第十七話 景虎の出奔

 信濃守護・小笠原長時の逐電。

 国人たちに多大な労苦を強いた川中島での二百日対陣の結果、ついに武田晴信を押し返せずに犀川さいがわ以南の支配権を譲渡し、村上義清の戻るべき故国を手放し、さらには善光寺の秘仏を甲斐へ持ち去られたこと。

 そして、なによりも、対陣のさなかに景虎がひそかに晴信と「密会」していたこと――。

 越後守護代に就いた当初から、景虎は男性嫌いで通っていた。

 祝言相手を定めるまでに五年の猶予を認めさせたのも、そもそも、最初から祝言を挙げるつもりなど景虎にはなかったからであり、男性に対しては景虎は「生涯不犯ふぼん」を貫くつもりだった。高野山に登って毘沙門天びしゃもんてんの化身としての正式な真言マントラを授けられてからは、いよいよ生涯不犯の誓いは不動のものとなった。だが、生涯不犯はあくまでも男に対しての縛りであって、姫武将は別である。越後には姫武将はいない。しかし隣国には、景虎が慕っている美しく若い姫武将がいる。それが、武田晴信――。

 川中島での長対陣は、つまりは、はじめから雌雄を決するつもりのない二人の姫武将がともに最前線に出て密会し、「睦言むつごと」を語り合うために行われていた「八百長」とも言うべき「芝居」だった。

 つまり、川中島で武田軍と決着をつける意図が、景虎にはなかった。

 越後の国人たちは、景虎の道ならぬ姫武将同士の恋のために、ただ働きをさせられた道化どもにすぎなかった――。

 二百日の対陣はあまりにも長く、あまりにも退屈なものだった。いつしか誰とはなしに、越後の諸将の間で、そのような風説が広まっていた。山本勘助の策ではなかった。しかし、どれほど箝口令かんこうれいを敷こうとも噂は流れ続け、そして膨らみ続けた――姫武将など越後の外では珍しくもない存在であり、景虎と晴信の仲はただの親愛な友情関係にすぎない、色恋ではなく、まして肉体関係などあろうはずがない――と、宇佐美定満がいくら力説しても、姫武将という風習を「異習」だと信じている越後の国人たちには理解しがたかった。

 彼らは、武田晴信が実の父親を追放して以来、極度の男性嫌い・少女愛好者となり、周囲に若い姫武将たちを集めて武田軍を「姫武将軍団」として再編成しつつあることを見てきている。事実、川中島ではかつて信虎時代の武田軍を支えていた板垣信方や甘利虎泰といった男武将たちの多くがすでに亡く、馬場信房、工藤なにがし、飯富兵部、春日弾正といった若い姫武将たち、そして姫武将ばかりの「山の民」真田一族が武田軍の中核を担っていた。男武将で武田軍の重鎮に座っている者は、弟の義信をはじめとする一族郎党のみ。例外は山本勘助くらいだが、勘助は「四郎勝頼さまこそ生き神さま。我、大人の女人に興味なし」と咆哮ほうこうする一種の酔狂な変人であるがゆえに、晴信も「男」として警戒する必要がないのだという。

 飯富兵部を中心に、若い姫武将だけで「新武田四天王」制を導入するという噂まである。

 その晴信が、絶世の美少女である景虎に恋慕しないはずがなく、元来男嫌いの景虎もまた、晴信に言い寄られて悪い気はしない。そのため、合戦を口実に川中島へと引きずり出され、密会を重ねたのだ――。

 噂はいつか既成事実となり、越後の国人衆は怒り、動揺し、焦った。

 とりわけ色をなしたのが、このまま自分は関東ごと景虎に捨て去られてしまうのではないかと恐れた関東管領・上杉憲政である。

 いくら琵琶びわを教えても、景虎が自分に心を寄せる気配はない。妙だよ、といぶかしんでいるところに、「晴信と恋仲」という衝撃的な噂が飛び込んできたのだ。恋敵だったはずの小笠原長時は、上洛じょうらくという機会を得て堺で景虎に言い寄ったが、その結果、すげなくあしらわれ、三好家へ逃げ込んでいる。景虎が底抜けに無欲で正義感溢れる「義将」だということは、越後亡命以来「関東管領さま」として丁重に扱われ続けている彼にとってももはや疑うべくもないが、「男嫌い」=「生涯不犯」という景虎の奇妙な癖を脅かした者に対しては、景虎は義ではなく怒りで返してくるらしい。自分もまた、景虎に無理に言い寄れば、越中あるいは奥羽に追放されてしまうのではないだろうか、と怯えたのだ。

 その他、本来は越後守護の家臣という意識などない独立勢力でありながらいずれ景虎を自らの妻にという悲願を抱いていたからこそ戦ってきた揚北衆あがきたしゅうの男武将たち、川中島での莫大な出費に憤死寸前となっている財務官僚の大熊朝秀、謀反までしていながらいっこうに越後国外に己の拠点たる城を持つことを許されない北条きたじょう高広ら、大勢の男武将が不満を爆発させていた。なにしろ、川中島では労多くして益なく、景虎自身なんら得るものがなく、得たのは「晴信と密会を重ねていた」という醜聞のみである。

 景虎が軍を率いて越後へと帰国すると同時に、いっせいに国人衆が春日山城へと押しかけ、景虎と、その景虎を庇護している宇佐美・直江の両名を詰問することとなった。

 景虎は、川中島での長対陣で完全に体調を崩し、本来は諸将に謁見する体力も気力もなかった。姉の綾がすっかり痩せて帰ってきた景虎を心配し、「一ヶ月はなにもせずに春日山城でゆっくり静養を取らないと」と押しとどめたが、律儀な景虎は病身を押して諸将との面談に及んだ。

 やはり景虎の健康を案じて、謁見を延期するように勧めてきた宇佐美定満と直江大和を左右に配しながら、「わたしがここで諸将を追い返せば、やっと統一したばかりの越後が再びばらばらになってしまう」と言い切って強行した。

 最初に謁見した相手は、うるさ型の北条高広である。

 関東の広大な領土からの収益を当てにしている北条はもともと関東遠征派で、川中島での合戦を快く思っていない。その上、景虎が掲げた「五年の猶予」が祝言を拒絶する詭弁にすぎないと見切りをつけていた。

「それがし、いちど景虎さまに許された反逆者なれど、今回だけは言わせていただきますぞ。武田晴信との恋仲の噂……それがしは信じてはおりませぬが、越後の男武将どもは、姫武将という風習を知らぬゆえに、あのような噂を真に受けてしまいます。五年の猶予など嘘だ、川中島での逢瀬おうせにわれわれは永遠に付き合わされ、土地も城も得られず、ただ将兵の命と兵糧と銭とを浪費させられるだけだと……みな、怒り心頭なのです。一月ならばいざしらず、さすがに二百日は長すぎましたぞ」

 景虎には、反論できる体力が残っていない。座っているだけで、精一杯だった。宇佐美と直江とが、代わりに答えた。あらかじめ、こう詰問されればこう返す、と詳細に取り決めてある。

「川中島に拘泥していてももはや越後諸将はついてこない。関東に遠征せよ、自分を上野の城代に任じろ、と言いたいんだな。北条の旦那」

「左様。関東遠征こそ、川中島で不満を溜め込んだ国人どもを再びひとつにまとめるために必要な義戦。それがし自身の利益のためでもあり、越後長尾家の安泰のためでもあります。小笠原どのが逐電した今、信濃出兵には関東遠征ほどの大義がない。これが仮に関東遠征であれば、二百日の遠征であっても、諸将はこれほど憤らなかったはず」

「ごらんのように、お嬢さまは疲弊しておられます。上杉憲政さまをお迎えした以上は、関東遠征は必ず行います。ですが今は、越後の国力回復とともに、お嬢さまの体力気力の回復を待っていただきたい」

 北条高広は「それはむろん、それがしどもも承知しております。景虎さまの衰弱ぶりは、おいたわしい限り。川中島で命を削られておられる……それを知っていればこそ、こたびは誰も謀反を起こさぬのです。ですが……恋仲などではないにしても、今の景虎さまは、晴信に魅入られて魂を吸われているも同然」と胸を張っていた。そして、言い放った。

「武田晴信は姫武将をきつける魔性の持ち主に違いありませぬ。景虎さまは無垢むくゆえに、あの者に抵抗できぬのです。これ以上、川中島での堂々巡りを続けぬためにも……関東遠征を成功させるためにも……落としどころとして、景虎さまにはそれがしと祝言を挙げていただきたい。北条家はご存じの通り越後きっての名族。家臣筋とはいえ、問題はございませぬ」

 それで諸将も納得いたしましょう。それがしは連中より嫉妬されますが、晴信と川中島に取りつかれたまま景虎さまを放置しておくよりはずっとましです、景虎さまさえ身を固められれば越後は平穏を取り戻し再び乱れることはなくなります、と北条高広は言いつのった。

 やはりこの計算高い男は粛清しておくべきでした、と直江大和が宇佐美に囁いた。宇佐美はすでに、室内に「糸」を張り巡らせている。いつ何時、部屋に詰めてきた武将が景虎に狼藉ろうぜきを働くやもしれず、野心を剥き出しにするやもしれず、その時には景虎が止めようが「粛清」する以外にはないと思い詰めていた。それほどに、事態は切迫している。

「景虎さま。直接お言葉を。拒絶するにしても承諾するにしても、直接、言っていただきたい」

 北条高広の心には景虎への恋慕の想いはなく、越後国主の座への野心のみがある。が、すべては「計算」であり、計算通りに事態が運ばねば即座に撤回し、景虎への恨みなども残さない。醜いものではない。現実主義者なのだ。景虎はだから北条への怒りは感じなかったが、返答に詰まった。断る、と一喝するべきだったが、その気力がない。川中島で無理に無理を重ねてきた景虎は、疲弊しきっていた。今もしも、男に力ずくで押し倒されれば抵抗することすらできない……と怯えきっていた。

 しかしその怯えを態度に出せば、直江大和が「やってください」と宇佐美に眼で告げるのだろう。そして宇佐美は、北条を暗殺する。いつもなら、景虎が「暗殺はならぬ」と止めれば、宇佐美はあっさりと引き下がる。が、景虎自身の命の火が弱り、政権の存続が危うくなっている今は無理だ。景虎を守るためなら、直江も宇佐美も、己の感情や信念すら曲げて「鬼」になることができる男たちだった。自分の命すらも、即座に投げ出してしまえるほどに。それが景虎には、痛いほどにわかってしまう。

「……今日は、わたしに対して何人もの男武将が言いつのってくることになる。返事は、その全員から求婚を受けた後に」

 景虎はかろうじて、そう答えて判断を保留した。

 北条高広も、これ以上の無理押しは自分の首を絞めることになると知っていて、いったん引き下がった。

「ごもっともでございます。たとえそれがしは断られても、景虎さまのご判断に従います。ですが、それがしのように理詰めで生きている男だけではありませぬぞ。感情にかれている者は、そう簡単には景虎さまをあきらめられますまい。いかがなさいます」

 それはこれから考える、北条の旦那、と宇佐美定満が答えていた。

 北条が一礼して去ったあと――揚北衆を代表して、若い本庄繁長が飛び込んできた。揚北衆の男たちはみな気性が荒い。揚北衆のうち、景虎に謁見できる者はただ一人。激しい殴り合いの末、本庄繁長がかろうじて勝ったらしい。顔を腫らしていた。

 しかし揚北衆には、もっと強い男が大勢いる。本庄繁長が勝ち残ったのは、まさに執念と景虎への情熱のなせるわざだ、と宇佐美は呆れた。

「景虎さま! あなたは心が綺麗すぎます! 武田晴信にだまされているんです! 姫武将同士の恋は純粋で汚れがないとか、生涯不犯の誓いを破ることにはならないとか、うまいことを言って……そうに違いないっ!」

 こいつはまだガキで一本気なだけに北条の旦那より面倒だ、と宇佐美定満が頭を抱えた。

「ボクごときが求婚するのは僭越せんえつにして崇拝する景虎さまをけがす行為だとはわかっていますが……揚北衆総出での景虎さまへの求婚権を賭けた勝負に勝ち残ったからには、言います! たっぷりと! ボクと祝言を挙げてくださあああああい!」

 ボクは! 生涯! 景虎さまに服従しどんなご命令にも従います! 川中島であろうが関東であろうが、上洛戦であろうが! 越後守護にまつろわぬ揚北衆をボクが無理矢理に束ねて、景虎さまの夢と志のために奔走させ続けますっ! ですから、どうかボクを信じてください! と本庄繁長は勢い余っておいおい泣きながら景虎に求婚し続けた。

 この純真な本庄繁長がわたしの「弟」であってくれたなら、と景虎は思った。晴信に、妹の信繁と弟の太郎がはべっているように。しかし、景虎には弟も妹もいない。それが現実である。義弟として長尾家に迎えたくとも、本庄繁長にめとらせる妹すらいないのだ。

「……求婚の言葉は聞いた。かたじけない。そなたの想いは素直に有り難いと思う。全員からの求婚を受けてから、返事を決める」

「ありがとうございます! 晴信のことは生涯を賭けてでも忘れさせます!」

 私と彼女はそういう仲ではない、と景虎はそこだけは訂正したかったが、その気力がもうない。少ししゃべっただけで、もう、息が上がっていた。

「本庄どの。お嬢さまはお疲れなのです。まだ求婚者が二人ほど控えています……これほどの大事ゆえ、返事は、すぐにはできますまい。今しばらく、お下がりください」

「わかりました、直江宰相さま! もしも今日の婿選びの結果……揚北衆が反乱を起こしたら、このボクが問答無用で鎮圧しますから、ご心配なく! 景虎さまを想うだけで、ボクはいくらでも強くなれます!」

 本庄繁長が部屋からぱたぱたと立ち去ったあと。

 若いが、婿にするにはもっともいい男だ、と宇佐美が視線で景虎に伝えてきたが、景虎は毘沙門天より「殿方に恋をすればその時、命が尽きる」と知らされている、と信じている。好感を抱ける相手を婿に取れば、義戦を遂行しきれぬままに死ぬことになる。川中島も、関東も、畿内も、なにもかも放りだして志半ばで死んでしまうことになる……そうなれば、わが父も救われない、と景虎は思った。

「お前、まだそんな世迷い言を信じているのか。幼かった頃、お前を導いた毘沙門天は、お前の頭がこしらえた幻覚だ」

「宇佐美さま。後がつかえています。その話はまた次の機会に――」

 直江大和が合図すると同時に、第三の求婚者が入ってきた。

 そう。本来は、景虎へ苦情を言い立てるための面談であるはずが、いつしか「求婚者」が集まる面談になっていたのだ。しかも、四人来る、ということまでは宇佐美と直江も把握しているが、誰が出てくるかは土壇場までわからない。景虎の体調をかんがみて面談者は四人までと定めたため、舞台裏で国人たちが紛糾しているのだ。絶対に現れないとわかっている男は、「ご主君が五年待てとおっしゃっているというのに疑うとはいかがなものか! 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と唱える柿崎景家――宇佐美定満はこの生真面目すぎる男が景虎の婿としてもっとも無難でいい落としどころだと思っているが――と、信濃からの降将ですでに妻子を抱えている老いた村上義清の二人くらいである。あとは、誰が出てくるのか、想像もつかない。人数を限定しなければ、越後守護を主筋とは思ってもいない下越の揚北衆などは一人残らず景虎の前にはせ参じていたはずだ。

