の義元を支える片腕として育成するつもりだった。それ故、「勝千代を引き

取ってほしい」という武田信虎の異常な要求を呑んだのだ。だが、父親を追

放するような野心家ならば今川家の飼い犬にはならないだろう。

「ふうむ。甲斐の虎をこのまま野放しにしておくよりも、駿河に取り込んで

猫にしてしまったほうが今川家のためには得かもしれぬ。だがあの才を飼い

殺しにして腐らせてしまうのは世のため民のためを考えればあまりにも惜し

い。拙僧はどうやら根っからの武人にはなりきれぬようで。迷うところです

な」

「雪斎? 簡単なことですわ。考えてもごらんなさい。父親の信虎さんより

娘の勝千代さんのほうがずっと長生きするでしょう? 長生きするほうに恩

を売ったほうが、得ではなくて?」

 そうとも限らぬが……と雪斎は思ったが、確率的に考えればすでに老齢の

信虎よりもまだ十代のうら若き少女である勝千代のほうが余命はずっと長い

だろう。

「ところで、あがっている烽火は五本。この人質変更の件を伝えるだけなら

『信虎さん』を示す黄色の一本でいいのに、五色あがっているの。烽火の取

り決めには、五色五本はありませんでしたわ。どういう意味かしら」

「それは『五色の備え』、すなわち北条家を示唆しておりますな」

「相模の北条家? 今川の仇敵きゆうてきの、あの邪魔っけな?」

「読めました。謎かけです。勝千代さまは――今川、武田、北条の三国をと

もに束ねるという構想を、暗に提案してきているのでしょう」

「まあまあ。甲斐の武田ごときが? 三国を? 束ねる? どうやってあの

疑い深い北条さんを同盟に巻き込みますの?」

「いずれ武田が信濃を併合すれば、関東平定を目指す北条は武田と今川の両

家に背後をつかれることを恐れて三国同盟を望むようになる、という意で

しょう。信虎どのは信濃攻略をいったんあきらめ諏訪と同盟しましたが、勝

千代どのはなんとしてでも諏訪を押さえてこそ信濃を奪えるとお考えの様子。

今回勝千代どのに貸しを作れば、今川家の上洛はなります」

「まあ……意外と好戦的な女ですこと……信濃を併呑すれば、まさかのまさ

かで、今川を裏切るやもしれませんわね」

「ですが、勝千代どのが駿河に目を向ける前に今川が上洛を成功させれば、

勝千代どのはもうなにもできますまい。拙僧も、きりきり働かねば」

 雪斎は、「危険な相手かもしれませぬが、天下を盗るには賭けも必要で

す」とうなずいていた。



 夜が明けた。

 すべての準備は、整っている。

 甲斐と駿河の国境、薩埵峠さつたとうげにて、武田方と今川方がついに接触した。

 今川方の使者一行は、「勝千代どのをお迎えに参りました」と伝えてきた。

 武田方には、その勝千代をはじめ、次郎・太郎・孫六、そして四天王が勢

揃いしている――その一行の中に、不機嫌そうに馬を進めている信虎の姿も

あった。

 次郎から「姉上は駿河行きを承諾。わたしは家督を継ぐ決心をいたしまし

た。これが姉上との今生の別れ。父上もどうか、まだ姉上に情が残っておら

れるのでしたら、峠で姉上を見送ってくれませんか」と訴えられて、さらに

その上「かなわぬとあらば、わたしも姉上とともに駿河へ参ります」と言わ

れてはついに断り切れなくなって折れたのである。

 さらに、諏訪頼重が勝千代を暗殺しようとした件も、次郎は伝えてきた。

 それで昨夜はわしを帰さなかったのかあの男は、と信虎はようやく腑に落

ちた。

 勝千代は臆病者といえどわしがじきじきに鍛えてきた、ああ見えて忍びご

ときに殺される娘ではない、おおかた腰の重い勝千代を駿河へ追い出す手助

けをしたつもりなのであろうが頼重め余計な真似を、と舌打ちした。

 だが、頼重の意図は当たった。勝千代は再度刺客を放たれることを恐れて、

慌てて駿河行きを決めたのだという。これで頼重に借りをひとつ作ったこと

になる。

(勝千代が慌てふためいて逃げだすのは当然として、次郎はよほど勝千代の

命を奪われることを恐れておるのだな。諏訪頼重は一度失敗した暗殺策を懲

りずにまた仕掛けるほど愚かな男ではない。そのくらい次郎にもわかってい

るはずだが……しかし次郎は姉想いだ。やむを得まい)

