第52話・サムライ

 卒業が迫ろうが何に追われようが、オレの若葉家詣ではつづいていた。学校で教われないことをこの場所で覚え、ここで学んだことを学校の、あるいは自分ちのろくろの上に持ち帰り、せっせと反復練習する。そうして腕を磨いた。

 太陽センセーに学ぶものは、知性だ。技術ひとつとっても、師のそれは単なる造形方法ではない。技法の奥にある「こころ」と「作法」をこそ伝えようとしてくださる。そして陶芸の奥深さと。その深みをのぞきこむのは幸せな時間だった。太陽センセーの一挙手一投足はいちいちサムライのたたずまいをもっていて、いつもその背中をうっとりとながめてすごした。

 寒い寒い休日の朝、センセーは前夜の酒精を漂わせるオレを庭に連れ出した。竹林から漏れる心細い日光の下に、粗大ゴミ置き場からひろってきたかと思われる木机があった。

「かぶせの向こう付けを教えてやろう」

 「向こう付け」とは、懐石で用いる様々な形をした小鉢のことだ。お膳の上でメシ碗と汁碗の向こうにあるので、こう呼ばれる。そして「かぶせ」とは、土を型にはめこんで造形する技法で、そろいものをつくるのに便利な方法だ。それを伝授してくださるという。ただし、なぜかこの冬のまっただ中に、この吹きっさらしの庭で。

「そ、外でやるんすか?」

「不満か?」

「いえ、その男前っぷりにほれぼれします」

 ところどころに雪の残る庭は、例によって散らかり放題だ。陶芸材料は天日にさらされ、謎の機械類は点々と身を横たえ、工具類はあちこちに散乱。荒れ果てた、と表現するのがぴったりだ。なんらかの事件に巻きこまれた現場のようにも見える。「keep out」のテープでも貼り巡らせれば、深刻にヤバい画づらだ。

 ところが、そのへんにぽつねんと置かれている破れバケツに蹴つまずいたりすると、

「こらっ!気をつけんか!中に鬼板(鉄分が大量に交じった泥状の陶芸材料)が入っとるじゃろが!」

などと叱られる。ズタズタのバケツをのぞきこむと、たしかに真っ茶色のドロ水・・・いや、天然採取した鬼板が入っている。それにしても、こいつと汚水とをいったいどう見分けろというのか?しかしこの庭では、ブルーシートに投げ出された原土、古バケツの中の液体、新聞紙の上の木片や鉱物・・・それらひとつひとつが、作品づくりに欠かせない大切な材料なのだった。なにしろセンセー自身が山を調査し、発見し、掘り出してきた天然素材。貴重品だ。そういう意味では、この庭は宝の集積地と呼ばなければならない。そしてセンセーは、この庭のどこになにがあるかを熟知していると豪語し、またそれらは作業をするのに最も効率よく配置されている、と言い張った。

「じゃ、さっそくはじめるか。まず向こう付けの型をさがすんじゃ」

「さがす・・・」

「そこいらにあったじゃろ」

 竜巻が過ぎ去ったあとのような庭で探索がはじまる。しかしセンセーの指差す方向を見ると、石膏や軟質な石でつくられた「型」がそこここに転がっていた。使い終えるとそこにポイと捨て・・・いや、置いておくのだろうか?とにかくその場に駆けつけ、ひろい集め、具合のいいものを選び、木机の上に並べる。菱形、筒形、扇形。どれもが土中の成分や雨水がしみこんで汚れ、砂利にヤスリをかけられて角を落とした年代物だ。その形をもう一度刃物で削り出し、磨きあげ、使えるものに仕立て直す。

「ヨシ。次に粘土を薄くのすんじゃ」

 粘土の左右両サイドに薄い木の板を置き、麺棒で伸ばすと、板と同厚の粘土板ができる。タタラ成形という技法だ。これをちょうどいい大きさに切って、さっきの型にはめこめば、器形になるいうわけだ。わたされた薄い板(タタラ板と呼ばれる)は、どこかの居酒屋の壁にかかっていたメニューらしく、「焼き鳥・550円」だの「クジラベーコン・800円」だのという景気のいい文字が踊っている。麺棒の代役は鉄パイプ。センセーは弘法と同じく、筆を選ばない。いつもながらシビレる。

「さてと、あれはどこにやったかな・・・?」

 突然気がついたように、センセーが辺りを見回しはじめた。

「そこいらに置いといたはずじゃが・・・」

「今度はなんすか?センセー。道具ですか?それとも機械?」

「いや、そうではない・・・おお、あったあった」

 センセーがトタン板の下から引っぱり出したのは、なんと片栗粉だった。この庭に無いものはない。そして彼は、そのすべての配置を記憶している。このときばかりは恐れいった。

 その片栗粉を型と粘土板の間にまぶし、くっつかないようにする。そして手で粘土を寄せて、型と密着させる。こうして成形したものに短い三本足を付ければ、向こう付けのできあがりだ。その後、緑釉と鉄絵をほどこして、織部にするのだ。

「おい、いつまでやっとるんじゃ。ここはさぶすぎるわい。家ん中にはいろうや」

 最初から中でやればいいのに・・・。気まぐれにはじめ、途中から熱中してしまった挙げ句、最後はあきてしまった、と見えなくもない。だが信じる者には、センセーの行為はお釈迦様の施しのように思えた。ありがたい法話に、信者は一心に聞き入り、従い、全身で吸収する。若葉家の授業は、いつもこんな具合に進んだ。

 同様に、思いつきのように突如はじまった志野の高台づくりも、興味深かった。ろくろの上に固定してカンナで削るのではなく、松の木を割いてつくった刀でざくざくと造形する方法だ。削るというよりも、そぎ落として彫り刻むといったほうがいい。伝世の名品を見ても、その高台は刀で無造作に撫で切られたような印象だ。それでいて際立った存在感がある。

 センセーはオレに分厚い茶碗を挽かせ、水気が引いたところで裏返し、すっぱすっぱと土をそいでいった。

「ケンコンイッテキの気合いを一刀にこめよ」

 それはまるで、書の払いのように気持ちが乗った刀さばきだった。

「高台は茶碗の命じゃ」

 センセーは命を吹きこむ。悠然として、よどみなく、序から破、そして急へ。見事な高台が志野茶碗の底にあらわれる。つたない弟子は何度やっても高台を「こしらえて」しまうが、センセーは、そこにあるべきものを自然にそこに出現させる。こんな仕事を目の当たりにするとき、形をつくるという作業は、まさに心の表出だとつくづく感じ入らされる。

 そしてこんなときでもセンセーは、より深く、より重要な知性の伝授を忘れなかった。

「ここだけの話じゃがな、この高台はオナゴの○○○のかたちなんじゃ」

 ぼそり、真顔でそんなことをささやく。

「へっ・・・?」

「○○○じゃ。布団の底で見たことがあろう?」

 きょとんとしていると、その反応に満足した師は相好を崩して、うひひひ、と声低く笑うのだった。

「正真正銘の秘伝じゃぞ、マル秘、じゃ」

 うひひひ・・・

 なるほど、そうだったのか。オレは、わかりやすい形を茶碗の底に刻む。そして同じようにわらった。

 うひひひ・・・

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