 それにしても三人目は、意外な人物だった。

 関東管領・上杉憲政その人だったのだ。

「上杉憲政の旦那……!? あんた、関東管領だろうが? まさか景虎の婿として名乗りをあげるつもりか?」

「上杉さま。小笠原さまがどうなったか、ご存じでしょうに。いつまでも関東遠征がはじまらず焦る気持ちは理解できますが、縁談話にあなたが首を突っ込めば、話がややこしくなりますよ」

 宇佐美定満と直江大和が青ざめ、景虎が(まさか憲政さまが?)と困惑していると、上杉憲政は意外な提案を切り出してきた。

「景虎が川中島と関東との間で板挟みとなっていることは、僕にもわかっている。ぼかぁ小笠原などとは違い、ほんものの貴公子さ。平安時代じゃあるまいし、夜這よばいのような無粋な真似はしない。求婚する者の当然の義務として……景虎への誠意の証しとして、引き出物を用意した。僕は知っての通り、名ばかりの関東管領だ。一兵も率いることができぬ亡命者だ。実権は、景虎にある。左右には宇佐美どのと直江どのが阿吽あうんの呼吸で常に侍り、すぐ後ろには修羅のごとき形相で景虎を見守る鬼の長尾政景がいる。その上、鳶加藤とびかとうなる忍びが闇に潜んで景虎を無言で守護している。いくら貴公子然として振る舞っても、舌先三寸で景虎から越後の実権を奪い取ることはできないと、さしもの僕も長い越後暮らしで悟っている」

 上杉憲政さまも焦っておられるのだ、亡命当初はすぐにお嬢さまの心をつかみ取って越後を自由にできるという野望も持っていたろうが、越後では通じぬと知られたのだ、北条氏康と武田晴信にいいように負かされ続けたことで自惚うぬれていた心が削られ、身ひとつで越後へ逃げ込まれた敗残者でありながらお嬢さまから主君として丁重に扱われ続けたために、いくらか丸くなられたのだろうと直江がうなずいた。

 それだけに、上杉憲政の「引き出物」は、宇佐美も直江も考えもつかなかった途方もないものだった。

「僕の妻となってくれた暁には、僕は隠居し、景虎に上杉家の家督を継がせ、関東管領の位を譲ろうと思う」

 その折には、関東管領・上杉景虎改め上杉政虎と名を改めればいい、僕の名――憲政から「政」の一文字を与えよう、と上杉憲政はさらなる「引き出物」を出してきた。

「上杉家に伝わる、戦国関東の歴史を綴った数々の文書も、宝物も、すべて譲ろう」

 そこまでして旦那になんの得がある? 北条氏康への復讐のために上杉家をまるごと投げ出しちまうのか? と思わず宇佐美が問い詰めた。上杉憲政は、

「そうだね。たしかにはじめは、戦にはめっぽう強いが田舎者の景虎を利用して、あの小ずるい北条氏康を倒すつもりだった。しかし……景虎に琵琶を教えているうちに、いつしか僕のほうが、景虎に魂を奪われていたらしいよ。それに、このまま越後で居候を続けていても、関東管領の位も上杉家も春の雪のように溶けて消え失せてしまうばかりだ。すでに北条氏康は、足利義氏を関東公方くぼうの位に就けて、自らの傀儡かいらいとしている。関東管領職そのものを、消し去ってしまおうとしている……景虎のもとに寄宿していれば、僕は生きられるだけは生きられるだろう。だが関東管領職と上杉家という先祖伝来の貴重な資産をこのまま失ってしまうくらいならば、譲られるべき資格を持つ者にすべてを譲ってしまいたいと、焦っていることは事実だね」

 と涼しげに答えていた。政治家としての判断と、風流な貴公子としての情とが、上杉憲政自身の心のうちでも複雑に入り乱れているらしい。

「足利義氏、とは? どなたです?」

 思わず、しばらく呆然ぼうぜんとして固まっていた景虎が、声を発していた。

「先の古河公方、つまり先代関東公方・足利晴氏の子供さ。足利晴氏は、関東管領である僕と結託して北条氏康を滅ぼすべく関東の諸将を総動員し戦ったが、ご存じの通り河越夜戦で僕たちは敗北して、僕は越後へ亡命。関東公方家は事実上滅亡した。足利晴氏もまた、河越夜戦のあとも執拗しつように北条に抵抗したが、今は北条氏康にとらわれて幽閉の身さ」

「お嬢さま。足利晴氏には何人か子がいますが、関東の覇者を目指す北条家はもともと関東公方家に妻をめとらせておりました。晴氏を捕らえたのち、北条の血を引いている足利義氏を形ばかりの関東公方に据えたのです。足利幕府による正式な手続きを得ていませんので、自称関東公方にすぎませんが」

「……そうだったのか。以前聞いたかもしれぬが、動揺していて……」

 景虎。この僕を婿に迎えれば、きみは正統な関東管領だ。自らは管領にも公方にもなれぬ下克上の血筋ゆえにニセ関東公方などを擁している北条氏康とは比べものにならない。きみは堂々と関東遠征をはじめられる。川中島での無駄な時間潰しを終える理由もできるよ、すでに故地奪還を断念した村上義清とて反対はすまいよと上杉憲政は語り、そして、去っていった。

「一生のことだ、迷うのは当然だろう。返事は気長に待つとしよう」

 そう、言い残して。

(……憲政さまが……わたしに求婚など……そんな馬鹿な……わたしには、そのようなつもりなど……)

 上杉憲政の求婚。予想していなかった事態が起きた。景虎は、激しく動揺していた。

「おい景虎、だいじょうぶか? 直江の旦那。面談はここで終わりにしよう。続きは……あと一人は、明日だ」

「それがいいようです。小笠原さまが逐電されたために、憲政さまも少々強引な行動に出たのかもしれませんが、それよりも……どうも、あのお方もまた、本気で景虎さまに惹かれておられるようです」

「次から次へと。まだ若いからだな。もしも村上義清のような老将だったならば、景虎を養女に迎えて上杉家を継げ、と言いだしてくれるんだろうが。景虎が身を固めるまでは、こういう面倒な求婚が繰り返されるのか……」

「そうですね。お嬢さまほどの美しい姫から、義と慈悲をかけられた若い男は、どうしても色恋や愛で応えてしまうのかもしれません。男のさがでしょう。お嬢さまに付き合って自らも独り身を貫いているわたくしや宇佐美さまのほうが、酔狂なのです」

「俺のは酔狂ではなく、嫁なんぞ面倒なだけだが……景虎、今日はこれで終わりにしよう。少し休め。姉上の綾さまが、別室でお前を介抱しようと待っている」

「しかし宇佐美……姉上は、お子を育てているのでは……」

「新たなお子は元気ものだ。しばらくは乳母に任せるそうだ。川中島で疲弊しきって帰ってきたお前を見ていられないらしい」

 だが――。

「四人目」は、遠慮せずに室内へと入ってきた。

 直江大和が「お帰りください」と告げたが、四人目の男はその言葉を無視して、部屋の中央にあぐらをかいていた。

「フン。無駄な外征が繰り返された結果、消耗した越後の国人どもは国内でくだらん領地争いをあちこちではじめている。このままでは、内乱が起こるぞ。為景の時代に逆戻りだ……だが、そこまではいい。大熊の奴は、この領地争いを最終的に解決するためには、自分が景虎を娶って越後の財務の全権を掌握する以外にない、と寝言をほざきはじめた。俺が大熊を押しとどめて、ここへ来た。四人目としてな」

 長尾政景だった。

「待て、てめえ! 綾さまを嫁に迎えて子供までいるじゃねえかよ! なんで、てめえがここに!?」

「馬鹿が。今さら説明が要るのか、宇佐美? 俺は最初から景虎を妻にするつもりだったし、今でもその野心は変わらん。綾は綾だ。妻を二人抱えて、なにか問題でもあるか?」

「姉と妹をともに妻にするなど、人倫にもとりますよ」

 直江大和が再び釘を刺すが、政景は、「そうなったのはすべて貴様の策略のためだろうが」と聞く耳を持たなかった。

 はっ、と息を飲んだ直江が、宇佐美に「例の噂の出所、消しても消しても火が燃え立ち続けた理由、ようやくわかりました。手遅れだったかもしれませんが」とそっと囁く。景虎に聞かせぬように。

 山本勘助と真田忍群が越軍に間諜かんちょうを入れて噂をまかぬようにどれほど固めていても、意味がなかったのだ。なぜならば、副将格の長尾政景自身が、噂の出所だったのだ。そもそも、はじめから――最初からこの騒ぎは、川中島での武田軍との対陣の繰り返しを阻止し、越後の国人たちに厭戦えんせん気分を蔓延まんえんさせ、景虎に婿取りを要求するべしと立ち上がらせるための――政景の策謀だったのだ。

 坂戸城を本拠として三国峠を支配する政景自身が自然と関東遠征派の筆頭格になっていたことは、直江と宇佐美も知っていた。政景の性格を考えれば、派閥が生じれば片方で御山の大将を気取りたがることは明らかなので、直江も宇佐美も政景が暴走しない限りは黙認していたのだ。しかし、まさか越後国人たちの派閥争いを、景虎の婿取りの件に結びつけようとは。

 政景は景虎が宣言した「五年後の祝言」の約束を反故ほごにさせるために、そして景虎との祝言を強行するために、信濃派と関東派の派閥争いを盛り上げ、対立をあおり、「噂」をまき散らしてついに景虎を追い詰めたのだ。

 政景は、綾との間に新たな子をなした。景虎が生涯不犯のまま死去すれば、景虎自身が次代の守護を誰に譲るか遺言でも残さない限り、あるいは直江と宇佐美が妨害して対立候補を立てない限り、ほぼ間違いなく政景と綾の子が次の正統な越後守護となるはずだった。政景自身に守護の座は転がり込まずとも、政景の子が越後守護になれる確率は、限りなく高い――政景はもはや牙を抜かれた、と直江も宇佐美も油断していたのだ。しかし、政景はその野望を捨ててはいなかった。景虎をわがものとするという執念は、政景の内面でずっと燃え盛っていたのだ。

 直江も宇佐美も「すべては政景の陰謀だったのだ」とは口には出さなかった。心身ともに疲弊しきっている景虎を傷つけ、激高させたくはなかった。だが、人の良い景虎にも、薄々、察することはできた。

 政景がなんらかの形で越後国人の間に毒をいて、自分を強引に奪い取ろうとしているのだ、と。

「……政景。帰れ。堂々と求婚を受けるとは言ったが、お前の求婚だけは受けない。姉上をなんだと思っているのだ」

 景虎は怒りのあまり、山を登る際に杖代わりに用いている青竹を手にしていた。が、それを政景に振り下ろす体力すら、ない。

「フン。生涯不犯を通すなら通せばよかったのだ。中途半端なことをしおって。お前が婿を取るというのならば、相手はこの俺しかいない」

「……越後守護の座は、お前には与えぬ」

「そのようなもの、もはや、要らん。どうでもいい。俺が望むものは、貴様だけだ景虎。俺は生きている限り、決してお前をあきらめんぞ。お前が選べる道は、二つだけだ。俺を殺すか、俺を婿とするかだ」

 どちらも選択しない、と景虎は告げていた。

「フン。即答か。四人全員の求婚を受けてから、判断するのではなかったのか?」

「……四人の誰とも、祝言は挙げない……」

「五年待てという話も結局は、嘘か」

「……方便だ。五年経てば、みなわたしを嫁にするという野心など忘れて越後は鎮まると、信じていた」

「そんな方便をひねり出した宇佐美も直江も馬鹿者よ。五年待たせたからと言って、男どもが貴様をあきらめられるはずがなかろう。むしろ、欲望の炎をますます煽るだけよ……かぐや姫の逸話を知らんのか? 川中島での消耗で、国人どもの心根と懐事情は、なりふり構わぬ乱世時代に逆戻りしている。貴様が今、四人全員を退けて祝言を拒絶すれば、越後は崩壊するぞ。越後の財務職に就いて国人たちの矢面に立たされている大熊朝秀に至っては、腹を切るか、反乱を興すことになるだろう」

「だからと言って――姉上の婿に、わが身を差し出せというのか! 貴様という男は……! よくも、このような時に。晴信があのような噂をまいてわたしを追い詰めるはずがない。そうとも。なにかがおかしいと思っていた。すべては、うぬが」

「景虎。俺はどんな手を使ってでも貴様を、毘沙門堂から引きずり出して、この現世に連れ出してみせる。そう言ってきたはずだ。川中島で父親の愛情に飢えた姫武将同士で遊ぶのは、よせ。晴信にとっても貴様にとっても、時間の浪費だ。いちどしかない人生を、貴様は、夢の世界に引きこもって浪費しようとしている。貴様が戦うべき相手は――貴様自身よ」

 景虎は、追い詰められた。

 事実、越後はあらゆる意味で分裂寸前だった。

 長期遠征による経済的打撃と、晴信との「密会の醜聞」による景虎への男たちの不満の爆発とが重なり合って、景虎政権そのものの支持基盤である国人衆が「川中島防衛派」と「関東遠征派」、さらには大熊朝秀に代表される「非戦派」とに完全に分裂しつつあったのだ。しかも関東遠征派の首領は政景であり、政景が次々と諸将を煽って対立を助長してきたのだ。これに、男たちの景虎への憧れと欲望と嫉妬が入り交じっている。それもまた政景が煽った結果であるが、「武田晴信という姫武将に景虎さまを奪われ、八百長の戦で疲弊させられるなど冗談ではない」「このようなことを続けるくらいなら、景虎さまをわが妻に」と諸将が口々に騒ぎ立てはじめ、いまや越後全土が燃え盛っている。理詰めで解決できるものではない。

 景虎が誰かを婿に取り、「婿」を選択するというはっきりとした形で越後という国の方針をひとつに定めると内外に知らしめる以外に、もう、事態を収拾する方法はなかった。

 政景に完全に裏をかかれた宇佐美定満にも直江大和にも、打つ手がない。景虎にかける言葉も、見つからなかった。「てめえ! よくも……オレの眼が黒いうちは、てめえには景虎には触れさせねえ! 散れ、出て行け!」「お嬢さまの窮地につけ込んで、越後を崩壊させるおつもりか。これ以上一言でも口を開けば、死んでいただくことになります」と二人がかりで政景を左右から取り押さえて部屋から引きずり出すだけで精一杯だった。部屋から引き出されながら、政景は「フン。貴様ら二人には何度も煮え湯を飲まされてきたが、死んだふりをしていたことが功を奏した。俺の勝ちだな」と高笑いしていた――。

 一人きりになった景虎は、(わたしがもしも本気で殿方との恋に落ちて死ぬのならば、それはそれでわたしの運命だ。仕方のないことだ)と、死を恐れはしなかった。だが、越後の分裂を防ぐために、生涯不犯の誓いを破り、毘沙門天の力を失うことは、耐えがたかった。まだ自分は越後守護の座を継承して以来、なにひとつ義を実現していない。上杉憲政には主筋として、本庄繁長には弟分として好感情は抱いていても……殿方として恋し、愛している相手は、四人のうちにはいない。計算づくで愛情のない北条高広は言うに及ばず、長尾政景など論外である。綾の夫で、義兄ではないか。晴信とわたしとの間にいかがわしい関係があるなどと言いふらしたのはあの男だ、われらは八百長をしているというあらぬ疑いがかからぬように二人の会見を秘密にしていたのだから、と景虎もようやく気づいていた。

