第十八話 越軍上洛

 長尾景虎、京に返り咲いた剣豪将軍・足利義輝に乞われ、五千の越兵を率いて「近衛軍」として堂々の上洛上洛――。

 北信濃・川中島を巡る武田晴信との戦いに固執し、さらには関東管領・上杉憲政に引きずられて関東遠征をはじめようとしている景虎の「運命」を、宰相の直江大和はどうにかして畿内へ――「天下」へと向けさせたかった。そのための、二度に及ぶ上洛作戦だった。今ついにその直江の長年の工作が実を結び、越軍は足利将軍と幕府を守護する「近衛軍」として京へ迎えられたのだ。

 景虎にとって、これが二度目の上洛となる。しかも、将軍から「余を助けよ」と直接乞われての、堂々の義軍進発だった。通り道にあたる越前の朝倉義景、近江の六角家、そして浅井家といった諸大名はみな将軍が直々に招集した越軍の自国通過を認め、それどころか越軍の長駆遠征に協力を惜しまなかった。

 対する武田晴信は、まだ京の地を一度も踏んだことがない。

 近江の街道を堂々と進軍していた景虎の心は、しかし、故郷越後の春日山を彷徨さまよっていた。


 景虎は今回の上洛にあたって、宰相の直江大和、軍師・宇佐美定満、猛将・柿崎景家の三人をことごとく上洛軍に参加させた。将軍と和睦したとはいえ、畿内の覇者である三好松永がいつまた将軍を京から追うか予断を許さない。景虎は、もしもの時は五千の兵を率いて三好松永と一戦に及び、これを四国へ追うという覚悟だった。そのために、景虎を文武両面で支えるこの三人はどうしても欠かせなかったのだ。

 越後の春日山城を守る留守居役には――またしても、「野望の男」長尾政景を抜擢ばってきしていた。景虎は以前高野山にのぼって出家しようとした時も、政景に後を委ねようとした。そして、今回もまた。京で三好松永と戦うことになれば、景虎は二度と越後へ戻れぬ可能性もあるのだ。

 出立前夜の春日山城で、景虎は姉の綾と、そして綾の子である卯松うまつとを迎えて、「姫武将」ではなくただの少女としてひとときの時間を過ごした。

 卯松は、綾と、長尾政景との子だ。姫だが、景虎の前例があるので、将来は姫武将となれる。景虎がこのまま生涯独身を貫けば、越後守護の座は卯松が継ぐことになるだろう。が、その夜の景虎にとってはそのようなことはどうでもよかった。

「なんてかわいいのだろう……これが、赤ちゃん……かわいい。それに、いい匂いがする」

 綾は、卯松を抱きしめて離さない景虎を微笑ほほえましく眺めていた。

「景虎も殿方と祝言を挙げて、赤ちゃんを産めばいいのに。かわいいでしょう。なにを犠牲にしてでも、守ってあげたい、育ててあげたい、と思わずにはいられなくなる。あなたが生まれてきた時を思いだすわ、景虎」

「……わたしが生まれてきた時……」

「亡きお父上も、政景も、戦場で大勢の人を殺した。父親は、罪深いかもしれない。でも、生まれてきた子には罪はないわ。あなたは、この子が政景の罪を背負うべきだと、政景の罪を償うために生まれてきたのだと、そう思える?」

「まさか。この子はこの戦国の世のことを、なにも知りません。無垢むくなままに生まれてきたのです。罪など、あるはずがありません。だって……こんなにも……かわいいのに……」

 あなたもそうなのよ、景虎、と綾は殿方たちの訪問を避けるために夜ごと毘沙門びしゃもん堂に籠もって琵琶びわを鳴らし続けているこの真っ白い雪の精のような妹に、そっと言い聞かせていた。

 景虎は(赤ちゃんが、これほどかわいいなんて。政景の罪をこの子が背負っているはずがない。わたしも、子を産めば……この、いくら義戦を繰り返しても満たされない心の虚しさと寂しさが、わが子への愛情によって埋められるのだろうか)とふと迷った。幼くして自らに課した「生涯不犯ふぼんの誓い」が、どれほど悲しいものなのか、景虎ははじめて知った気がした。

 たとえ、いつの日か武田晴信を川中島で「捕まえて」も、ともに姫武将である晴信とわたしとの間では子は生まれぬ、とも思った。

「……卯松。わたしが、字を教えてあげよう。ほら、筆を握って」

 卯松をわが子のように慈しむ景虎と、その景虎にそっと寄り添う綾の姿を、二人の背後に立っていた長尾政景は複雑な思いで見守っていた――。

「フン。この俺が死ねば、生涯不犯の誓いなど捨て去ってしまいそうだな、景虎……だがお前はもう俺を始末できん。俺は、卯松の父親なのだからな。俺を殺せば綾と卯松が悲しみ、二人の将来に暗雲が漂う。揃って、粛清されるかもな」

 春日山城の留守居役という大役を預けられた政景は、景虎がただの少女のように微笑み卯松を慈しんでいる姿を見ているうちに、耐えがたくなったらしい。いつも以上の憎まれ口をたたいていた。

 しかし、景虎はいつものようには激昂げっこうしなかった。

 景虎を苦しめてきたどのような怒りも悲しみも、卯松の笑顔が溶かしてしまう。

「……政景。もしもわたしが京から戻れなかったその時には、そなたが越後の国主となり、姉上とこの子を守ってほしい」

 政景は「後悔するなよ」とだけ吐き捨てるようにつぶやき、その場から姿を消していた――。


 叡山の東。

 近江坂本の地に、越軍は入っていた。

 景虎は将軍に会うために京へ向かわねばならないのだが、三好松永と将軍との間で政治的な駆け引きが続いているらしく、越軍は事実上足止めされた形となった。

「おおお! 景虎さま、お久しぶりでございます! 豪盛でござる! なんと、景虎さまはしばらく見ないうちにまたしても美しくなられ……まるで天女のような……げふんげふん。あ、いや、拙僧は酒と戦と殺生以外の煩悩をすべて解脱したのでござった!」

 坂本の館を借りて逗留とうりゅうすることになった景虎たちのもとに、叡山えいざんの僧兵たちを率いて、正覚院豪盛がはせ参じてきた。

「そ、僧兵を率いて来るとは、豪盛どの? あと、そなたは以前お会いした時以上に煩悩塗まみれなのではないのか」

 景虎は困惑した。豪盛がいよいよ荒れていたからではない。近江も京も、すでに三好松永と越軍との合戦がはじまったかのような騒動になっていると知ったからだった。

 しかし、将軍足利義輝自身から「三好松永を討て」との命令を与えられなければ、律儀な景虎は合戦をはじめられない。

「ウィウィ。ご用心あれ! まもなく三好家の姫大名・三好長慶ご自身が、松永弾正とともに景虎さまのもとにやって参りますぞ! この豪盛が武蔵坊役を買って出ましょう、あの姦婦かんぷ・松永弾正は決して景虎さまに近づけませぬ!」

「三好長慶が? 近江坂本に? 兵を率いて? ならば、決戦か」

「いえ。祝賀のために、少人数で乗り込もうとしております。三好長慶はまつりごとに長けております。景虎さまの矛先を逸らし、入京までの時間を稼ぐ魂胆かと。ですが、松永弾正はこの機会にあなたさまを毒殺するつもりやもしれませぬぞ」

 三好長慶に仕え、事実上畿内を支配している松永久秀が「毒使い」だという噂はいよいよ都を震撼しんかんさせていた。

「実は叡山でも、法力を持つ僧たちが密教の秘術を用いて三好長慶を調伏しようと呪っております。六角承禎どのも、甲賀忍びを用いて暗殺しようと暗躍しております。三好長慶は気が弱いところがあって、天下人という立場が重荷となり、体調が悪いようなのですな。そこに景虎さまが五千の近衛兵を率いて堂々の上洛。松永弾正は、毒を用いて景虎さまを殺すやもしれませぬぞ。なにしろあの女は、叡山を焼け、焼けと三好長慶にしつこく進言しております。決して会ってはなりませぬ!」

「密教の秘術で、三好長慶を調伏? そのようなことがほんとうに可能なのか、豪盛どの?」

「さて。拙僧は棍棒こんぼうで敵兵を殴るのが専門でしてな、小難しい密教なんぞさっぱりわかりませぬが……そんな不気味なもので呪われては、三好長慶としては気持ちの良いものではありますまい。気に病んでおられるのでは。病は気から、と申します」

 直江大和が、「どうやら都は想像以上に緊迫しておりますね。遠く越後からでは把握しきれないこともございます」とため息をついた。

「三好家は『三好家の仇である管領細川晴元を罷免する』という条件で、長年敵対していた足利将軍家と和睦しました。ですが、将軍を都へ呼び戻したことが裏目となり、今は将軍に押されて少々焦っているようです。この上、越軍が近衛兵として京に駐屯し、足利将軍の手足となって働くとなれば、三好家はその実権を将軍に奪われます――もっとも、そもそもわれらは最初からそのために京へ入るわけですが。わたくしは豪盛どのとともに、松永弾正の相手をいたしましょう」

「頭から琵琶湖の主『大鯰おおなまず』を被ったうさぎのぬいぐるみ」という斬新な新作を馬上で縫っていた宇佐美定満もまた、

「オレも松永弾正の相手をするぜ。ありゃあ童貞どもが何人束になっても太刀打ちできる相手じゃねえ。旦那たちに任せると、どんな手を使われて籠絡ろうらくされるかわからねえ」

 と直江大和と豪盛を交互に見比べながら笑っていた。

「やれやれ。お嬢さまの前でその言葉は使わぬように、宇佐美さま」

「こらっ宇佐美いいい! 拙僧の童貞を笑うか、貴様ーっ! 女色を断ちけがれなき法力を守り続けるわが魂を愚弄するかーっ! ウィウィ」

「豪盛の旦那、なんだか酒臭いぜ。まあ、三好長慶は松永弾正とは正反対の、礼儀正しい姫武将だという。景虎を毒殺することはないだろう。一応、柿崎の旦那を景虎の隣室に控えさせておこう」

「……お嬢さま。将軍からの指示を待たず、この近江の地で三好松永主従を無礼打ちにしてしまうという手もございますよ。大々的に交戦するとなると、京を焼け野原にしてしまうことになりましょう。いずれにせよ、政の実権を三好から将軍のもとへ奪い返すために、越軍は上洛したのです。長期駐屯を予定しての上洛とはいえ、時間は永遠ではありません。背後で武田が策謀をはじめる前に、一晩でことを済ませてしまうのが最善手です」

 直江大和は相変わらずだな、と景虎はあきれた。だが、直江の言葉はいつも正しい。できる限り犠牲を出さぬよう、効率を最優先して動く。「三好松永を排除して衰退した足利幕府を復興する」、これが今回の上洛の目的である。長期滞在のために入念な準備をしてきたとはいえ、ほんとうに越軍が一年も二年も京に滞在できるかどうかはわからないのだ。

