第六話 諏訪平定(前)

「次郎ちゃん。金脈探しの旅、お疲れさま。温泉に入りましょう」

「はい、姉上。姉上の見込み通り、黒川金山以外にもまだまだ甲斐には多く

の金脈が眠っています。これらの金脈を武田たけだ 家直轄金山とすれば、収入は増

えますね!」

「次郎ちゃん。やったね。たくさんお米が買えるよ!」

「ところで姉上、太郎と孫六は?」

「太郎ちゃんたちは、駿河の父上のところに遊びに行っているの」

「父上も機嫌を直してくれればいいのだけれど」

「父上は相変わらずお元気のようよ。駿河で新しい奥方と再婚したという

わ」

「ええ? 甲斐にわたしたちの母上を置いたまま、これ幸いと駿河で若い女

を……父上も、転んでもただでは起きないお方ね。心配するだけ無駄だった

のかしら」

「むしろ父上が駿河で余計なことをして厄介ごとになるんじゃないかと心配

だわ。今後も、駿河今川いまがわ家とは友好関係を保ち続けなければならないのだも

の」

 甲斐、躑躅ヶ崎つつじがさきやかた

 父・信虎のぶとらを駿河に追放した若き姫武将・武田晴信はるのぶは、金脈回りを終えて

帰ってきた妹の次郎信のぶ繁しげと二人きりで甲斐・信濃の地図を広げ、じっとその

地形を睨んでいた。

 晴信と信繁は、暴悪な梟雄きようゆう・信虎には似ても似つかない、美しい姉妹だっ

た。いずれも、美人の誉れ高い母親の大井夫人に似たのだ。

 晴信は甲斐守護職をクーデターによって手に入れてから、寝食を惜しんで

働き続けていた。晴信の目標は、父・信虎がついになしえなかった大業、信

濃奪取である。信虎は勇将だったが、乱れに乱れた甲斐一国を統一して存続

の危機にあった武田を「甲斐の王」の地位に押し上げて家運を盛り返すとこ

ろまでが限界だった。信虎は信濃侵略をあきらめ、信濃の名家・諏訪すわ

家と婚姻同盟を結んだのだ。

 晴信は、信虎に代わるからには信濃平定を成し遂げるという覚悟で家督を

奪った。信濃を取れなければ、父・信虎を追い出したのがただの悪行に終

わってしまう。信濃を取ってこそ、父・信虎にも認められる――。

 その晴信の思いに、まるで双子のように姉の影として付き従ってきた妹・

次郎信繁も、応えようとしていた。

「問題と言えば……次郎ちゃんが金脈探しの旅をしているうちに、信濃の諏

頼重よりしげが武田家に無断で関東管領上杉うえすぎ家と和睦し、佐久の領地を上杉に割譲

してしまったわ。このままでは佐久に確保している武田領も、関東管領に奪

われてしまう」

「諏訪頼重が? 禰々ねね の娘婿なのに、武田家を裏切るような真似を?」

「以前、諏訪頼重は禰々との祝言にかこつけてあたしを暗殺しようとして失

敗した。そのあたしが武田家の家督を奪ったので、慌てて旧敵の関東管領と

手を結んだんだわ」

「それでは姉上。いよいよ諏訪を攻め取り、信濃平定戦を開始するのね」

「諏訪に嫁いだ禰々の気持ちを思うと、気が重いのだけれど。先に武田家を

裏切ったのは諏訪だし――それに信濃は南北に広く、高い山に覆われた厄介

な国。北方の佐久から進出する道は険しい。どうしても、中央に位置する諏

訪を武田領とする必要があるわ」

「でも姉上。武田家には、一門を守る、決して殺さないという掟が。裏切り

者は許さないという掟もあるけれど、すでに諏訪頼重はわたしたちの妹・

禰々の夫よ。殺すことは武田家の掟に反する」

「ええ。諏訪頼重を殺しはしないわ。ただ、諏訪家の武装解除は必ず行わせ

る。武家を捨てさせて、諏訪神社の神官に戻らせるの。それで頼重を殺さず

に済む」

「……諏訪頼重ががえんじるはずがない話だわ。合戦で雌雄を決して承知させ

るしかないでしょうね、姉上」

「ええ。対諏訪戦の戦略は、すでに山本やまもと勘助かんすけが練っている」

 禰々にそれとなく離縁話を持ちかけてみたけれど、だめだったの、と晴信

はため息をついた。

「信濃は本来、一国として成立しえないほどに広い山国。峻険しゆんけんな山と山の狭

間にそれぞれの荘があり町がある。小県ちいさがた。佐久。諏訪。伊那。木曽――それ

ぞれの地域に国人が割拠し、それぞれが独立している。信濃守護の小笠原家

でさえ、群雄の一人にすぎない。信濃平定への道は遠いわね」

「中でも諏訪家は信濃随一の名門で、神聖な血を引く神氏みわし。恐れを知らない

父上ですらその諏訪家を滅ぼすことはできなかった。姉上が武家としての諏

訪家を滅ぼせば、きっと信濃は変わるわ。治世術に長けた姉上が信濃を統一

すれば、必ずや信濃は発展する」

 晴信の興味と才能は、実は合戦ではなく、内政にあった。

 信虎は戦に次ぐ戦で国力を疲弊させ、甲斐の民は皆飢えていた。だから、

晴信は甲斐を富ませることに心血を注いだ。家督を継ぐや否や、晴信は甲斐

の領民たちを悩ませる暴れ河・釜無川かまなしがわに対抗するべく、治水事業に取りか

かったのだ。

 これは十年、いや二十年かかるともわからない途方もない大事業で、家臣

団は当然ながら「予算がありません」と反対したが、晴信は「金山開発に

よって収入を増やすことで対処するわ」とどうにか押し切った。家督を継ぐ

以前から、晴信は各地を見聞し、甲斐にはまだまだ金脈が隠れていることを

知っていた。

 ただ晴信は、信虎時代とは打って変わって軍議における家臣団の発言権が

強まっていることに驚いていた。板垣信方いたがきのぶかた甘利虎泰あまり とらやす

はじめとする四天王のみならず、多くの家臣が「われわれが信虎さまを廃して晴信さまを擁立し

たのだ、甲斐のまつりごとはわれわれの合議で決める」と信虎時代に長らく抑圧さ

れてきた自立心を蘇らせて煮えたぎっている。壮大な治水計画は、宿将筆頭

の板垣信方が承知していなければ通らなかったろう。

 今はまだ板垣信方、甘利虎泰の両雄が晴信の改革を支持しているから甲斐

は成り立っている。しかしいずれ、この両雄ですら理解できない新たな改革

に晴信は手を付けねばならなくなるだろう。「神の血を引く諏訪家を滅ぼし

軍権を取り上げ、ただの神官にしてしまう」という晴信の神仏をも恐れぬ野

望を、迷信深い老将たちがはたして認めるかどうか。

「あたしは、反動が怖いの。次郎ちゃん。父上だけじゃない。世の仕組みを

新しく改めようとすれば、必ず、旧勢力から憎まれ反発されるわ」

「その時のためにわたしたちがいるのよ、姉上。だいじょうぶ。姉上には、

なにがあっても絶対に姉上を裏切らない家族がいることを忘れないで」

「ありがとう。次郎ちゃん。えへ。温泉に行きましょう」

「家臣団の前で、次郎ちゃんとか、えへ、は禁止よ。姉上。示しがつかない

もの」

「わかってるわよう」

「姉上も武田家の頭領、甲斐の守護になったのだから。これからはもっと威

厳を出さないといけないわよ」

「わかっているってば」

 お気に入りの温泉へ向かう道すがら、信繁とじゃれ合いながら――

 せめて禰々が諏訪頼重の赤ちゃんを懐妊する前に諏訪を併呑へいどんしなければな

らない、と晴信は思い定めていた。

 子をなしてしまってからでは、武家としての諏訪家を滅ぼされた際に受け

るであろう禰々の心の傷は癒やせなくなる、とわかっていたからだ。

(あたしはこの乱世のもとで武田家と家臣団、領民を守るために父上を追放

した。それなのに今、こうしてかわいい妹・禰々の夫を倒そうと画策してい

る。矛盾だわ)