(政景め。そこまでするのか。わたしを奪うために、そこまで……)

 そもそも、景虎は宇佐美や直江を家族として想う気持ちこそ持ち得ていたが、少女として殿方に恋をするという感情を、知らなかった。知る時がくるとも、思えなかった。姫武将という立場を離れて晴信とともに静かに過ごしている時の満たされるようなあの感情を、殿方が与えてくれるとは、到底信じられなかった。

(春日山城にいる限り、わたしは政景に狙われ続けるのだ。たとえこたびは宇佐美と直江が知謀を働かせてわたしを守りきってくれたとしても……いつか、きっと……)

 景虎は、(もう耐えられない。身体も、心も、もう……嫌だ。政景にけがされるなど、絶対に嫌だ。これほど政景を引き留め続けてきてくださった姉上を裏切ることにもなってしまう。姉上は、政景を、夫として愛しているというのに……)と透き通るような白い指で思わず顔を覆っていた。

 なぜ、越後の姫武将などに生まれたのか。生まれてきた場所が他の国であれば、こんなことにはならなかったはずだ。

 もう、姫武将などやめてしまいたい、出家してしまいたい。

 泣きながらそうつぶやいていた景虎の背後に、蜘蛛くものように長い手足を持った痩せた男が、ゆらりと降り立っていた。

「フフフ。ついに、音をあげたか。よくぞ耐えてきたな……これ以上は身体がつまい。叡山へ行くか。高野山か。俺が、手引きしてやろう」

 加藤段蔵だった。

「……貴様も、わたしをかどわかそうというのか。加藤段蔵」

「いつだったか、貴様が姫武将を捨てる時は、手引きしてやると誓った。その約束を果たすだけだ。毘沙門天に、地を這う虫けらのような俺ごときが触れられるはずがない。その破邪の瞳でにらまれれば、俺は心の臓を締め上げられて、瞬時に絶命する。もっとも……貴様がただの人間の娘に戻ったその後のことまでは、保証せんがな」

 貴様が越後から出奔した後、貴様が、そして越後がどうなるのか見届けたい、死んでいる「石」などよりも生きた「毘沙門天の化身」である長尾景虎のほうが今の俺には興味深い、と加藤段蔵は凍り付いたかのような笑みを浮かべていた。

「……戦をせずとも、乱世に義と秩序をもたらす道はあるはずだ。出家し、尼僧として己の精神を鍛え、悟りを開き、平安の境地を民に説く道を歩みたい……生涯不犯の誓いを責められることも、なくなる……」

 しかし、宙に浮いた関東遠征はともかく、武田晴信との決着はもういいのか、と加藤段蔵が問うた。

「……彼女ならば、きっと、わたしを……許してくれる。これ以上、戦場で憎み合い、戦い、血を流すことには、彼女も耐えられないのだ。だから、和睦してくれたのだ。その、はずだ」

 みたびわれらが戦えば、また血が流れる。より多くの血が。両軍の将兵は、己の死すらいとわず、川中島での決着を望んでいる。いずれ、お互いに大切な人を失う。その前にわたしは越後から消える、と景虎は伝えていた。

 加藤段蔵は、

「甘い小娘だ。なぜに貴様が、毘沙門天どころか釈尊の化身の如き力を持って生まれてきたのか。もしもまことに神とやらがいるとすれば、残酷なものだな」

 とつぶやき、そして、春日山から叡山へと至る間道を思い描いていた。忍びにしかわからぬ道である。魔境にも等しい飛騨の獣道を通ろう、と決めた。誰も追尾はできまい。宇佐美と直江ですら、追いつけぬ。長尾景虎は忽然こつぜんと消える。

 が、ほんとうにこれでいいのか、と加藤段蔵ほどの者が、迷っていた。

 長尾景虎なき東国は、そして日ノ本は、乱世を終えることができるのだろうか、と。「下克上の男」長尾為景が暴れていた時代よりもさらに混乱するばかりなのではないか、と。

 しかし、これ以上景虎を春日山城へ留めておけば、景虎は衰弱して死ぬだろう。景虎は本来、短命で終わるべき脆弱ぜいじゃくな身体に生まれてきた。彼女の命は、精神の力でかろうじて保っているようなものだった。その精神の力が、弱っているのだ。

(生かすためには、ともあれ、今は逃がすしかない。しかし景虎を叡山まで届ければ、急ぎ戸隠に戻らねば……景虎が出奔すれば、確実に、武田が動く。戸隠の「石」を目指してな)

「石」の守護よりも、景虎を優先するとはな。俺もまた長尾景虎に魂を奪われた哀れな男の一人なのかもしれん、と加藤段蔵は自嘲していた。


 宇佐美定満と直江大和の二人が、長尾政景たち四人の求婚者と、春日山城に押し寄せた国人たちを押しとどめている一瞬の隙を、加藤段蔵は突いた。加藤段蔵は、直江の命令で越後忍び・軒猿衆のきざるしゅう大頭おおがしらを務めている。その気になれば、景虎を城から出すことなど容易たやすかった。

 宇佐美と直江が気づいた時には、景虎の姿は春日山城から忽然と消えていた。

 景虎は、宇佐美、直江たち越後の男武士たちに対して「わたしは考えあって越後の守護職をやめる。乱世を鎮めるためには武を捨て国を捨てて一人の出家として生きねばならないと思い知った――わたしには子がいないゆえ、上杉憲政さまを主君としていただき、上田長尾家の長尾政景が越後守護の仕事を継ぐよう」と書き置きを残し、母と姉の綾に対しても私的な書状を残していった。越後の姫武将として生きることに、限界を感じました。戦う毘沙門天の化身としてではなく、出家として義と慈悲を衆生に語る者になりたい、わたしの弱さを許してください、と。

 軍神・長尾景虎が出奔した。

 これほどの大事、隠しきれるものではない。

 春日山城は、騒然となった。

「貴様らの欲深さと野望の炎が、景虎さまを絶望させ、現世を捨てる覚悟をなさしめてしまったのだーっ! 王子として生まれた釈尊がおのが母国を捨てて出家し、大悟して仏陀となられた逸話、知らぬわけではあるまい! その結果、釈尊は衆生を導く仏となられたが、釈迦族しゃかぞくは国ごと滅亡したのだぞ! 強大な隣国に攻め滅ぼされてな! 越後もまた、滅びの道を辿たどっているのだ! 南無阿弥陀仏!」

 信仰心深い柿崎景家が、「よもや出奔なされるとは」とうろたえていた北条高広たちを責め、一連の騒動を起こした張本人である長尾政景に対して、

「見よ! 越後はいまや、天岩戸あまのいわとが閉じてしまったかのような騒ぎとなっておる! 貴様などに越後守護職が――景虎さまの代わりが務まるのか、政景!」

 と激しく詰め寄った。

 景虎を武神として尊敬し、川中島の第一線で戦ってきた村上義清ら信濃衆が、関東派でかつ景虎の義兄でありながら景虎に求婚した政景に仕えるはずがなかった。第三の派閥となっていた「非戦派」の大熊朝秀も、自分は政景にまんまと踊らされて景虎を追い詰めてしまったと気づいたらしく、朝から政景に激しく抗議してきていた。

 越後は、割れる。

「フン。越後の支配者の座など、誰でも構わん。俺の目的は守護の座などではなく、景虎だ。景虎め。この俺から逃げ、武田晴信からも逃げたな……このまま武を捨て、家族を捨て、人として生きる可能性を放棄して釈迦の道を選び取るというつもりか」

 政景は、しかし、「宇佐美定満と直江大和ならば、じきに景虎の行方を突き止める。すべては、それからだ」と落ち着きはらっていた――。


 宇佐美と直江がけんめいに景虎を捜索しているその頃。

 白装束に身を包んだ景虎は飛騨を抜け、琵琶湖を船で渡り、叡山の麓へと到達していた。

 加藤段蔵は、「俺はもはや春日山城には戻れぬ。が、戸隠の『石』を捨てることはできん。今後は、戸隠山の独立領主となって武田軍から『石』を守ることになる」と言い残して、立ち去っていた。景虎は加藤にせめてもの礼を尽くしたかったが、加藤は「俺自身が勝手にやったことだ」となにも受け取らなかった。越後守護ならば、「戸隠山には決して兵を入れぬ」との約定を交わすこともできる。が、今の景虎は天と地の下にただ一人だ。もう、姫でも大名でもない。越後を捨てた自分がいかに無力かを、景虎は思い知っていた。

 宿に逗留とうりゅうしていた景虎のもとに、叡山の僧・正覚院豪盛しょうかくいんごうせいが訪れたのは、加藤段蔵が幻のように姿を消したのとほぼ同時であった。

「先の越後守護・長尾景虎どのですな。拙僧、景虎どのが春日山城に生誕なされた折に、訪問させていただきました。その縁あって、景虎どのとの交渉役を仰せつかることに」

 眼には精気が溢れている。が、巨体をふらつかせていた。

 出家でありながら酒臭い男だ、と景虎は思わず眉をひそめていた。

「豪盛どの。わたしの願いはただひとつ。越後守護の座を捨て、長尾家の家督も捨てて、一介の出家として叡山で修行し大悟することです。わたしは女人ですが、必ず悟りを開き乱世を終わらせるために人々に仏道を説き、少しでも世の役に立ちたいのです」

 もともと、そのような道もあなたにはあった。武の道を歩めば転輪聖王てんりんじょうおうに。出家の道を歩めば仏陀に。しかし、あなたは転輪聖王にはなれても、残念ながら叡山では仏陀にはなれない、と豪盛は酒をかっくらいながらうめいた。

「どういうことですか?」

「景虎どの。叡山は、女人禁制。たとえあなたが入山され得度とくどされても、生涯日陰の身。決して天台座主にはなれぬのだ。むろん、僧兵を率いる身分にもなれぬ。それでは乱世に義を示すことは難しい」

「女人は、どうしようもなく穢れていると?」

「左様。しかし穢れているものは、女人の身体なのか、あるいは男の心なのか……あるいはその両者が出会ったところに、穢れが生まれるのか。景虎どのはあまりにも美しく育ちすぎました。男どもが、耐えられますまい。叡山の高僧といえども、しょせんは男。美しく若い女性に惹かれるは、生き物としての本能……仏道はその男としての本能を捨てよと教え、修行をせよと説くが……恥ずかしながら拙僧も、己の煩悩に苦悩し、酒浸りの日々を過ごし、やりをしごいて僧兵として暴れ回ることで憂さを晴らしております」

 仏道は人の道として自然ではない、叡山の僧侶たちの苦悩は深まるばかり、それに……叡山も高野山も、領土と兵力を持った軍事組織であり独立した国にすぎぬ、真に高僧と呼べる人格を備えた宗教家は一部のみ、ほとんどは拙僧のような生臭坊主じゃ、と豪盛は自嘲ぎみに笑っていた。

「いにしえの時代、叡山はたしかに都の守護者として機能し、大勢の名僧を生みだしました。しかし今の叡山はすでに行き詰まっております。乱世なのです」

「……僧兵の存在が、叡山のありかたをゆがめているのです。武を捨て、仏道に専心するかつての姿を取り戻せば、必ず」

「それはできぬ。僧兵がおらねば、叡山は武家に焼き討ちされる。かつて将軍足利義教よしのりと叡山が対立して以来、叡山はおのが所領と山を守るために武装し続けねばならなくなりました」

「足利義教さまは、将軍になられる以前は、天台座主ざすだったとお聞きしていますが」

「左様。天台座主が将軍となる。仏陀になるべきお方が、転輪聖王となられる。そのはずでした。しかし、いざ将軍になってみると、人々の信仰心を集める叡山の強大な力が武家としての畿内支配の妨げになっていると気づいたのでしょうなぁ。義教さまは幕府と叡山の二重支配をもくろみましたが失敗し、結局は幕府と叡山とが激しく争う騒乱に。根本中堂も、その折に焼け申した。今の根本中堂は、後で立て直したものにすぎませぬ。しかも天台座主から将軍となった義教を、関東公方は正統な将軍と認めず、関東と畿内との戦乱まで巻き起こってしまった……武の道と仏の道の両立をもくろんだ義教こそが、今に至る乱世の種をいたと言えましょう」

 かの釈尊ですら転輪聖王と仏陀の道の両立はならなんだ。まして後世の人間には……とても、と豪盛は愚痴った。

「女人禁制は、世俗化し堕落した叡山にとって、最後の砦とも言うべき戒律。破っている者もおるが……この豪盛、呑む打つ戦うと戒律を破り続けている破戒僧ではありますが、女人禁制だけは絶対に死守したいと思っております。これを捨てれば、拙僧は叡山という権威を利用して好き放題に暴れ狂う、ただの人殺しにすぎぬ」

「では、わたしは叡山には……」

「身分と性別を隠してでの訪問まででしたら、なんとか。ですが、入山し僧として叡山に定住することは、不可能です。拙僧も、あなたが男として生まれておれば、生涯お仕えできたものを。なぜ、この世に男と女という二種類の性があるのか。すべての煩悩と苦悩は……男と女の関係より生まれてくる……夜ごと、独り身が耐えられませぬ。なんという孤独。なんという寂しさ。この孤独が、死ぬまで続くとは……拙僧は、どうやら悟れそうもない」

「……それがこの世のことわりなのかもしれません。わたしが男であれば、越後を守護として統治できたはずでした。信濃、関東での義戦も、実行し続けられたはずです……わたしが女であるがゆえに、なにもかもが」

「……景虎どの、お察しいたします。ですが叡山でも春日山城と事情は同じです。むしろ、女人禁制という建前を持っている分、なお悪い」

 生涯不犯を貫くのであれば、今の叡山はお勧めできませぬ、高野山へ参られよ、出家の道を選びながら義を示す力を持てる可能性があるとすれば都から遠く離れた高野山です、と豪盛は説いた。

「高野山には、清胤せいいんさまがおられます。わたしはいちど身分を隠して清胤さまのもとに。あのお方のもとでしたら――」

「そうでしょう。高野山ならば、叡山ほど女人禁制の掟に厳しくない。もともと、高野山を開いた始祖の空海さまがそのあたり、おおらかだったのですな。都から距離を置いている分、まつりごとへの干渉も少なく、世俗化も叡山ほどには進んでおりませぬ。高野山までの道は、わし自らがお供をいたします。叡山の正覚院豪盛と言えば、音に聞く荒くれ者。誰も、寄っては来ません。決して景虎どのを危険にさらしたりはしません。ただし、男装していただきたい――女人と旅をしたと叡山の高僧どもに知られれば、わが立場が危うい。まだ、拙僧も破門されたくはないのです」

「わたしが男装すれば、旅そのものも、安全になりますね」

「そういうことです。もっとも、三好松永の奴らは、存外に女人には優しいですが。三好長慶ながよしも松永弾正も、女ですからな。とはいえ、松永弾正は妖怪も同然ですが……女のうちの、おぞましい部分だけを煮詰めたかのような……」

