第45話・イレギュラー

「好きなものをつくってくれてかまわんから」

 ろくろのイワトビ先生の言葉に、抜け殻になっていたオレは一気に発熱した。訓練中に突然、製造科全員を集めて申しわたされた新しい課題は、ほとんど自由制作といっていい内容のものだった。

「お茶道具であればな」

 お茶道具か。職業訓練校でそんなものをつくるとは思わなかった。

 はい、ハジメ!と言われ、考えた。お茶道具については太陽センセーんちで身近に接し、少々の知識を身につけている。だが、なにをつくるべきか。お茶道具といえば、ゆがんでいたり、へこんでいたり、欠けていたり、ガサガサの石ころがくっついたりしていてもぜんぜん平気の創作世界。乱暴な解釈をすれば、最低限の約束事さえ守ればほとんどフリーでつくってかまわない、いわば器物というよりも彫刻作品だ。そのかわりに求められるのは、機能よりも美意識、端正さよりも品格。今までに課題でこなしてきた「整った製品」とくらべて、格段に敷居が高い。職人としてよりも、芸術家としての素養が試される。なんとも訓練校の授業の意図(技能修得)とかけ離れた課題がだされたものだ。しかし突如として降ってわいたこの事件の裏には、今年度にかぎった特殊な状況があった。

 入校以来、学校の周りを大きなトラックがひっきりなしに行き来し、裏山のあたりがやけに騒々しいと思っていたのだが、どうやら翌年に「愛・地球博」なる祭りが当地で行われるらしい。「キッコロとモリゾー」でおなじみのあれだ。グラウンドの林越しに巨大な観覧車がそびえ立ち、近くにリニアモーターカーの高架鉄道が敷かれ、町はにわかに活気立っていた。その万博会場に、お茶室が設えられることになった、というのが先生の説明だ。

「そこで使うお茶道具一式の制作をわが校が受注したから、みんな気合いを入れてつくるように」

 過ぎた光栄であるぞよ、みなのもの誇りを持って取りかかるがよい。・・・イワトビ先生のうわずった声はそんなふうに聞こえた。もちろん願ってもない。ウデ試しにはもってこいだ。

 かぶと窯の窯焚きが終わって空っぽになっていた心身に、再び精気が充填される。クラスメイトたちも同様のようで、作業場には生き生きとした流動がよみがえった。惰性でゆるゆると回っていたろくろにいっせいにムチが入り、質と創意の競い合いがはじまった。

 思えばなんともラッキーなことだ。毎年この時期には、訓練生たちに疲労がたまり、制作ペースも落ちる。慣れから作業にも新鮮味をおぼえられなくなり、しかも各自に就職先も決まりはじめて、クラス内には倦怠が蔓延するという。そんなゆるみがちな時間を、新たな挑戦によって引き締めることができるのだ。すばらしい機会が与えられたものだ。

ーそれにしても、お茶道具を好きなように、か・・・ー

 と、しかしオレは考える。少々複雑な気持ちが、うれしさと交錯する。

 オレはこれまで、自由につくった作品世界をさらしたことがなかった。技術の基礎を築くべき現時点では、独創性を完全に棚上げしていたのだ。今大切なのは、超人的な技術の獲得、それのみ。鬼のような作陶テクニックこそが、卒業後に自分のイマジネーションを実現してくれる唯一のものなのだから。逆に言えば、生半可な現在の技術でつくった中途半端な作品世界を発表することに、これっぽっちも価値を感じない。

 世界観は持っているつもりだ。明確なやつを。美大の彫刻科在籍時からマンガ家やもの書き時代まで、ただひたすらに世界観を練りあげることだけをやってきたようなものだ。ただ、どれほどイメージを持っていても、それを実際に形にするテクニックがなければ、宝の持ち腐れに終わってしまう。「イメージを100%実現できるだけの力をつける」、それが自分にとってのこの一年間の訓練の意味なのだ。機が熟していない今、派手なデモンストレーションなど必要ない。第一、持ちネタをこの身内だけの環境で明かしてしまうなんて、もったいないではないか。そんなヒマがあったら、基礎練習の反復に時間を費やしたい。独創性の開陳なんて、ずっとずっと先の話・・・」