 そんな晴信の手を、信繁がそっと握りしめていた。

「なにがあっても、わたしは姉上を裏切らない。姉上が禰々のために心の中

で泣いていることは、わたしが知っているから」

 晴信は幼い頃から、ずっと父・信虎に憎まれ、疎んじられてきた。

 そんな晴信を守ってきてくれたのは、いつだって、次郎信繁だった。信虎

に「次郎こそ世継ぎに相応ふさわしい」といつもえこひいきされながらも、信繁は

決して姉を侮ったり姉を嫌ったりしなかった。ずっと、晴信を信虎の言葉の

暴力から守る「盾」として姉をかばい続けてきてくれた。その信虎を追放す

る際にさえ。

「次郎ちゃんは、どうしてあたしにそんなに優しくしてくれるの」

「深い理由はないわ。だって姉上は、わたしの姉上なのだから。しいて言え

ば、姉上がわたしにずっと優しくしてくれたから、かしら」

 言われてみれば晴信もまた、一方的に父にひいきされている信繁を憎んだ

り恨んだりしたことがなかった。

 だがそれは、信繁が自分をいつもかばってくれたからだ、と晴信は思って

いた。

「いったい、どちらが先なのかしら」

「どちらも先なんじゃないの? しいていえば、先に生まれた姉上のほうが

先だと思うけれど」

 二人は、生まれた年こそ違えど、双子のような存在だった。

 あたしには過ぎた妹ね、と晴信は思った。

 隻眼軍師・山本勘助が晴信のもとに現れたのは、父・信虎の監視の目から

解放された晴信が久しぶりに信繁と姉妹水入らずで温泉を満喫した翌日の午

後だった。

 父・信虎の受け入れ先となった駿河の今川家との関係は、晴信が甲斐守護

職に就いてからも安定していた。今川家には晴信の妹・定が義妹として暮ら

しており、今は甲斐を追われた父・信虎も事実上の人質として住み着いてい

る。今川家には大きな借りを作ったことになるが、逆に考えれば今川が突然

武田と手切れに及んで甲斐へ攻め入ってくる心配もなかった。

 しかし、その定は体調を崩して寝込むことが多くなっている。

 晴信とすれば、今川との同盟関係が安定している今のうちに、諏訪に進出

したかった。切れ者の諏訪頼重は、晴信が家督を継いですぐに旧敵の関東管

領上杉家と和している。いずれ信濃に上杉軍を引き入れるつもりだろう。

「御屋形さま。勘助めにござりまする」

 勘助が片足を引きずりながら、庭先に伏して晴信に挨拶をした。

「勘助。一ヶ月ぶりかしら。少し痩せたわね、苦労をかけるわ」

「いえ。これしきのこと、御屋形さまの苦労に比べればなんでもありませ

ぬ」

「高遠での調略は成功した?」

「はっ」

 すでに壮年から初老の年頃にさしかかった山本勘助は隻眼の上に片足が悪

く、身体も小柄で、まさに悪鬼の如き異形の男だった。この面相と、戦に勝

つためならなにをしても許されると信じて疑わない傲慢さ、人を人とも思わ

ぬ悪謀に満ちた切れすぎる頭脳のために、長年にわたり仕官先すら見つけら

れなかった異端の軍師だった。

 しかし父・信虎に虐げられ続け否定され続けた晴信にとって、切れ者すぎ

る故にこの世に居場所のない勘助は自らの同志とも言える存在だった――年

齢性別を超えて、二人は奇妙なまでに馬が合った。晴信にとっては勘助は妹

の次郎を除いてはじめて自分を認めてくれた武士であり、勘助にとっては晴

信こそ自分の才をこの世で最初に評価してくれた主君だった。

 勘助が、どういうわけか年頃の乙女に男としての興味を抱かない妙な性質

だったことも、幸いしたかもしれない。

「すでに諏訪頼重は関東管領上杉家と同盟を結び、甲斐を挟み撃ちにしよう

と画策しております。信虎さまとともに奪い取った佐久の領土を上杉に割譲

したのは、その同盟の第一歩でありましょう」

「幸い、上杉家は小田原の北条ほうじよう家と交戦中で、信濃へ出兵する余裕はなさそ

うね。でもいずれは」

「いずれ諏訪頼重は関東の上杉家、筑摩の小笠原家、小県の村上むらかみ家を巻き込

んだ武田包囲網を敷きましょう。そこでわれらが先んじるのです」

 晴信は戦に疲弊した甲斐の領民を安んじるために内政に力を入れている。

今の武田家にはまだ、大軍を動かす余裕はない。そこで山本勘助と晴信が共

同して練った策は、「調略」だった。

「諏訪の南、伊那には諏訪家の庶流である高遠頼継たかとうよりつぐという国人がおります。

この高遠頼継にはかねてより諏訪頼重を追い落として自ら諏訪家の当主にな

りたいという野心これあり」

「そこで高遠に『武田と高遠がともに諏訪を討ち、諏訪の領土は両家が分割

支配し、高遠頼継が諏訪本家となる』と裏切りを持ちかけて、高遠と武田が

南と東から同時に諏訪を奇襲。成功すれば、ほとんど戦うことなく諏訪を平

定できるけれど。問題は、諏訪家に嫁いだ禰々の安否よ」

「御意。御屋形さまの妹ぎみをお守りするべく、手を尽くしまする。諏訪方

にはすでに、猿飛佐助さるとびさすけを送り込んでおります」

「佐助の猿飛の術は、いまだにからくりの仕組みがわからないわね。どう

やって宙を舞っているのかしら。瞬きひとつする間に移動していたり……」

「佐助の術にはからくりなどございませぬ。真田忍群の者どもは幼き頃、

戸隠とがくしの山を彷徨って異形の力を身につけた者ども。御屋形さまのお父上は真田

が抱える忍びどもの異形ぶりを恐れて真田一党を信濃から追い出しましたが、

真田はなんとしてもお味方につけねばなりません。それがしの軍略を縦横に

実行するには、異形の忍びたちの力が必要です」

 晴信はうなずいた。父・信虎が排除した者はすべて、武田家の家臣として

抱え込むつもりだった。信虎の怒りを買って追放されたかつての家臣たちも、

続々と晴信のもとに戻りはじめている。信虎は血を引いた一門だけを偏愛し、

家臣領民を奴隷のように扱ったが、晴信はその逆をやるつもりだ。家臣も領

民も武田一門として扱う、ということである。

 だが、その大望を実行することに、重荷を感じはじめてもいた。

 諏訪平定は、諏訪頼重に嫁いだ禰々の心を傷つけることになるだろう。

「勘助。高遠頼継の返事は?」

「乗ってきました。諏訪と武田が婚姻同盟を結んだ時点でいちど完全にあき

らめていた野望ですからな。今その野望の炎に再び灯がともったのです。こ

の機会を逃せば二度と諏訪本家の座は掴めない。人間の心とはそういうもの

です」

「あたしが、神氏である諏訪家から軍権を取り上げて神官に戻してしまおう

と考えていることは、高遠には知られていないのね」

「御意。高遠は、諏訪頼重のような切れ者ではありませぬ。諏訪頼重を降伏

させてしまえば、高遠はいかようにも扱えます」

 晴信は、諏訪頼重に一歩先んじた。諏訪頼重の命運はここに尽きたと言っ

てよかった。

 勘助、と晴信は苦しげな声を漏らした。

「あたしは武田家を守るはずが、家督を継いで早々に大切な妹を不幸にしよ

うとしているわ。ほんとうに、これ以外に諏訪を奪う方法はないのかしら。

諏訪頼重を一門衆として抱え、忠誠を誓わせる方法はないのかしら」

「あいや。諏訪頼重が関東管領と通じた時点で、その道は絶えております。

神氏と関東管領は、いずれも御屋形さまが乗り越えねばならない古き権威。

武田家に新しい星が現れ古き秩序を新しき秩序に塗り替えようと動きはじめ

た今、古き両者が手を組むのは必定。対決は避けられませぬ」

「……禰々の気持ちを思えば……あの子はほんとうに優しくて純真な子なの。

きっとあたしを憎むわ」

「そもそも禰々さまを諏訪家へ嫁がせたのは、信虎さまの失策にございます。

御屋形さまは信虎さまの失策のすべてを補われるために甲斐の当主になられ

たのです。迷われてはなりませぬ。迷えば、心が痛みます。心が痛めば、身

体を損ねまする」

 勘助は、「乱世の当主たる者は自ら悩んではなりませぬ。心身の健康を保

ち、一日でも長く生きることこそが有能な当主の使命。妹婿を滅ぼすという

悪名は、それがし山本勘助が一手に引き受けまする」と胸を張った。

「すべては勘助が吹き込んでお優しい御屋形さまをそそのかしたまでのこと。

軍師とは、このような時のために主のおそばにお仕えしているのです」

「それでも、あたし自身の心が、どんどん黒く濁っていくかのよう。いずれ

あたしも、父上のような悪逆非道の暴君になってしまうのではないかと思う

と、自分が恐ろしいの。自分自身の、野心が。いつか、家臣団も一門もあた

しから心が離れてしまうのではないかと。老臣の板垣も甘利も、あたしがい

きなり諏訪を騙し討ちして併呑することに躊躇ちゆうちよしている……実父を追放し、

返す刀で妹婿を討とうとするあたしを、恐れはじめている」

 御屋形さまはお優しい。信虎さまが常に心配なされ、叱責し否定なされて

いたのも、そのお優しさでありましょう、と勘助は目を細めた。

「もしも御屋形さまのお心がもはや耐えられぬというところまで来た時には、

この勘助にすべての罪をかぶせ、遠慮なく成敗なさりませ」

「勘助」

「そのための軍師です。御屋形さまは、いかような謀略、調略、悪逆を犯そ

うとも、古今無双の名君であらねばなりませぬ。ひとたび自らの父親を追放

したからには、御屋形さまはなんとしても日ノ本の歴史に英雄として永遠に

語り継がれるような名将に成長せねばなりませぬ。その夢を果たす途上で、

心を黒く汚してはなりませぬ。この矛盾を解決するために、軍師という影の

存在がいるのです。それがし、宿曜道すくようどうの秘法にて天文を見、諏訪頼重の天運

を占ってみましたが、諏訪の武運はもはや尽きております」

「勘助は、宿曜道で将星を見ることができるのね。あたしの将星は、輝いて

いる?」

「いえ。畏れ多くて、御屋形さまの将星を占うなどできませぬ。いずれ、こ

の勘助の知謀と軍略をもってしても対処できぬ難問を前にした時、その禁を

破ることになるやもしれませぬが」

「でも少しだけ知りたいわ。あたしの星はどれ?」