「いちど堺で会いましたが、松永弾正は危険です。わたしが旅をしていると知れば、あの者はわたしにちょっかいを出してきて、豪盛どのを害するかもしれません。やはり、男装して行きます」

「それがよろしい。拙僧、武勇には自信があれど、姫武将は苦手でしてな……女人禁制を貫いてきたゆえに、耐性がございませぬ。景虎さまが姫武将として上洛した際に顔を出さなんだのも、姫武将が恐ろしいゆえでござる。わが胆力のすべてが、戦う姫武将の姿を見ただけで、吸い取られてしまうような……」

 豪盛どのもずっと苦しまれておられるのだ、男として生まれながら女人に触れられぬという戒律のために……それは僧兵として戦っても戦っても逃れられぬ人としての本能なのだ、と景虎は豪盛を痛ましく思った。自分に求婚してきた男たちもまた、わたしを手に入れられぬゆえに苦しんでいるのだろうか、今この時もなお、と思った。

「旅の途中、拙僧が景虎どのに対して悪心を起こせば、遠慮なく討たれませ。唐国で『傾国の美女』と憎まれてきた女人たちも、あるいは、ただ美しく生まれついただけだったのかもしれませぬな」

 後に「女人禁制」の戒律への苦しみゆえに極度の姫武将廃絶論者となった豪盛も、この時はまだ、姫武将に同情的だった。「姫武将は仏敵じゃ、許しがたし! 武は男のみが振るうべきである!」と豪盛の心が極端な方向へと振り切ったのは、のちに松永弾正が三好一族を次々と謀殺してついには奈良の大仏殿を焼き払った時からである。

 景虎は、豪盛という護衛を得て、安全な旅を続けることができた。

(できれば都に近い叡山で得度したかったが、豪盛どのがこれほどに止めるのならば、やむを得ない。神聖な叡山を、わたしが入山したために春日山城のように乱すわけにはいかない)

 景虎はついに、高野山の麓へと到達した――。

 豪盛は「清胤どのとまず交渉して参ります。返事をお待ちあれ」と単身、高野山を登り、そして清胤と会見し、「じき迎えが参ります」と景虎に言い残して叡山へと戻っていった。豪盛は大男だが、とうとう景虎の前では決して顔をあげようとはしなかった。これ以上景虎とともにいれば、心が乱れ、女人禁制の掟を見失ってしまう、と怯えているかのようだった。

「惜しい。実に惜しい。景虎どのにはぜひとも乱世を救う仏陀に、なっていただきたかったが……」

 そうつぶやきながら、豪盛は叡山へと帰還していった。


 長尾景虎は少女である。高野山入りと得度を希望したからといって、すぐに高野山の山頂まで登れるわけではなかった。以前清胤のもとに性別を偽って入山した際には、修行とはいっても期限があり、あくまでも「お忍びの特例」だった。しかし永住するとなると、いつまでも正体を隠せるものではない。ましてや、越後の守護・毘沙門天の化身・軍神ともなれば――清胤は意外にも、「そう容易ではない」と景虎を説得し、山麓に留めたのだった。

 景虎はなおも山麓の小寺の一室に籠もり、「なにとぞ出家を認めていただけるよう」と師である清胤との交渉を続けた。

 しかし、交渉ははかどらなかった。

 戦に敗れたわけでもなく、国を失ったわけでもなく、むしろ「越後の龍」と恐れられ無敵無敗を誇る若い越後の国主が国を捨て武家の身分を捨てて高野山に出家するという申し出も前代未聞だったが、その国主が姫武将だということもまた高野山の僧侶たちを困惑させていた。

 とはいえ、景虎を粗略には扱えない。

 景虎は、先年には上洛してやまと御所で姫巫女に拝謁し、関白・近衛前久さきひさら並み居る貴族をその清楚かつ神性溢れる異相と爽やかな弁舌でとりこにし、幕府の頂点に立つ剣豪将軍・足利義輝に「そなたこそ乱世の英雄だ」とれ込まれて「そなたは悪を討ち義を知らしめよ、時が来れば越軍を率いて幕府の管領となり天下を治めてくれ」と兵を率いての再上洛を懇願されたとさえ噂されている、いわば天下人にもっとも近い武将である。

 その景虎がなぜ現世のすべてを放りだして出家を望むのか、高野山の僧侶たちには理解しがたいものがあり、叡山の正覚院豪盛から直接「あの方は軍勢を率い武をもって義を示すべきお方、乱世が終わらぬうちに出家させてはならぬ」とかき口説かれたこともあり、交渉を引き延ばして時間を稼いでいたのだった。

 むろん、景虎の師・清胤がこの時間稼ぎ工作の中心にいる。清胤もまた、豪盛と肝胆相照らし、「高野山中興の祖となっていただきたいが、乱世は景虎どのの義と武がなくば収まらぬ。高野山という聖界よりも、景虎どのは俗界の民を導かねばならぬ運命のお方だ」と心を鬼にしていたのだ。

 素直すぎる景虎には、それらの裏事情はわからなかった。

 まだ入山できぬのかと青竹を振りながら、その日を待っているうちに――。

 宇佐美定満と直江大和の二人が、景虎の潜伏先に訪れたのだった。

「景虎。もういいだろう。オレたちが悪かった! こんどのかんしゃくの理由はなんだ。オレか? オレの兎ちゃんの前立てが似合わないのが悪かったのか? それともこのざんばらの長髪が? もしかしてあれか。お前。月のもののあれで爆発して気がついたら出奔していたっていうんじゃあ。ま、姫武将なんだからそういうこともあるさ。いいから、帰ってこい。越後の諸将も民も、みんな困ってるんだぜ?」

 兎耳の前立てを愛用するわりには乙女心がいまいちわからない宇佐美定満にはこういうざっくらばらんで適当なところがあり、だからこそ日頃は景虎にとっては心許せる数少ない殿方の一人ではあったのだが、この時ばかりは景虎をいよいよ激怒させた。宇佐美はわたしが今回の件でどれほどの思いをしたかを知っているはずではないか、と。

「宇佐美! わたしはそのような子供じみた理由で出奔したのではない! 越後の武家の男どもにはもううんざりした! 隙さえあれば、わたしを嫁にするだの妻にするだの子を産ませたいだのと、汚らわしい獣のような奴らばかりだ! わたしはなにものだ。越後の国主長尾景虎ではなかったのか? なぜ、奴らはわたしを正式な主と認めない?」

「ああ……そりゃあ景虎。お前が美人すぎるからだろう。あがめられる人間の宿命って奴だ」

 宇佐美は弱り果てたように頭をぼりぼりとかきむしって、茶を一服した。

「すっかり、長尾政景に嫌気がさしたんだな」

「当然だ!」

「問題ない、景虎。お前と政景との祝言は阻止した。お前に求婚した四人全員から、求婚を取り下げる誓紙を取ったぜ。越後の諸将は、お前に出奔されてうろたえている。軍神のお前が出家してしまい、越後を放り投げれば、武田晴信、北条氏康、越中の一揆いっき勢、奥羽勢の四方ことごとくが敵となり、しかも派閥に割れて争っている越後衆はひとつになることができない――みな、祝言の件は取り下げるから、お前に越後守護としてもういちど春日山城に戻ってきてほしいと乞うている」

「他の三人の誓紙は信じるが、政景の誓紙など口約束だろう。あの男は、執拗だ。わたしが春日山にいる限り……」

「……あいつがお前によこしまな思いを抱けば、他の男たちも煽られる。悪循環になってるからなあ。こうしよう。オレさまが適当な陰謀をでっちあげるから、長尾政景を追放しちまおうぜ。あいつさえいなくなれば、越後に戻ってくれるだろう?」

「馬鹿なことを言うな宇佐美! わが姉上の夫を追放などできぬ! 姉上にも越後から消えてもらうというのか、お前は?」

 しかし景虎。お前が独身を貫く限り、この騒動は続くぜ。お前はちと美人に育ちすぎた、お前が年老いれば状況も変わるだろうがそれはずっと先の話だ……と宇佐美は渋い茶を我慢して飲みながらさらに頭をかいた。

「いっそ、生涯不犯の誓いってのを取り下げちまえ。毘沙門天の化身だからって旦那を持っちゃならないって道理はねえだろう? 政景以外の、お前が夫にしてもよいと思える殿方を見つけて……」

「愚かなことを。そのようなことをすればわたしは死ぬ。殿方に恋をすればわたしの命はそこで終わる。父上が亡くなった時、毘沙門天がわたしの前に現れて、そう言ったのだ」

「あのな景虎。そんなものはよ、お前自身の心がこしらえた幻がそう言っているだけだ。毘沙門天ごっこなら、オレにだってできるぜ。ほれほれ。オレさま秘蔵のうさちゃんのぬいぐるみを見ろ。うさちゃんが今からしゃべるぞ? 『ボク、うさちゃん! びしゃもんてんのおともだちだよ! かげとらちゃん、おうちにかえってきてよ! かげとらちゃんがいない、かすがやまじょうは、とってもさびしいよ!』」

「……」

 景虎は無言で、宇佐美が操っている兎のぬいぐるみを取り上げると、縁側から崖の下へと放り投げていた。

「うわあああああああっ? なにしやがるんだああああ? うさちゃーん? てめええええ、オレのうさちゃんを返せええええ! この、ぬいぐるみ殺しがあああ!」

「兎を見ると、鏡に映ったわたしの容姿を思いだして、不愉快になる」

「なんで不愉快になるんだよっ? お前、これほどの美人になっておきながら、誰もがうらやむべっぴんに育ちながら、馬鹿じゃねえのかっ? もったいねえ!」

「宇佐美。わたしが誰に嫁いでも、越後は今以上に大荒れに荒れる。政景はさらに暴れ、長尾家も国人衆も四分五裂し、越後の町人はみな路頭に迷い、領民は田畑を失って餓死するだろう。疑うならば、お前がわたしの夫になってみるか?」

「は? オレはお前の兄貴みたいなもんだよ、アホ抜かせ。ああもう。お前はすっかり、オレには扱いが難しいお年頃になっちまったなあ、景虎。虎千代と呼んでいた幼女時代が懐かしいぜ」

「お前と直江大和が、わたしをこのように育成したのではないか。お前が義のための戦というものを教え、直江大和が慈悲をもって敵を許すという神仏の道を教えた。わたしはその両方を、実践してきた。なぜ今さら、お前に文句を言われる?」

「それはそうだが……オレたちいい大人が、幼かったお前に自分の手前勝手な夢と理想を押しつけたことは謝る。しかしな。毘沙門天の化身になれだの、恋をしたら死ぬだの、そんな世迷い言はオレも直江も教えていねえぜ。景虎、父親を戦で失った衝撃でお前自身が言いだしたことだ。今思えば、殴り倒してでも毘沙門天と自分を同一視しはじめた時にお前を矯正しておくべきだったが……あの時はまさか、ここまでこじらせるとは。けなげな子供だ、と感動してたんだよ。まさか、年頃になっても男を寄せ付けず毘沙門堂に籠もり毘沙門天とやらと会話し続ける面倒な娘になっちまうなんてよ」

 景虎には軍神・毘沙門天の物語なんぞよりも先に「源氏物語」を読ませておくべきだった、いやむしろ光源氏の存在が必要だった、と宇佐美は鼻をかみながら愚痴った。

「おい直江! 立ち聞きしていないで出てこい! てめえが、なんとかしろ!」

「……やれやれ。お嬢さまの勘気を鎮める役目は、宇佐美さま、あなたでしょうに。わたくしは言いにくいことをずけずけと言ってお嬢さまを怒らせるのが仕事ですよ?」

 直江大和が、しぶしぶ室内に入ってきた。

「直江、お前も来ていたのか。この景虎はもう越後には戻らぬ。二人とも、さっさと帰れ!」

「お嬢さま。高野山への出家はかないませんよ。わたくしがいかような手を使ってでもお止めします。やまと御所にも、幕府にも、すでに働きかけております。近衛前久さまも足利義輝さまもそれはもう激しく動揺しておられまして、京の都はこの世の終わりが来たかのような大騒ぎになっています」

「直江。貴様はいつもそうだ! 裏から手を回してこそこそと! 武家なら武家らしく堂々と戦え!」

「ふふ、これがわたくしの流儀ですから。お嬢さま? ことここに及んでは解決策は二つです」

「ひとつ目はなんだ?」

「越後が滅びるか否かの賭けに出て、宇佐美さまと祝言を結ばれませ。他の者が夫となれば越後は四分五裂しますが、万事適当な宇佐美さまなら意外とみな『宇佐美さまはこれから景虎さまの尻に敷かれるのか、お気の毒に』と同情しながらあきらめるかもしれません」

「う、宇佐美と!? わたしが!?」

 宇佐美定満が茶を吹きだし、景虎は顔色を青くしたり赤くしたりと激しく動揺して手にした青竹をぶんぶんと振った。

「そそそそれは断じて、ない! 生涯不犯の誓いを破るくらいなら、出家する!」

「もうひとつの策は、生涯不犯の誓いを守られながら、出家を思いとどまって越後の国主に返り咲くことです。越後の諸将もこれで少しは懲りたでしょう。ですが、このまま手ぶらで春日山城へ戻られても、いずれはまた同じことの繰り返しになります。悪心をもたげてお嬢さまをわがものにせんとする男は、必ず出てきます。禁じられれば禁じられるほど、人間というものは、禁断の実が欲しくなるものです」

「そんなことはわかっている! だからどうするかと聞いている、直江!」

「お嬢さまにもっとも執着している一門衆筆頭・長尾政景さまを暗殺なさいませ。そもそも、こたびの一件、すべては政景さまの謀略なのです。悪は許す、謀反も許す、だが神聖な毘沙門天の化身を犯そうとする者だけは殺す、と家臣団に見せつけなさいませ。それで越後は統一されるでしょう」

 景虎は怒りに震えながら、青竹でぴしり、と直江大和の肩を叩いていた。

「姉上の夫を、暗殺しろと? そのような卑劣な真似を、毘沙門天は決して認めない! それではわたしは、武田晴信と同じ悪党になってしまう!」

「両雄並び立たずと申します。越後国主の座を狙いお嬢さまをも狙う長尾政景さまに死んでいただく以外に、お嬢さまが真に越後の主となるすべはございません」

「断じて、それはない。それは……それは、できない!」

「おや。もしやお嬢さまはあの男を憎からず思っておられるのですか。わたくしはただ、姉君の夫だから殺せないのだとばかり」

「直江大和! 貴様はそうやっていつも、わたしの心を操ろうとする! しかしお前からなにを言われても、それはお前が弄する術であり技だ! お前の本心ではない。わたしはもう慣れている! 決して暗殺など認めぬぞ! が、このまま越後へ引き返してもまた出奔することになる。それも、わかっている! わたしは、男になどもう接触したくない! 忠誠など誓ってほしくもない! わたしに捧げる見せかけの忠誠心の裏側でわたしを汚そうとする醜い欲望を隠している、それが男だ! 例外はお前たち二人や柿崎景家らごく少数の者だけだ。わたしは越後には戻らぬ!」