 だが、それでも景虎は、

「無礼打ちなどはしない。戦うならば、堂々と合戦する。しかしすべては三好長慶と会ってからだ。その戦が義か否かは、相手を知らねば決められぬ」

 と直江たちに告げていた。


 畿内の大部分を掌握し、「天下人」となった四国出身の姫武将・三好長慶。

 その三好長慶と景虎との対面は、近江坂本で実現した。

 気品が高く美しいが、痩せていた。青白い顔色の姫武将だった。

 どうやら、病を得ているらしい。

 景虎は、三好長慶とは本来管領細川家の家臣筋にすぎず、にもかかわらず主筋である細川家、そしてこともあろうに足利将軍と戦い続けてきた「下克上」の女だ、と思っていた。

 越後において、「関東管領上杉家-越後守護上杉家-越後守護代長尾家」という武家の秩序体系を「下克上の男」だった景虎の父・為景が破壊したのと同じに。

 畿内では、「足利将軍家-管領細川家-陪臣三好家」という秩序を、三好長慶が破壊した。

 三好長慶は、足利幕府に仕える陪臣の身でありながら管領細川晴元と足利将軍家を相手に畿内各地で合戦を繰り広げ、京を追われた足利義輝と細川晴元は近江各地を転々と亡命しなければならなかった。

 足利義輝が三好長慶と和睦した今もなお、細川晴元はこの坂本の地に留まり、隠れ続けているという。

 たとえ「下克上」の仕事の大部分を、家臣の松永弾正久秀が実行したのだとしても、三好長慶が長尾為景のごとき「下克上」を畿内で繰り広げてきた秩序破壊者だということは間違いがなかった。

 それなのに――。

「景虎どの。お初にお目にかかります。わたしが、三好長慶。自らの主君・細川晴元と戦い続けてきた姫武将です。『義将』であるあなたにとっては、許しがたい下克上の女でしょう」

 理知的でそして善良で、なによりも優しい。

 景虎は、(武田晴信に似ている。あの者も、猛獣の如き野望の姫武将という仮面を被っているが、その実は……)と三好長慶に魅入みいられていた。

「あなたは、なぜ主君の細川晴元どのを下克上で倒したのです。細川晴元どのは今も、坂本に潜んでおられます。三好方の報復を恐れて、わたしに会ってもくれません」

「細川晴元は、わが父・三好元長の仇ですから」

「……父の仇……? しかし三好家は代々、管領細川家に忠実に仕えてきたはず」

「ええ。忠実に。まるで犬のように。わが三好家は主である細川家の言いなりになって、畿内を舞台に血を流して戦い続けてきた一族。その結果……多大な武功を挙げ、結果として戦乱の世で『実力』を得てしまった祖父も、そして父も、細川家にだまし討ちされ始末されてきたの」

 三好長慶の父・三好元長は、管領細川晴元のために畿内で戦い続けてきたが、細川晴元のほうが「いずれ三好は細川を凌駕りょうがするのでは」と疑いを持った。細川晴元は畿内で絶大な力を持っていた本猫寺一揆いっきを扇動して、三好元長を堺に追い詰め、切腹に追い込んだ。幼かった三好長慶はかろうじて船で四国へと逃れ、父の仇を討つために何年もの間四国に雌伏しふくして決起の時を待ち続け、再び上洛し、機会をつかんで細川晴元に反旗を翻したのだという。

 そんな過去が、と景虎は言葉を失った。あの「応仁の乱」以来、畿内での勢力争いはまるで訳がわからないほどに混沌こんとんとしていて、越後で生まれ育った景虎には理解しがたい複雑さを帯びている。

「景虎どの。世間はわたしを『下克上の女』と蔑み恐れているけれども、わたしはただ、娘として父の無念を晴らしたかっただけ……信頼していた主に裏切られて堺で切腹に追い込まれた父の仇をとりたかっただけ……足利将軍家には、断じてなんの恨みもなければ、将軍位を簒奪さんだつしようという野望もないの。細川晴元が、自分の身を守る『盾』として足利将軍家を利用し続けた結果、将軍とも戦わねばならなくなっただけ」

「『下克上』が目的だったのではなく、お父上の仇をとるために戦った結果が『下克上』となってしまったのだと?」

「……もう、わたしにもほんとうのところはわからない……なにが原因でなにが結果なのかは、単純ではないわ、景虎どの。はたして『上』に責任があるのか、それとも『下』に邪心があるのか。もっとも、本猫寺一揆に参戦して父と戦った民には恨みはない。それだけはたしかよ。彼らは、このいつ果てるともない乱世に絶望している」

 わたしもそうだ、と景虎は思った。祖父と父を殺した越中の一揆勢に対しては、恨みもなければ怒りもない。秩序を破壊し民の暮らしをも破壊したこの乱世こそが元凶なのだ。その責任の一端は明らかに、武家にある。「応仁の乱」以来、内紛を続けている武家たちにある。だからこそ、足利将軍家の権威を復興せねばならない、と景虎は覚悟して上洛軍を率いてきたのだ。

 だが、三好長慶は「下克上」の野望に燃えている姫武将ではなかった。父の因縁が、彼女を縛っているのだ。彼女の生涯を。決して身体が強いとは言えない彼女の生命を、父の因縁が燃やし尽くそうとしている。そう見えた。三好長慶は明らかに衰弱している。それが叡山の呪詛じゅそのためなのか、六角が放つ刺客のためなのかはわからないが、あまり長くは生きられないだろう、と思った。

「……足利将軍家に逆らう真似はしないわ。わたしの目的だった細川晴元への復讐ふくしゅうは、すでに果たされたのだから。これからは、足利将軍家のもとで宰相として畿内の戦乱を鎮めるためにわたしは、そして三好は生きるの」

「しかし、義輝さまが三好家による畿内支配を望まなければ? 義輝さまは、将軍自身が畿内を統治すべきだと信じています。武家の統領たる将軍が誰よりも強くならなければ、この戦乱は永遠に終わらないと」

「そして足利将軍が三好家を排除するために動けば、その結果は、またしても『下克上』ね。しかも、こんどは管領家が衰退するだけでは済まない。将軍家とそして幕府が崩壊するほどの破局よ。景虎どの」

 景虎には、返す言葉がなかった。

 そうだ。わたしの父上も、主を殺したくて殺したのではないはずだった。長尾家もまた、主の越後守護上杉家にその実力をそねまれて、上杉家の陰謀によって越中の一揆勢とみ合わさせられたのだ。祖父はそのために戦死した。父上は、越後守護上杉家という祖父の仇に対して、復讐を果たしたにすぎない。

 しかしその結果、一族である越後守護の討ち死にに激怒した関東管領上杉軍が越後へ攻め寄せてきて、「下克上」の戦火は父上が想定していた以上に東国全般へと広がってしまったのだ……。

 三好長慶は、悪人ではない、そして戦を好んでもいない、だから義輝さまと和睦を結び京に迎え入れることで「復讐の輪廻りんね」を終わらせようとしたのだ、と景虎は悟った。

 だが……。

「わたしは少し、疲れたみたい……細川晴元を幕府から追放した時点で、わたしが人生で成すべきことはすべて終わってしまったかのよう。これから、どうすればいいのか、わたしにはわからない」

 この人には「天下人」の資格がある。能力もそして器もある。でもこの人にはもう、混乱しきっている畿内を統治できるほどの気力と体力が残されていない、と景虎は案じた。すでに、討つべき敵ではなくなっていた。わたしも、三好長慶も、そしてあるいは武田晴信も、みな、乱世によって否応なしに「業」のようなものを背負わされ、「運命」に操られ踊らされているのではないのか、と悲しくなった。卯松にはそのような「業」を背負わせたくはない、とも。

「景虎どの。わたしはできることならば、あなたとともに高野山へでも比叡山へでも登って、そのまま出家してしまいたい」

 祝言をあげて子を残される道はないのですか、と景虎は思わず尋ねていた。なぜそんなことを尋ねたのか、自分でもわからなかった。

「……わたしには、松永弾正という分身のような同性の親友がいる。わたしの悪行のすべてを肩代わりしてくれる、無二の親友が。出家も……そして祝言も……たぶん、弾正が悲しむわね」

「松永弾正には、以前、会ったことが。妖婦とも姦婦とも聞いておりますが」

「そうね。あの人は、わたしのために妖婦になってくれたの。二人は、鏡の表裏のような関係。もう、わたしと弾正とは離れられない。最初は、お互いに『家族を細川晴元が起こした戦に奪われた』という一点で結びついただけだった。でも……今では、わたしの心の闇の部分を、わたし自身がなにも語らずとも弾正が実行してくれる、そんな関係になってしまった。弾正は、情が深すぎる人だから。わたしを、主君として、親友として、あまりにも愛しすぎた。もう、誰も二人を切り離すことなどできない。わたしの兄弟たちですら」

 武田晴信とわたしも、これ以上川中島で戦い続ければ、永遠に離れることができなくなる、と景虎ははじめて感じていた。主従ではなく敵味方に分かれてはいるが、まるで同じだ、と。わたしは亡き父上の「罪」を清算するために姫武将となり、武田晴信は生きておられる父上の失策を帳消しにして甲斐を守るために、父上を追放して姫大名となった。お互いに、自らの父親に縛られているのだ。同じ「業」を背負い、同じ「運命」に翻弄されているがゆえに、わたしと晴信とは惹かれ合い、そして憎み合わねばならなくなったのだ。これ以上、晴信とかれ続ければ、わたしも、そして晴信も。

「……わたしと弾正を排除するなら、今宵こよいしかないわ、長尾景虎どの。これで畿内を火の海に染めてきた因果から、三好家も弾正もそして足利将軍も解放される」

 三好長慶が、「すべてから解放されたい」と懇願するかのように、そっとささやいていた。

 だが、景虎は首を横に振るしかなかった。

「長慶どの。そのような悪謀を、毘沙門天は許しません。毘沙門天の義戦は、暗殺や謀略ではなく、堂々たる合戦の場で行われねばならないのです。暗殺では天下は鎮まりません。今、わたしがあなたと松永弾正を誅殺ちゅうさつすれば、畿内はますます混沌とするばかりです」

 長慶はき込みながら、「あなたのその美しすぎる志は、この乱世では……」とつぶやき、肩を落としていた。

 長慶は、言った。ただ一戦の「決戦」ですべてが終わる、そのような大がかりな「舞台」を構築できる視野と実力を持つ英雄がこの畿内には欠けている、「応仁の乱」以来ずっとそう。あなたが理想とする「義戦」を実現させるには、ただ一戦ですべてを終わらせる「決戦」を発生させねばならず、そのためにはいくつもの条件を満たす戦略が必要になる、と。