「羅ゴウの星にござります。この星は人間の目には見えませぬ。日輪や月を

消す暗黒の星でござります」

「まるで素戔嗚尊すさのおのみことみたい。不吉な星ね」

「いえ。天竺においては忌まわしい星でありますが、日ノ本におきましては

利剣を振るって悪を断ちきり、衆生を救済する不動明王の星にござります。

不動明王は悪鬼の如き恐ろしき表情の内側に、人々に対する広大な慈悲の心

を宿しているのです――羅ゴウの星が時折日輪を隠すのも、日輪の光を奪い

取るためではなく、日輪を蘇らせ再生するためなのです」

「悲しい星ね。いくら慈悲の心を抱いていても、日輪を隠す悪鬼では誰から

も誤解されてしまうわ」

「外見の恐ろしさに囚われれず、そのまことの心根を見通してくれる者も、

おりまする。生きてさえいれば、信念を貫き通されれば、いずれは巡り会え

ましょう。ただし、人の心のまことは、その人の生涯が終わる時にはじめて

完結するのです。道半ばで死んでしまってはなりませぬ」

「……いつか、あたしの将星を、天運を勘助に占ってもらう時が来るのかし

ら」

 これ以上迷っていてはこれほどの覚悟をしてくれている勘助に申し訳ない、

と晴信はうなずいていた。

「わかったわ。諏訪へ出兵するわ。諏訪を平定し、諏訪家から軍権を奪い取

る」



 自らの父親の生き様を否定した武田晴信は、すべてにおいて信虎の逆を

行かなければならない。その上で、天下無双の名君にならなければならな

い。そうでなければ、父を追放した悪逆の娘ということになってしまう。故

に、信虎が和した諏訪を晴信は奪わねばならなかった。しかも、対諏訪戦こ

そが晴信の戦に次ぐ戦の人生を飾る、甲斐守護としての初陣でなければなら

なかった。

 晴信は本能や感情ではなく、常に「理」でものごとを考える。

 だから、そうせざるを得ない。

 そのような晴信の性質を知っていた諏訪頼重はすでに晴信が諏訪を襲うこ

とを予想し、関東管領上杉家とよしみを通じつつあった。

 だが、晴信と勘助の主従のほうが素早い。同族の高遠を先に調略された。

 諏訪頼重が画策していた武田包囲網は、間に合わなかった。

 東の甲斐から武田軍、南の伊那から高遠軍が同時に攻め寄せてきたと知っ

た諏訪頼重は、「高遠め。武田晴信が諏訪家から軍権を奪い取ろうとしてい

る革命児であることがわからぬのか。愚か者め」と舌打ちしつつ、本城であ

る上原城を捨てて桑原城へと逃げた。

 ついに、槍を直接交えての決戦は、行われなかった。

 武田軍だけを相手に一対一の野戦をやれば勝敗の行方はわからなかったが、

一族である高遠に寝返えられて挟撃されたのでは致し方なかった。

 だが、諏訪頼重がもしも「死中に活あり」と死を覚悟して決戦に及べば、

あるいは万が一の勝利もあったかもしれない。

 同族を裏切って攻める高遠軍の士気は低かったし、武田軍も当主が信虎か

ら晴信に交代したばかりでまだ統制が取れていなかった。晴信は「これより

諏訪は武田領となる。諏訪における乱取りは厳禁」「捕虜を奴隷として売る

べからず」などの厳しい軍律を課そうとしたが、信虎時代とは違う、と乱取

りに慣れた足軽たちが反発したのだ。足軽たちは農民である。戦に駆り出さ

れる際、乱取りを行わなければ稼ぎにならず、食えない。ことに甲斐ではほ

とんど米が取れないため、戦における乱取りが彼らにとっては生計を立てる

ための重要な仕事となっていた――晴信の理想主義は、過酷な現実に直面し

ていたのだ。

 しかし、諏訪頼重は決戦を避け、逃げた。

 桑原城へ入り、武田の使者と対面した。

 諏訪家の安堵を条件に、降伏した。

 頼重には妻の禰々がいる。禰々は晴信の実の妹である。武田家は裏切りを

許さないが、決して一門を殺さないという掟がある――諏訪頼重は「武田一

門となっている諏訪家が滅ぼされることはあるまい。軍権は奪われるであろ

うが諏訪の血を絶やすことだけは免れる」と苦渋の決断をしたのだった。

 逆に言えば、諏訪頼重は武田の一門であるからこそ晴信に「甘さ」を期待

してしまったのだろう。

 もしも諏訪頼重が武田一門でなければ、降伏することなど考えず、枕を揃

えて討ち死にしたであろう。

 もっとも、その場合は、諏訪家に潜伏していた猿飛佐助が禰々を無事に救

出しただろうが。

「これほど容易に城は落ちるものなのか。それがしの二段構え、三段構えの

策も無用であったか」

 諏訪を行軍する武田軍――これまで脳内では無数の城を攻略してきたが、

軍師としての実戦は生涯においてはじめてとなった山本勘助は、拍子抜けし

たような表情のまま、その軍の最後尾を進みながら馬上で揺られていた。

 その勘助の馬の尻には、少女忍者の猿飛佐助がちょこんと腰掛けていた。

「軍師殿。拙者、諏訪で無駄飯を食らっていただけでござるが、仕事料は満

額いただくでござるよ」

「持っていけ。禰々さまのお命を守るためならば、無駄銭ではない。常に万

全の策を準備してこその軍師よ」

「ウキ~。ありがたくいただくでござるよ。暗殺仕事よりも、姫の命を救う

仕事のほうがやりがいがあるでござるな。軍師殿は一見いかにも陰気なよう

に見えて、その実は妙に陽気でござる。そうでなければ、武田晴信さまも軍

師殿を召し抱えたりはしなかったでござるよ」

「軍師稼業に陰気も陽気もない。それがしは、長年夢に見てきた城の攻略に

夢中になっている子供のようなものだ。ただ、この脳内にこんこんと溢れ出

る軍略を実現できる場を求めてきただけだ。今、それがしは感動している。

わが軍略が、まことの諏訪の城を落としたのだ。それも、一兵も損じずに」

「軍師殿はきっと戦に敗れて死ぬ時も、ご陽気でござろうなあ」

「それがしは敗れぬ。たとえ敗れても、御屋形さまを天下人にするまでは決

して死ねぬ」

 ともあれ、諏訪湖を望む諏訪神社下社において、降伏者である諏訪頼重と

勝利者である武田晴信とが対面した――禰々との祝儀の席以来の、再会だっ

た。

「諏訪湖は美しい。諏訪家の起源は、出雲から逃れてきた建御名方神たけみなかたのかみの一族

と聞くが、諏訪に根付いた理由もわかる気がする」

 晴信は甲斐守護らしく威風堂々と語る練習を、勘助・信繁とともにこれま

で重ねてきた。

 こなれてはいないが、祝儀の席で会った気弱な武田勝千代かつちよ とはまるで別人

である。諏訪頼重は「諏訪家は神代以来の血統を守ってきた大祝おおほうり家。よもや

その血統を絶やすのではあるまいな」とそんな晴信に疑いの目を向けてきた。

「諏訪家は武田一門。頼重どのには以後も変わらず、諏訪神社の大祝家とし

て務めていただく。頼重どのと禰々の子に、跡を継がせる」

「俺から軍権を取り上げておいて、跡を継がせるもなかろう」

「あたしは人々の信仰は尊重するが、神官や坊主が戦っていい道理はない。

乱世の元凶となる。戦は武家がやるもの。現に信濃では守護の小笠原家に従

う者が少なく、国人が乱立している――これも神氏である諏訪家が国人とし

て割拠しているためだ」

「そなたは信濃全土を征服するつもりか、武田晴信。不可能だ。俺が一戦も

交えずに降伏したのは、武田一門であるから、そして神氏であるからにすぎ

ん。他の国人たちは違う。武田一門でもなく、神氏でもない。降伏などすま

い。ことに、小県から北信濃一帯を支配する村上義清よしきよはその性質孤高にして

その武勇は狼の如く。蛮勇の信虎ならばいざ知らず、姫武将ごときが勝てる

相手ではない」

「父上のようにあたしを文弱の徒となじるのか、諏訪頼重? あたしが文弱

の徒なら、そなたが降伏したのはなぜか」

「違う。そなたは女だと言っている」

「戦の勝敗は一騎討ちでは決まらない。戦の勝敗を決めるものは、経済力、

兵へい站たん、兵の練度、行軍速度、将の軍略と計略にあり。あたしが男であろうが

女であろうが、関係はない」

「書物のみで戦を学べばそう考える。しかし世の中には、桁外れの勇将とい

うものがいるのだ、武田晴信。ことに、北国にはな。気候温暖な諏訪や甲斐

にはいそうもない一騎当千の英傑が、雪深い北国には実在する」

 これよりそなたには甲斐で禰々と暮らしていただく、と晴信は問答無用で

言い放った。

「なんだと。大祝の職は安堵あんど するといった約束は嘘か!」

「嘘ではない。甲斐に住んでいただくのは、諏訪の情勢が安定するまでの間

の話だ。あたしはこれから、高遠を始末しなければならない」

 違う。以前に会った時とはまるで違う、と諏訪頼重は息をのんだ。

「……女狐め。やはりそなたは、禰々との祝言の場で暗殺しておくべきだっ

た。暗殺しそこねたのが俺の運の尽きだった……」

「違うな。そなたがあたしに刺客を放ったことで、あたしは窮地に追い詰め

られ、生まれ変わることができたのだ。あのままあたしを放置しておけば、

あたしは相も変わらず父を恐れ、駿河に逃げて今頃は孫六とともに富士山の

絵でも描いていただろう」

 藪から蛇という奴か。これも運命か、と諏訪頼重は自嘲じちよう気味に苦笑した。

「俺を殺すつもりではあるまいな」

「二度と武田一門に叛逆しないと誓えば殺さぬ。次に裏切った時は、たとえ

一門といえどもどうなるかはわからない。保証はできぬぞ諏訪頼重」

 こやつはもはや父親の罵倒に怯えて震えていたあの姫武将ではない。次に

逆らえば、ほんとうに殺されるかもしれない。

 だが、この強気の晴信の裏には、あの読書好きの柔和な勝千代がまだ存在

していることも、諏訪頼重は理解できた。

 もしも信虎の長子として生まれていなければ、禰々のような平穏な姫とし

ての人生を過ごせたかもしれないということも。

 同様に、俺がこの姫武将に刺客を放たなければ、武家としての諏訪家の歴

史がここで終わるようなこともなかったであろう、ということも。

(俺が放った刺客がこの知的で感傷的な姫武将の生涯にとっての第一の転機

であったとすれば、第二の転機は……)