 勝千代に厳しいぶん、次郎には妙に甘いところが、信虎にはあった。

 まさか、自分を追放する陰謀を姉妹が進めているとは、思ってもいない。

 たとえ勝千代がなにかしようとしても、次郎と四天王がいる限り、なにも

できはしない、と信じていた。

 だが念のため、

「わしが出るとあれば、万一に備えて四天王も揃えよ」

 と、次郎に命じた。

 信虎の言う万一とは「今川方が変心する」「勝千代が窮鼠かえってなにか

をしでかす」という事態のことだったが、まさか、その四天王全員がすでに

勝千代を支持していようとは。

 しかもこの逆転劇を準備した黒幕の山本勘助は、馬場ばば信房のぶふさとともに、

躑躅ヶ崎つつじがさきやかたから諏訪頼重を諏訪へ送り返す任務についていて、現場には現れていない。

 新参者で、しかも一目に異相とわかる勘助がこの場にいれば、勘のいい信

虎に気取られるかもしれない、と読んだ勝千代独特の用心だった。

 暗殺失敗を知った諏訪頼重は、禰々を連れて大急ぎで甲斐を出立したのだ。

「だが――よくぞ決意したのう、勝千代よ。しばらく駿河の海を楽しんでく

るがよい」

 信虎は、意外にも目を潤ませている。

 自分の娘を殺さずに済んだ、とどこか安堵しているのかもしれなかった。

 一門を殺さない。これは、武田家の掟である。

 その掟と、勝千代に対する怒りとの激しい戦いが、信虎の内側でずっと続

いていたのだろうか。

「父上。あたしは駿河の太原雪斎どののもとで、まつりごとについて学んで

参ります」

「そうするがよい。あれは酔狂な坊主で、姫武将の育成を生き甲斐としてお

る」

「駿河の海を堪能してきます。海というものは、言葉にできぬほどに風光明

媚だといいます」

「うむ。好きにせよ。心身をすり減らす武将稼業などやめて、駿河で定とと

もにのんびり風流と読書に生きるのもよかろう。そなたのためじゃ」

「父上?」

「わしにはわかっておるぞ。戦というものは、狂わねばできぬ。狂い続けれ

ば、そなたのような心弱き者の心身は確実にむしばまれる。駿河におれば、

諏訪頼重などに狙われることもない。息災に暮らしたいならば、血で血を洗

う戦など忘れることぞ――」

 あの信虎が初めて、勝千代に対して気を配った言葉を発した。

 だがもう、さいは投げられたのだ。

 迷ってはいけない。これが今生の別れと思って父上はいつになく感傷的に

なっているだけよ、と勝千代は己を励ました。

「……父上。あたしは」

「もう行くがよい」

 どうせそなたの戻るところはないのだからな、と信虎が目を伏せたその時

だった。

「信虎どの、これより駿河へ来ていただく」

 今川方の侍たちが、勝千代ではなく、信虎の乗った馬を囲んでいた。

 信虎は、なにが起きているのか、理解できない。

 馬に乗ったまま、口をぽかんと開いて、立ち往生していた。

「これは、どういうことじゃ? 約束が違うではないか。駿河を訪問するの

はわしではない。勝千代じゃ」

「拙者たちは、信虎どのをお迎えせよと承っております」

「次郎? 勝千代? これはなんとしたことぞ?」

 勝千代は、さまざまな感情が溢れて、言葉が出てこない。

 隣にはべる次郎が、「父上には隠居いただきます」と、信虎に告げた。

「なんだと? どういうことじゃ? 太郎?」

「親父、すまねえ。また駿河まで俺も遊びに行くからよ、しばらく定のとこ

ろで遊んでてくれや」

 太郎が手を合わせて信虎を伏し拝んだ。

「姉上とのよりが戻るまで、お互いに頭を冷やしてくれ!」

「な、なんたること! 孫六っ? 孫六はどうしたっ」

「えーと。ごめんね。わたしも海を描きにそのうち駿河へ行くからサ。姉上

が毎月莫大な銅銭を送るので、駿河で新しい奥さんを迎えてはどうかな。父

上」

 ええい、この二人は話にならぬ、と信虎は憤った。

「そなたたちは、武田家の和を乱すのかっ?」