「たしかにわたしにはそのような難しい真似はできませんが、わたしには宇佐美と直江がいます」

「いいえ。あなたに欠けているものが、もうひとつ。あなたの相手もまた『決戦』戦略を採らねばならない。でも、あなたはあまりにも強すぎる。誰も、あなたと『決戦』などできない。あなたが『決戦』主義を採る限り、あなたの義戦は常に、泥沼になるわ。あなたと武田晴信の間で何度も繰り返されている『川中島の合戦』が、すでにそうなっている。これからも同じよ。畿内であろうとも、関東であろうとも――」

 武田晴信ならば「決戦」の舞台を準備できるのではないか、景虎はそう思った。智力、政治力、武力、統率力、あらゆる能力において古今無双の大将へと育ちつつあるあの晴信ならば。

「長慶どの。わたしはこれより越軍を率いて京へ入ります。阻止されるのならば、三好軍を率いて堂々と戦いましょう」

「戦わない、阻止しない、とわたしが言えば?」

「それこそ重畳。ともに、足利将軍家による畿内の秩序復興のために、働くのみです」

 わたしがその道を望んでも、弾正はきっと望まないわ。弾正はわたしをほんものの「天下人」にするまできっと止まらない、と長慶は警告した。しかし、景虎はこの、繊細すぎて心のあちこちに深い傷を負っている姫武将を相手に、戦いたいとは思えなかった。


 翌朝。

 三好長慶は、なおも景虎の上洛に異を唱える松永久秀を連れて、静かに京へ退去した。

 豪盛は松永久秀との対面でかなり神経を疲弊したらしく、「なにやら熱が……おお、女人は恐ろしい……」とうめきながら叡山へと戻っていったが、宇佐美定満と直江大和は平然としたものだった。

「お嬢さま。結局、三好長慶を生かして帰しましたね。必ずや禍根を残すことになりますよ」

「まあ、景虎のことだから、こうなるとは思っていたさ。幕府復興の仕事は、これからだ」

「そちらこそ昨夜はなにがあったのだ、宇佐美、直江? 豪盛どのがひどく青ざめていたが……女が怖いとかなんとか。心配だな」

「いや、別に何も。ただ、豪盛の旦那を色仕掛けで調略しようとはしていたな、松永弾正は。すげえ色気だったぜ。胸、でけえし。褐色の肌がまた異国情緒溢あふれていてたまらねえんだ。三好家に仕えて以来、長らく男日照りらしいしな。オレさまを誘惑してくれりゃあよかったのによ、うひひ」

「……あの女は、わたくしにはずいぶん冷たかったですよ。どうやら、衆道趣味の持ち主だから籠絡できない、と誤解されたようです」

「それは事実だろう、直江。越後でも最近、噂になっているぞ。お前は……う、宇佐美と付き合っているのだろう? 宇佐美は男だろうが女だろうが適当だからな……ま、まあ、わたしももうなにも言わない。頑張れ、わたしはお前たちの道ならぬ道をこっそり応援しているぞ」

「お嬢さま、勝手なことを言わないでくださいっ! そのような噂、断じて事実ではありませんっ!」

「だああああ! 気色悪いこと言うな! 景虎! お前、いつまでも不犯を貫いているから、だんだん男を見る目が腐ってきているぞ!」

「そうなのか。いい歳をして独り身を貫くのは寂しいぞ。宇佐美も直江も、そろそろ身を固めたらどうだ」

 宇佐美定満と直江大和は、互いに顔を見合わせていた――。


 長尾景虎率いる五千の越軍は、坂本を発った。

「義将が来てくれた」「これで京も」「平和になる」と上京・下京の人々が歓呼の声で迎え入れる中、ついに越軍は京の都へと進駐していた。

 しかし、三好長慶を討ちがたいという思いを抱いてしまった景虎は、(いけない。わたしはなんのために軍を率いて上洛したのだ。上洛の目的を見失い、惑っていてはならない……)と揺れていた。

 しかしいずれにせよ、景虎が三好松永との合戦に及ぶためには、将軍・足利義輝からの直接の命令が必要なのだ。

(そうだ。わたしは、義輝さまにお仕えするために来たのだ。命令を下されれば、私情を捨てて義輝さまのために戦うのみ……)

 しかし景虎の心に生じたこの迷いが、三好長慶への同情と共感が、上洛した景虎の「運命」を大きく狂わせていくことになる。京に駐屯して幕府を立て直す「近衛兵」となるはずの景虎と越軍とが、「関東」へと引きずられていくことになる。

 しかもその予期せぬ「運命の転換」は、京に入るなり即座に二条御所の足利義輝のもとに景虎が招かれたその席で発生したのである。宇佐美にも直江にも、景虎の異変に気づき対処する時間は、与えられなかった。

 あたかも、すべては定められた「運命」だったかのようだった――。


 ついに二条御所にて、将軍足利義輝と景虎は再会を果たした。

 三好松永との合戦を経験した義輝は、さらに精悍せいかんになっていた。顔にも向こう傷が残っている。自ら太刀を取って戦場で「兵」として戦ったからだろう、と景虎は思った。

「よくぞ来てくれた景虎。余は、京に戻ることができたぞ」

 足利義輝は、自信に満ちあふれていた。彼は、数で圧倒する三好軍と戦場で刃を交え、松永弾正の繰り出す刺客をも撃退してきた。幾多の修羅場を生き延びてきたのだ。武家の統領に相応しいお方となられた、と景虎は思わず涙ぐんでいた。

「はい。この景虎、たとえ越後を失うことになろうとも、義輝さまをお支えし、幕府を再興するために一日でも長く京に留まろうと覚悟しております」

「うむ。知ってのとおり、余と三好が和睦する際、管領の細川晴元を幕府から除くという条件をまねばならなかった。坂本で晴元と会ったか?」

「いえ、残念ながら……坂本に三好長慶どのと松永弾正どのが来られましたので、晴元さまは身をお隠しになられて」

 暗殺はない、それが余と三好との取り決めだ、と余がどれほど説いてもあの男は三好長慶の報復が恐ろしいらしい、と義輝は笑い飛ばした。

「ゆえに余の幕府には今、宰相たる管領がいない。形ばかりの和睦こそ果たしたが、幕府の実権を巡る三好家と将軍家との駆け引きはここからが本番だ。どうしても、そなたが必要だった」

 三好長慶はすでに、父の仇・細川晴元を排除するという目的を果たした。しかし、「幕府復興」を目指す義輝さまと事実上の天下人である三好家との戦いはこれからも続くのだ、三好長慶が義輝さまに私怨しえんを抱かずとも、それぞれが思い描く天下の形が違うからには両者は戦わずにはおられない。やはりこれが戦国時代の現実……景虎は胸をつかれた。

「景虎、よくぞ川中島での武田晴信との戦いを中止して、京に来てくれた。そなたを『管領並』として遇する。この書が、余からの返礼だ!」

 景虎はこのたびの上洛に際して、いくつか和歌の書を所望していた。むろん、無骨者の義輝が和歌の書などを景虎に渡すはずがない。

「南蛮渡来の新兵器、鉄砲にまつわる秘伝書だ。豊後ぶんごに、大友義鎮おおともよししげという姫大名がいる。その書は、大友義鎮が余に送ってくれた軍事機密よ」

「大友、義鎮」

「そうだ。薩摩の種子島に南蛮船が漂着し、鉄砲がもたらされた。九州の諸大名たちは今、南蛮船がもたらすキリスト教と鉄砲という新しき文化の輸入で大わらわとなっている。弓と矢で戦う古き良き合戦の時代は、残念ながらいずれ終わるらしい。火薬を用いて鉄の弾を撃ち出す鉄砲は命中精度こそ低いが、その殺傷力は弓矢をはるかに凌駕する。しかも、すでに海路から畿内に入ってきている。堺にも、根来寺ねごろじにも、鉄砲職人が現れている。今井の家などは、鉄砲で荒稼ぎしている」

 鉄砲の量産が本格化すれば、合戦は一変する。この二条御所も、いずれ鉄砲をもって防衛する軍事要塞に造り替える。これさえあればたとえ寡兵かへいでも城を防衛できるのだ、と義輝は熱く語った。

「むろん、最後の最後は、太刀を取っての斬り込みが勝敗を決するがな。もっとも、肝心の堺は三好松永の勢力下にある。あそこは松永弾正の古巣なのだ。無骨者の余は、商人とうまくつきあえぬのでな」

「鉄砲の威力は存じております。今はまだ、数が少なく、合戦の主力兵器たりえませんが……いかほど増えるのでしょうか」

「日ノ本の武器職人たちは天才揃いだ。すでに国内での量産に成功している。いずれは五百丁、千丁、二千丁と鉄砲を揃える大名も現れよう。ただし、鉄砲と火薬を多量に揃えるには途方もない銭が要る。港を持たぬ甲斐信濃かいしなのを治める武田晴信などには、とても集められぬ。だが、無尽蔵の財源を誇る越後を支配するそなたならば、その気になれば千丁でも集められるかもしれんな」

「……百丁もあれば十分です。千丁の鉄砲が戦場で火を噴く光景を想像しただけで、わたしは……鉄砲は、兵の命を問答無用で奪い取る武器です。義戦には」

「毘沙門天には、相応しくはないか。それもよかろう。そなたらしい!」

 見よ景虎、と義輝は彼自身が構想する「足利新幕府体制」の見取り図を広げていた。

「今はそなたは『管領並』だが、足利に忠誠を誓う諸大名の連携が成り次第、そなたを正式に管領に任命して京の治安を固めてもらいたい。むろん、三好松永も形式的にはそなたの指揮下に入る。三好長慶は気づいておらぬのか、あるいは重視しておらぬのかわからぬが、三好政権は余と和睦したその瞬間から、すでに足利幕府体制の内側へと組み込まれているのだ。松永弾正は『三好家の実権を足利に奪われる』とこの和睦案に反対したが、余の異母弟・細川藤孝が、うまくまとめてくれた」

 景虎は、悲しかった。三好長慶には、義輝さまと争い合う意図はもともとなかったのだ。だが、松永弾正はそうではない。義輝さまを追い落として三好長慶を「真の天下人」にしようと画策するだろう。そうしなければ、三好長慶が追い落とされてしまうから。しかし、三好長慶自身はそのような下克上を望んではいない……。