 諏訪頼重は「俺はそなたの知謀と野望を恐れたが故に、こうして墓穴を

掘った。恐れが、恐怖が、自ら忌まわしい災いを呼び寄せることもある。恐

れれば恐れるほど恐怖の原因が迫ってくるということもある。これ以上俺を

恐れるのはやめろ。一門衆の俺を殺せばそなたは父親以上の悪人となるぞ。

よく考えろ晴信。俺をどう扱うか、生かすか殺すかが、そなたの生涯を定め

ることになる」と晴信を睨みながら、席を立っていた。

「決して一門を殺さない。それが武田の掟であろう」

 諏訪頼重が退室したのち、板垣信方、甘利虎泰、横田備中よこたびちゆう飯富兵部おぶひようぶ

「武田四天王」をはじめとする重臣たちが室内に入ってきて、軍議となった。

 末席には、軍師の山本勘助。

 晴信の左手前には、妹で副将の次郎信繁。

 その隣に、「戦をやるなら、なぜ最初から俺を呼ばない!」と急ぎ駿河か

ら戻ってきて参戦した弟の太郎。

 血気盛んな横田備中と飯富兵部は「もう終わりか? こんな戦もあるの

か」「あたしたちはまだ戦ってねえぞ、つまらねえな」と首を捻っている。

 老将の板垣と甘利は「諏訪頼重どのの処置を間違えると、諏訪の各地で反

乱の火の手があがりましょう」「ううむ。諏訪を武田家直轄とするなど考え

たこともなかった」と戸惑っていた。

 晴信の戦い方は、正面からの激突を得意とした信虎時代とはまるで違う。

 そもそも、戦いらしい戦いを行わないうちに、手品のように諏訪家を併呑

してしまったのだ。

 山本勘助というあやしげな浪人あがりの軍師が「高遠調略」という詐欺ま

がいの奇策を用いたことを、四天王たちもすでに知っていた。

 気弱だった晴信に父を追放せよと勧めたのも、この謎の軍師であることも。

「板垣と甘利の意見はもっともである。諏訪頼重は武田一門。あたしは禰々

の夫を殺したりはしない」

 晴信は諏訪頼重の命を救うことを家臣団の前で繰り返した。

 安堵した板垣信方が「祝着至極」と述べた。

「しかし、御屋形さま。この諏訪を誰が統治いたしますか。諏訪は信濃平定

のための要。武田一門のしかるべき人物でなければ――」

「ここは次郎さまか、あるいは太郎さまであろうのう」

 と、甘利虎泰。

 だが、晴信の人事は意外なものだった。

「諏訪では決して失政は許されない。故に諏訪の城代は、筆頭家老の板垣信

方に任せる」

 家臣団は皆驚いたが、板垣自身が誰よりも驚いていた。

「御屋形さま。一門衆に人材がいないのならばともかく、かほどの要地は一

門衆に預けるのが武田の習わしでございます。拙者はあくまでも武田家にお

仕えする家臣の身」

「板垣。あたしが頭領である限り、武田家では家臣と領民、武田一門の区別

はない。今後は、皆が武田家というひとつの家族でありひとつの国であると

考えてほしい。これからの武田家では功を挙げた家臣へ城、領地を与えるこ

とを惜しまない。板垣のみならず、甘利や横田たち諸将についても同等に扱

う。諏訪を完全掌握していない今はまだ城代を任じるに留まるが、いずれは

信濃の領土を家臣団に与えることもできよう」

「身に余る光栄。ですが拙者が甲斐を離れれば、行政に支障が出る恐れも」

「あたしの隣には次郎信繁がいる。それに、武田家の領土拡張に従って人材

を増やすため、若手の姫武将たちはあたし自身が直接育成したい。馬場ばば信房のぶふさ

春日かすが源五郎げんごろう、飯富兵部の妹・三郎たちを。信濃は、広大だから」

「御屋形さまは、すでに信濃の領国経営についてもお考えでありましたか」

「いずれは若き姫武将たちだけで信濃を切り盛りできる日が来るだろうが、

今この諏訪を託せる者は板垣、そなたしかいない」

 板垣は「恐れ入りましてござりまする」と頭を下げた。

 その戦や内政に常識を無視した奇矯なやり方が多く、次々と外様の者を拾

い上げてくる晴信のやり方に戸惑っていた諸将も、「一門にあらずとも手柄

を立てれば一国一城の主ともなれる」という晴信の人事を目の当たりにして

目の色を変えた。

「だが皆の者。武田家では、一に治水灌漑かんがい。二に民の忠誠度。三に町の商業

奨励。人材登用と育成が四番目。戦は五番目とする。国を富ませねば強兵は

養えない。国を富ませるためには農業と商業を栄えさせねばならない。戦費

を調達するために民を搾り取ったあげく一揆を起こされるなどは論外。合戦

は、あくまでも余力で行う。乱世といえども無理押しでは国力が長続きしな

いことは、父上の失政からも明らか。あたしは決して急がない。諏訪を併呑

したとはいえ、甲斐はまだ貧しい。諸将も、功を焦って急がぬように。一朝

一夕では日ノ本最強の軍団は造れないのだから」

 用心深いこった。いちいちまどろっこしい姫さまだねえ、と飯富兵部が諏

訪みそに漬けたスルメを噛みながら苦笑している。

「むろん、侵掠しんりやくする時は火の如く進む。今回の諏訪攻めのように――」

 軍議が終わったあと、新たに諏訪代官となった板垣信方は山本勘助に呼び

出された。

 密談が行われた。

 板垣信方は顔をしかめた。

「なぜ軍議の席で直接言わぬ。勘助」

「御屋形さまの口からは、あくどい謀略に関しては漏らしてはならぬのです。

すべての謀略は、軍師であるそれがしの一存で行われねばならぬこと」

「……それがしも、薄々察している。約定通り高遠に諏訪を半分くれてやる

ことはない、高遠との約定は反故ほごにせよ、というのであろう」

 それがそなたの謀略とやらの手というものだ、と歴戦の老将・板垣信方は

心配顔でつぶやいていた。

「御意。諏訪頼重どのの軍権は取り上げまするが、大祝の職は解きませぬ。

上原城も高遠には渡しませぬ。御屋形さまが甲斐へ戻れば、高遠頼継は激怒

して諏訪に攻め寄せてまいりましょう。その時は」

「それがしは諏訪よりわざと敗走し、高遠を増長させ中央まで引きずり出し

て甲斐の全軍で討つ、か」

左様さよう

「委細承知。しかし勘助」

「は?」

「今回の諏訪戦はなるほどそなたの謀略で武田が勝った。ほとんど槍も交わ

さず、一兵も損じずにな。高遠も討てるであろう。さすれば諏訪に続いて伊

那も武田領となり、信濃の南半分のほとんどを御屋形さまは平定することに

なろう。しかし、謀略戦は真の合戦とは言えぬぞ。はたして謀略だけでどこ

までも勝ち進められるであろうか?」

 板垣信方は歴戦の勇将であるが、兄弟分の甘利虎泰とは異なり常に熟考す

る智将だった。内政、外交、ともに得手であり、それ故に筆頭家老の地位ま

で上り詰めたのだ。

 その板垣にしてみれば、勘助と晴信の謀略は、あやうかった。

 二人には実戦経験が少ない。すべてが机上の理屈から成り立っている、と

見えた。

「勘助。いずれは謀略が容易に通じぬ猛者と相対する時が来よう。その時、

たとえただいちどの敗北であろうとも、御屋形さまが討たれてしまえば武田

家はその瞬間に終わるのだぞ」

「あいや。御屋形さまは討たれませぬ。姫武将でございますれば――」

「それが机上の理屈なのだ。乱戦となれば、姫武将不殺の慣習など足軽ども

は守っておられぬわ」

「ならば、本陣に敵を入れるような大敗北をせねばよろしいのです」

「聞け勘助。御屋形さまは、ご自分のお父上を追放した。今さら出家して降

伏すると言っても、相手に信用されまい。降伏を許されたとしても、必ずや

謀殺されることになろう。御屋形さまの父親追放劇は、まことにもって背水

の陣とも言うべきものなのだ。御屋形さまは、もはや没落すること、許され

ぬ」

「信虎さまを追わねば、御屋形さまが追われておりました」

「わかっている。御屋形さまをけしかけたそなたを恨んでいるのではない。

あの二人は、いずれ雌雄を決せねばならぬ運命にあった。そなたが御屋形さ

まのもとに現れたのも、やはり運命であろう。しかしな勘助。世には、そな

たの想像もつかぬような英雄豪傑がいる。御屋形さまは決して戦上手ではな

い。甲斐兵も一瞬の爆発力こそ誇るが軍団としての統制力がなく、精強とは

言えぬ。甲斐は多くの国人による寄り合い所帯だからな。そなたと御屋形さ

まが考えている無敵無敗の武田軍を完成させるまでには挫折も敗戦も味わわ

ねばならぬだろう。だがその時に、御屋形さまが討たれてしまえば意味がな

いのだ」

 心に留めておきまする、と勘助は頭を下げた――が、いずれ一戦二戦で局

地的な黒星をつけられることはあろうとも、それほどの大敗北を自分と晴信

が喫することになろうとは、勘助には信じがたかった。

 勘助が諸国を見聞したところ、自分に匹敵する軍師はどこにも見当たらな

かった。西国には毛利元就もうりもと なりという全身が悪謀から成り立っている怪物のよう

な武将がいるが、元就は毛利家の当主であって軍師ではない。その分、でき

ることは限られている。東国では、かろうじて駿河の太原雪斎だいげんせつさいくらいであろ

うか。だが雪斎はもともと学僧であり、堂々の軍略は一流なれど汚い謀略に

ついてはわずかに腰が引けることがある。しかし自分は勝利のためならばた

めらわずにどんな手でも用いることができる――御屋形さまの勝利のため、

御屋形さまの野望のためならば、いつでも地獄へ落ちる覚悟はできている。

「よいな勘助。主を悪名から守るために汚名を被ることだけが軍師の仕事で

はない。主の危地に命を投げ出して身代わりとなり死ぬことも、軍師、いや

家臣のつとめであるぞ。敗北を知らぬそなたにはまだわからぬであろうが

……」

「あいや。その覚悟はございまする」

「決して御屋形さまの純粋な志を汚さぬことだ。御屋形さまは、才気に溢れ

たお方。その才気を、常にお父上から否定されてきたために、ついにはかか

る追放劇となった。御屋形さまの志を黒く濁った野望のおりにしてはならぬ。

勘助。そなたには、義がない。そなたを動かすものは、才のみだ。不遇な子

供時代を過ごされた御屋形さまと長年孤独に諸国を流浪してきたそなたとが、

馬が合うことはわかる。だが才気という部分において、二人は合いすぎる。

それがむしろ、それがしには心配なのだ」

「板垣さま。義では戦には勝てませぬ。それこそ、神のごとき武辺の持ち主

でもない限りは。そのような者は人間の世界にはおりませぬ」

「いや、勘助。乱世の戦にこそ、正義が必要なのだ。御屋形さまを甲斐の荒

くれ大名のままに終わらせるつもりならば不要だが、もしも御屋形さまを天

下人にしたいとそなたが願うのであればな。義なき者は、民の心を得られぬ

故に、決して天下人にはなれぬ。しかも御屋形さまは父親追放という悪行を

すでに犯された。二度目は許されないのだ」

「板垣さま、それこそ儒学に毒された考えでござりまする。乱世に、義など

不要のもの。夢見が悪い、世間体が悪いというのであれば、力で天下を盗っ

た暁に、踏みにじってきた者たちを存分に供養しその無念に報いればいいで

はありませぬか。神社仏閣は皆、そのために勝利者がこしらえたようなもの。

諏訪神社なども、古き世に滅ぼされた出雲の国から落ち延びてきた敗残者を

勝者、すなわち日ノ本のわれらが祭っているにすぎませぬ」

「神仏を恐れぬそなたにこれ以上説いても無駄か。そなたが御屋形さまに恋

心でも抱いておれば、少しは変わるのだろうがな」

「まさか。身分いやしきこの勘助が、偉大なる御屋形さまに恋心など。それ

がしはそれほど厚顔でも無恥でもありませぬ。それがしは御屋形さまのおん

ために全知全能を振り絞り捧げ尽くすと決意した、一介の軍師にございます。

戦のために生き、死にます。恋など軍師には無用。そのような私情を挟めば、

知恵が歪みます故」

「それが御屋形さまとそなたにとって幸か不幸か、結果はまだわからぬ。御

屋形さまの婿取りの件も、なかなか進まぬしな」

「婿取りは姫大名にとって最大の切り札。しかも一度しか切れぬ手札。慎重

にもなりましょう」

「勘助、そなたは誰が御屋形さまに相応しいと考える?」

「婚姻同盟の相手ですか。むろん、できうる限り大国の主がよろしい。駿河

の今川とはすでに同盟を結んでおります故、第一候補は小田原の北条。だが

北条家の若き当主・氏康は姫武将。となれば、まだまだ切り札は使えませぬ。

そうだ。あるいは北信濃を挟撃するために、越後の長尾と……」

「……そなたに聞いても、そういう乾いた答えしか出てこぬな。しかし御屋

形さまはお年頃の姫であるぞ。この件は甘利たちと相談して考えることとす

る」

 ともあれ高遠についてはそなたの策通りに動こう、と板垣がうなずいた。

 そこへ、晴信の小姓として取り立てられた春日源五郎が飛び込んできた。

 もともとは農民の娘で、佐助に襲われた晴信を救ったことがきっかけで姫

武将候補として見込まれた、明るい少女だった。

 その天真爛漫らんまんさがどこか禰々に似ていて、晴信に気に入られている。

「たたたたいへんです! ご家老さま、軍師さま! 駿河より客人です! 