「ちょっとばかり隠居が早まっただけだ親父。悪い! いずれ俺が駿河まで

必ず迎えに行くって!」

「太郎、そなたは黙っておれ! 勝千代よ! どういうつもりなのだこれ

は! このような真似を実の父親に……ただで済むと思っておるのかっ?」

 勝千代は、「これより武田家はこの勝千代が守っていきます」と、感情を

抑えた静かな声で信虎に自分の意志を伝えた。

「勝千代! わしに逆らうとは? 気でも狂うたか?」

「あたしは、正気です。これも武田家存続のため。大切な家臣を次々と粛清

し、信濃一国も切り取れない父上には、ご隠居願います」

 次郎ではなく、勝千代自身が、はっきりと宣言した。

 いつもの臆病な勝千代ではない。

 その猛々しい飢えた虎のような視線に、信虎は身震いした。

「板垣! 甘利! 横田! そなたたち、いったいなにをぼんやりしてお

る? これは謀反ではないか! 勝千代が乱心したのだぞ!」

 最後の頼みである四天王に声をかけたが、四人が四人とも、すでに勝千代

の味方になっていようとは。

「大殿。われら四天王みな、武田家と勝千代さまのために戦場で死ぬ所存。

どうかお許しください」

「わしがふがいないばかりに、こんなことになってしもうた! かくなる上

は百まで生きてくだされ、大殿! うおおおおおん!」

「子供はいつまでも子供ではないということだ。大殿、あんたの娘は俺たち

が守る」

「ごめんな大殿。気がつけばこういう流れになっちまってさ。あんたは、家

臣を殺しすぎた。まあ、殺されなかったんだから、いいんじゃねえか?」

 しまった、わしはなにごとも秘密裏に運ぶ主義、四天王にはこの勝千代追

放の陰謀を伝えていなかった、そのために勝千代に裏をかかれたのだと信虎

が気づいた時にはもう、手遅れだった。

 それにしても諏訪頼重め! あの男がこざかしく余計な策謀を巡らせねば、

昨夜、わしはこの異変に気づけていたものを!

 わしの最大の過ちは、諏訪頼重のごとき奸佞かんねいの者を武田一族に引き入れた

ことであった、あやつは神人じにんだろうがなんだろうが討たねばならなかったの

じゃと目を剥きながら歯ぎしりした。

 信虎は腕に覚えがある。ここで狂って一人でも多くを道連れに斬り死にし

てくれようかとうめいたが、「武田一門は殺さない」、これが掟だ。

「板垣たちよ。その言葉は真であろうな。武田家のために戦って、雄々しく

散るのであろうな」

「はっ。大殿とたもとを分かつことを決めた時から。大殿の意志を受け継いだ勝

千代さまに、わが命を捧げました」

「わしも板垣と同じ気持ちですわい! うおおおおん!」

「俺は諏訪との生ぬるい和平よりも、さらなる戦いの修羅道を選んだ。いず

れ、そうなるだろうな。覚悟はしている」

「心配すんなって大殿。太郎はあたしに任せろ」

 こやつら、まるで武田家の人間のような口の利き方じゃ、と信虎は気づい

た。

 武田家一門と家臣の間には、壁があったはずだ。血という名の壁。たとえ

板垣・甘利であろうとも、家臣は家臣であった。

 だが勝千代は、その壁を一夜にして壊してしまったらしい。

「父上。彼らもまた、今日からは武田家の家族です」

「勝千代。う、ぬ……は……」

諫言かんげんした家臣を誅殺ちゆうさつする悪しき風習は終わりです。父上が取りつぶした馬

場家に続き、内藤家や山県家も、いずれ復興させます。これらの家名を用い

て、新たな世代を担う若い武将たちを育てます」

「勝千代、そなた。なにが望みじゃ! 父を追放してまで、なにをしようと

している!」

 勝千代は答えなかった――だが、その視線の中に、信虎は燃え上がるなに

かを見た。今川方には聞かせたくない、それほどの野心を抱いておる。とい

うことはいずれ今川義元を出し抜いて上洛するつもりか? と信虎は震えた。

 いつの間に、わが子はかくも成長していたのか?

 あるいは、わしが厳しく叱咤しつた し続けてきた結果なのか?