 なぜ、わたしたちは手を取り合って生きていけないのだろう。

 筋道を通すならば、義輝さまが天下をべるべきである。将軍のもとに諸大名が忠誠を誓いそれぞれの領国を治める。ただそれだけのことが、なぜかくも困難なのだろう。

 細川藤孝が、見取り図を指さしながら新構想について景虎に説明した。相変わらず、少女のような美貌の持ち主だった。だが、感情を表に出すことはない。

「わが殿のお考えでは、管領に、長尾景虎どのを据えます。京を中心に畿内を統括していただきます。また、近江の六角承禎、越前の朝倉義景、中国の毛利元就、九州の大友義鎮がすでに殿の政権への協力を申し出てきております。殿は、大友義鎮に九州探題職を与えるおつもりです。ただ、残念ながら毛利と大友とは西国貿易の要である博多を巡って対立しておりまして、この両家の上洛は現実的には困難かと」

「……やはり、港の奪い合いなのですね。海を持たない武田晴信が直江津を望まねばならぬように、西国でも博多の奪い合いが」

「ええ。南蛮貿易を制する者が西国を制すると言っても過言ではありませんからね。ですが、最大の問題は東国です。景虎どのが管領として京に駐屯し続けるためには、武田晴信、北条氏康と恒久的な和睦を結んでいただかねばなりません。ことに武田晴信は信濃守護職を得たことで景虎どのの上洛を黙認しておりますが、あの者はいつまでも大人しくはしていないでしょう。必ずや、景虎どのを越後へ引き戻すために画策するはずです。そうなる前に、武田、北条、長尾の三家の間で東国同盟を結び、東国全体をもって殿の幕府を支えていただきたいのです」

 それが殿のお考えです。まあ、どだい無理な話ですがね、と現実主義者らしい細川藤孝は苦笑していた。

「東国はそもそも幕府にまつろいません。幕府が配置した足利家一門の関東公方ですら、幕府に反抗してきたのです。関東公方から関東支配の実権を奪い取った関東管領家も事実上滅び去り、上杉憲政どのは景虎どののもとに亡命してかろうじて生き延びているありさま。関東管領家を滅ぼした北条家などは、最初から東国を独立王国化するつもりで戦っております。その上、武田晴信はどうあっても海へ出なければなりません。この三国の同盟など無理ですよ、殿」

 西も東もこの有様か、余の幕府復興は絵に描いた餅だな、と義輝は破顔していた。

「だが藤孝、余には景虎がいる。近江の六角も、今のところ浅井との戦いを優勢に進めている。浅井が六角に屈すれば、駿河の今川義元、美濃の斎藤道三、近江の六角、と東海道から都に至ることごとくが余を支えるだろう。景虎に続いて今川義元の上洛が実現すれば、幕府は揺るぎないものとなる。義を貫く越後の武神・長尾景虎が管領に、東海道を治める今川義元が足利の分家を代表して副将軍に――この両者が京に揃えば、三好松永も、戦わずして畿内から去るだろう」

「ですが殿。その今川は、武田・北条と同盟を結んでおります。景虎どのと武田・北条との和睦が成立しなければ、最悪の場合、京で今川軍と越軍との戦いになってしまうかもしれません。戦嫌いで知られる今川義元にそのような野望がなくとも、松永弾正が景虎どのと今川家の微妙な関係を利用する可能性はあります。もっとも」

 細川藤孝は、「今川義元はそう容易く上洛はできぬでしょう」と微笑んでいた。

「織田信奈なる若き姫武将が、尾張を統一しました。先日、景虎どのよりも一足早く身ひとつで上洛し、殿との謁見を果たして風のように去っていったあの実に奇妙な娘です。あの者、今川家とは、先代の織田信秀の時代より激しく相争っております。織田は、今川が上洛する際に邪魔になる唯一の壁なのです。織田信奈を滅ぼさねば、今川の上洛はありません」

 尾張の織田信奈。

 景虎はまだ、その者が生涯最強最大の敵として自分に、そして足利幕府という旧権威そのものに牙をいて立ち向かってくる未来を知らない。

 太原雪斎が死んだとはいえ、東海道を押さえ駿府に華々しい「都」を持つ今川家の精強ぶり繁栄ぶりはいささかも動じていなかった。太原雪斎は、自分がおらずとも動き続ける完璧な「国」のシステムを義元に残していったのだ。

「……この景虎、義輝さまに忠誠を誓う今川家に対してことを構えることは、決していたしません。ですが問題はやはり武田晴信と北条氏康。残念ながらあの両者は、義輝さまがどれほど仲裁しようとも、決して侵掠しんりゃくの手を緩めません。晴信は信濃を平定して海へ出ねば武田家は生き延びられないと覚悟していますし、北条氏康は関東平定という北条三代の悲願のために生きているようなものです。そして二人とも、おそれながら、義輝さまの志……『足利幕府の復興』には、価値を認めないでしょう」

 実父を追放した晴信。戦国初の本格的な下克上をはたした「最初の戦国大名」北条家。この両者を義輝の新構想に組み込むことは無理だろう、と政治感覚に欠けている景虎でさえ確信していた。あの二人の戦いぶりと覚悟を身近に知っているだけに、まつろわぬ東国を幕府の支配下に組み入れるという義輝の構想はまさしく「絵に描いた餅」だと思われた。

 細川藤孝が「ですよね」と苦笑し、義輝は「やはり東国は難しいか」と顔をしかめていた。

「しかし、足利幕府の混乱と日ノ本の際限なき戦国化は、そもそも武家の国である東国が幕府にまつろわなかったことが遠因となっている。武田と北条を、なんとしても景虎と和睦させねば……景虎を管領として京に留まらせるためには、どうあっても東国問題を片付けねば……近江六角の兵力だけでは四国という兵站へいたん地を持っている三好松永には勝ちきれぬ。それは余も思い知っておる。それに六角承禎は、戦の日々に疲れ果てたのか、いささか心身が衰弱して妙な言動が増えておる」

「そのようなことが? 三好長慶どのも、み疲れておられました。義輝さまと戦うつもりはない、だがもう三好家の頭領である自分にもこの戦乱を止められないのだ、と」

「さもあろう景虎。応仁の乱からもう、百年近くが経過しているのだ。よほど強靱きょうじんな『目的』と『意志』を兼ね備えていなければ、そうなる。乱世を終わらせるためには、そなたのような英雄が、必要なのだ」

「恐れながら義輝さま。武田晴信と北条氏康には、そのふたつがあります。まさしく天下の英雄です。ただし、あの二人の志は、幕府復興という方向には……」

「皮肉だな。天の時は容易にわれらには微笑まぬな。藤孝」

「ええ。関東公方が事実上滅びたのと同様に、幕府とて殿の代で滅亡しておかしくない有様ですからね。松永弾正はまさに下克上の申し子。松永弾正を景虎どのに討たせますか、殿? 堂々と会戦させれば、弾正は景虎どのに勝てますまい」

「いや。京の都は、われらが和睦したことでようやく復興しつつある。またしても戦火で焼いてしまってはならん。余を信じて京へ戻って来てくれた町衆の、将軍への期待と信頼が地に落ちる」

 わたしはどうすれば、と景虎が眉を下げて困惑していると――。

「義輝よ。私に考えがある。練りに練り続けた策だ。関東を景虎に支配させる策だ」

 足利義輝の義兄弟。

 やまと御所の関白・近衛前久さきひさが、白粉にお歯黒という「公家姿」ではなく、甲冑かっちゅうを着込んだ武家姿で二条御所へと乗り込んできた。

 まもなく景虎の運命は、この近衛前久の「策」によって、暗転することになる。

「おう。そちらから二条御所へ来るとはな。その甲冑姿はどうした、近衛?」

「無論、武家になる覚悟で来たのよ。武家関白、だ」

 近衛さま、と景虎は慌てて平伏していた。しかし近衛は「ここはやまと御所ではない。二条御所では私は一介の武人にすぎぬ。そのままでよい」と景虎を引き起こしていた。

「策を述べよ、近衛。お前は昔から頭は回るが粗忽者そこつものだ。実現可能かどうか、聞いてから判断する」

「どのみち東国が乱れたままでは、景虎の管領就任と京への駐屯継続は難しい。武田晴信はまたしても川中島へ出兵するに違いないし、北条氏康もまた上野を完全支配し越後へ迫るだろう。しかし、幸いにも景虎のもとには関東管領上杉憲政という『大義名分』がいる」

「うむ。上杉憲政は越後の府中で暮らしているという。しかしもう奴には土地もなければ兵もいないぞ」

「だが大義名分を持っている。もう一方の大義名分たる関東公方は、すでに北条が簒奪し滅ぼしてしまった。景虎が関東管領・上杉憲政と、そして新たなる関東公方を引き連れて越軍を率い、三国峠を越えて関東へと侵攻すれば――北条にまつろわぬ関八州の古き大名国人たちは、次々と景虎になびくだろう」

「新たなる関東公方? 余の妹でも担ぎ出すのか?」

「いや。私は、この戦乱の日ノ本を治めるためには、『公武合体』を成し遂げねばならないと言い続けてきた。やまと御所の公家と、足利幕府の武家とが、手を取り合って秩序を回復せねばならないと。南北朝以来続く公家と武家の分裂を終わらせねばならないと。そして、そなたが言う通り、東国と西国との対立をも同時に終わらせねばならない」

「……まさか近衛?」

「そうだ。やまと御所の公家衆の頂点に立つ関白たる私自らが関東へと下向し、関東公方となる。関白の権威をもって、東国の武家たちをお前に従わせる。関東管領と関白にして関東公方となる私を掲げた景虎のもとには、大勢の関東武士が集まるだろう。必ずや、北条を打ち倒せる。むろん北条は強い。いちどの戦いで攻め滅ぼすことは困難だろうが、少なくとも北条を小田原へと押し込め、上野こうずけ下野しもつけ武蔵むさし上総かずさ下総しもうさまでを、景虎と私とで樹立する新関東政権の支配下に置くことは可能だ」

 やまと御所の姫巫女と将軍足利義輝-関東公方兼関白・近衛前久-関東管領上杉憲政-長尾景虎。

 公武合体。

 西国に容易にまつろわぬ関東武士も、時の関白が関東公方として頂点に君臨すれば、西国と融和する道を選ぶだろう。

 従わぬ者に対しては、絶対的で圧倒的な武力を誇る長尾景虎がいる。

 これが、近衛前久が考えた「関白の関東下向、公武合体」という前代未聞とも言える一大構想の骨子だった。

 かつて景虎が近衛と会った時に彼が語った「公武合体策」の素案よりもはるかに具体的であり、かつ、近衛にとっては命がけの決断だった。

 景虎には、近衛が熱く語る策があまりにも壮大すぎて、にわかには飲み込めなかった。

 ただ、若き関白・近衛前久が凄まじいまでの「志」にかれていることだけは、はっきりとわかった。

 戦乱の関東に、貴族社会の頂点に立つ関白が剣を携えて攻め上ろうというのだ。

 関東は武家の国で、公家の影響力は皆無。それゆえに東国はまつろわなかった。ならば、関白が自ら関東公方として関東に赴けばよいのだ――。

 希有壮大といえば、これほど壮大な志はない。

 しかし細川藤孝は、表情を変えぬままに、

「まさしく一石二鳥ですね。ですが、関東武士どもが公家を自分たちの統領として受け入れるとは思えません」

 とやんわり口を挟んでいた。

 義輝もまた、

「近衛よ。お前の情熱には心を揺さぶられるが、公家は公家、武家は武家だ。ひとりが、ふたつの人生を同時に送ることはできぬぞ」

 と、義兄弟たる近衛前久の夢の大きさを危惧きぐしていた。あまりにも、大きすぎる。公家が、武家になれるものだろうか。それも、ただの公家ではない。近衛は藤原氏の氏長者にして、御所の最高位である関白なのだ。