逃げましょう!」

「源五郎? 駿河は同盟国。なぜ逃げねばならぬのじゃ」

「それがですね、とっても面倒な話のようなんですっ!」

「わかった、すぐに行く」

 しかし晴信は、駿河からの使者にすぐに会えなかった。

 控えの間に戻り、微熱を感じて横になろうとしていたところに、禰々が来

たからだった。

「姉上!」

 禰々は、怒りと悲しみのあまり錯乱していた。

 諏訪と武田の合戦に巻き込まれた禰々は心労でやつれ、ふくよかだった頬

もこけていた。

 あのひまわりのような笑顔はもう戻ってこない、と晴信は悟り、胸を痛め

た。

「父上を駿河に追放し、わたしの夫を攻め滅ぼすだなんて! 姉上はいった

いどうなされてしまったのですか? あの優しい姉上はどこへ行ってしまっ

たのですかっ?」

「……ごめんなさい。武田家を守るため、仕方がなかったの。武田家が領土

を拡大するために、諏訪はどうしても必要だったの」

「そんなことで……頼重さまもれっきとした武田家一門です! 姉上は、一

門を裏切ったのよ!」

「あたしは五年先、十年先を考えているの。今はわからないかもしれないけ

れど、信じて。頼重どのには引き続き諏訪神社の大祝職を務めてもらうから、

安心して跡取りを産みなさい。武田と諏訪の血が混じった子を」

「いやよ! 姉上に殺されるかもしれない子供を、産めるはずがない!」

「禰々。あたしはそんなこと、決して」

 禰々の叫び声を聞いた太郎と次郎が、慌てて室内に入ってきた。

「そうかんしゃくを起こすなって、禰々。姉上も大変だったんだぜ。先に姉

上に刺客を放ったのは諏訪頼重だ。しかもお前との祝言の最中にだぜ」

「太郎! その話を禰々にしてはだめ!」

「だって姉上。ほんとうのことだろう? これじゃあ姉上一人が悪者みてえ

じゃねーか」

「いいのよ、あたしは」

「どうしてみんな、姉上の味方をして父上を追放したりしたのっ? 武田家

は一門を守る、それが掟だったはず! 信じられない!」

 泣き叫ぶ禰々の頭を、次郎がそっと撫でた。

「父上は、姉上を廃嫡して駿河に追放しようとしたの。わたしを武田の跡取

りにするために。でも姉上もわたしも、それを望まなかった。わたしと姉上

とで決めたことなのよ」

「だったらわたしを、いっそ武田一門から切り離して!」

 食事を取っていないように見えるわ。禰々に薬師くすし を、と晴信はつぶやき、

そっと部屋を出た。

 早く、駿河からの使者に会わなければならない。

 どうやら火急の用件らしい。しかも、武田家にとっても大きな難題らしい。

「姉上! 話はまだ終わっていないんだから! 逃げないで!」

「あたしには武田家当主としての仕事がまだあるの。太郎、次郎。禰々をお

願い」

「任せとけ! なあ禰々、旦那と二人で駿河の親父んところにでもしばら

く静養に行けばいいんじゃねーか? 駿河の海を見ているとすっきりする

ぜ?」

「ごまかさないで兄さん! 頼重どのまで駿河に追放するつもり?」

「禰々。頼重どのが姉上を恐れて暗殺しようとした時点で、両家はこうなる

しかなかったの。頼重どのの命を奪わなかったのは、姉上が禰々を傷つけた

くなかったからよ」

「次郎姉さんが武田の頭領になればそれでよかったのに! 姉上は恐ろしい

人だわ! 父上は残酷な人だけれど、身内の者には優しかったのに。姉上

は……! まるで武田一門であろうが自分の野心のためならお構いなしに

……!」

「禰々、どうか落ち着いて。姉上は、諏訪頼重どのをあやめたりはしない」

(まさか禰々があれほど傷つくだなんて。頼重の命を保証すれば、少しは落

ち着いてくれると思っていたのに。あたしが父上を追放したから? それと

も、夫婦の仲というものはあたしには理解できないものなのかしら)

 晴信は心身の疲労から来る微熱を再び額と胸元に感じながら、駿河よりの

使者を引見した。

 それはまさに、新生武田家の運命をも左右する「火急の用件」だった。

 駿河の今川家と、小田原の北条家。

 かつては盟友だったこの両家は、今は乱世の定め故に対立していた。

 使者によれば、北条軍が占領している駿河東部の河東地域に今川軍が出兵

し、北条軍と睨み合っているというのだ。

 晴信は、援軍を要請された。

 今川には、父・信虎を押しつけた借りがある――。

 晴信は、先に使者と対面を済ませていた勘助に目配せした。

(武田は今、目の前の諏訪平定戦で手一杯だけれど、今川と北条を仲裁して

勘助がもくろむ「三国同盟」の布石を打つ絶好の好機でもあるわね)

(御意。しかしなにやら禰々さまが叫んでおられたようですが……)

(その件は次郎たちに。今は、駿河の件よ)

 本来ならば、諏訪・駿河で二方面作戦を展開する愚だけは避けねばならな

い。武田にはそれほどの戦力はない。それでも、新生武田家が飛躍するため

に今は賭ける時だ、と晴信は決意した。ここで退いては、今川にも北条にも

臆病者と侮られる。それでは、武田に未来はない。

 晴信は「すぐに武田も出兵する」とうなずいていた。

 休む暇はなかったし、禰々にかまってあげられる時間もなかった。

 うなずきながら、武田家当主として君臨し続け戦い続けてきた父・信虎が

なぜいつもあれほど荒れ狂っていたのか、晴信ははじめて少し理解できたよ

うな気がした。

 戦は少しずつ、人の心を壊していく――いかに謀略を用いて血を流さずに

勝つことを心がけても、それでも戦うごとにけがれのようなものが胸の奥に溜

まっていくのだ、あたしに耐えられるだろうか、と晴信は思った。

(戦というものは、狂わねばできぬ。狂い続ければ、そなたのような心弱き

者の心身は確実にむしばまれる。駿河におれば、諏訪頼重などに狙われる

こともない。息災に暮らしたいならば、血で血を洗う戦など忘れることぞ

――)

 信虎が追放劇の直前になってはじめて自分にかけてくれたあの優しい言葉

を、晴信は心のうちで復唱していた。

 しかしもう、後戻りはできない。すでに、さいは投げられたのだ。

(父上。あたしは、あたしの才能を天下に知らしめるために、あくまでも前

へ進みます)



 相模の小田原城を本拠とする北条家は、新興の戦国大名だった。

 初代・北条早雲そううんは、もとはといえば伊勢から東国へと流れて来た浪人で、

駿河の名門・今川家の家臣だった。その北条早雲が関東の騒乱に乗じて下克

上によって伊豆を奪い、ついには箱根の坂を越えて小田原城を奪い、戦国大

名として独立したのである。

 北条早雲の野望は、京の都ではなく、関東の広大な平野へと向けられてい

た。

 都は陰謀と因習と怨霊がうごめく公家の世界。平氏。源義仲みなもとのよしなか。源義経よしつね。都に

関わった武家はことごとく滅びてきた。武家はあくまでも関東に政権を建て

ねばならない。京の室町に幕府を置いた足利幕府の体制は、御所を二つに

割った南北朝の動乱、幕府と関東公方との対立、さらには応仁の乱による戦

国時代突入という失策続きに終わった。

 だが、かつて武家政権が成功した時代がある。源頼朝よりともが京に背を向けて鎌

倉に幕府を開き、その幕府を北条氏が支えてきた時代だ。鎌倉幕府は、あの

日ノ本最大の国難とも言うべき元寇をも乗り切った。

 早雲は、そのいにしえの北条氏のように関東に強力な武家政権を樹立し、

いっそ混沌の元凶となってきた京の都から事実上独立するつもりだった。

 故に、早雲とその一族は、北条を名乗り、関東制覇の野望を隠そうともせ

ず武蔵侵攻を開始していた――最大の敵は、関東管領上杉家。さらには管領

家と同族の扇谷おうぎがやつ上杉家や、古河公方こがくぼう足利家など、関東における足利幕府の要職に就く諸家もことごとく一掃しなければならなかった。北条二代目氏綱うじつなは、武蔵の江戸城、さらには河越城を奪取し、武蔵における北条家支配の基盤を固めたところで、没した。

