第32話・ぐい呑み

真新しい電動ろくろには「ろっくん」という名前をつけた。ろーるな感じでかっこいいではないか。オレは毎晩、相方となったろっくんとふたりで、日付が変わるまで踊った。学校では、イワトビ先生指導の瀬戸式(時計回転)でろくろを挽くので、部屋でろっくんに向かうときは、太陽センセー直伝の唐津式(逆回転)で挽くようにした。いよいよ本格的に、左右どっち回転にも対応できる「スイッチロクラー」を目指すのだ。

 ろっくんを左回転に設定し、つくるのは、太陽センセーに教えてもらった「片口型ぐい呑み」だ。

 話は少しさかのぼる。

 その日、オレはいつもの週末のように、若葉家の裏山で登り窯づくりを手伝っていた。暑い一日で、ヤブ蚊や大ムカデなど愛らしい昆虫たちとたわむれながらの泥だらけな作業だった。

 夕闇がじわじわと空にひろがって竹薮を覆い、手元が見えなくなったので、仕事を終わらせてメンバーと山を下りた。そのとき、ふと眼下を見て気づいた。低くのたうつトタン屋根の下に、裸電球がともっている。作品の乾燥棚にはさまれたそのせまいスペースに、太陽センセーのお手製ろくろが置かれているのだ。老陶芸家はその明かりの下で、一心にぐい呑みを挽いていた。

 太陽センセーのろくろを挽く姿を見るのは、これがはじめてだった。思想はおおっぴらにしても、技術は安売りしないひとなのだ。そればかりは作家の財産なのだから。オレは、ここぞチャンス、とばかりにセンセーの背後に忍び寄り、手元をのぞきこんだ。

 イワトビ先生の技は曲芸のようだったが、太陽センセーのそれは芸術的だった。ろくろの木製ターンテーブルは、唐津式の左回転で回っている。テーブルのつらに水平がでていないため、回転がゆらゆら揺れて見える。回転速度は、足下から伸びるシフトレバーでギアチェンジして調節するようだ。このろくろは、車の駆動系を解体して組み直されたものなのだ。そんな無骨なろくろを、太陽センセーは肉体の一部のように操っていた。

 背筋に芯を通して泰然自若。なめらかな流れの中で土殺しをすませると、トランプを扇形に開くような鮮やかさで土を伸ばす。器形を向こう側からかかえこみ、右手の四本指をスクリーンにして、親指を下から上(つまり見込みから口べり)へとすべらせて成形する。センセーの指は五つのピンポン玉がくっついたようなころころの形をしているのだが(パンのような手なのだ)、お世辞にも優雅とはいえないその指が、小さな器の表面で軽やかに躍動する。そのよどみのない動きに、土は素直にしたがう。大胆で、自由自在。それこそまるで、遊んでいるような。それは器用というよりも、土のことを理解しきっているという自信からくる手わざだった。

 ぐい呑みはまずラッパ型に引きのばされた。そうしておいて口べりを外側に折り畳み、くるりと巻いて、口当たりのよさそうな玉ぶちにする。器の腰の下を細く細くしぼる。器はコマのように不安定になったが、なるほど、こうすれば小さくてシャープな高台ができる。さらに見込みを丸くひろげて碗ぐりにし、たちまち成形は完了。底を糸(ただの木綿糸の切れっぱし)で切り離して、長板に移す。そこには挽きあがったぐい呑みが何個も並んでいた。最後に指先のひと細工で、胴体がクツ形にひずめられる。それはころんとしていながら、底がしぼられているために、尻がキリリと上がって見える。玉ぶちも、ゆがんだ形状も愛らしく、曲線のみでできたフォルムは手の中でのすわりもよさそうだった。

 夜のとばりが降りきった山腹の一軒家。裸電球のまわりには小さな羽虫が飛び交い、ヤブ蚊は素肌にまとわりつく。蒸し暑さで、太陽センセーのシャツはじっとりと汗を吸って濡れしょびていた。それでも無言でぐい呑みを挽きつづける。禿頭の照り返しがネオンサインに見えるのか、虫たちはひっきりなしにそのなめらかな丘に離着陸をくり返す。しかしそんなことは気にもとめない。心頭滅却、一心不乱だ。