 こんどばかりはお嬢さまの説得は困難かもしれません、と直江大和ほどの者が冷や汗をかきながらうなっていた。

「いかがします、宇佐美さま」

「こうなりゃ柿崎景家と祝言を挙げさせるか? あいつは毘沙門天よりも阿弥陀仏のほうにはまっているがよ」

「いいえ。誰が相手でもお嬢さまは承知しません。恋をすれば死ぬ、とかたくなに思い込んでおられますから」

「直江! てめえが生涯不犯を煽ったからだ! とりあえずお前がまず、生涯独身をやめろ! 誰かと祝言を挙げろっ! 生涯独身同盟を結んでいる盟友のお前が脱落すれば、景虎も気が変わるかもしれねえ!」

「お断りします。わたくしがお嬢さまへの忠誠心の証しとして掲げた生涯独身の誓いを捨てれば、わたくしはただの冷血で陰湿な宰相になりはててしまいます。それだけはご免ですね。わたくしが手を汚すのもすべてはお嬢さまのおんため。この一点を放棄することは、わたくしの美学に反します」

 こいつら揃いも揃って……これだから神だの仏だのにはまる連中は面倒なんだ……うぎぎ……と宇佐美が歯がみしていると、誰も予期していなかった「三人目の男」が、室内にいきなり踏み込んできた。

 筋肉質のひきしまった身体。

 太く黒い眉毛。

 飢えた狼のような眼光。

 その男こそ、景虎の姉を娶りながら、なおも景虎に執着し続ける野望の武将。

「長尾政景? おいおい。てめえ、なにしに来た?」

「あなたには、越後国主の代理を任せたはずです。われらが不在の隙に越後を乗っ取るというのならばともかく、なぜあなたまで高野山に?」

「……わたしに近づくな、長尾政景! 姉妹をともにわがものにせんとするなど、畜生の行為だ! 貴様は姉上との間に、何度も子供をもうけているではないか! 恥知らずな。姉上のもとへ帰れ!」

 この男にだけはもう会いたくない。だから、捨てがたいすべてを捨てて越後から出てきたはずだった。

 感情をかき乱された景虎は、激しく政景を罵った。

「お前はもう、わが姉上を妻としたのだ! 生きてこの景虎を手に入れられる日は決してないと知れ!」

 長尾政景は、どさり、と畳の上に腰を下ろして、そして獰猛どうもうな視線で景虎を射貫いた。

「哀れだな景虎。毘沙門天ごっこに辟易へきえきして、ついに高野山へと逃げ込んだか。武家の身でありながら生涯不犯を貫くのが辛くなったようだな。出家しちまえば、あきらめもつくからな。だが俺は逃がさんぞ。いや、時代が、お前を逃がそうとはしない」

 宇佐美が「この糞馬鹿野郎があ! これ以上景虎を追い詰めるんじゃねえ! てめえは景虎に求婚しないという誓紙を出したじゃねえか!」と政景を制止しようとしたが、直江大和が「ともあれ言いたいことを言わせましょう。なにかが起こるかもしれません」とその宇佐美を止めた。

「逃げた、だと? この景虎が? 貴様から?」

「そうだ。貴様は俺から逃げた。俺の求愛に怯えて、逃げだした。しかもそれだけではない。貴様は、自分の人生のすべてから逃げようとしている」

「政景! わたしは貴様など、恐れてはいない。貴様は自分を強いと思っているだろうが、毘沙門天にとっては貴様など敵のうちにも入らない。貴様と戦をすればわたしが勝つ。百度戦っても百度わたしが勝つ。貴様は姉上の夫だ。ゆえに慈悲の心で生かしてやっていると知れ!」

「フン。景虎。お前はたしかに生まれながらの戦の天才だ。戦えばすなわち勝つ。宇佐美定満の軍学も、直江大和の姑息こそくな裏工作も、お前には必要がない。この日ノ本開闢かいび以来、貴様と並び立つ戦の天才は源義経くらいのものだろう。お前が毘沙門天を気取るのをやめられなくなった理由もわかる。しかし貴様は弱い。心が、弱いのだ。息苦しくなれば、すぐに目の前の現実から逃げようとする。自分は人間ではない、毘沙門天の化身だ、と言い張ってしまえば、傷つかずに済むからな。お前の親父が一揆に殺された時からずっと、お前はそうやって目の前の残酷な現実から逃げ続けてきた。ただの一日も、人間として生きていない。傷つくことが恐ろしいのだ。貴様は生涯不犯、無敵無敗の軍神のままで死んでいきたいのだ。戦に敗れることを恐れているだけではない。人間として生きることすら、お前は恐れている。恋心に目覚めて、かなわぬ思いに身を焦がして苦しみもがくなど、貴様にできるはずもない。そんな勇気が、貴様にはないのだ。はじめから生涯不犯と言ってしまえば、失恋することもないからな」

 宇佐美も直江も、固唾かたずをのんで二人のやりとりを見守っていた。

 長尾政景は死ぬつもりで来たのだ。景虎を高野山に奪われて永遠に失ってしまうくらいならば己の言いたいことをすべて景虎にぶつけて、それで景虎に殺されるならばそれでいいと覚悟してきたのだ、と宇佐美も直江も気づいた。

 野望の塊ともいうべき長尾政景にとって、景虎といううら若き姫武将はそれほどに――己のすべてを賭けて悔いがないほどに憧れてやまない存在だったのだ。

「だがそんな貴様の前に、武田晴信という宿敵が出現した。武田晴信に対しては、勝ち逃げができそうにない。あの姫武将と戦う運命を引き受ければ、いずれお前は地上に引きずり落とされる。武田晴信を前にした今、毘沙門天の化身だの義の戦だの慈悲の心だのといった絵空事を貫き通す自信も失せた。だから、貴様はなりふり構わず逃げた」

「……武田晴信の名を、そのような形で口にするな! 貴様のような血と欲にまみれた男などが! わたしと晴信を汚すな!」

 政景の罵倒に対して、じっと耐えていた景虎だった。

 だが、晴信の名を出された瞬間に激高し、我を忘れた。

「貴様に! 貴様などにわたしたちのなにがわかる!」

 悔し涙を溢れさせながら、青竹で何度も、政景の硬い額を、山のように盛り上がった肩を、分厚い胸板を打ち据えた。

 政景は血まみれになりながら、なおも薄ら笑いを浮かべ、景虎を凝視し続けていた――。

「フン。今回のかんしゃくはほんものらしいな、景虎……だがな。貴様が高野山へ登ったと知った晴信は、即座に和睦の約定を破ったぞ。お前が不在のうちに川中島、善光寺平を奪い取ろうとみたび動きはじめたぞ。オレとて己の武には自信があるが、晴信と山本勘助の悪知恵にはかなわぬ。越後衆どもも、望んで俺には従わぬ。貴様以外に、晴信の侵略を止められる者はいない――それでもなお、越後を捨て川中島も関東管領も捨てていけるのか?」

「……晴信が……!? わたしとの和睦の約定を、破った?」

「そうだ。お前が越後を捨てたのだから、その瞬間に約定も無効になった、と晴信はうそぶいている。奴らは甲斐から川中島への補給路を確保すべく松代・海津城の建築に取りかかり、犀川を越えて善光寺防衛の要・葛山城かつらやまじょうを奪うべく信濃国人どもの調略をはじめ、そして今回は越後の大熊朝秀を謀反させた。かつての北条きたじょうとは違い、お前の出奔騒ぎの一因となったことを悔いて越後に居場所なしと覚悟を決めた大熊の謀反は本気だ。このような状況の下に俺が越後の新たな守護となれば、信濃派と関東派の対立は俺にも制御できぬまでに激化し、越後の国人どもはまた空中分解する。為景の時代に逆戻りだ……まだまだ謀反人は出るぞ」

「しかし大熊の謀反は、そなたにも鎮圧できるだろう」

「フン。大熊は、馬鹿ではない。俺と真正面から戦っても勝算がないことはわきまえている。奴は、会津の蘆名軍あしなぐんを越後へ引き入れようとしている。むろん、山本勘助の策だろうな」

「……こんどは、会津か! 越後の平和を、どうあっても壊すつもりか。武田晴信め。山本勘助め……!」

 またしても晴信が……太原雪斎たいげんせっさいどのが命を賭して成し遂げた和約を、わたしが越後から出奔したと知るや否や、即座に破ったというのか……どうしても、わたしに、川中島へ戻ってこいと……武将として「義戦」を貫いてみせよと、そう言うのか。

 景虎は、川中島へみたび出陣すると、決意していた。

「政景。わたしは決して逃げない。逃げたりはしていない。貴様に、わたしを天上の世界から引きずり落とす力がないだけだ」

 政景は、「そうかもしれないな。だが最後は、俺が勝つ。たとえ、しかばねになって魂だけの存在となりはてようが、貴様を必ず地上に引きずり下ろしてやる」と不敵に笑っただけだった。

 この時。直江大和は、宇佐美に、

(これ以上政景を許し続けていては、お嬢さまの義という理想は……今回はかろうじて収まりそうですが、いずれ越後は)

 と視線で「政景暗殺」を訴えていた。

(川中島で晴信を破り、関東管領の復権を成し遂げられれば、政景にももうなにもできねえ)

 宇佐美はなおも、景虎の「不殺」の意志を尊重したかった。景虎を裏切る時は、オレ自身が死ぬ時だ、直江の旦那の生涯もその時、事実上終わるだろう、まだ早い――直江のもとに預けた与六が姫武将として育ちきるまではまだオレたちは生きなければならない、と宇佐美は思っている。


 景虎は、高野山での得度を断念し、師の清胤に国内事情が急変したことを告げて、越後へと帰還した。越後の諸将は、景虎にひれ伏して自分たちの過ちを悔い、「二度と、婿を取れとは言いませぬ。どうか生涯不犯の誓いを貫き、毘沙門天の化身として」「越後をお守りください」と忠誠を誓った。

 景虎は電光石火の勢いで、大熊朝秀率いる謀反軍を撃破した。会津・蘆名家の介入は、間一髪のところで未然に防がれた。大敗を喫した大熊朝秀は「これでわれらが姫は二度と出家など考えまい」と泣き笑いしながら越中一揆勢の中へと逃げ込み、やがて武田家へと降ったのだった――。

 越後を三分していた派閥のうち、「非戦派」は大熊の出奔によって自然消滅した。政景と上杉憲政を担いだ関東遠征派と、川中島防衛派の両派閥もまた、もう景虎さまを悩ませ出奔などさせてはならないと和解し、「手打ち」を行った。

 越後守護に返り咲いた景虎は、諸将の前で宣言した。

 わたしは川中島で必ず晴信と決着をつけ、かつ、関東管領家も復興する、人間には不可能なわざだが、わたしは「不犯」の誓いを守る限り毘沙門天の化身として戦える、生涯誰にも戦では敗れぬ、いずれの義も成し遂げる、と――。

 軍神・景虎なくば、武田晴信と北条氏康、この同盟を結んでいる両者が虎狼ころうのように越後へと攻め寄せ、容赦なく分け取りしてしまう。この事実に直面した諸将は「われらが望まずとも、武田と北条のほうから越後を奪おうと攻め寄せてきます」「益なき防衛戦、義戦と思っておりましたが」「間違いでした。乱世においては、攻撃こそが最大の防御」「われらは景虎さまに従い、戦いまする」と、景虎の「義戦」の続行に全面的に協力することを誓ったのだった。

 政景が巻き起こした「景虎出奔騒動」は、かくして、景虎の越後守護としての絶対的な威信を生みだすという結果を導き――「第三回川中島の合戦」が、勃発した。



 景虎、出家を断念して越後へ帰還す――この一報が晴信と勘助のもとに届いた時には、すでに武田陣営はみたび川中島へと出兵し、着々と善光寺平北部の侵略を進めていた。

 越軍との三度目の決戦を前に、一族郎党と重臣たちが勢ぞろいして、御旗楯無みはたたてなしの前で「大戦略」確定のための軍議が開かれた。

 本来、この侵攻は長尾景虎が越後から出奔したことを前提に急遽開始された。このまま景虎が戻ってこなければ、上野こうずけ方面へ同時出兵している北条氏康と連携して余裕で勝てるし、景虎が帰還したとしても景虎不在の隙をついて善光寺も戸隠山も奪取してしまえる。そのはずだった。だが、意外な事態が起きた。よりによって、越後守護の代役を務めていた野望の男・長尾政景自身が高野山に隠れていた景虎のもとへはせ参じ、いかなる説得術を用いたのか、景虎を連れ戻してしまったというのだ。

 政景は武田方には調略できぬが、景虎政権にとっては埋伏の毒。第二回川中島の折に怪しげな噂を流して越軍諸将を乱した張本人らしい、と佐助ら真田忍群が前回の合戦の時に陰で起きていた事件の真相をおおむね探り当てている。

 景虎が高野山で得度すれば、政景は自動的に越後守護となるはずだった。反対者が出たとしても、景虎の姪にあたる政景の実娘を越後守護とし、政景は守護の後見人という座に納まることができるはずだった。

 その政景が、宇佐美定満や直江大和ですら説得できなかった景虎を、春日山城に連れ戻したというのだ。

 景虎と政景の複雑な関係は、勘助にも理解しがたかった。

「姉上。長尾景虎が春日山に戻った以上は、兵を退いて後日に期すべきだわ。川中島攻略のための戦略は、その前提を覆されたのだから。このまま戦い続けては、またしても川中島で無駄に時間を使ってしまう」

 副将の典厩てんきゅう信繁が、「景虎が帰ってきたか」とむしろ頬を上気させて喜んでいるように見える姉・晴信を、いさめた。

「放っておけば、越後の大勢の男どもから求婚されて窮した景虎は、二度と地上の世界には戻ってこなかったはずなのに。まるで姉上は、景虎を地上に呼び戻すために、わざわざこんな真似を……川中島は……合戦場は、姉上と景虎の遊び場ではないのよ。姉上。目を、覚まして……」

「次郎姉さん。そうは言うが、姉上にとっては長尾景虎は絶対に決着をつけなければならねえ宿命の強敵だ。景虎との決戦を先送りにしていては、武田は一歩も先に進めなくなる。俺が今川から嫁を取ったのだって、景虎との決着をつけるためだ! 越後の海を見るまで、俺は、やるぜ!」

 晴信の「景虎熱」を案ずる信繁とは対照的に、義信は眼を怒らせていた。義信にしてみれば、景虎さえ武田の前に立ちはだからなければ、今川との縁談を呑むこともなかった。駿河侵攻の可能性が消えた今、越軍に勝てねば、俺の縁談を笑顔で承諾した飯富兵部おぶひょうぶの立場がない、と思い詰めている。

 晴信は、自分をひたすらに案じて撤退を唱える妹と、闘志をみなぎらせている弟とを交互に見つめながら、ため息をついていた。影武者として隣に座っている孫六信廉まごろくのぶかどに「孫六はどう思う」と尋ねてみた。

「姉上が武田家の当主。信じる道を行くしかないサネ」

「しかし武田家の命運、大勢の家族や将兵の人生がかかっている」

「今頃、高野山での得度を妨害されたと景虎は激怒しているサ。姉上が退いても、あちらから追いかけてくる。鬼ごっこのように」

「鬼ごっこ、か……」

「都の情勢は次々と変転し、近江へ逃れていた将軍が三好を押し返して巻き返している。その動きに呼応して、今川義元は太原雪斎抜きでも上洛軍を興そうと動きはじめている。雪斎が、それだけの下準備をすでに整えておいたということサネ。そろそろ一歩前へ踏み出さなければならない時サ。わたしも、信繁姉さんも、姉上も――武田家全体が」