「乱世だ。藤孝よ。そして義輝よ。公家が公家として御所に逼塞ひっそくし、蹴鞠けまりと和歌にふける日々を過ごしてきたことが、この戦乱を長引かせた元凶なのだ。私は、公家でありながら武家となり、剣を取って関東で戦おう。『公武合体』を成し天下の大乱を終結させるためだ。むろん、私は合戦の素人だ。一兵も持たぬ。しかし、天から遣わされたかのような戦の天才・景虎がいる。負けはせぬ。われらは関東を平定し、将軍家を守る盾となる。東国が景虎と私のもとにまとまれば、三好も松永も、もはやお前に手出しできぬ」

 景虎の心は、近衛前久の夢へと傾いていた。夢の実現が可能かどうかが問題なのではない。挑戦するかどうか、戦うかどうかが問題なのだ。こうして迷っているうちにも、日ノ本の至るところで戦いが繰り広げられ、兵が死に、民が苦しみ、町は焼かれ、土地は乱れていくのだ。

「……近衛さま。わたしも、『義』と『慈悲』の両立という一見不可能な道を選び、人でありながら毘沙門天の化身として生きる道を選びました。ほんとうは、出家して救済の言葉を人々に語る生き方を選びたかったのです。高野山に逃げて武家をやめようとしたこともあります。ですが……乱世なのです。乱世が、百年、続いているのです。春日山や高野山に閉じこもって、己の心の平穏のために時を費やしてしまってはいけない。この国に生きる人々のために、戦わねばならない。だから、出家に心惹かれながらも武家として戦う道を選びました。わたしは――」

 待て、景虎! と、義輝が必死の形相で景虎の言葉を止めていた。

「余はあくまでも、そなたが管領として京に留まってくれる道を望んでいる。たしかに近衛が語る『公武合体』は美しい夢だが、この世は美しい夢だけで成り立っているのではない。現実とは、醜く厳しい世界なのだ。近衛が地方へ下向して武家をまとめるという構想そのものは正しいかもしれん。しかし、やまと御所への忠誠心があつい西国ならばまだしも、東国では無理だ! 東国には、御所に従うという伝統がない。彼らは幕府にすら従わぬのだ。西国とは別の国と言っていい。近衛の関白という肩書きは、関東武士たちにとっては西国から自分たちを支配するために立ち現れてくる『異物』でしかない! 近衛を担ぎ上げての関東遠征は、失敗するぞ」

 関東へ行くならば、近衛を外して武神のそなた自身が「関東公方」ないし「関東管領」として乗り込むべきだ、そうでなければ誰もそなたに従わぬ。関東武士が信じるものは「武力」のみだ! と、義輝はけんめいに景虎を説得した。義輝自身が、「鹿島新当流」の開祖・塚原卜伝つかはらぼくでんに師事し、「武」のみを信奉する関東武士の特異性に親しんでいる。仮に景虎が関東遠征を実行するとしても、関白の近衛がいてはかえって妨げにしかならない、と理解していた。

「景虎よ、近衛を連れて行ってはならぬ。武田と北条は、余と藤孝とでどうにかして押さえる。余の政権が形を成すまでは、京に留まってもらいたい」

「いや。義輝の言うこともわかるが、私は考え抜いた。この百年続いた戦乱状況を根本的に解決するには、やはり西国と東国の統一が必要だ。景虎よ、私は名ばかりで兵を持たぬ。関東を平定できる者は、そなたしかいない――西国と東国の統一。公家と武家との両立。いずれも、そなたにしか成し遂げられない。戦国日ノ本を救う転輪聖王てんりんじょうおうになってはくれぬか」

 景虎は、にわかには返答できなかった。将軍・足利義輝に従うか、それとも関白・近衛前久に従うか。どちらかを選べば、この二人は……戦乱の世を収めるために奔走してきた義兄弟は、敵対してしまうかもしれない。そう思うと、胸が詰まり、息が乱れた。越後で男たちから求婚を受けた時以上に、景虎は惑っていた。どちらの願いにも応えたい。しかし、わたしの身体はひとつしかない。京と関東とに同時に存在することは、できないのだ。

(直江大和に相談したら、きっと、「だから両面作戦は無理だと申しましたのに」と叱られるだろう。直江は、わたしを関東に関わらせたくないらしい。京で「天下」を治めて欲しいと願っているらしい。ならば義輝さまの言葉に応ずるべきだ。だが、だが……わたしは、公家でありながら武家となって関東で戦おうとしている近衛さまをも、捨ておけない……!)

 どうすればいい宇佐美、と景虎は思わず口走っていた。

 混乱する景虎に、細川藤孝が、救いの手をさしのべていた――。

「殿。近衛さま。景虎どのは、長旅でお疲れのご様子です。これほどの大事、即答できるものではありません。しばし景虎さまには、京でご静養いただきましょう」

 景虎を、激しい目眩めまいが襲っていた。景虎は身体が弱い、越後からの長旅で、ほんとうに体調を崩していたのだ。それでも景虎の身体はここまで気力だけで持っていたが、ついに限界を突破したらしかった。


 景虎は、宿泊先の寺へと戻っていた。

 ただちに景虎のもとに、日ノ本一の名医・曲直瀬道三まなせどうさんが遣わされた。

 景虎の容体を心配した足利義輝が急遽呼び出したのである。

 しかしこの曲直瀬道三という老翁ろうや、医者としての腕は天下一なのだが、道三の好色爺じじいぶりを面白がったらしい松永久秀と一緒になって「性の手ほどき書」なるものを書いてみたりと、稀代のエロ爺としても知られていた。世間から非難を浴びた曲直瀬道三いわく、性は生の根本の力なのぢゃ、わしは色惚いろぼけ爺ではない! 長寿と健康を保つ秘訣ひけつは性にあり! 「悶気もんき」なるものを若き娘の身体から吸い取ってな、おっとこの先は秘中の秘であった、ふぉっふぉっふぉっ。

 そんな曲直瀬道三だから、景虎の異形の相を観るなり「おお。美しいのう。まるで天女か弁才天か。わしゃ医師になってよかった、ふぉっふぉっふぉっ」と涙を流して景虎の前に伏し拝み、景虎の寝所に詰めていた宇佐美定満と直江大和を追い出した。

「ふぉっふぉっ。よいぞ、よいぞ。なんという『気』の力。それにしても……めんこい子じゃのう。む、む、胸を、しょ、しょ、触診してもよいかのう?」

 二条御所を脱することでようやく安定していた景虎は、南蛮ベッドの上に仰向けに寝ながら「触診とは?」と思わず問うていた。

「なに。お嬢ちゃんの胸をわが指で触ってこねくり回し、お嬢ちゃんの神がかった『気』をいただくまでのことじゃ。それでお嬢ちゃんの胸は成長して大きくなり、わしの寿命は十年は延びる。ふぉっふぉっふぉ」

 曲直瀬道三が馬鹿正直に返答し、景虎は「断る!」と一刀両断していた。

「そそそそんな治療があるかっ! わが胸に触れたら斬るぞっ! そもそも、わたしは弁才天ではなく毘沙門天だっ!」

 景虎がこれほど強烈に怒ったのは、久しぶりだった。

 その瞬間、不思議なことに景虎の気鬱きうつは晴れていた。

「……あれ……? ふ、不意に胸が軽くなりました……曲直瀬どの」

 曲直瀬道三は、にっかりと笑っていた――名残惜しそうに指をわきわきと動かしながら。

「ふぉっふぉっ。それでよいぞよいぞ。お嬢ちゃん。そなたはのう、男どもになにかを頼まれれば、嫌とは言えない性格なのじゃ。いつからそうなったのかは知らぬが、殿方に頼まれたことはすべて引き受けて果たさなければならないと、お嬢ちゃんは思い込んでおる。しかし、はっきりとお嬢ちゃん自身が嫌だと断らねば、次から次へと頼み事が舞い込んでくる。となれば、なにも選べぬお嬢ちゃんは逃げだすしかない。それゆえに、二条御所では旅で蓄積していた身体の疲れに気の乱れが重なり合って、にわかに酷い気鬱となったのじゃろう」

「……殿方に頼まれたことを、断れない……」

「そうよ。そなたは殿方の頼みを断れない。だが、いくつも同時に頼み事を持ってこられては、実行もできない。誰を選び誰を切り捨てるかという選択もできない。みなに、気を遣いすぎておるからじゃ。そなたは、常に殿方たちの顔色を伺い、己の意志を貫くことを遠慮しておる。結局、窮した心はその場から逃げだすことになる」

 はっ、と景虎は胸を打たれていた。曲直瀬道三の医術は、心の病にも効くらしい。わきわきさせている指さえなければ、天下の名医だと尊敬もできただろうが、道三は尊敬を浴びるよりもとにかく若い女体に触りたいらしかった。

「……以前にも……大勢の殿方に求婚されて、高野山へ逃げたことが……」

「うむうむ。信濃川中島の防衛。関東遠征。京での管領職。みな、そなた自身の意志で決めたことがらというよりも、男から頼まれた願いを引き受けて律儀に実行せねばならぬと思い込んでおることばかりよ。数えきれぬ男たちの懸想も、失った土地や城を奪回してほしいという願いも、根っこは同じよ。毘沙門天の化身として、乱世に義と慈悲をもたらすという悲願も、もともとは宇佐美どのと直江どのの願いをお嬢ちゃんがともに受け入れた結果と、さきほどご両人から直接伺った。さて。お嬢ちゃん自身の心は、どこにあるのじゃろうな?」

 それは、と景虎は声をあげた。だが、答えられなかった。

「しんけん」と名乗っていた武田晴信と、二人きりで、もういちど戸隠の山を登りたい。神々の山の山頂に二人で立って、下界を静かに眺めたい。わたしは、友達が欲しかった。ひとりの、ただの人間の少女として、わたしは。あるいは、もしかしたら――もしかしたら、わたしは、いつの日か卯松のような赤ちゃんを産んで抱きしめて育てたいと、そう願っているのかもしれない、と景虎は思った。