 そして今、祖父と父が着々と領土を拡大してきた北条家を継いだばかりの

若き姫武将が三代目・北条氏康うじやす

 父・氏綱は祖父・早雲の遺志を継いで武蔵の大部分を征服したが、課題も

残していた。かつての同盟国である駿河今川家との紛争だった。今川家で家

督を巡る内紛が起き、今川義元よしもとが勝利した際、今川義元はかつての敵であっ

た甲斐の武田信虎から義妹を迎えて同盟を結んだ。さんざん今川の要請で武

田と戦わされてきた氏綱はこれを不服として今川と手切れし、今川領へ侵攻。

駿河東部――富士川より東の地域、いわゆる「河東」を軍事占領した。

 ところが、これが順風満帆だった北条のつまずきとなった。東に、関東管

領上杉家を盟主とする関東連合軍。西に、駿河今川。二つの強敵を同時に抱

え、二方面作戦を余儀なくされることとなったのだ。氏綱は二方面に拡大し

た戦線を駆け回るうちに病を発して死んだ。

 まだうら若き色白の少女・伊豆いず千代丸ちよまること北条氏康は、予定よりもはるかに早く、唐突に北条家三代目に就任しなければならなかった。

「おばば。早く小田原城に帰りたいわ。私は合戦が嫌いなの。父上は、どう

して戦線を拡大するだけ拡大してしまったのかしら……河越城に籠城してい

る『つな』(北条綱成。氏康の義妹)が心配だわ」

 今川軍、富士川を渡り河東の地奪回の戦を興す。

 同時に、関東連合軍が武蔵で策動を開始。

 氏康は家督を継ぐなり、いきなり北条家滅亡の危機に立たされていた。

 河東の地を進軍しながら、馬上で氏康は「帰りたいわ。早く帰りたい」と

ため息をついている。

 長い黒髪と色白の肌、折れそうにきゃしゃな身体を持つ彼女は太陽の光を

嫌い、乗馬も弓も槍も苦手な戦嫌い。だが今川義元のような公家趣味はな

かった。小田原城の一角に設けた自室の窓から相模の海を眺めている時がい

ちばん幸せだと感じるようなところがあり、いわゆるひきこもり癖の持ち主

だった。合戦は同い年で義妹の勇将・綱成つなしげに任せきりという形になるはず

だったが、父が二方面作戦を開始してしまったために、今は綱成が武蔵で、

氏康自身が駿河で兵を率いることになっていた。

「ふぉっふぉっ。そうは申しましても姫。戦を仕掛けてきたのは今川のほう

ですじゃ。降りかかる火の粉を払わずして、北条の家は守れませぬぞえ」

 氏康に付き従う年齢不詳の小柄な老婆が、歯の抜けた口をすぼませながら

笑った。

 初代・北条早雲の妹、北条幻庵げんあん

 もはや長生きしすぎて、実年齢は不詳。

 本人は「わしは早雲どのの妹ではなく娘じゃ。まだまだ若いおなごじゃ」

と言い張っているが、早雲の生前から早雲よりもはるかに老けて見えたので、

一説によれば実は早雲の母親なのではないかとすら言われている。

 ともあれ、幻庵の正体と実年齢については、氏康といえども深く詮索する

ことはまかりならない。「おばばはまだ若いのじゃーっ!」と激怒されるか

らだ。

「いやはや。今川軍だけならば蹴散らせるかと思うておったが、自らの父親

を追放した武田晴信の援軍が手強いわい。このままでは三島の地まで奪われ

ることは必定。姫、今川と和睦するなら今日が最初で最後の好機ですぞ」

「この関東の主たるべき私が今川ごときに和を乞うなんて屈辱だわ。ところ

でおばば、あなたには長久保城の守将を任せたはずなのに、どうして一人で

城を抜け出して私の隣にいるわけ?」

「ああ。長久保城はもうもたぬ。落城してしまう前に夜逃げしてきたのじゃ。

おばばがおらねば、気位ばかり高い姫はまともに今川と交渉できぬであろう

でな。おばばが場を賑やかしてやろうのう。ふぉっふぉっふぉっ」

「味方を置き捨てて……逃げ足が速いおばばね。長生きするわね」

「常に戦場で、さっさと小田原城に帰ることばかり考えている姫には言われ

とうない」

「あら。小田原城は箱根の山と駿河の海に守られた天険の城。あすこへ籠城

してしまえば、一年は容易に持ちこたえられる。その一年のうちに城を包囲

した敵軍を風魔を用いて分断・混乱させてしまえば、必ず勝てるのよ。私は

幼い頃から、いかにして敵軍と正面から戦わずに勝つかを考え抜いて、小田

原城への籠城こそ至高という結論に達したのよ」

「そもそも、敵さんは一年も兵站がもたぬわいて。足軽どもは、田畑の収穫

時期には国元に帰らねばならぬ。長滞陣をすればするほど、士気は落ち風魔

の謀略にもかかりやすうなるわ」

「そういうこと」

 氏康は今、善徳寺へと向かっている。

 今川・武田との停戦交渉の場だ。

 戦況は、圧倒的に今川・武田が優勢である。

 北条は主力が河越城に釘付けになっているため、河東にはわずかな兵力で

臨んでいる。くわえて、氏康は戦下手だ。

 一方、今川方には武田晴信の援軍がついていて、これが意外にも精強だっ

た。姫武将の晴信は父・信虎とはまるで正反対の文弱の徒、合戦での強さは

北条氏康と似たり寄ったりだというのがもっぱらの評判だったが、いざ武田

軍と槍を交えてみるとその噂が大外れだったことがすぐにわかった。

「武田晴信は姫と似たような娘子らしいのですが、山本勘助ちゅう得体の知

れぬ初老の醜男ぶおとこ軍師が補佐しておるのじゃな。あれが妙に采配がうまい。

ふぉっふぉっふぉっ」

「あらそう。おばばも、得体の知れなさだけは山本勘助並みなのに、戦は下

手よね」

「くわーっ! 北条早雲の娘であるおばばとあのような者を一緒にするで

なーい!」

「あら? おばばは早雲の妹、じゃなかった?」

「そうじゃったかのう? おばばは年でのう、もうろくしておるのでのう

……ふぉっふぉっ。ともあれ、この交渉の席は二方面作戦の愚を抜け出す千

載一遇の機会。鉄面皮の冷血娘の本性を出すでないぞ」

「おばば。私は常に冷静なだけよ。鉄面皮だなんて、やめて頂戴ちようだい

 駿河・善徳寺。

 武田晴信が今川の援軍要請に応えた真の目的は、窮地に追い込まれている

北条を潰すことではなく、今川と北条の和睦を成立させることにあった。

 勘助と晴信の大戦略「三国同盟」への布石を打つためである。

 そのため、緒戦において北条軍を敗走させたあと、晴信はこれを追撃する

ことなく北条方・今川方それぞれに「このあたりで和睦を」と働きかけた。

 この日、東国を代表する三人の姫大名が、善徳寺で顔を合わせた。

 甲斐の武田晴信。

 駿河の今川義元。

 相模の北条氏康。

 日輪のように艶やかな義元と腺病質で青白い肌を持つ美少女・氏康は、互

いを見るなり露骨に不機嫌になった――これまでの河東一帯を巡る紛争で感

情的にもこじれていたし、それに二人の姫は性質も容姿もあまりにも対照的

すぎた。

 この二人を二人のままで対面させている限り、和睦は不可能なはずだった。

 だがこの場には今、「第三の勢力」晴信がいる。

 晴信は文弱の徒と呼ばれていたはずだったが、廃嫡されかけるという窮地

にやおら虎の如き本性を現し、父を追放して甲斐一国をとりまとめ、諏訪家

との婚姻同盟を破ってたちまち諏訪を奪った。

 さらにはこのたびの河東の乱においても、甲州軍を見事に進退させ、ただ

の学問肌の姫武将ではないところを今川・北条に証明してみせた。

 義元も氏康も、晴信の侮れない実力を認めたからこそ、この交渉の席に着

いたのだった。

「お初にお目にかかる。あたしが甲斐の新たな守護、武田晴信だ」

 義元ははじめて見た晴信の中に教養人らしい気品を感じ取って「もっと山

猿のような姫かと思っていましたが、意外に雅びな一面もありますのね」と

それなりに見直し、氏康は「甲斐におとなしくひきこもっていられるような

顔には見えないわ。いかにも戦好きの野蛮人だわ」とまるで逆の感想を抱い

た。

(勘助。豪快な猛将の演技が効き過ぎているのかしら。北条氏康にほんもの

の山猿だと思われているみたい)