 信廉は、そう言いながらも、のんきに信繁の肖像画を描いていた。

「京から遠く離れ、海を持たぬ武田家には残念ながら地の利はないが、人の和においては日ノ本最強となったとあたしは信じている。残るは、天の時があたしと景虎、どちらに微笑むか、だけだ」

 晴信の左右の手足――晴信に侍り続けながら次々と戦略を打ち出す軍師・山本勘助と、真田忍群を操り諜報ちょうほうと調略の実働部隊を率いる真田幸隆。

 晴信と勘助が育ててきた姫武将たち――飯富兵部と飯富三郎兵衛の姉妹。「不死身」の馬場信房。工藤祐長。春日弾正。真田の「双子」。

 さらには、原美濃をはじめ、父・信虎の代から仕えてきた歴戦の男武者たちも、まだ全滅してはいない。

「勘助。こんどこそ、景虎との最後の戦いとするぞ。策を述べよ」

「はっ。この山本勘助、景虎が越後へ帰還した時の策もすでに整えておりました。景虎は神がかりにして、直接野戦で正面より相対すれば必ず敗れまする。一騎打ちともなれば、剣豪将軍足利義輝公が無刀の景虎にあっけなく敗れるという異形の強さを誇り、真田忍群の誇る異能力も、景虎はその紅眼を用いて無力化してしまうと申します。あれほどわれらを苦しめた加藤段蔵ですら、術を奪われるのです。このような景虎自身が率いる越軍本隊は、決して力押しでは倒せませぬ」

 はじめから無敵の天才武将だったとは聞くけれど、上洛して以来、化け物のように強くなり続けている……と信繁が震えながら思わずつぶやいた。晴信が「化け物ではない。異形でもない。ただの人間の小娘だ」と信繁の言葉を訂正させた。

「次郎。そのような怯えた眼で景虎を見れば、勝機を見失うことになる。個人の武勇だけが、勝敗を決するのではない。必要なものは人の和と、目の前の現実を正しくありのままに認識できる、透徹とした知謀だ」

「……景虎以外の相手ならば、姉上が築き上げた武田軍にかなう敵はいないわ。でも……景虎は、あまりにも」

「勘助。次郎は少々、景虎を意識しすぎている。献策を続けよ」

「はっ」

 勘助は(次郎さまは、われらが御屋形さまの心が完全に景虎に奪われていること、気が気でないのだ)と痛ましく思いながら、必勝の策を唱えた。

「武田軍が勝利するには、景虎との直接戦闘を避けつつ、かつ戦に勝つのです。すなわち――」

 景虎不在の隙を突いて猛然と諏訪から騎馬隊を率いて駆け、葛山城を奪取してきたばかりの馬場信房が、ぽつり、と口を開いた。

「……人の和で、勝つ」

 左様。おぬしもすでに武田家を支える名将となった、よくぞ己を磨き鍛えあげた、と勘助が己の膝を打っていた。

「軍師どの。わかりました! 逃げましょう、ということですね!」

「春日。うぬはまた、逃げ弾正ぶりを! ええい。そなたは松代で真田どのとともに海津城の築城にあたっておればよい! 越軍の強さはどこまで行っても、景虎個人の武の強さ。越後の男どもは、それぞれ屈強な猛将揃いなれど、景虎が不在では統制の取れぬ烏合うごうの衆となることはすでに御屋形さまもご存じの通り。揃いも揃って、猪突猛進するばかりの猪武者どもです。宇佐美定満と直江大和には知謀がありまするが、誰もこの二人程度の家格の者には従いませぬ。それが越軍の弱点。翻って――」

「わ、わが武田は」

 工藤祐長がなにかを言いたそうにしていたが、

「姉上が『人の和』をこそ磨きあげてきた、最強の統率力を誇る軍団。武田軍とは、文字通りの『武田家』だわ。勘助」

 信繁が続きを言ってしまった。工藤は「ああ……また軍議で存在を忘れられています。またしても感状をもらい損ねちゃいます」と悲しげに声をあげた。

「これまで武田は、善光寺平を南北に分断している犀川渡河からの一点突破にこだわって参りました。されど景虎との正面決戦は、最終的に勝とうが負けようが武田軍にとっては玉砕も同然。自爆を意味します。それが二百日に及ぶ膠着こうちゃくの原因。ゆえにこたびは、三方向より侵攻いたします」

 三方向! と信繁が声をあげた。

 義信が「まさか駿河、川中島、美濃へと同時出兵するってのか? 無理だろ」と首をひねったが、信繁が「違うの。越後方面へ向けて、三つの部隊を異なる道から進ませるということよ」と相変わらず武辺一辺倒の弟をたしなめた。

「御屋形さま率いる本隊は、犀川南岸に本陣を敷き、再度、犀川渡河を窺わせます。旭山城に籠もる守備隊とともに、善光寺・横山城に出てくるであろう景虎をいまいちど釘付けといたします。その隙に、別働隊を東と西から、動かしまする。景虎の身体は、ひとつ。武田の部隊は、複数同時展開が可能。御屋形さまの手足のごとく、複数の部隊を動かせる。かつ、それぞれの部隊に強さの差はございませぬ。相互部隊の連絡は、真田の双子と忍びたちを縦横に駆使することで、密に取れまする。騎馬隊の華やかさを目立たせておりますが、実はこれこそ武田の強さの神髄」

 真田幸隆どのと春日弾正は、引き続き千曲川の東――松代に防衛拠点となる海津城を築かれませい。甲斐から上田を経て松代へと至る補給路を確保できれば、諏訪を経由せずとも軍と兵糧を自在に善光寺平へと調達することが可能となります。一朝一夕にはできませぬが、必ずや武田に勝利をもたらす一手です、この海津城が完成すれば武田の勝ちです、と勘助が幸隆に語った。

 幸隆が「承知いたしましたわ」とうなずく。

「ですが勘助どの。虎の子の真田忍群は……佐助たちは、松代に置きますか。それとも」

「真田忍群は、こたびは飯富姉妹のもとへ」

「飯富姉妹に?」

「それがし、飯富姉妹に騎馬隊を預け、善光寺平を迂回し、戸隠山の西側の千石街道を北上して糸魚川へと抜ける『越後への裏道』を進ませまする。これが第三の部隊」

「糸魚川に出て、越中一揆と合流し、西から春日山城へ迫るというのか勘助?」

 晴信が思わず腰を浮かせた。勘助は、

「……と見せかけて、戸隠山に突入する道筋を確保することが第一の目的。先の善光寺平の秘仏に続いて、こたびは『石』を奪いまする。これで戸隠忍群のことごとくが武田にくだりましょう。幸いにも、加藤段蔵は景虎出奔の手引きをしたかどで長尾家から現在は追放され、独立勢力として戸隠山に割拠しております」

「そうか。ならばもしも越軍が戸隠を放置して、無視すればどうなる?」

「その時は、こちらも戸隠を後回しにして、糸魚川へ出てしまいまする。越軍と手切れ状態の戸隠は、道筋さえ確保すればいつでも奪えますゆえ。そして越中一揆勢への根回しは、すでに終わっております。彼らは、景虎の祖父と父を討った長尾家の仇。景虎に復讐されることを怯えておりまする。少し煽れば、いくらでも景虎と戦いまする」

 俺も飯富兵部とともに戸隠へ進ませろ! と義信が叫んだが、勘助は、首を振った。

「太郎さまはそれがしと次郎さまとともに、本陣で御屋形さまをお守りください。旭山城と犀川南岸の武田本隊。松代の築城部隊。そして戸隠奇襲部隊。三方向より侵攻してくる武田軍を前に景虎がどう動くか、それがしにも読めませぬ。御屋形さまの守りを手薄にすることだけは、避けねばなりません。馬場も、本陣を守るように」

 そうか。勘助のしゃらくせえ三方向作戦を前にした景虎が、乾坤一擲けんこんいってき、犀川を渡って武田との正面決戦に挑んでくるかもしれねえわけだな、と義信が歯ぎしりした。

「兵法の常道から考えればその可能性は低いですが、景虎ならばすべてがあり得ます。そして、そうなった時、しまった、では済まぬのです」

「わかった。兵部。どうやら、兵部が率いる別働隊はおとりらしい。無茶して死ぬなよ」

「太郎。あたしは、てめえの守り役だぜ。一人で死ぬかよ。死ぬ時は一緒だ……でもよ。できれば、景虎との決戦の場で、華々しくくたばりてえな。その結果、無敵の神将に武田が黒星をつけられれば、武将として本望だ」

「縁起でもねえこというな。三郎兵衛。姉貴を頼むぜ。最近、兵部の奴、荒れているんだ」

「ええ。承知したわ、太郎さま。姉上も、姫と武将との両立で心苦しいのだわ」

 武田家最小武将の飯富三郎兵衛が、静かに微笑んでいた。

「しかし段蔵どのも、景虎を越後から連れ出すとは、酔狂なお方でござるな。戸隠忍群はこれで越後からも武田からも孤立したでござる。才蔵どのはどうすることやら、うき」

 才蔵どのを武田にお連れするいい機会かもしれぬでござるな、と天井裏にぶら下がっていた佐助がご陽気に笑っていた。


 越軍八千を率いて春日山城を出立した景虎は、「よくも晴信め。わたしの留守を狙って、火事場泥棒のような真似を!」と猛然と川中島一帯を駆け回った。善光寺東の横山城に本陣を置くや否や、有無を言わせず葛山城へと攻めかかり、武田方が守備を固める前にこれを奪回してしまった。もはや、出家だの大悟だのを考えている余裕はない。不義を犯す野望の武将が目の前にいる限り、戦いこそが、越後の姫武将として生まれた自分の運命――景虎は晴信への怒りのあまり迷いを振り切っていた。景虎自身が己の中で能力のリミッターを解除した時、あまりにもその用兵術は人間離れしており、あまりにも強かった。葛山城と犀川南岸の本隊とで景虎を釘付けにして、その隙に東の千曲川側では海津城を築城し、西では戸隠山へと別働隊を向かわせ「石」を狙うという勘助の三方向作戦は、一日にして破綻していた。勘助としては、要害・葛山城は一週間はつと計算していたのである。

 しかも景虎の戦略眼の天才ぶりは、その葛山城攻略の直後に発揮された。

 景虎は奪回した葛山城に兵を入れて善光寺の守りを固めると勘助は読んでいた。しかし、景虎はあれほどこだわってきた横山城と善光寺の守備を捨てて南へと兵を進め、自ら先の和睦の折に武田軍の手で破却させた旭山城に乗り込み、越軍全軍を入れてしまったのである。

 景虎は、一気に南下して犀川南岸の武田本陣に肉薄したことになる。

 これで、武田本陣との決戦を挑める位置を取った。

 同時に、武田本陣のほうからは、旭山城には迂闊うかつには仕掛けられなくなった。旭山城は山上の要害なのだ。平地の横山城とは、攻めがたさに大幅な違いがある。

 川中島の地図を陣中で凝視しながら、勘助が、

「あり得ぬ。善光寺の守りを放棄して、全軍で旭山城に登るとは。われらが退路を断ったらいかがするつもりなのだ。よもや、捨て身の決戦を挑んでくるつもりか……」

 と脂汗を流している隙に、景虎はさらに動いた。

 旭山城に長尾政景率いる守備隊を残すと、自らはわずかな手勢のみを連れて夜陰に紛れて下山し、南下してきたばかりの北陸街道をこんどは北上して飯山へと向かった。

 この飯山で景虎は、戸隠山、飯縄山と並ぶ北信濃三大修験場のひとつ、飯山の小菅神社に戦勝を願う願文を捧げるや否や、千曲川沿いに馬を駆けさせて松代に出現し、築城中の海津城を正面から攻撃してきた。

 松代に武田が拠点を作れば、犀川を渡らずとも、北上できる。

 ということは、逆もまた真で、犀川を渡らずとも景虎もまた松代を奇襲できるということなのである。

 飯山になにをしに行ったのじゃ、またぞろ「神がかり」の癖が出たか、あるいは旭山城を「餌」に武田本隊をつり出すつもりか……と景虎の奇異な行動をいぶかしんでいる勘助のもとに、真田幸隆から「半ばまでできあがっていました海津城、焼き払われましたわ」と報告が入った。

 いくら真田幸隆が智将とはいえ、籠もるべき城が完成していなければ、その防御力は低くなる。猿飛佐助をはじめとする真田忍群を仮に海津城につけていたとしても、景虎の目は佐助の「猿飛の術」を無効にしてしまうから、結果は同じだったろう。三方に部隊を分けて景虎を惑わすはずが、逆に神の如き強さを誇る景虎にそれぞれを各個撃破されている、と勘助は気づいた。

 なぜこうなっているのだ。そうだ。速い、景虎は武田騎馬隊よりも速い、と勘助は戦慄した。馬の能力のためではない。南蛮渡来の大馬の血を入れている武田の馬のほうが速い。景虎が、わずかな手勢のみで駆けているからだ。あり得ぬほどの少数精鋭部隊なのだ。しかも、分割された武田軍の各部隊を、景虎はそのわずかな数で粉砕できるのだ。が、分割しているとはいえ、武田軍はそれぞれ名将・智将が統制の取れた兵を率いている精鋭揃いである……。

「数と質を頼んだが、間違いであったのか。そんなはずはない。このような神がかった速度の進撃を、いつまでも強行できるはずがない。なぜならば景虎は身体が弱い……あの者……命を削ってまで、御屋形さまに勝つつもりなのか……飯山で、なにを願ったのじゃ」

 寝食を忘れて陣に籠もり、地図の上に白と黒の碁石を配置しながら「読めぬ。あの者の思考も戦術もまるで読めぬ。頭が割れるように痛む。今回こそ、御屋形さまを勝利させねばならぬのだ」と苦しげにうめいている勘助を、晴信は心配げに凝視していた。


 海津城を焼き払われてまもなく――そのような善光寺平の戦線を横目に、ひたすらに千石街道を駆けて西から戸隠入りを目指していた飯富姉妹は、信じがたいものを見た。

 山上から、白い行人包ぎょうにんづつみで顔を覆った小さな姫武将が、わずかな手勢だけを連れてまっしぐらに駆け下りてきたのだ。

 勘助の三方向作戦の要諦を直感的につかんだ景虎は松代奇襲のあとすぐに不眠不休で行軍し、戸隠山を越えて、飯富部隊の頭上から逆落としをかけてきたのだった。

 武田が三方向で同時に部隊を展開するならば、兵力は三分の一。ならば、ひとつずつ順番に、全部を叩きつぶしてしまえばいい。

 景虎の「戦術」を敢えて言語化すれば、そのようになる。

 が、むろん、景虎は言葉で考えて行動してはいない。

 晴信と勘助への怒りの赴くままに、「一撃決戦を避けさせはせぬ、武田軍が分散するというのならば、そのすべてを叩きつぶす」と動き続けている。

 武田最強の勇猛を誇る飯富兵部が、

「なんだこいつは……まるで源義経じゃねえか!」

 と思わず目を疑ったほどだった。

 飯富の「赤備え」と景虎率いる漆黒の騎馬隊とが、小谷おたりの峡谷にて激突した。

 両軍ともに、全軍討ち死にの覚悟である。

 無言のまま敵の包囲網を突破して白馬で駆ける景虎と、飯富兵部との、視線が交錯した。

「この女のおかげで、太郎は今川の姫と祝言を挙げなければならねえ羽目に……畜生……!」

「姉上。冷静に。決戦するべき時ではないわ。戸隠までの入り口を確保した時点で、任務は達成されるのよ」

 景虎との一騎打ちを望む姉の兵部を、冷静沈着な飯富三郎兵衛がかろうじて押しとどめた。

 乱戦のさなか、ひょっこりと顔を出した猿飛佐助が、

「山中に加藤段蔵どのが忍び衆を率いて潜んでいるは必定。一騎打ちはまずいでござる。景虎どのがなにを言おうが段蔵どのはすかさず闇討ちするでござる。拙者が、景虎どのを怒らせて追い回されるでござるよ」