 曲直瀬道三にも、言えなかった。ただ、涙がこぼれていた。

「よいぞ、よいぞ。一朝一夕に答えられることではない。どうやらそなたは、生きとし生けるものすべての心と対話する力を持っておるらしい。人間だけでなく、あらゆる生き物とも。あるいは、天地とも、そなたは交信できるのじゃろう。しかしの。これからは己自身の心にも、耳を傾けてみるのじゃ。そなたはもっと、自分自身を愛してやらねばのう……誰の願いでもなく、お嬢ちゃん自身の願いを、叶えてあげたい、心からそう思える日が来るといいのう」



 五千の兵を率いての上洛を果たした景虎が京に留まって管領となるか、あるいは近衛とともに関東出兵に乗り出すかの二択を迫られていたその頃。

 景虎との和睦に応じて川中島から撤兵した武田晴信は、甲斐に留まっていた。

 この年、甲斐は慢性的な飢饉ききんに苦しんでいた。晴信は当主となって以来、甲斐の領民を苦しめる釜無川の氾濫を防ぐために壮大な「堤」を築かせていたが、この堤が完成に近づき治水事業が成功しつつあってもなお、甲府盆地の低地地方には領民が水田へと戻ってこず、米が穫れないままだった。

 田はあるが、耕す民がいないのだ。

 甲斐は山国で米が穫れない国として知られているが、実は釜無川の下流地帯には平地も水もあり、水田での米作は可能なのだ。だが、その一帯で水田を開いて米を作った者は、次々と原因不明の病にかかり、命を落とす。ゆえに、その地域は「たたりの水田」と恐れられている。

「これでは、いくら堤を建造し治水を進めても慢性的な米不足を解消できない」

 現実主義者の晴信は、「神の祟り」などを信じない。

 好敵手の景虎が「毘沙門天の化身」として振る舞い、信濃川中島や関東、そして都を震撼しんかんさせていることも、晴信にとっては耐えがたいことだった。晴信は一度も京の地を踏んだことがないが、景虎はすでに二度も上洛に成功している。しかも、将軍に乞われて幕府の管領に就任するのではないかとすら言われている――。

 だが、それはいい。景虎は強い。誰もが、景虎の武力と義侠心ぎきょうしんを頼る。

 問題は、晴信が信濃の善光寺や戸隠にまつられた神仏を無力化しようと努力し、「人間」の時代の到来を人々に感じさせようとしても、そのたびに景虎が出兵してきてすべてを振り出しに戻してしまうことだった。川中島では、「神」と「人」との間で、堂々巡りが続けられていたのだ。

 まして晴信の本国である甲斐ですら、この現状だった。

「乱れに乱れた国を治めるためには、人々の意識を変えねばならない。神の時代は終わり、人間の時代が来たことを、甲斐信濃の領民たちに知らしめねば――」

 晴信はいわくつきの「祟りの水田」へと馬を走らせて、自らその水田へと足を踏み入れ、恐れおののく領民たちの前で苗を植えてみせた。

「皆の者。釜無川の堤工事は半ば完成し、これまでのような大水害は容易には訪れない。いずれ完成した暁には、再び水害が起きることはなくなる。甲斐でも米は作れる。『祟り』など案ずることはない。水田に憑いている神とやら。祟るのならば、甲斐の国主であるあたしに祟るがいい!」

 水田へと入ってみせた晴信の姿を見た領民たちは、

御屋形おやかたさまが」

「祟られてしまう!」

「おやめくだされ!」

「その田は、まことに呪われておりまする!」

「その水に身体を浸せば、呪いに憑かれて病にかかってしまうのです!」

 と晴信を水田から引き上げようとしたが、晴信は「物事には必ず原因があり理屈がある。水田の『祟り』も、正体は別のものだ。水の中に、なにか毒が混じっているのかもしれない。この水を飲まなければ危険は薄まるはずだ」と笑って人々を抑えた。

 晴信が甲斐で「稀代の名君」として讃えられている最大の理由は、徹底した内政主義を採用して治水事業や金山開発を行い、かつ国人衆をよく統率し、貧しい甲斐から「飢え」と「紛争」を同時に一掃したことにある。晴信は内政でも戦でも、常に攻め続けた。晴信が君主となって以来、甲斐の領内に攻め込んできた者はいないのだ。

 だが、この時ばかりは、領民たちは青ざめて晴信を水田から無理矢理にでも連れ出そうと暴れた。彼らは「御屋形さまにもしものことがあったら甲斐も武田家も滅びてしまう」と必死だった。

 領民たちからこの一報を聞いた春日弾正は、海津城の築城状況を報告するために甲斐の躑躅ヶ崎つつじがさき館を訪れていたが、慌てて現場に駆けつけて晴信を説得し、水田から引き上げにかかった。

「姫さまっ! いけません! あたしは農民出身ですから、この『祟りの水田』に詳しいんです! 祟りなどはほとんどの場合は迷信ですが、この『祟りの水田』だけはほんものなんですよ! 逃げましょう!」

「源五郎ちゃん。あなたはすぐに、逃げましょう、逃げましょうって。だいじょうぶよ。水がなにか未知の毒に汚染されているのだとしても、水を飲まなければ」

「ちょっと、姫さま? 源五郎ちゃんではありません、春日弾正ですっ! あたしを源五郎ちゃんと呼んでいいのは添い寝している時だけですっ!」

 あの二人……こ、恋人同士だったのかあ、そういえば御屋形さまは甲斐一の美女でありながらいまだに独り身……春日さまもとびっきりの美少女だもんなあ……と領民たちがはやし立て、春日弾正が「むふー」と自慢げに胸を反らした。

「ふふ。領民の皆さんにバレてしまいましたね! そうです。この春日弾正は、姫さまの最愛の恋人……長尾景虎などには負けません!」

「ちょっと。やめなさい。やめて! あたしが誰かに添い寝してもらわないと眠れないことを、領民にバラさないで! 天下の名将・武田晴信の名が地に落ちてしまう! だいいちそんな噂を、景虎が聞いたら……」

「なんですか! 二言目には景虎、景虎って。姫さまは、景虎とこの春日とどっちが好きなんですかーっ! さんざんあたしの心を弄んでおきながら、越後の敵将に目移りするだなんて、許せません!」

「あ、あたしが憎き景虎とそんな仲だなんて、あらぬ誤解よ。白山の神、諏訪大明神、八幡大菩薩に誓ってそんなことはないから、これ以上領民たちの前でおかしなことを言わないで!」

「まーったく。神さまなんてこれっぽっちも信じてもいないくせに、こういう時だけ神さまに誓ってみせるんですから、姫さまも長生きしますよっ!」

「……しょうがないわね。今日のところはあきらめるわ」

 晴信はとうとう折れた。「神将」景虎の上洛の報を聞いて、慎重な自分としたことが少々焦っていたかもしれない、と反省もしていた。祟りなどはなくても、水源が汚染されていてなんらかの毒が水田に流れ込んでいるという可能性はあるのだ。武田の軍資金を捻出してくれる金山開発事業も、鉱毒問題と表裏一体である。が、この辺りの水田一帯には、金山から流れ出る毒が混入している可能性はないはずだが……。

「でも、あたしはいずれこの水田の『呪い』も無力化してみせるから。いつか戸隠山のご神体を破壊して、景虎を『毘沙門天』から『人間』へと引きずり落とすのと同じに。甲斐の水田に潜む祟り神なども、駆逐してみせる。いいわね」

「ほんとうに気をつけてくださいよ。すぐに積翠寺せきすいじ温泉に参りましょう。あすこのお湯で急いで身体を清めないと危険です、逃げましょう。あたしが姫さまのお背中を流しますから!」

「……ここで武田家の当主たる者が慌てて逃げたら、ますます『祟りの水田』の噂が広まってしまうわ。一晩くらいはこの地で踏ん張ってみせないと。温泉は、明日にしましょう」

「そうですか? 危険からは逃げるに限ります。急いだほうがいいと思いますが……でも、姫さまのお志のためには……仕方ないですね……」

 さすがは「逃げ弾正」どの、おかげで御屋形さまは助かった、と領民たちは喜び、二人をその夜、祭りに招待したのだった――。


 この「呪いの水田」でのちょっとした事件が、いずれ武田晴信の運命を大きく狂わせることになるのだが、躑躅ヶ崎館に戻った晴信はただちに山本勘助との密謀に入り、「呪いの水田」のことを考える余裕を失ってしまった。山本勘助もまた、海津城築城事業からいったん離れて晴信のもとを訪問していたのだ。

「御屋形さま! 海津城、すでに八割方できあがりましてございます。お人好しの長尾景虎が将軍に乞われて上洛している隙に、海津城は完成いたします。もはや景虎といえども、川中島の防衛はなりますまい。これで川中島と善光寺平の大部分は武田のものに。祝着至極しゅくちゃくしごくにございます」

「海津城ができあがれば、松代はもはや落ちぬ。甲斐から上田を経由して松代まで連なる新たな『道』を確保できれば、諏訪と甲斐からの二面作戦が可能となり、これまで苦労してきた補給線の確保も楽になる……いよいよ景虎に勝つ時が来たな、勘助。ご苦労だった」

 足利義輝は景虎と晴信を和睦させたのちにいずれは同盟を成立させ、幕府再建のために協力させるという構想を抱いていた。だが、晴信にも勘助にも、今さら死に体の足利幕府に積極的に協力するつもりなどない。義輝の和睦の勧めに応じたのは、あくまでも「信濃守護職」の大義名分を取るため、そして川中島支配のための拠点となる「要塞」海津城を完成させるためだった。

「御屋形さま。次なる策は、長尾家にとって代々の怨敵である越中の国人・神保家をあおり、京に滞在している景虎の退路を断つ、これでございます。問題は、いつ神保を動かすかだけです。神保が蠢動しゅんどうし、われら武田が人望と足並みを揃えて川中島へ出兵し春日山城を窺えば、景虎はすぐに越後へ戻ってくるでしょう」

「だろうな。景虎は、春日山城に敵兵を入れたくないのだ。潔癖なのだ。自分の居城に敵兵を入れるくらいならば外征するという点では、あたしも同じだがな」

「ははっ。景虎を呼び戻すのは簡単です。ですが、しばらくの間、景虎を京に放置しておき、三好松永と噛み合わせるのが順当かと――五千の兵が無傷のまま越後へ戻ってくれば、景虎はただちに動きまする。『勝つ』ためならば、三好松永との畿内での不毛な消耗戦に突入させるべきですな」

 しかし、言うまでもなく晴信は首を縦には振らなかった。

「ただ勝てばよいというものではない、勘助。六分の勝ちこそが最上だ。ただちに神保を動かして景虎の退路を脅かし、われら武田もまた川中島へ出兵する」

「御屋形さま。宿命の好敵手たる景虎を、三好松永などとの明日なき泥沼の抗争に引き込みたくないというお気持ちはわかりますが……それでは、激怒した景虎がまたしても川中島へ無傷の越兵を率いて乗り込んできますぞ。海津城が完成すれば、川中島における武田軍はもはや不敗。とはいえ、景虎率いる越軍を殲滅することはまことに困難。下手をすれば、またしても堂々巡りとなりまする」