 晴信は泣き言を言いたかったが、素顔の勝千代の姿を外交の席で見せるわ

けにはいかない。勘助は「将たるものとして悠然と構え、武辺者の英雄を演

じなさいませ。さもなくば敵に侮られます。しかし感情をあらわにしてもな

りません。心のうちを読まれます」と、気を抜くとすぐに「勝千代」に戻っ

てしまう晴信を常々きつく教育している。

 そして。

「拙者、御屋形さまにお仕えする軍師、山本勘助。今川と北条の戦いをこの

あたりで終わらせるため、御屋形さまは駿河へ出陣なされたのです」

 晴信の隣には、その隻眼の軍師・山本勘助が。

 今川義元の隣には、黒衣の宰相・太原雪斎が。

「どこかで見た顔と思えばそなた、かつて今川家に仕官願に来たことが。武

田家に召し抱えられていたとは」

「は。今川義元さまにはどうにもあやしげであると袖にされましたが、わが

御屋形さまに拾っていただきました。御屋形さまはそれがしがいかにもあや

しげであるところがかえって気に入られておるご様子」

「信虎どの追放劇の裏には、そなたの策謀があったか。なるほど。甲斐でな

にがあったか、おおむね理解した。しかし、これまで叛服常なく互いをけん

制し合ってきたこの三国が和して無益な戦を避けるというそなたの案は、実

に良い」

「ふぉっふぉっ。勘助どのも雪斎どのも、見るからにあやしげな男じゃの

う」

 北条氏康の隣には、一族の長老・北条幻庵が。

 三国を代表する策士たちもまた、集まっていた。

「ふぉっふぉっ。特に勘助どの。その面相と獣のような視線はいかん、いか

ん。そちにはおばばの絶品の尺八を味わわせてはやらんわ」

「ぐわあ! 不気味な妖怪婆め! そんなもの要らぬわ! それがしを殺す

つもりか!」

 勘助、あなたが感情を剥き出しにしてどうするの、と晴信がため息をつい

た。勘助には、なぜか「女嫌い」という癖がある。単に人と人としてつきあ

う分には問題ないのだが、男女のことを持ち出されると突然狼狽ろうばいする。特に

年増とかばあさんは絶対にだめらしい。

「雪斎どのは、まあ、年寄りとはいえ男前じゃからの。わが尺八の腕をちら

りと見せてやってもよいぞ、よいぞ」

「拙僧は出家の身。遠慮いたす。ぶる、ぶる」

 さすがの雪斎も怖じ気をふるっていた。

 絶品の尺八をいただけるのならもらいましょうよ雪斎、とあどけない義元

が笑っているが、雪斎は敢えて幻庵のおぞましい言葉の真意を伝えなかった。

義元の耳が汚れると思ったのだろう。

「そちらにはうちの姫は嫁にやらんぞえ。北条家は関東の覇者となるべき家

じゃからのう。今更、今川家の家臣には戻らぬわ」

 ともあれ幻庵の軽口で、三者はこの場を支配していた異常な緊迫感から脱

した。

 理と利を唱えて和睦を提案するは、武田晴信。

 言い聞かせる相手は、東海一の弓取り・今川義元。その片腕で勘助ですら

能力を認める伝説の名宰相・太原雪斎。さらに、北条三代目氏康。早雲以来

の北条家の長老・北条幻庵。

 この日この時こそが、晴信にとっては長い天下争奪戦レースへの公式デ

ビューと言えた。

「初代早雲公以来、北条家の悲願は関東制覇。対する今川家は東海道を進み

上洛し、足利幕府を再興する使命を持つ名家。つまり北条家は東へ、今川家

は西へ進まなければならないはず。にもかかわらずわが父・信虎がかつての敵

今川と同盟を結んだことが、両家の対立を呼び河東の乱を引き起こした。そ

れ故に、今川家の西進策は遅々として進まず、北条家に至っては関東管領と

今川の挟撃に遭って河越城は落城寸前。まずは、関東制覇と上洛という両家

の志はいまだに変わっていないことを確かめたい。義元どの、氏康どの、い

かがか」

 晴信の目つきが変わった。

 心優しい少女・勝千代のものではなく、甲斐守護・武田晴信の虎のような

視線へと。

 晴信どのは父君・信虎どのがおっしゃるように元来は柔和な学問肌の姫。

これはあくまでも猛将を演じる芝居であろうが、しかしこの溢れる知性とそ

して隠しきれない野望の炎はただ者ではない……と太原雪斎は驚愕した。

 幻庵のおばばも「ほう。この覇気。うちの姫とは大違い」と目を丸くして

いる。

 そんな晴信にも動じない義元が「もちろん今川家はいずれ上洛するのです

わ。足利本家、吉良家に次ぐ名門ですもの。それなのに北条さんが邪魔をし

ているのですわ。河東を返還していただけるのでしたら、停戦を考えてあげ

てもいいですわよ」と高飛車に笑った。

 御屋形さま一世一代の名演技にただ一人気圧けおされていない。鈍いのか、それとも気位が高すぎるのか、これはこれである意味大物だ、と勘助は思った。

 そして直感と分析力に秀でた北条氏康は、

(武田晴信。やはり、自分の父親を駿河に追放しただけのことはある。まる

で飢えた虎。絶対に心を許してはならない女だわ。しかし、この女には一時

の感情に流されず「利」を計算して動くだけの知能の高さがある。あるいは

この私にも匹敵する知性が。あとは、この女の「志」さえ知ることができれ

ば、歩調を合わせて有効活用することも可能。北条を二方面作戦の窮地から

救うには、この女に賭けるしかない)