 ・・・などと考えていたオレに、しかしこの日、先生がのんきに言うのだった。

「好きなもんを好きなようにつくってええよ」

 独創性の芸術・お茶道具を、というわけだ。もっと基礎をみっちりと学びたい希求と、「好きなもんを好きなようにつくり」まくりたい欲求がせめぎ合う。ぜいたくな煩悶もあったものだ。

 ところでなぜ、お茶道具をつくること=基礎から離れる、という構図になるのかというと、それはつまり、お茶道具がゆがんでいるからである。ムチャな言い草だが、とにかくお茶道具は基本的にまん丸ではないのだ。十把ひとからげにしてしまうには気が引けるが、誤解を覚悟でいえば、お茶道具の制作はアドリブの世界だ。原則フリースタイル。まん丸すぎちゃつまらない、整いすぎてちゃ味気ない、すなわち「シブさ」の世界だ。なるほど、それをつくるのは楽しいにちがいない。しかし、自分にそれをする資格があるのか?と、まずは考えたい。太陽センセーの元で教わっている「茶の心」への理解も、道なかばだ。そんな半可者が、品格の世界に踏み入って自由表現などとは、ふてぶてしいというものではないか。そしてこの愉快な課題は、堅調な歩みを立ち止まらせる道草にも思えた。「デッサンもろくに描けない画家に抽象画が構成できるか?」という議論があるが、オレは一足飛びにそれをしたくない。今は、デッサンをこそ覚えたい時期なのだ。

ーこんな行政主導のお祭り(愛・地球博=一応、国家プロジェクト)ごときにうつつを抜かしてていいのかな・・・ー

 それでもとりあえず課題なので、ゆがみ茶碗のいっこもろくろ挽きでつくってみることにした。ド素人時代に大量生産していたなまくら茶碗っぽくすればいいのだ。わざといびつにつくって、味を出してやろうというわけだ。イージーな仕事だ。

 ところが、思いがけずショックを受けた。ゆがんだものが挽けなくなっていたのだ。どれほど無作法に挽いても、まん丸に成形できてしまう。では、と思って土の芯を意図的に外すと、土はバランスを失って暴れはじめる。まったくコントロールできない。よれて、へたって、あげくに裂けて、廃棄物となりはてる。その画づらは、まるで「生まれて初めての作陶で恥をかくひと」そのものの姿だ。半年間の訓練で腕前は上がっているはずなのに、オレ様ともあろうものがどうしたことか。

 何度やっても、ゆがんだものがまったく挽けない。さては腕が落ちたか?と疑いたくなる。しかし確認のために精密なものを挽いてみると、どんな形でもやすやすと成形できる。そのうちにようやく理解した。ろくろでまん丸を挽くなど当たり前の話で、むしろそれを外したものこそがむずかしく、高度な技術なのだと。それは応用問題だった。まん丸がどれだけうまく挽けたところで、しょせんそんなものは自由自在のうちにはいらない。そもそも「まん丸」という概念自体が形の制約を受けているのだから。そして悟った。今までこなしてきた図面起こし的正確性(まん丸成形)とは、実は技術的には準備運動なのであって、これから行うイレギュラーな形状のコントロールがやっと助走だった。さらに「イメージの具現化」がジャンプだとすれば、自分はまだスタートラインから走りはじめようかという地点に立っているにすぎない。どんどん加速しているつもりでいた自分が恥ずかしくなった。

「立ち止まって、はて、と考えたときに、ようやく成長がはじまるのじゃ」

 またも太陽センセーの言葉が頭に響いた。

ーなんてこった・・・ここからがやっと修行のはじまりか・・・ー

 打ちひしがれる。しかし立ち止まってなどいられない。むしろ、新たに立ちはだかる壁を前に、またふつふつと血沸き肉踊るのを感じはじめていた。

ーよおし、やったる・・・ー

 モチベーションがみなぎる。同時に、ろくろのへそ曲がりな性格に、つくづくと感じ入る。

ー・・・それにしてもド素人ってのは、なんであんなむずかしいへんてこな形をいともかんたんに挽くことができるんだろう・・・?ー

 洗練の最高到達点は原始なのだと理解するしかない。なめちゃいけない。ここにきてやっと、陶芸をはじめたころの気持ちに立ち帰ることができた。自分が愚かな思い上がり男なのだということもあらためて思い出し、ほっぺたを叩いて気合いを入れ直した。

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