「勘助。それではあたしたちはなんのために三度も川中島で越軍と戦ってきたのだ。軍神・毘沙門天を倒すべき者は、三好でも北条でもない。この武田晴信だ。武田晴信でなければならない。われら武田が日ノ本最強を名乗るためには、日ノ本最強と戦国の人々に認められるためには、長尾景虎と戦ってこれを破らねばならない――三好にも北条にも、景虎は渡さぬ。すぐに神保を決起させよ」

 御意、と勘助はうなずいていた。晴信の頬が上気している。どうやらお熱を出されたらしい、すぐに温泉に入っていただかねば、と勘助は気づいた。宿曜道すくようどうに長けた勘助はこのところ、晴信の「寿命」は意外にも短いのではないか、と薄々気づきはじめていた。家臣たる者、決して主君・晴信の星から天命を占ってはならないと決めてはいる。だが、久しぶりに再会した晴信の表情は、どこか妙だった。長尾景虎が兵を率いて上洛したことに焦っておられるのだろう、それだけだ、御屋形さまのお身体に問題はない……勘助はそう思い込むことにした。



 春日山城で留守居役を務めていた長尾政景は、すぐにこの武田と神保の動きを掴んだ。景虎の出奔騒動に参画した加藤段蔵が長尾家から離脱して戸隠山に籠もってからもなお、戸隠忍群は長尾家との緩やかな連携を保っている。お互いに、武田晴信という共通の敵を抱えたままだからだ。武田晴信は、北信濃を平定するためには善光寺と戸隠山をともに奪わねばならないと知り、執拗しつように戸隠山に揺さぶりをかけてくる。すでに、戸隠山を奪うための拠点すら作っているのだ。それゆえに戸隠忍群は、武田の怪しい動きを逐一長尾方に報告しなければならなかった。

「フン。武田晴信め、なにを焦っているのか。このまま景虎を一年でも二年でも京に留まらせておけば、その隙に北信濃を完全に奪い取れるというのに。この一報、京には知らせずに握り潰し、景虎をこのまま京に捨て置くか……」

 越中の神保家は、本猫寺一揆衆と結託している。神保と北陸の一揆衆はかつて景虎の父と祖父を討っている。景虎の復讐を恐れている両者は、信仰心のあるなしにかかわらず、もはや離れることができぬ関係なのだ。

 一年から二年、景虎が京から戻らずに神保を放置すれば、越中は完全に神保と一揆衆が制圧するだろう。その間、政景はなにもせずに春日山城に籠もっていればいい。言い訳はある。川中島にまたしても武田軍が現れたために、越中には出兵できない。そう言えば直江大和も反論できまい。事実なのだ。

「景虎は、自分が京から戻れなかった時には、この俺に越後守護の座を委ねると約束して上洛した。俺が景虎から越後を奪い取るならば、これが最後の機会だろう……俺の心ひとつで、景虎の運命は決まる」

 だが政景は、このまま景虎を京に「捨て殺し」にするという選択肢を採れなかった。景虎がわが子・卯松を抱きしめて習字を教えていたあの団らんの光景が、脳裏に浮かび上がってきて、政景の「越後を奪いたい」という野心を防ぎ止めてくる。

 それに、越後を失陥すれば、帰るべき家を失った景虎はおそらくは宇佐美たちの制止を振り切ってこんどこそ高野山に登って出家してしまうだろう。永遠に再会できぬことになる。景虎は、高野山で生涯不犯の人生を終えることになる。ついに、神の化身のままに、生涯を棒に振ることになる。

 越後を取るか、景虎を取るか。政景が選べる道は、二択だった。

 そして政景は――逡巡しゅんじゅんの末、景虎を、取った。

「……俺のためではない。俺の跡を継ぐ卯松のためよ。幼い卯松がこの戦国の越後で生き延びるためには、やはり、景虎が必要だ……あの、悲しいほどに愚かな娘が……」

 断じて、景虎への愛に目がくらんだのでもなければ、綾と景虎の姉妹を引き裂きたくないなどという甘い感傷のためでもない、俺はあくまでも戦国武将として最善の選択をしただけだ。政景は、

(しょせん俺と景虎とはいつまでも越後国内で共存できぬ関係。この馬鹿げた選択の結果、俺は破滅するかもしれん)

 と自嘲しながら、直江大和宛ての書状を書きはじめていた。



 越中で神保家が反長尾の兵を挙げ、川中島にはまたしても武田軍が進出して長尾家との和睦を破棄。

 春日山の政景からこの報告を受けた直江大和と宇佐美定満の両者は、ようやく病が癒えて回復した景虎に越後を巡る事態が急変したことを告げると、ただちに景虎とともに二条御所を訪問していた。

 晴信の和睦破りを知った景虎は、

「武田晴信め……! 将軍さまから信濃守護職を得た上での和睦ですら、紙切れ一枚の空約束に過ぎなかったというのか……!」

 と激しく怒り、「この上はただちに川中島へ攻め込んで武田晴信と決戦したい」と願ったが、その身は精鋭五千の越兵とともに遠く離れた京にある。さしもの長尾政景といえども春日山城に預けてある守備兵だけでは、越中と川中島での二正面作戦は不可能だ。

 足利義輝は「そうか。武田晴信は、余が結ばせた和睦をもう破ったか……足利幕府の復興は、一朝一夕にはいかぬな」と苦り切っていた。

「義輝さま。常におそばにはべられておられる、細川藤孝どのは?」

「藤孝は、景虎、そなたが病を発して寝込んだその日から母方の実家に戻っておる。なにやら急ぎの仕事があるとかでな」

「母方の……?」

「吉田神社よ。新しい神道の体系を築き上げた家だ。藤孝は、武家の棟梁とうりょう・足利を父に持ち、神官を母に持つ、一風変わった出自でな。その上、御所の公家どもとも交流も深く、三条西家より一子相伝の『古今伝授』を伝承されているほどの異能の男よ。大軍を進退させる兵法の才ではそなたには及ばぬが、あれはある種の超人だな。今回の仕事は神道関係のものらしいが、武辺者ぶへんものの余にはよくわからぬ」

 ともかくこのまま京に座していてはお嬢さまは越後を失陥いたします、と直江大和が切りだしていた。

「わたくしはあと一年、二年は晴信は動くまいと読んでいたのですが、あまりにも動きが早い。まるでお嬢さまを川中島へ誘っているかのような」

「直江の旦那。どうしても晴信は景虎と決着をつけたいらしい。手遅れになる前に越中を平定し、武田軍を川中島に釘付けにしなければならねえな。越中の神保家はさほど強くはないが、一揆衆と組んでいる。時間を与えれば与えるほど、兵力は増える。あなどれねえぜ」

「お嬢さまは民とは戦いたくないという主義ですしね。神保家の主立った一族を殺し尽くせば片付きますが、それもお嬢さまはよしとしないでしょうし。残念ながら、お嬢さまを管領として京に留め、天下を采配していただくというわたくしの夢も……」

 ここまで実によくやってくれた。直江には感謝しているが、やはり武田晴信を倒さねばこの景虎は一歩も先へ進めない、と景虎はうなずいていた。

 宇佐美定満が「なんかもう五年も十年も川中島で武田と戦っているような気分になってきたぜ! おかしくねえか、直江の旦那? まるで、川中島の狭い空間の内側で、時間がぐるぐると輪廻りんねしているかのような……!」と髪をかきむしっていると。

「これで景虎は否応なしに越後へ戻らねばなるまい。他に選択肢はなく、管領就任を望む義輝に気遣う必要もなくなった。まさしく『天の時』だ。この関白が景虎とともに越後へ下向し、関東公方となり、東国において『公武合体』の夢を実現せよ、と天が命じているのだ!」

 すでに完全に武家と化した姿で、室内に入ってきた者がいた。

 近衛前久だった。

 義輝は(うむう。この場に弁舌巧みな藤孝がいてくれれば、この男をうまく説得できるのだろうが、余ではもはや止めきれぬ)と、自分のもとから「天の時」が去って行く痛みを胸に感じながら、目を閉じていた。

「よいな義輝。私は、越後へと下向するぞ」

「いや、しばし待て。姫巫女さまがまもなくご高齢で退位される。新たな姫巫女さまの即位式が近い。関白たる者が姫巫女さまの即位式に出席しないなど、前代未聞だぞ」

「ふむ。ならば、即位式までは京に留まろう。越後下向は即位式を終えてからにしよう。だが景虎はただちに越後へ戻さねばならんぞ、義輝」

「……どうしても、公家でありながら関東公方となり、西国と東国、武家と公家とを一体化させるという無謀な夢を捨てられぬのか、近衛よ」

「無論。長尾景虎という英雄が越後に現れたことこそ、わが夢が天の時を得た証。私は、たとえお前に止められようとも、越後へ行くぞ。そして、広大な関東の地を御所と幕府の支配下に――いわば幕府の『天領』と成すのだ。三好の執拗なまでの強さは、背後に四国を押さえていることから来る。われらは、関東を押さえればよい。幕府復興というお前の悲願も、それで果たされる」

「だが武田晴信をどうする、近衛! 余が斡旋した和睦すら平然と破棄するあの者を! たしかに景虎は強い。しかし関東遠征など、武田晴信がいる限りは不可能だ! 景虎が関東へ出兵すれば、またしても晴信は川中島に現れ、越後を窺う。いつまでも同じことの繰り返しにしかならぬ! しかも、北条家と反北条勢力が激しく戦っている関東へと景虎が本格的に参戦すれば、景虎は関東に縛られ、もはや上洛できなくなる! それでは、足利幕府は――そして、景虎は――」

「景虎の心はすでに関東へと。わが夢に、共感してくれている」

「景虎は、自分を頼ってくる誰の願いをも聞き遂げようとしているだけだ。愚直なまでに、男たちの夢を背負い続けているのだ! だが関東遠征だけはならん! 公家が関東公方になるなど、実現不可能な世迷い言よ!」

「私は北畠顕家きたばたけあきいえとなるべく、剣を習い、弓馬の修行に明け暮れてきた! それでも私を武家として認めぬのか、義輝! 公家に生まれた者は、しょせん死ぬまで公家に過ぎぬと、腹の底で私を低く見ていたのか!?」

「低く見ているのではない。余が足利家の男であると同じに、そなたの体に流れる公家の『血筋』は、どうしようもない事実だ! とりわけ武家の国・関東ではそうだ! そなたは学を修め武道を修めたが、関東武士というものを知らぬのだ。近衛家を主家として尊重し、そなたを厚遇してきた薩摩の島津家などとはまったく違う! そなたの失敗に、景虎を巻き込ませるわけにはいかぬ!」