 と素早く踏んだ。

「武田晴信。あなたの言う通り。私の、いえ、北条家の夢は、志は関東制覇。

平将門公以来の武家の夢、都の貴族や公家たちに縛られない関東独立王国を

建国することよ。本来、今川義元にも駿河にも興味はないわ。それに私には

武田にも怨恨はない。あなたの父上・信虎公と、私の父・氏綱とは竜虎相搏

つ激戦を繰り広げた仇敵同士だったけれど、期せずしてお互いにこうして若

い世代に代替わりした」

「ならば、北条の先代が奪い取った河東の地を今川に返還していただく。そ

れで今川・北条両家の和は成り、わが武田も今後は古き怨恨を捨てて北条を

支援する。わが武田の悲願は、信濃の平定。米も塩も採れぬ甲斐に巣ごもっ

ていては、家臣も領民も苦しむばかり。あたしは必ずや信濃を奪う。そして

そのためには、上野こうずけに根を張る関東管領上杉家が障害となる」

「あら。上杉家は、北条の仇敵でもあるわね」

「そうだ。武田と北条は、同じ敵を持っている。われらの利害は一致しよう、

氏康どの。いずれはこの三国がともに婚姻同盟を結び合って、三国同盟を成

立させるべきだとあたしは思う」

 三国同盟! 雪斎さんが予言した通りの展開ですわ! と義元が歓声を上

げた。

「あらあらまあまあ。北を武田さんが、東を北条さんががっちり固めていれ

ば、背後の憂いはいっさい消える。今川の上洛は簡単になりますわね、雪斎

さん! 尾張の織田信秀お だのぶひでさんさえ倒せば、都まではすぐですわ!」

「……御意」

 しかし氏康は、浮かれない。顔色ひとつ変えず、能面のような表情のまま、

晴信の心へと斬りこんだ。

「でも武田晴信。信濃を奪ったあとは、どうするの? 関東は北条が。都は

今川が。それでは、武田晴信の野望の終わりは、完結は、いったいどこにあ

るのかしら?」

 あたかも「いずれあなたは今川から駿河の海を奪うのではなくて」と言い

たげであった。

 勘助が(鋭い女だ……!)と脂汗を流した。

 しかし晴信とあらかじめ準備した想定問答集の中に、すでに解答があった。

晴信はそのすべてを暗記している。

「さらに北へ進んで、越後へ。あたしは海が欲しい。甲斐も信濃も山国。塩

と、貿易のための港とを、どうしても確保したい」

 この発言がのちに武田家の、晴信と長尾景虎の運命を大きく変えることに

なるのだが、今はまだ晴信も勘助も北条氏康も、そのことに気づいてはいな

い。この時まだ、景虎は越後の守護代ですらないのだ。越後に不敗無敵の軍

神・長尾景虎ながお かげとらが、のちの上杉謙信けんしんがまもなく現れることなど、誰にも予想で

きることではなかった。

 北条氏康。あたしと年は変わらないのに、まるで氷のような心の持ち主。

人の心の奥底を平然と覗き込んでくる恐ろしい女。でもこれで乗り切れた、

三国同盟の布石は成った、北条も今川も今後は甲斐に攻め入ってはこない。

あたしは両家に対等の格を認められ、そして信濃攻略もやっと軌道に乗った

――晴信が安堵のため息をつこうとした時、氏康が不意を突いた。

「越後の海? それは甲斐にとって必要なものを奪うというだけの話よ。あ

なた自身の野望の終わりではないわ。武田晴信。あなたのほんとうの夢はな

に? それを教えてくれれば、あなたを信じるわ」

 勘助が「あいや。それは」と顔色を変えて氏康を制止しようとしたが、晴

信は逃げなかった。

 氏康の細い目をにらみつけながら、胸を張って、言った。

。あたしは、あたしの父上がやったことの逆をやる。この武田晴信が

臆病者ではないことを天下に証明する。いずれは、甲州軍を日ノ本最強の軍

団に育て上げる。武田晴信は、古今無双の名将、戦国最強の武将となる」

 想定問答集にはそのような言葉はなかった、と勘助は隻眼を見開いて震え

ていた。

「つまり駿河に追放した父親に認められたい、それがあなたの夢なのね。武

田晴信。そのためならば、果てしない戦いの日々を突き進む覚悟があるとい

うのね」

「そうだ氏康。そのためならば、必要があれば今川とも北条とも一戦を交え

ることをあたしはいとわない。しかし今のところ関東も都も、あたしの眼中に

はない。お前たちにくれてやる。甲斐はまだ弱小国だからな。だが、日ノ本

最強はあくまでもこの武田だ。今は弱くとも、あたしは必ずこの国の歴史に

なかった最強の軍団を編成してみせる」

「武田家の志をあなたは継がないのね。それでは、あなたの野望には歯止め

がない。終わりがなくなる。誰も、ここで終わりだ、もう十分だ、よくやっ

た、と止めてくれない。せっかく美しく高貴な姫の身に生まれながら、生涯

を合戦に費やしてしまうつもり? 悲しい女だわ、あなたって」

「違うな。父上に志と言えるものはなかった。武田家を守るため、生き延び

るためにがむしゃらに戦ってきただけだ。甲斐を統一するところで父上の役

割は終わった。その先の展望を、父上は持っていなかった。そのような余裕

もなかった。だから目先の平和のために諏訪と同盟などしたのだ。氏康、お

前とあたしとは違う。父親に甘やかされてきた分、お前は甘い」

「どうかしら。それは、戦ってみなければわからないわ。小田原城は誰にも

落とせないわ」

「ふん。最初からあたしと戦うつもりがないのだろう。甲斐のような貧しい

国など奪っても、北条にはなんの利益もないからな」

 氏康が、はじめて笑った。唇の端をわずかに吊り上げるだけの、酷薄な笑

顔だった。

「その通りよ。武田晴信。あなたの胸に秘めた志を、たしかに聞いたわ。あ

なたはまるで、生まれてから一度たりとも餌にありついたことのない飢えた

虎だわ。同盟相手として信用すべき女ではないけれど、利で結びついている

限りは信頼できるわ」

 北条氏康が、武田晴信を自分と対等の戦国大名として認めた、ということ

だった。

 緊張の糸が切れたかのように、勘助が震えながら安堵のため息をついた。

 世の中には恐ろしい娘がいるものだ……よくぞ御屋形さまは正面から乗り

切られた、と若く美しい両雄を見つめながら。

「あらあらまあまあ。わらわにはぴんと来ませんでしたが、どうやら今ここ

に女と女の友情が生まれたらしいですわね。天晴あつぱれですわ、晴信さん。褒美

に、花丸の扇子を贈ってさしあげますわ」

 勘助以上に緊張し消耗していた晴信が、うっとうしそうに義元が頭の上に

掲げてきた扇を手で振り払った。

「……いらない」

「晴信さん? 父親に認められたいというけなげなあなたの心、しかと受け

止めましたわ。わらわのことも、これからは義元と呼び捨てにしていいです

わよ」

「……お前と友達になるつもりはない」

「どうしてですのっ? 氏康さんとはお友達になったのに? わらわだけの

け者ですのっ? もしかして、わらわの高貴な血筋故にっ? 遠慮はいりま

せんのよ。あなたが甲斐の山猿であろうとも、差別などしませんわよ? そ

もそもこのわらわと釣り合う血筋を持つ姫武将など、足利将軍家にしかおり

ませんものね! おーっほっほっほ!」

「雪斎どの。あたしはとても疲れている。義元を静かにさせてくれ。耳が痛

い」

「いえ晴信どの。わが姫は心のままに自由に言葉を連ねるお方。好きに語ら

せていただきます」

 理詰めで生きている氏康よりも、なにも考えずに心の赴くまま好き勝手に

振る舞っている義元のほうが厄介な相手かもしれない、と晴信は思った。

 案外、義元はあっさり上洛に成功して易々やすやすと天下人になってしまうかもし

れない、とも。

 それはそれで構わないかもしれない、とも。

 天下を、晴信は夢見ている。しかし今日、氏康との対決の際に、晴信は自

分が抱いていた真の志を知った。最強の武将、最強の軍団――むろん「天下

人」になることこそが最強を知らしめるもっとも有効な道であることに違い

はない。だが、自分のほんとうの志は、天下人という結果ではなく、最強と

いう存在そのもの、最強を目指す過程そのものにある――。

 信虎を追放するという晴信の選択が間違いであったと、父・信虎に感じさ

せてはならなかった。正解であった、と認めてもらいたかった。認めさせね

ばならなかった。そのためには、ただ上洛するだけでは足りないのだ。問答

無用の、天下無双の武田甲州軍団を率いる日ノ本最強の名将に自らを成長さ

せなければならないのだ。

 祖父と父に愛されて家督を継ぎその志をも継いだ氏康とは、そもそもの出

発点が違う。

 だがしかし、義元は父親に放置されて幼い頃からずっと寺に預けられてい

たはずだが、不思議と義元の心の中にはその生い立ちのために欠落したもの

がまったくないらしい。そこも、義元が持つ得体の知れない徳のような気が

した。それは自分にはないものだとも。

 隣で、勘助が(御屋形さまの野望は果てしがなく巨大で、器には収まらぬ

のです。それでよいのです。この勘助が軍師として、天下という結果へ御屋

形さまを導きます。そのための策は、すでに練っておりまする)とうなずい

ている。

「今川義元、河東の地を返還してあげるわ。北条の敵は関東管領上杉家。二

度と駿河には兵を入れない。だから、武田晴信が、この甲斐の虎が成長して

戦国最強の軍団を編成してしまう前に、さっさと上洛しなさい――さもなく

ばあなた、駿河でぐずぐずしていると業を煮やした晴信に滅ぼされるわよ」

 氏康が、静かに席を立った。

 ちりん、と氏康の首にかけられている金色の鈴が、鳴った。

「氏康どの、その鈴は?」

 勘助が問うた。

「場合によっては風魔に命じて皆暗殺させるつもりだったけれど、気が変

わったの。あなたたちを生かしておいたほうがはるかに北条の利になる」

「あいや氏康どの。わが武田もこの寺の周囲に、真田の乱破らつぱ を忍ばせており

ます。それは不可能だったかと」

「そのようね。真田の庄には、風魔とはまた別系統の異形の忍びがいると聞

くわ」

「御意」

「その点、今川の忍びは少し甘い。ただの人間どもみたいね。雪斎、お上品

なあなたらしいけれど注意したほうがいいわよ。この世界には、人間の世界

の常識でははかれない異形の力を持つ者がいる。彼らは決して歴史の表舞台

には立とうとしないけれど、神秘は確実に存在する。あるいはまた、この世

界の『彼方かなた』から来る者も、いるかもしれないわ――」

「ほう。冷めた氏康どのとも思えぬ、意外なお言葉。この世界の彼方から来

る者。そのような者が実在すれば、それはまるで神ではありませぬか」

「幼い頃から周囲に風魔の者どもをはべらせていれば、誰だってそう思うよう

になるわよ。私は、現実に存在する者はどれほど不合理であっても否定しな

いの。これほど世俗にまみれて汚れた世界にもまだ、神秘が満ちている」

 拙僧は信仰の場ではともかく、戦場では神秘も異形の力も信じませぬ。幻

庵のおばばさまはまさしく異形の者だとは存じますが、と雪斎は苦笑してい

た。

「にゃんと。おばばのどこが異形なのじゃーっ!」

 今川と北条の和議は、成立した――。

 北条氏康が義妹・綱成を救出するために、河越城の周囲を埋め尽くした

八万の関東管領軍に、わずか八千の手勢を率いて乾坤一擲けんこんいつてきの奇襲を敢行し

殲滅せんめつしたのは、これからまもなくのことだった。

 氷のように冷たい心を持つとうそぶく氏康だったが、幼い頃からともに過

ごしてきた義妹・綱成に対してだけは、別だったのだ。

 しかし、三者会談はこれで終わったが、この後に想定外のことがあった。

 北条氏康が、河越城の救援に急ぎ出立したあと――

 すっかり帰り支度をはじめていた今川義元の隣で、太原雪斎が、晴信に

「客人をお招きしております。どうしても晴信どのに会わせろと聞かぬ故」

と耳打ちした。

 勘助は雪斎に「こちらで茶を」と遮られて通されず、晴信だけがその客人

の待ち受ける茶室へと入った。

 晴信を待っていた客人とは――。

「勝千代。いや晴信。そなたの話、ふすま越しに聞かせてもろうたぞ。このわし

の為したことのことごとく逆を行くと言うたな。ならばそなたは、いずれ駿

河今川家との同盟も破り、定をも踏みつけにするつもりなのであろう」

「……父上!?」

 晴信が駿河の今川家のもとへ追放した、実父・武田信虎だった。

 戦場で鍛え上げられた肉体の持ち主。

 虎狼のような瞳は、娘の晴信によく似ていた。

「座れ。雪斎に、刀を取り上げられておる。それでもなお、わしを恐れるか。

そなたはまことの臆病者よ」

「恐れるなど。あたしは、甲斐の当主です」

 晴信は、信虎の正面にあぐらをかいて座った。

 もしも信虎の動きに不審なところがあれば、即座に父であろうが抜き打ち

する覚悟だった。

「すでにわしは隠居させられた身。雪斎にも止められたが、どうしてもそな

たに一言言わねばならぬのでな。諏訪頼重のことよ。諏訪との同盟を反故に

するのも諏訪を併呑するのもそなたの勝手。しかし、うぬは諏訪に嫁がせた

禰々を犠牲にしたのじゃ。晴信。うぬの諏訪での勝利は、禰々を踏みつけに

した結果ぞ。うぬは……武田の一門を裏切ったのだ!」

「諏訪を取らねば、信濃平定は不可能です」

「武田の掟を忘れたのか、この臆病者!」

「武田家百年のことを考えればこその諏訪攻めです。甲斐に巣ごもっていれ

ば、いずれ巨大化した天下人勢力に武田は滅ぼされます」

「理屈じゃ。武田が駿河、北条と手を組めば、いずれは今川義元が上洛して

天下人になってしまうではないか!」

「父上。雪斎どのに聞かれます」

「この隠居との会話を雪斎に聞かれようと聞かれまいと、雪斎はうぬの野望

の激しさをすでに知っておるわ! 野望なき娘が、父親を隣国へ追放などす

るまいぞ!」

「……」

「海を持たぬ甲斐と駿河では国力も地の利も違いすぎる。差が大きすぎる。

故にわしは駿河と結んだのよ」

「地の利のなさは、武田が誇る人の和によって補えまする」

「うぬが信濃平定に躍起になっているうちに、太原雪斎は堂々の上洛戦を興

すぞ! その時、うぬは禰々に続いて定まで泣かせるか。二人の妹を裏切る

か?」

 晴信は、信虎の視線を受け止めながら、うなずいた。

「……必要とあらば」

「晴信! そなたのその際限のない野望が、武田一族ことごとくをついには

滅ぼす結果となるであろう! そなたは己の足下に広がる大地を見ていない。

武家にとって大切なもの、守るべきものは一族の血と、そして祖先伝来の土

地じゃ。そなたが追い求めている日ノ本最強の名将などは、そなたの頭がこ

しらえた観念にすぎぬ! 一足飛びにそのような途方もないものを欲するの

は、そなたが臆病であるためぞ!」

「臆病のなにがいけないのですか父上。臆病こそ、用心深さと周到さの源泉。

あたしは父上のような油断はしません。甲斐の国を富ませ、最強不敗の軍団

を育成し、必ずや今川を出し抜きます。戦国日ノ本最強の武将は武田晴信。

未来永劫、この国の民にそう語らせます」

 雪斎に不意打ちを食らったにも拘わらず、晴信は激高する信虎の前でも

堂々と己の意見を述べた。

 勘助と出会い、家督を奪うと決断した瞬間から、晴信の中でなにかが大き

く変わった――それはあるいは武将としての成長とも言えるし、あるいは己

の野望の虜となっていたとも言える。その激しい野望は、紛れもなく乱世の

猛将でありかつ策謀家であった父・信虎から継承したものだった。

 これがあのわしの恫喝どうかつにいちいち怯えていた娘か。まるで見違えるように

なった、若き虎じゃ、と信虎は目を細めたくなった。

 だが、あやうい。しょせんは学問と書物の世界で頭をこしらえた娘よ、ま

ことの合戦の修羅場を晴信はまだ知らないのじゃ、と思い直した。

「晴信。わしは、そのような頭でこしらえたものなど決して認めぬぞ! わ

しが求めるものは現実じゃ、結果じゃ!」

「承知。むろん結果を出さねば、人々はあたしを最強とは認めますまい」

「晴信! 日ノ本最強を名乗るのであれば、必ずや勢田に武田菱の旗を立て

よ! 今川に後れを取るでないぞ! よいな!」

 晴信は、ぴくりと肩を震わせた。

 信虎との不意打ちの対面において、はじめて、大きく心が揺らいだ。

 これまで信虎から「武田の当主としてなにごとかをなせ」と命じられた経

験が、晴信には、なかったのだ。

「……それで、あたしを認めてくださいますか。父上」

 かろうじて、その言葉は、声になった。

「そなたがどれほどの臆病者であろうとも、すべては結果じゃ。まこと上洛

を果たせば、武田家中興の英雄と認めざるを得まい」

「それでは、承りました」

「この父に誓えるか!」

「誓いましょう」

「頭の中ではなんとでもなるわ。しかしまこと修羅の日々に耐えられるのか、

そちのような文弱の徒が?」

「すでにその覚悟です。そうでなければ、禰々に犠牲を強いたりはできませ

ん」

 晴信は、胸を張った。

 今にも晴信に飛びかかりそうな勢いで怒鳴り続けていた信虎だったが、晴

信がまなじりを吊り上げていささかもひるまぬ姿を見た、信虎のほうが疲れ

果てたように肩を落とした。

れ者めが」

 茶を てながら、信虎はつぶやいていた。

 その仕草が、どこか、老いていた。

 晴信は胸を突かれそうになった。

「なぜ、駿河で悠々自適の平穏な日々を過ごさぬ。なぜ修羅場へと向かう

……なにが、そなたをかき立てるのじゃ」

「父上から受け継いだ、血でありましょう」

 信虎はそれ以上口を開かなかった――雪斎の耳に入れてはならぬ言葉を、

彼は晴信にかけてやりたかったのだ。

(晴信。雪斎はもう死んでもおかしくない歳じゃ。それにひきかえ、そなた

は眩しいほどに若い。やれ。今川を出し抜け。京に風林火山の旗を立てよ。

わしはこれより、陰からそなたを支援しよう)

 その想いが、晴信に伝わったか、どうか。

 信虎も晴信も、どうしてもお互いに、素直になれなかった。

 言えば晴信が甘えるかもしれぬ、黙っていたほうがよい、と信虎は思った。

 晴信は、信虎の口から罵倒以外のなにごとかの言葉を期待して待ち続けて

いたが、お互いに無言のまま時が流れた。

「上洛を果たすまで、二度と会いますまい。さらばです、父上」

 晴信は「父上、おさらばです」と静かに頭を下げ、部屋を出た――。

 親子はこの時、甲斐で悲劇の種が蒔かれていることを知らなかった。

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