 と囮役を買って、ようやく飯富兵部と景虎との激突を回避させることに成功した。

 事実、この時加藤段蔵は「『石』は守らねばならん。武田め、ついにここまで来おったか……」と戸隠忍群たちを率いて小谷の戦場へと猛接近していたのだった。

 飯富隊が糸魚川への進撃も戸隠への強襲も断念して行軍を停止したことを知るや否や、景虎は馬首を翻して、

「猿飛佐助。加藤段蔵。今宵こよいは水入りだ。『石』を守りたかったが……勘助はわたしが戸隠山へ動いた今こそ最後の一手を打ってくる。越軍はこれより、晴信との決戦をはじめる」

 と、再び戸隠山を登り、飯山へとまっしぐらに駆けていた。


「御屋形さま。景虎の動きがあまりに速いために、せんを奪われ続け申したが……これで勝ちでございます。景虎を戸隠に惹きつけている今、松代に潜ませていた『最後の伏兵部隊』を動かして千曲川沿いに北上させ、飯山を奪います。飯山こそは北陸街道の喉元。ここを盗れば、旭山城まで前進している越軍は帰る場所を失います」

 不眠不休で真田忍群とむかで衆を動かし続け、地図上で仮装の景虎を相手に碁石を打ち続けて要所を取り合っていた山本勘助は、ついに「勝った」と会心の笑みを浮かべていた。

「勝ったな、勘助」

「はっ。それがし、軍議でも隠し通しておりました。四つめの部隊を、松代の山中に隠していたのでござる。不死身にして不動の馬場信房が『山』、赤備えの騎馬隊を率いる飯富兵部と妹の三郎兵衛が『火』、逃げ弾正の春日が『風』ならば――いるのかいないのかわからぬ工藤祐長こそが、武田家の『林』にござる。『気』を読む天才・景虎ですら、工藤の薄い『気』は気取れませぬ。生来影が薄く忍び以上に忍んでいるあの者こそ、天才的な嗅覚のみで戦っている景虎にとっては、まさに天敵」

 いわば勘助にとって「隠し腕」のような存在――存在感の薄い姫武将の工藤祐長が、松代の山中からいっせいに千曲川東岸へと突出し、ひたすらに北上して飯山を目指していた。散りぢりになっていた真田幸隆率いる信濃先方衆も、工藤のもとに続々と集結した。松代における拠点・海津城が壊されたために動員兵数こそ少ないが、戸隠山の彼方で飯富姉妹と死闘を繰り広げているはずの景虎は絶対に間に合わないはずだった。むろん、旭山城を守る越軍本隊は、犀川の南に陣取る武田本隊と睨み合っているから、飯山へ後詰めを出すことはできない。飯山と旭山城の間に開けた善光寺平北岸には、かつて越軍が本陣に用いていた善光寺と横山城があるが、いずれも僧侶が残るのみで兵はいない。

 引き続き勘助は、飯山を失陥した旭山城の越軍本隊が下山し、犀川を渡河して破れかぶれの勝負を挑んでくるという事態に備えて、本陣を「鶴翼かくよく」の陣形に変更させていた。

「馬場信房。典厩信繁さま。太郎義信さま。景虎不在とはいえ、長尾政景、柿崎景家、北条高広、村上義清はいずれも越後が誇る猛将。景虎がおらねばまとまらぬ連中ですが、万が一にも宇佐美定満が奴らを制御することに成功すれば、その強さは侮れませぬ。『窮鼠きゅうそ返って』と申します。御屋形さまをお守りし、越軍との決着をつけるは今。お頼み申しますぞ」

「……委細承知」

「だいじょうぶ。待ち受けているのと奇襲を受けるのとでは、心構えが違うわ。こんどこそ勝てるわ、勘助」

「兵部の奴が心配だが、勝ちゃあいいんだな、勝ちゃあ。俺ぁひたすらに暴れる。勘助、槍働きならば俺に任せろ!」

 武田本隊は、旭山城に籠もっている越軍の襲来を、待ち構えていた。

 鉄壁の陣を、敷いている。

 下山して犀川を渡りはじめた時が越軍終焉しゅうえんの時だ、と勘助たちは信じていた。


 しかし――。

 飯山を目指して無人の野を駆けていた工藤祐長隊は、その途中の上野原で、信じがたい軍団と遭遇していた。

 先頭を駆けるは、白い行人包に顔を隠した小柄な少女。

 その少女の背後には、黒い甲冑かっちゅうに身を包んだ旗本衆。

 口々に、毘沙門天の真言を唱えている。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 人智を超えた強行軍。

 みな、体力を使い果たしているはずだった。

 だが、全員の身体に、異様な「気」が充ち満ちている。

 嘘だわ。間に合うはずがない、そもそも「武田第四の部隊」が飯山を突くことに気づけるはずがない、と戦慄しながら。

 長尾景虎、と工藤祐長は思わずその名を口にしていた。

「晴信め。山本勘助め。あくまでも正面からわたしに挑もうとせず、姑息な火事場泥棒を繰り返すか。わたしには通じない。部隊を割れば割っただけ、すべて、わたし自身が潰す。それだけだ」

 あり得ない。こんなはずがない。なぜ軍師さまの策がわかったの!? と工藤は叫んでいた。

 だが景虎は答えられなかった。理屈ではないのだ。松代では、工藤の「気」を感じ取れなかった。工藤は忍者以上に気配を消す達人だった。越軍は、勘助の練りに練った四段構えの策略に、敗れていたはずだった。しかし景虎は、「勘」で越軍の危機を察したのだ。その「勘」を、理屈で説明することは、景虎自身にも難しかった。ただ、春日山から善光寺平への通り道にあたる飯山が、前回までとは違って露骨に北上してくる武田軍との戦いにあたって「要所」になるような予感は、していた。それ故に、景虎は行軍途中でいったん飯山に立ち寄って周辺の地形を見ていたのだ。

 工藤祐長は、自らに死が迫っているということも忘れて、身震いしていた。長尾景虎は戦いの神だ、と思った。やはり、高野山で出家させておくべきだったのだ。武将として戦って勝たねば意味がないと景虎との決着にこだわった御屋形さまの思いは正しい。御屋形さまに、勝利を届けたかった。武田軍の人材のすべてを使い切った軍師勘助の策は、こんどこそ景虎の能力を一歩上回るはずだった。しかし、相手は人間の姫武将ではない。明らかに、景虎の戦の才は人智を超えている。

 行人包の奥から、赤い瞳をきらめかせて、景虎が青竹をふるって旗本衆に下知した。

「越軍の退路は断たせぬ。全軍、かかれ」

 私たちの御屋形さまはこの雪の精のような「戦の神」に魂を奪われてしまっている、と工藤は気づいた。どうすれば、解放できるのか。勝つしかないのか。しかし、人間が、この軍神に勝てるのか。どれほどの犠牲を出せば、勝利を奪えるのか。どれほどの犠牲を払っても、勝てないのではないのか。日頃は冷静な工藤祐長の眼に、涙が浮かんでいた。

「……もう、やめて……! このままじゃ……御屋形さまは、いつまでもこの川中島から、動けない……天下盗りも……婿取りも……なにもかも、時機を失ってしまう……御屋形さまを、解放してよ……!」

「……解放……?」

「原田どの、死んではなりません! 今は、逃げましょう!」

 景虎めがけて突進しようとしていた工藤の腕を、松代から同行していた春日弾正が強引に掴み取っていた。

「原田って誰よ!? 私は工藤よ!」

「誰でもいいんです! われらが今ここで欠ければ、御屋形さまは勝機を失います! われらを救わねばならぬと御屋形さまをうろたえさせ、鉄壁の武田本陣を動かせてはなりません! 山県どの、恥を忍んで逃げましょう!」

「工藤だってばーっ!」

 春日弾正の「逃げ足」は、天才的である。

 景虎は、春日と工藤を、追った。

 が、春日がまっしぐらに犀川南岸に待ち構えている武田本隊へと合流しようとしていることに気づいて、進軍を中止した。

 武田本隊の布陣は、完璧なまでの、鶴翼の陣形だった。

 武田晴信と山本勘助は、孫子をはじめとするあらゆる軍学を収めている。

 村上義清が考案した槍衾やりぶすま隊を破るために、徹底的に部隊の統制力を磨くことにこだわり、今では自由自在に陣形を組み替えることが可能なのだという。

 その鶴翼の陣から、「気」が立ち上っていた。

 景虎には見える。

 隙がない、突破しようにも攻め手がない、山本勘助め、と景虎は薄い唇を噛みしめていた。

 犀川南岸という防衛に最適な陣取りが、厄介なのだ。犀川を渡河するところを狙い撃たれれば、さしもの越軍も崩れる。しかも、武田には真田忍群とむかで衆を中心とした調報ちょうほう網がある。「正面突破主義」を晴信に勝つために捨てたところで、気取られずに武田本隊の背後に回ることもまた不可能だろう。この戦、またしても膠着するのかと景虎は苛立ち、宙に向けて青竹を振っていた。

「みな、よく駆けてくれた。晴信と山本勘助の策はこれで破った。が、武田軍本陣には攻める隙はない。われらは、いったん旭山城へ戻り、勝機を見出すまで英気を養う」

 旭山城への帰還途上――。

(御屋形さまを、解放して)

 工藤祐長の涙混じりの叫び声が、景虎の耳にこびりついて、離れてくれなかった。


 第三回川中島合戦は、知略の限りを尽くして景虎不在の「隙」を作り北上しようと策動する武田軍と、その武田軍の策略を天才的な勘で読み続けて自ら西に東にと鬼神の如き速度で駆け続けた景虎との、一進一退の「鬼ごっこ」となった。決着は、容易にはつかなかった。武田方は、犀川を越えずに北国街道を千曲川ルートで北上するために松代に拠点を築こうとしたが景虎に阻止され、戸隠山の西から糸魚川へ抜ける千石街道の北上もまたその途上で強引に阻止された。犀川を挟んだ本隊同士の睨み合いは、その間も続いた。

 長期的な視点から見れば――善光寺の秘仏を甲斐へ奪い去った武田軍のほうに、善光寺平の民心は多く傾きはじめている。日和見を強いられていた地元の国人衆も、善光寺の秘仏を手に入れた武田方に心を寄せていた。戦国の領主にとって、土地とは、民である。民心を掴んだ者が、国人をも掴めるのである。景虎がなおも善光寺平で義戦を遂行できるのは、ひとえに、戸隠山・飯縄山・そして飯山の「三大霊山」が景虎を支持しているからにすぎない、という情勢ゆえであった。しかもその三大霊山のうち、戸隠山は例の景虎出奔事件に加藤段蔵が関与したため、長尾家の家臣という立場から離れて、再び半ば中立化している。飯縄山の飯縄忍びたちも、加藤に歩調を合わせているから、霊山の忍びたちの多くは「武田から『石』は守るが、越軍にも積極的に荷担しない。ただし『石』を尊重してくれる越軍には敵対しない」という微妙な立場になっていた。戦力としては期待できるが、景虎からは彼らに命令を下せないのだ。直江大和が「もう加藤を近づけてはなりません」と景虎を案じて、両者の間に距離を置いているのだ。

 景虎もまた、加藤段蔵が元来「主君仕え」などできない男であると知って、敢えて段蔵を追いかけようとはしなかった。叡山への手引きをしてくれたことに、感謝はしていた。段蔵は景虎を奪い取ろうと思えば奪い取れる好機を掴みながら、景虎には手を触れず、「石」の守護者に戻ったのだ。もはや村上義清の旧領を奪回することは武田晴信を討ち果たして信濃を侵略でもしない限り困難となったが、戸隠山の「石」だけはせめて守り抜きたかった。

 武田が陽動軍を動かせて戦局の打開を図れば、景虎が風の如く突進してこの陽動軍を叩きつぶす。どれほど景虎の裏をかこうとしても、かけない。景虎もまた、晴信が犀川南岸に敷いた「鶴翼の陣」に隙を見出すことができない。晴信は、本陣に山の如く座して動かないのだ。

 文字通り、合戦は千日手の局面に入っていた。

 山本勘助も、宇佐美定満と直江大和も、「次の一手」を繰り出すことができない。

 しかも前回のように、太原雪斎という切り札を切ることもかなわない。雪斎はすでに死んでいる。

 だが――。

 この合戦は、意外な形で「水入り」となった。

 近江朽木谷に亡命していた剣豪将軍・足利義輝が、武田晴信と長尾景虎の二人の姫武将に対して書状を送り、「和睦」を斡旋したのだった。

 義を重んじる景虎としては、将軍じきじきの和睦の周旋となれば、断れない。

 しかも、義輝から受け取った書状には、景虎が身震いするような内容が書かれていた――。


『景虎。余は近江観音寺城主の六角家から兵を借りて、三好松永を相手に北白川の合戦を戦い、ついに三好家との和睦に踏み切った。三好長慶に幕府の実権を譲り渡す代わりに、余は京の都に将軍として帰還する。もちろん、お互いにお互いを信用してはいない。しょせんかりそめの和平であって、どちらかが排除されるまで、この戦いは続く。一触即発だ。ここからの三好との戦い、余が不利である。三好長慶の仇にして管領の細川晴元が、三好に殺されることを恐れて、幕府を離れ近江に留まると言いだした……細川は幕府再興よりも己の命を選んだのだ。さらに、余を支援し続けてくれた六角もまた、北近江の浅井家との合戦に突入してしまい、上洛軍を興す余裕がなくなった』


 景虎が「どういうことなのだ」と首を傾げ、宇佐美定満が、将軍の現状を補足した。この川中島ではまるで時間が止まってしまったかのようにいつ果てるともなく武田軍と越軍の睨み合いが続いていたが、川中島の外の世界では、時間が容赦なく進んでいる。玉突き事故のように、戦国の世はめまぐるしく動いている。