 将軍・足利義輝と、関白・近衛前久は、いまや景虎を巡って決裂寸前となっていた。互いに至近距離から睨み合い、今にも抜刀して戦いはじめんばかりの勢いで口論を続けた。

 景虎は、「お、お二人とも、おやめください。義兄弟にして、武家と公家の頂点に立つお方同士が、仲間割れなど……」とけんめいに二人をなだめたが、景虎抜きでは幕府復興は成り立たないと知っている義輝と、景虎を得た今こそが公武合体の夢を実現する最初で最後の機会と知っている近衛は、まったく譲らない。

 越後で複数の男たちから同時に求婚された時以上に、景虎は惑っていた。

(このままでは、三好松永から幕府の実権を奪い返すどころか、御所と幕府とが敵同士になってしまう。なぜだ。なぜ、わたしが現れると、男たちの友情にひびが入り、わたしを巡って争いはじめるのだろう……義輝さまも近衛さまも、戦国日ノ本の混乱に終止符を打つべく高邁こうまいな志を遂げようとしている無欲で無私なお方なのに、なぜこんなことに)

 景虎は、だが、このままではまたしても「武田晴信」という存在に引かれて越後へ戻るしかない――。

 景虎の生涯が壮大な徒労に終わろうとしている。そう悟った直江大和はこの時、足利義輝に目配せしていた。

 お嬢さまを関東へ連れ去ろうとする近衛前久をこの場で暗殺せよと将軍がお命じになれば、ただちに決行し、わたくしは自害いたします、と――。

 しかし、宇佐美定満が、その直江の腕をぎゅっと握って、「立ち上がるな」と無言のうちに直江を制止していた。

(「直江大和乱心」というおためごかしで事件を処分しようとしても、必ず景虎にも責が及ぶ。てめえが養女に取った与六にもな。関白ってのは、人間のうちでもっとも高貴な『血』を引く公家が上り詰めることのできる、いちばんの頂点なんだぜ。神に仕える巫女の一族である姫巫女さまは人間ではなく神の眷属けんぞくだから、関白こそが日ノ本の人間界における至高の存在ってえことだ)

(そのような『血』による序列があるからこそ、乱世はいつまでも治まらぬではないですか、宇佐美さま――近衛前久は美しい夢に憑かれていますが、まるで現実が見えておりません。当人に悪意がないだけに、かえって厄介なのです。近衛をお嬢さまの生涯にかかわらせてはなりません。関白を関東公方にするための関東遠征など……!)

(邪魔だから暗殺するってぇやり方は、義でもなければ慈悲でもない。それに直江、お前じゃ無理だ。近衛は強い。この場にいる者のうち、剣豪将軍・義輝に次ぐ強さだ。やる時は、暗殺稼業に長けたオレがやる。この、宇佐美定満がな)

(なりません! あなたを失えばお嬢さまがどれほど悲しまれるか!)

(てめえを失ったって同じだ、直江!)

(わたくしはいつ死んでもお嬢さまが傷つくことのないよう、憎まれ口ばかりを叩いてきました。この場は、わたくしが――)

(馬鹿野郎! てめえの憎まれ口なんぞ、敏感な景虎が本気で受け取ってきたと思っているのか!?)

 直江大和と宇佐美定満の間にも、凄まじい緊張感がはしっていた。

 景虎は、ついに、「結論」を述べねばならなかった。

「越後へと帰還し、越中の神保を平らげます。それで、武田晴信も川中島から兵を退くでしょう。義輝さま。わたしはいつか必ずや、後顧の憂いを断って一万の兵を率いて京に戻ります。それまでどうか、ご無理をなさらぬよう……今川義元の上洛が実現することを、祈っております」

 足利義輝も、「帰るな」と景虎に命じることはできなかった。

「大義である。景虎、余はあきらめておらぬぞ。必ず、京で再会しよう。こんどこそ、余を支えてくれ」

「……御意です。ありがたき、幸せ」

 これで近衛前久の越後下向は止められなくなったと直江大和は顔を曇らせ、宇佐美定満もまた景虎の運命が暗転したことに心を痛めていた。義と、慈悲と、そして合戦。本来ならば並立しえないものを、景虎はすべて成し遂げようとあがき続けてきた。その結果――ついに、越中、信濃川中島、関東八州の三正面作戦へと、景虎は踏み込みつつある。上杉憲政だけを担ぐ関東遠征なら、まだ成功の可能性はある。だが、近衛前久がいては無理だ。関東武士たちが、関白の威光に従うはずがない。むしろ反感を買われるばかりなのだ。

「景虎よ。私はそなたと、血判状を交わす。今は義輝とこうして対立することとなったが、関東遠征は必ずや義輝のためとなる。武家と公家とがひとつになり、日ノ本をひとつの国と成すのだ」

 近衛前久だけが、関東遠征の成功を信じて涙ぐんでいた。近衛の不幸は、西国に薩摩の島津家をはじめとする忠実な「家臣」を持っていたことだった。東国にはそのような存在はいない、という事実を実感することができなかった。かの北畠顕家は遠く奥州に拠点を築き、関東から畿内へとがむしゃらに突き進んで華々しく戦ったではないか。関白たる私と軍神・景虎が組めば、関東平定と、関東からの上洛遠征とはともに可能だ、さほど日数は要さぬ。近衛は、そう信じていた。



 長尾景虎が越軍を率いて京から去った後――。

 吉田神社に籠もり、不眠不休で「仕事」を進めていた細川藤孝が、義輝のもとに久々に顔を出した。

「……寝ていないのか。お前。目にくまができているぞ」

「ええ。三条西家より伝承された『古今伝授』の解読を進めておりましたのでね」

「解読? あれは和歌の本ではなかったのか?」

「『古今伝授』のことはよろしいのです。殿、なんとしても長尾景虎を引き留めねばなりません。殿と、そして足利幕府のために」

 すでに景虎は越後へ発った。引き留めることはできぬ。引き留めれば、武田晴信が越後を奪い取ってしまう、あの者は将軍が結ばせた和議をも平然と破棄してのけたのだ、と義輝は無念の思いを押し殺しながら藤孝の肩を叩いていた。

「そうですか。間に合いませんでしたか。いや、たとえわたくしが間に合ったところで、景虎どのの運命を変えることはできなかったということですか……」

「近衛前久の越後下向の話が流れれば、まだ、わからぬ」

「それでは近衛さまをし奉りますか、殿」

「無理を言うな藤孝よ。将軍が関白を殺すなど、ありえん。そのような真似をすれば、足利将軍は朝敵となる。そうなれば都の混乱は応仁の乱どころでは済まんぞ。二条御所も、姫巫女さまのやまと御所も、なにもかもが焼き尽くされるだろう。もう人間は誰も、京では生きられなくなる。それほどの破滅が訪れるだろう。武辺者の余とて、それくらいはわかる」

「……でしょうね。まことに、人間個人の力は微々たるもので、運命に逆らうことは実に難しい。このままでは長尾景虎は、近衛さまとともに関東遠征へ向かうことに。三好松永と殿との政権を巡る戦いは、いよいよ泥沼化します。殿のご命運は尽きましょう」

「だがまだ、今川義元がいる。義元から密書が届いている。あの者は太原雪斎が整備した今川軍のほぼ全軍を率いて、上洛を開始した。美濃の斎藤家、近江の六角家ともに、義元の上洛に協力するという。野望の塊である武田晴信とて、同盟国の今川を止めることはできぬ」

 そうはなりません、と細川藤孝は目を伏せていた――。

 まもなく、「危急の事態あり」と、二人のもとに間者が姿を現していた。

「上洛を目指して行軍していた今川義元軍、桶狭間おけはざまにて織田信奈軍の奇襲を受け、壊滅! 今川義元は織田家に捕虜として捕らえられ、今川家は一日にして東海の覇者の座から転落いたしましたぞ」

 足利義輝は「ば、馬鹿な!? あの、織田信奈が……たしかに、常人とは思えぬ眼光の持ち主ではあったが……尾張一国の兵力であの今川に勝てるはずがない! あの娘がそれほどの戦巧者だったとは!?」と思わず叫んでいた。が、細川藤孝はさほど驚いた様子も見せなかった。あたかも、はじめから今川義元が桶狭間で敗れることを知っていたかのように。

 しかし、藤孝は「義元が生きている」という一点に、興味を抱いたらしい。

「……今川義元が、殺されずに捕虜に? ほう……奇妙なことになったようですね。もう少し、織田家について探りを入れてきていただきたいのですが」

 間者は「御意」とだけ答えて、すぐに闇に消えていた。

「殿。これで歴史が動きます。今川義元が倒れ、織田信奈が歴史の表舞台に。長尾景虎と今川義元を失った足利幕府は、三好松永との果てしない泥沼の如き戦いへと。そして――」

「そして景虎は、近衛とともに関東遠征へ向かうであろうな。今川家が瓦解すれば、東国の三国同盟は崩壊する。扇の要たる義元を失った武田も北条も、大いに揺れる。景虎は――行くだろう。三国峠を越えるだろう。今川義元が倒れた分まで、自らが幕府を、余を支えねばならぬと覚悟し、関東平定事業を急ぐだろう」

 だがしかし、織田信奈とは何者なのだ、どうやって今川軍を倒した? 兵力差は圧倒的だったはずだ、信じられぬ、と義輝は呻いていた。もしも織田信奈と長尾景虎の上洛時期が重なっていれば、あるいは――だが、二人は、すれ違った。織田信奈が上洛した時には、まだあの者は尾張一国を統一したばかりで、美濃の斎藤義龍よしたつが織田信奈を暗殺すべく京に刺客を放っていた。そのような状況で、織田信奈を長く京へ留めることはできなかった。悔いても、はじまらぬ。

 それに――織田信奈は、足利幕府の権威などを認めていなかった。余と目を合わせた瞬間、あの幼い娘の瞳は、燃えるように輝いていた。武田晴信も、あのような目の持ち主なのだろう。戦乱を終わらせ天下を治める者は、あるいは武田晴信か、織田信奈。この二人のうち、いずれかではないのか。足利幕府は、消え去る運命なのではないのか。

「殿。殿のお感じになられていることは、わかります。ですが、そうはさせません。殿にはこの細川藤孝がおります。そして、長尾景虎が――」

 藤孝はいかにしてこの余の逆境を覆すつもりなのか、義輝は考えたが、わからなかった。この異才を誇る異母弟の考えは、愚直な義輝にはまるで読めなかった。ただひとつ、はっきりしていることがあった。それは、長尾景虎が近衛前久とともに関東遠征を実行する「時」が来てしまった、という動かしがたい現実だった。


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