第50話・訓練事故

「あ」

 と、背後で小さく声が漏れたので、オレはろくろから目を上げた。その声音には深刻な響きがあった。つづいて「やっちまった・・・!!!」と痛恨のつぶやき。悲鳴よりも切実に聞こえるその小さな訴えに、鳥肌が走る。

 振り返るとそこには、ぶるぶる震える右手中指を押さえた不吉の出席番号13番氏が立ちつくしていた。顔は、痛苦と悔恨にゆがんでいる。彼が押さえる指先は、ありえない方向に曲がっていた。慄然とする作業場。

ー事故・・・!?ー

 オオアリクイの野太い足もとが、みるみるうちに血の池になっていく。コテをつくろうと電動丸ノコで木材を切っていた彼は、ふとした拍子で木の節を回転にはじかれ、凶暴な鉄刃に中指から人差し指、親指をなでられたのだった。肉束はえぐられ、中指の先の関節が真横90度に折れ曲がっている。

「大変だ!また代々木くんがやっちまったぞ。看護士さん~!」

 代々木くんは顔面蒼白で、巨体をよじって苦しむ。幸いなことにクラスには医療現場の経験者が何人かいたので、すぐに応急処置で止血をした。クラス中で連携し、救急車を手配する。あっという間にサイレン音が作業棟に横づけされ、ストレッチャーが飛びこんできた。

 しかしケガ人がそこに寝かされた途端、はじまったのは、なんと記念撮影会だった。

「絶好のシャッターチャンスだ・・・俺を・・・俺を撮ってくれ・・・」

 それは驚くべきことに、バカ張本人の要望だ。代々木くんは真っ青な顔でうめきながら、カメラポジションを指定する。

「アップも・・・たのむ・・・」「きみはロングで・・・」「サイドからも・・・そう!そのアングル」「いいねいいね。はい、チーズ・・・イテテ」

 なんという剛胆。携帯カメラの砲列にとり囲まれ、まるでファッションモデルだ。

「救急隊員さん、いっしょに入って・・・」

 白衣の男たちにかこまれ、曲がった指でピースサイン。タフな男だ。彼はケガ慣れしすぎてしまったようだ。しかし土気色の顔に余裕の笑みはない。こうしてさんざん遊んだ末に、オオアリクイは生け捕りにされた。白塗りのオリに閉じこめられ、けたたましいサイレン音とともに連れ去られる。現場には騒然とした空気と血だまりだけが残った。

 それにしても今回ばかりは、これまでとは比べ物にならないほどの大事故だ。空手で殴られて前歯を欠かしたり、あばら骨を折ったり、妙なものをけとばして足の指を折ったり、交通事故に遭ってムチ打ちになったりなど、この一年のうちに彼が負った「かすり傷」とは格がちがう。重量級の大ケガだ。冗談半分に笑ってなどいられない。さすがにほんの少しだけ心配だ。彼が今すべきことは、一にも二にも、神社にお祓いにいくことだろう。・・・もちろん治療が先決だが。

 あたふたと走りまわっていたクラスメイトたちは、やがて事の真の重大さに気づきはじめ、凍りついていった。よりによって、右手の中指とは。陶芸は繊細な指先感覚の芸術なのだ。特に利き手の中指は、ろくろ挽きにも手びねりにもなくてはならない最重要な部位で、最も働かなければならない掛け値なしの要所だ。成形作業の道具としても、センサー機能としても、必要不可欠。力強さも敏感さも求められる、最前線のコンダクターといえる。指の形が右に曲がろうが左に曲がろうが、とにかく神経だけはつながっていなければ話にならない。この事故によって、彼は卒業までリハビリかもしれないし、下手をすれば、今まで学んだことがすべてチャラ。それどころか、社会生活にまで支障がでるという最悪の事態までありうる。だれもが声を失った。

 今さらながらに考えてみれば、作業場内はむき出しの凶器でいっぱいだ。ちょっとした油断が致命傷となる可能性はずっとあった。危険な工作機械に向かう態度がまるで甘かったのだ。作業に慣れ、利便性に満足し、愚直な丁寧さよりも効率を追う横着をおぼえた末の、これは必然の事故だった。しかもカレンダーの先に忘年会をにらみ、浮かれ気分で集中力を欠くこの時期のことだ。さらに不運なことに、いつも厳しいイワトビ先生が出張中で、代役である「あっちの」先生によるぬるい授業の片手間に道具づくりをしていた最中の出来事だった。思えばこの日は、一年中で最もだらけた一日だった。

「だから言ったでしょう、いかなー」

 というその先生の一言は、決定的な反感を買った。彼もまた管理者としておびえているようだった。

「保険に入ってたからいいようなものの」

 このひとの言葉が本質的だったことは、ただの一度もない。あきれ果てて、返す言葉もなかった。

 しかしこちらに気のゆるみがあったことも厳然とした事実だ。特に代々木くんは「めんどくせーから」といって、丸ノコの刃から指先を守る安全カバーを取り外して可動域をひろげ、木材を刻んでいた。勇敢と無謀とは別物だ。太陽センセーは道具をあれほどムチャに扱いながらも、「決してケガはせんように、身のさばきは考えとる」と言いきる。逃げ道をつくっておくのだと。危険な道具を使う以上は、そんな作法から学ばなければならない。今回はその謙虚な態度が欠けていたのだった。

ー訓練校で重大事故発生!ー

ー代々木、今季絶望!ー

ー利き指にメス、再起不能か!?ー

ー不死身のオオアリクイ、ついにノックダウン・・・ー

 新聞の見出しのような文言が頭をよぎる。いったい完治するのにどれほどの時間がかかることか・・・それが気がかりだった。

 ・・・ところが翌朝になると、代々木くんはひょっこりと作業場に姿をあらわした。すっとぼけた笑顔とまぬけな冗談で、いつものように周囲をほがらかな雰囲気にしてくれる。彼の利き腕は包帯でぐるぐる巻きにされ、首から吊られていたが、思えばそれもまたいつものことだった。

「だ・・・大丈夫なのか?」

「おー、平気平気。なんともない」

「指は?」

「もどったよ」

「心配させんなよー・・・」

 痛々しさを見せないのが代々木くんのやさしいところだ。昨日来、凍りついていた作業場の空気がほどけていく。

 脱臼した指関節を力づくで入れられた話を、オレたちは顔をしかめて聞いた。彼はそんな反応を見て満足げだ。骨にビスが入ったものの、指は元通りの形にもどったようだ。以後の社会生活にもさしさわりなく、問題があるとすれば空港の金属チェックのときくらいだという。クラス中がほっと胸をなでおろした。

 それにしても大変なのはこれからだ。包帯がとれて抜糸したとして、本当に以前のようにろくろが挽けるのか?握力は元通りに回復するのか?神経はつながっているのか?感覚はちゃんともどるのか?・・・痛みと不安とで、いかにのんきなオオアリクイといえど、眠れない夜がつづくことだろう。

 ・・・と思っていたら、彼は二週間後にはもうろくろに向かっていた。包帯が巻かれている指先は、ビニールで防水してある。そこは使えないので、両手の指を折り畳んでグーの形にし、ゲンコツの関節を使って大きな水指を挽いていた。ぶきっちょな姿だが、おかまいなしだ。

「前よりうまくなったかもしれん」

 心配するだけソンだ。図太いというか、脳があたたかいというか・・・とにかくこの男の精神構造はシンプルにできているのだった。

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