ーそれにしても、こんな夜半に・・・ー

 そう、老陶芸家がぐい呑みを何個も挽いている意味がわからない。ひょっとしたら急ぎの大量注文品かもしれなかったが、オレは、そうではない、と感じた。

ー伝えようとしてくれてるんだ!ー

 よく見ておくのじゃ、これをつくるのじゃ、とセンセーの横顔が語っているように見えた。観察すればするほどそのぐい呑みは、ろくろの様々な技術的要素を含んでいると知れてくる。腕を磨くにうってつけの器形。そう、これは実習授業だった。うっかりと他人に仕事現場を垣間見せるような不用心なひとではない。この偶然に見える機会も、周到に計算されたものにちがいないのだ。

「ん?・・・ああ、なんじゃ、見とったんか」

 長板がいっぱいになり、やっとセンセーが顔をあげた。闘いに挑むサムライの面持ちから、打って変わって優しげな表情だ。

「これは注文品での、大変じゃ。こまかい仕事やけ、たくさん挽くと疲れるわい」

 照れ笑いをする。これほど器用になんでもこなせるひとが、ウソは下手なのだ。

「おまえさんもやってみんか?見とって要領はわかっとろう?」

 なんと、ろくろのイスをうながされる。

「ほれ。やってみ」

「は、はい!」

「ぐい呑みはの、小さな抹茶碗じゃ。なめてはいかん」

 腕の見せ所ってやつだ。オレはセンセーに代わって、ろくろに向かった。成長のあとを披露せねば。

 ところが、陶芸教室に通っていた半年前以来久しくやっていなかった左回転は、とてつもなくやりづらかった。当然だ。学校で挽きまくっているのとは逆回転なのだから。いつの間にか、自分の感覚もすっかり逆になっている。さっき見た通りに挽こうとしても、指先がおぼつかない。すぐに器がゆがんだり、根っこからもげたりしてしまう。

 第一、土が学校のものとちがってパサパサだった。太陽センセーは自分で掘ってきた粗土を、自分で練って使うのだ。その天然の土は、小石やら草やらワラくずやらをいっぱい噛んでいる。中にはぎょっとするような大きな石ころも出てきて、どうしていいかわからない。

「石はよけて挽け」

 センセーは驚くべきことをのたまうが、そんなことできるわけがない。おまけに手製ろくろの回転は、不安定でふらつく上に、トルクもない。土殺しでは、ほんの少し力を入れすぎただけでストップしてしまう。ギアチェンジももどかしい。虫もうっとおしい。暑い、かゆい、下手さがはがゆい・・・悪条件だらけだ。

 それでもなんとか三つ四つのぐい呑みを完成させた。不細工で締まりのないシロモノだ。ひたすら恥ずかしい。だけどしょうがない。これが現時点での自分の実力なのだから。

 センセーはすでに背後から消えていた。がっかりさせてしまったにちがいない。恐る恐る、作品をのせた長板を持って報告にあがる。

「あの・・・できました」

「ん?まだやっとったんか」

 センセーは、居間でころりと横になったまま、長板の上の異様な物体を一瞥した。が、それについての感想はない。クタクタになった老身を息子の火炎さんに揉んでもらって、うつらうつらしている。出来の悪い弟子のためにがんばってくださったのだ。恐縮のあまり、身が縮んでいく。

「じゃ、今夜は泊まってけや。朝明けたら、高台ケズリと口づくりをやるけん」

 なんと、またまた大サービスだ。これに応じない手はない。その夜は酒盛りのあと、借りた毛布にくるまって眠った。作品をまくら元に置いて。

 翌早朝に目を覚ますと、センセーはすでに起き出していて、屋外にあるろくろに向かっていた。前夜に挽いた自作品の高台を削っている。あわてて脇に駆け寄り、名人の手元を見つめる。