 宇佐美定満曰く。南近江の六角家と越前の朝倉家。この二つの大国の間には、北近江の浅井家という新興の武家が割拠していて、両家の緩衝地帯となっていた。浅井家は朝倉家に従属していたが、越前の猛将・朝倉宗滴が先の北陸一揆との合戦中に急没したため、朝倉家の武威は極端に衰えた。これは、当主の朝倉義景が戦を嫌っている公家のような性格の男だからだ。朝倉家の庇護を期待できなくなった浅井家は、自ら六角家と戦って勝たねば自立できないという状況にいきなり追い込まれた――おそらくは松永弾正が浅井家を裏から煽り、六角とかみ合わせたのだろう。これによって、剣豪将軍は自ら動かせる兵力を奪い取られた形になる。その上、管領細川晴元は松永弾正に毒殺されることを恐れて、幕府から逐電してしまった。京に戻っても、将軍は丸裸だ。が、すでに、和睦は果たしてしまった。ならば将軍義輝は、たとえ単身であろうとも京へ戻らねばならない。約定を破って京へ戻らねば、天下を放棄したことになる。つまり、将軍位を事実上、捨てたことに。剣豪将軍は、武も志もあるが、悪謀に対抗できる狡知こうちをお持ちでない純粋なお方。三好家の宰相・松永弾正の手のひらの上で動かされている――。

 将軍さまは京で殺されるのではないか。殺されるまではいかずとも、三好松永の傀儡とされて幽閉されるのではないか……景虎は思わず「なんということだ」と胸を押さえてうめいた。

 将軍の書状は、さらに続いた。


『景虎よ。どうかそなたに越軍の精兵を率いて、上洛してほしい。そなたにも越後を守るという使命があることは承知している。都に永遠に留まってくれとは言わない。が、ひとたびことあらば越後からいつでも軍神のそなたが義軍を率いて進撃してくることを三好松永らに知らしめれば、奴らもこれ以上好き放題に幕府と将軍の権威を穢すことはできなくなる。この乱世にも正義はあり、その圧倒的な武威によって義を実現できる者がいることを、どうか三好松永らに見せつけてほしい。そなたが半年、京に留まってくれれば、余は五年の時間を稼げる。五年あれば、松永弾正らがいかに蠢動しゅんどうしようとも幕府の権威を再興することが可能になる』


 お忍びで来るのではなく、大軍を率いて堂々と上洛してほしい、将軍を守る近衛軍として京に進駐してほしいというのだ。景虎が上洛軍を興しても、ほとんど無報酬である。それどころか、本国越後を長期間にわたって留守にすることになり、最悪の場合は帰るべき越後を失陥しかねない。

 むろん、武田晴信が景虎不在の隙に越後への北上をはじめないように、将軍義輝は幕府の最高権力者として禁断の「切り札」を切っていた。


『三好家に逐電した小笠原長時に代わって、武田晴信を新たな信濃守護に任命する。むろん、今まで通り犀川以北は長尾方の土地とし、犀川越えは禁じるという条件付きだ。景虎。そなたと晴信の激しい抗争は、なにも生みださぬ。いたずらに、乱世を平定する力と資格を持つ古今無双の名将二人が、互いの命と魂と人材とをすり減らしているだけなのだ。余は、できうることならば、そなたと晴信とに真に和解してもらいたい。甲越同盟が成立すれば、幕府の再興は容易であろうに。そなたと晴信にはいずれも決して譲れぬ正義があり、曲げられぬ道理があり、消せぬ過去があり、抑えられない感情がある。憎み合ってもいない無二の友同士が、こうして戦い続ける。戦国の民たちのためにも、惜しいことだ』


 晴信に「信濃守護」の位を渡すということは、犀川以南の信濃の国土すべてを、武田家のものと幕府が認めるということになる。景虎は「それは将軍さまのお言葉とはいえ認められない」と否を唱えようとした。が、幕府の実質上の執行者である管領に逃げられ、六角家という後ろ盾をも松永弾正の策謀によって奪い取られて、身ひとつ、剣一本のみを帯びて堂々と三好松永が待ち構える京へ乗り込もうとしている剣豪将軍・足利義輝を、景虎は見捨てることができなかった。

 村上義清を、すぐに本陣へと呼んだ。

「晴信の信濃守護就任を黙認すればそなたの義に応えられなくなるが、それでもよいのだろうか」

 村上義清は、「むろん」とうなずいていた。

 もう、彼には、祖国への想いはない。越後こそ、俺が骨を埋めるべき最後の土地であり国だ、俺は長尾景虎どのの忠実な家臣だ――我、死すべき場所を得たり、と信じている。

「信濃の片田舎の国人を助けることも義だが、足利幕府の再興のほうが、はるかに重い。この国の民にとっても、ご主君にとっても。大軍を率いて上洛され、三好松永をその義風で脅かし、真の『義将』がこの日ノ本に存在することを、知らしめてきていただきたい」

「しかし、川中島での晴信との合戦は、どうなる」

「もう、やめたほうがいい。誰もがわかっていることだ。ご主君も、晴信も、ほんとうは知っているはず。両者の間には憎しみもなければ因縁もない。小笠原と俺が越後に亡命したことから、この争いははじまった。小笠原が去り、俺が越後に骨を埋めると決意し、晴信が信濃守護となった以上、川中島の合戦は今回を最後とするべきだ――将軍が言うように、ご主君と武田晴信とが手に手を取り合えば、この百年にわたって続いてきた乱世は必ずや終息できるだろう。これ以上戦えば、もう、取り返しがつかなくなる」

 宇佐美定満が「旦那とだいたい同意見だ。川中島で晴信と戦い続ける理由は、もう、ない。お前に、上洛せよと、天の声が囁いている。越後の義を、京の人々に知らしめる時だ」と景虎の小さな肩をぽんと叩いていた。

「……決着をつけるまで晴信と戦いたかったが……わかった」

 景虎は目を潤ませながら直江大和を呼び、「これよりわたしは五千の兵を率いて堂々と上洛する。準備せよ」と告げていた。

 わたしは越軍とともに上洛し、足利幕府を復興する。もしも三好松永が将軍さまに兵を向けるようであれば、越軍の兵をもって討伐し四国へ追い払う、と景虎は上洛軍を興すことを宣言していた。

 常識で考えれば、越後から京の都は遠すぎる。にわかにできる事業ではない。だが、直江大和ならばできる。景虎はそう信じていたし、直江もまた「了解いたしました、お嬢さま」とだけ答えていた。

 長尾景虎、越軍主力を率いて、堂々と京へ――足利義輝将軍の「幕府再興」の夢を、果たすために。


 突然将軍から「即座に合戦を中断し、川中島より撤兵し、景虎の上洛を黙認せよ」と書状を送られた武田陣営もまた、大騒ぎとなっていた。

「姉上。幕府から信濃守護の位を得たことは、とてつもなく大きいわ。戦術的にはついに景虎に勝てなかったけれども、善光寺の秘仏奪取に続いて信濃守護の大義名分まで手に入れた。武田の、実質的な勝利よ。局地戦では景虎に分があったけれども、大局を見据えて戦ってきた姉上が勝ったんだわ」

 副将の信繁は「これでやっと、姉上と武田家は前へ進める」と喜びで涙ぐんでいた。

「なんだよ。越軍との決着、つけねーのかよ? 将軍家なんぞ、実権のない死に体だってのによ。俺はこんな弱腰外交、認めねえぜ! 景虎が上洛している隙に、北上作戦を再開するべきだ! 侵略すること火の如し、だったろうが、姉上!? 姉上はよ、景虎にだけは、生ぬるいんだよ! 武田家の人間でもなんでもないよその姫武将に、どうしてそこまで甘い顔を見せるんだ!? 納得できねえ!」

 弟の義信は、「なにがなんでも越軍を倒し越後の海へ出る」と激しい戦意を隠そうともしない。

 飯富兵部の心境を思うと、晴信が景虎に対していま一歩「情」を捨てて鬼になりきれないことが、不満なのだ。

 晴信像を描くと称しながら、鏡を覗き込んで自分の肖像画を描いていた信廉が、

「武田家の家族も、越後侵攻派と駿河侵攻派とに分裂する頃合いが来たかもね。太郎ちゃんは駿河攻めなどとんでもないと反対するし、次郎姉さんはこれ以上越後の毘沙門天と戦って時間を浪費する姉上を見ちゃいられないって感じで限界だし。そろそろ、第三の道を探る時かもね」

 と苦い笑いを浮かべている。

「第三の道とは?」

 思わず問いかけていた晴信に、信廉が答えた。

「美濃サネ。木曾路を通って東美濃を侵食し、東山道から上洛路を切り開くのサ」

「木曾路の険しさは知っているだろう。さしもの武田軍といえども、あすこを主戦場へ向かう攻略路に選ぶのは無理だ。それに美濃稲葉山城のまむしこと斎藤道三は、元は商人あがりだが、手強い。尾張の虎・織田信秀をさんざんに撃ち破っている。稲葉山城を盗れれば、天下の半ばは盗ったようなものだが……」

 晴信が(将軍の和睦の周旋は、受けねばなるまい。信濃守護の大義名分をこちらから捨てては大損。だが川中島での戦いをこれで終わりにしてしまったとして、その先を、どうするか……景虎は上洛などしてだいじょうぶなのだろうか。松永弾正に毒殺されねばよいが。あのような純真な姫を妖怪だらけの都に入れては、きっと、景虎にとって悪しき運命が待っているに違いない……川中島でこのまま足止めしたほうがいいのではないか)と憂い顔で武田家のきょうだいたちを見つめているところに。

 山本勘助が、血相を変えて飛び込んできた。

「どうした勘助。四郎の裸でも見たのか。顔が赤いぞ」

「御屋形さま! 宿曜道すくようどうの星の見立て通りとなりましたぞ! 尾張の織田信秀、急没いたしました!」

 暗殺? と信繁が声をあげ、勘助が、「いえ、にわかな病です。脳から出血したのでしょう。壮年期の男には、よくあること」と答えた。

「それがどうして一大事なんだ、勘助? 尾張と武田家とには、なんの関係もねえ。織田家は今川家の仇敵なんだから、武田にとっても『味方の敵』。つまり一応は敵だろ? なにが一大事なんだ? 俺にはわかんねー」

「義信さま! 少しはまつりごとも覚えてくだされ! 駿河遠江三河を支配する大大名、東海一の弓取りとなった今川義元がこれまで上洛軍を興せずにいたのは、ひとつには宰相の太原雪斎どのが亡くなったため。もうひとつが、尾張の虎こと織田信秀が東海道を塞いで今川軍の西上を阻止していたからでございます! 信秀なる男、小勢にもかかわらず、いったいなにが目的なのか、美濃の斎藤道三と駿河の今川義元の両大国にケンカを売り続け、負けても負けても戦い続けてきた一種の戦争狂。その信秀が倒れ、尾張織田家の家督は――信秀の嫡子にして『うつけ姫』の悪名高き不肖の娘、織田信奈が継ぐことになりましたぞ」

「織田信奈? 誰だっけ、それ?」

「清洲の町でかぶき者の集団を束ねて、うりをかじりながらぶらぶらと歩き回っているという、世をすねた幼い姫武将にございます。もともと、うつけと呼ばれておりましたが、信秀公の葬儀の席上に山猿のような格好で現れて抹香を投げつけるなど大暴れし、織田家の面々はもはや織田家はおしまいじゃと大混乱しております。これを好機と見た今川義元、雪斎どのの遺言を振り切って自ら二万の大軍勢を率い、織田信奈を尾張にて葬り去り、上洛を果たして足利将軍を副将軍あるいは管領として補佐するとご決意! つまり――幕府を立て直す者は越後の長尾景虎ではなく駿河の今川義元であると、天下に知らしめるおつもりかと」

 織田信奈は今川義元に勝てぬか勘助、と晴信は問いただしていた。

「国力が違いすぎまする。義元は戦下手ですが、雪斎が残した今川家の支配体制はあまりにも盤石。今川が動けば、今は浅井と戦っている近江の六角も打倒三好という目的のもとに呼応いたしましょう。しかも、織田信奈はうつけにて人望なく、尾張の家臣団すらまともにまとめあげられませぬ。織田家の居城・清洲城は港に近い平野に建つ平城で、銭を稼ぐための城。最初から守備を度外視しております。二万の大軍を相手に到底籠城などできませぬ。十中八九、今川に圧殺されましょう」

 ですが今から義元が二万の軍を編成するとなれば、まだ一年近くの猶予はございます、向こう見ずで果敢な景虎は五千程度の兵で即座に上洛いたしましょうから、川中島で停戦すれば先に上洛を果たすは景虎に。さすれば景虎は天下の義将、幕府も都も景虎の思うがままに。しかし景虎を川中島に釘付けにしていれば、その隙に義元が上洛してしまいます。いずれにせよ、武田上洛のための時は、尽きたようです。勘助は、青ざめながら、本来は主君に言ってはならない言葉を口にせざるを得なかった。

「恐れながら御屋形さま。武田はどうやら、川中島にて天の時を失いましたぞ。この勘助が、景虎を撃ち破る知謀を持ち得なかったゆえに……申し訳、ございませぬ!」

 勘助。まだだ。まだ終わらぬ。「運命」は、常に変転している。天の星が常に動き続けているのと同じに。再び天の時を掴み取れる好機は、必ず来る――しかし晴信は、かろうじてそう答えながらも慚愧ざんきに堪えず、唇を噛み破っていた。

 景虎への想いに。私情に流されていたのか。義信の恋を犠牲にしてまで、景虎と戦う道を選び、そして、その結果、武田家は甲斐信濃の山中に押し込められるのか――。

 が、この今川義元の上洛作戦発動を、すかさず「好機」と捕らえた男が、いた。

 その駿河今川家に寄宿している、武田信虎であった。

 勘助と晴信たちが青ざめて固まっていたその部屋へ、「元気を出すでござる。落ち込んでいる場合ではなくなったでござる。災い転じてさらなる厄介ごとが起きたでござるよ」と佐助の陽気な笑い声が天井裏から響いて、そして、信虎からの密書が、晴信の足下へとふわりと舞い降りていた。


『晴信よ。なにをぐずぐずと迷っているのじゃ。これぞ武田家が上洛する千載一遇の機会。今川義元が西上すれば、容赦なく同盟を破棄して駿河を奪い取れ! この父が、駿河国内から内応しようぞ。寝返りそうな今川家臣どもの調略はおおむね済ませてある。この時のため、わしは駿河追放以来、長らく昼行灯ひるあんどんを装っておったのじゃ。駿河さえ抑えれば、武田は念願の海と港を得られる! 海さえ手に入れれば、都までは、あと半歩じゃ! そなたがわしを追放した選択が武田家のために正しい道であったと、今こそ証明してみせよ!』


 父上はずっと、あたしに駿河を奪取させるために裏で画策しておられたのだ。ことが露見すれば誅殺ちゅうさつされることを覚悟の上で、と晴信は思わず目を閉じていた。

 まだ終わらぬ。父上の期待に、必ず応える。晴信は、長らく棚上げにして半ば忘れそうになっていた「駿河奪取」という野望の炎に、身を焦がしはじめていた。傍らでは、信虎からのただならぬ書状に目を通した義信が「おいおい親父どの、今川家から嫁いできた俺の妻はどうなる? 考えてねえだろう……!?」と顔色を変えている。信繁は、「……このままでは、武田のきょうだいがばらばらになってしまう。父上。なんて短慮な」とつぶやいている。

 武田家の運命が、今、決まる。誰かが決断せねばならない時だった。山本勘助は、(御屋形さまの代わりに、それがしが、鬼にならねばならぬ。そのための軍師である)とばかりに、自分の頬をぴしゃりと叩いていた。


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