「ええい。そなたはわしが恐ろしい余りに、わしを遠ざけようとしておるの

じゃ。それが本音よ。そなたが考えているであろうすべての理屈は後付け

じゃ! 無理を通せば、前途にはさらなる困難が待ち受けておるぞ!」

 だがなにより意外だったのは、次郎だ。

 親孝行な娘だった。

 私利私欲もない。

 それなのに、父親を裏切って、姉の勝千代に従った――なぜだ、わしのな

にがいけなかったのか、と信虎は次郎に問いたかった。

「できることならば、姉上ともっと話し合っていただきたかったです。そう

していただければ、姉上が尋常ならぬお方だと理解していただけたはず。お

さらばです、父上」

 次郎よそれは違う、勝千代は、こやつは合戦の修羅地獄には耐えられぬ、

その才気ゆえに戦場の血の香りにあてられて必ずや心身を滅ぼす、臆病者と

はそういう意味じゃ――信虎はそう叫びたかった。

 だが、今川方の侍たちにせきたてられて、馬が走りはじめていた。

 もはや、甲斐に戻ることはないのだろうか。

「さらばです、父上。あたしはこれより元服し、武田晴信はるのぶと名乗ります」

 勝千代の声が、遠ざかっていく。

「ええい。そなたらは、今川義元にたばかられておるのじゃ! これで甲斐

はいつまでも駿河に従属せねばならなくなったぞ!」

 信虎の咆哮ほうこうは、もはや勝千代の耳には届くことはなかった。

 武田勝千代改め、武田晴信。その武将としての性は、詭道まがいの謀略と、

家臣団を束ねる人心掌握。

 父・信虎から自立したその日にすでに、武田晴信はその二つの相反する資

質を、はっきりと示していた。

「あたしは武田家を守るために、家督を継いだ。これからは家臣も領民もみ

な、武田家の家族となす。血も性別も身分も関係なく、わが家族だ。その代

わり、武田家の安寧を乱す敵はどのような謀略を用いても排除する」

 次は諏訪頼重ね、と晴信はつぶやいていた。

 禰々を泣かせることになるが、自分を暗殺しようとした諏訪頼重を放置し

てはおけない。それに、信濃平定は武田家臣団の悲願でもあった。

 だが、晴信の心中には、寂寞せきばくたる風が吹いていた。

 実の父を追放した娘――後世まで伝わる悪行だった。

 当主を追った武田家は、果たしてこれから、一枚岩として存続できるのだ

ろうか。

 あたしはなにか大切なものを失ったのではないだろうか?

 長年自分を苦しめてきた父から解放された爽快感など、かけらもない。

 ただ、巨大な喪失感が、残った。

 他に方法はなかったのか、と考え込みそうになる。

「……勘助。これで、ほんとうによかったの……?」

 晴信はもう一度、青空を見上げながらつぶやいていた。

 だが、時を巻き戻すことは、できない。

 甲斐守護となった武田晴信は、前へと、進むしかない。

 信虎が自分を認めるその時まで、野望の炎におのが身を焦がすしかないの

だ。

 次郎が、そんな晴信の隣に静かに寄り添って馬を進めている。

 ずっとずっと、自分を父からかばい続けてきてくれた、できすぎた妹だっ

た。

「姉上。わたしは自分の意志で姉上を選んだの。姉上は、臆病者なんかじゃ

ない。戦うべきなの。わたしには、後悔なんてない」

 晴信政権を成立せしめた最大の功績者が、自ら家督継承を望まずに晴信に

すべてを譲った次郎であることは言うまでもない。

 これから次郎とともに天下盗りの階段をのぼっていくのね、と思うと晴信

の沈んだ心に温かな光が差し込んでくるようだった。

 もう、二人の仲を引き裂こうとする信虎はいない。

 やっと、姉妹が仲むつまじく歩める時が来たのだと思うと、信虎の処置も

いたしかたなかった、と思えてくるのだった。

「次郎にはこれからも、苦労をかけるわ」

「姉上のためなら。四天王と同じ。わたしも、姉上のために戦場で散る覚悟

はできているわ」

「……あなたはだめ。死なないで」

「えこひいきよ、姉上」

「ひいきするわよ。あなたが死んでしまったら、こうして父上を追放してま

で家督を継いだ意味がなくなるじゃないの。死なないと、約束して」

「はいはい」

 泣き虫はもうやめましょうね、と次郎が苦笑いを浮かべていた。

 信濃のさらに北の彼方。越後の幼い一人の少女が「自分の父親を他国へ追

放して、家督を奪うなんて。絶対に許せない」と晴信の行動に激怒し、「わ

たしは今日より姫武将になる。越後兵を率いて、武田晴信に天誅を加える」

とまもなく宣言するという未来を、勝千代改め武田晴信が信濃川中島でその

異形の姫武将と相まみえ日ノ本史上に残る激戦を繰り広げ雌雄を決せねばな

らない運命にあることを、晴信も次郎も、そして山本勘助さえも知り得な

かった――。

 武田晴信と、長尾ながお景虎かげとら

 二人の姫武将は今、運命の地・川中島へと導かれはじめていた。

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