「よー見とけや」

 ぐい呑みを裏返しにしてろくろのターンテーブルの中心に置き、豆粒ほどの土で三点固定する。そしてアクセル、ギアチェンジ。

「あっ」

 それは目にもとまらぬ早業だった。逆さのぐい呑みが高速回転しはじめたかと思うと、クルクルッと底のキワが、クルクルッと中央が削られる。瞬きする間もなく、もう出来上がり。回転を止めたぐい呑みの裏には、美しい高台が形づくられていた。

「よいか。内、外、それぞれ一周半でカタをつけるのじゃ」

ーんなアホな・・・ー

 またムチャを言う。しかし太陽センセーは本当にそれだけの手数で、美しい高台を仕上げてみせた。

「どれ、もういっこお目にかけようかの」

「お、お願いします!」

 次のぐい呑みがセットされる。息をつめ、回転するぐい呑みの底にカンナを立てると、瞬時、センセーの丸い背中に気合いがこもった。刃先は高台脇に食いつき、紙一重の土厚を残して走る。鋭くそぎ取られたカンナくずが飛ぶ。つづいて中央に刃を突き込むと、円形の溝が掘り巡らされる。そうして内外、コンマ何秒かずつ刃をあてて、それでもうおしまい。無駄な土を落としたぐい呑みは、フォルムが固く引き締まっていた。エッジがクリアに立ち、造形時のスピード感までもが目に見えるようだ。高台外のケズリは、刃を入れた位置と抜いた位置がらせん状に少しずれている。はじめの一周で正円の高台を形づくり、残りの半周を外側にフェードアウトさせたわけだ。それによって、削り跡を器の丸みになじませることができる。その一本道の刀疵(かたなきず)には、まったくためらいというものがない。また高台内には「兜巾」(ときん・中心のとんがり)がくっきりと立ち、その周囲をよどみなくカンナが巡っている。その鋭さは、周囲の空気を凝固させるような緊張感をもっている。

 学校で訓練している「丁寧さがつくりだす正確な仕事」は美しい。が、そんなものがあざとく思えるほどの、気迫をのせた一撃必殺のキレがそこにあった。工芸品ではなく、芸術品。ただただ見とれてしまった。

 ケズリを終えると、さらにくちばしの付け方も伝授される。この器は「片口」となるのだ。

「子供のおチンチンのようにつけるのじゃ」

「は、はい!」

「手数をかけるでない。作意を見せてはならん」

 そうは言われても、ピンポン球ほどの器にコンタクトレンズのような粘土片をはりつけるという繊細極まる作業だ。どうしてもさわりすぎてしまう。そしてさわればさわるほどヘンになる。センセーのお手本を真似たつもりでも、似ても似つかない。長板には、コテコテに手跡のついた妙ちくりんな片口型ぐい呑みが並んでいく。何個つくっても、まるで子供の工作だ。

 センセーはそれを見て、ただ愉快そうにからからと笑うだけだった。その笑顔にすくわれる。竹林が発散する冴え冴えと新しい空気。その葉のすき間からこぼれる朝の光は、醜悪な作品を少しばかり輝かせてみせてくれる。オレは、この形を生涯挽きつづけよう、と思った。

 図14

 その日から、挽きまくった。ボロアパートでろっくんとすごす深夜、徹底的にその片口型ぐい呑みを挽いた。センセーの教えを指先にしみこませようと、必死だった。初心を忘れそうになったら左回転にスイッチしてこれを挽くのだ、と心に刻みつつ、ひたすら長板に不細工ぐい呑みを並べた。

 あの夜のぐい呑みが本当に注文品だったのか、それとも愚かな学生のためにわざわざ挽いてくださっていたのか、センセーの意図は今となってはわからない。だけどこのぐい呑みをつくるとき、いつも必ず思い出すものがある。それはセンセーのワザではなく、コトバでもなく、「姿勢」だ。裸電球の下、汗のにじんだ綿シャツ一枚で、禿頭の先に蚊柱を立てながら、一心に土に向かうあの姿だ。ぐい呑みのころんとした形は、いつもその丸い背中と重なった。それはユーモラスだが、固く締まっているのだ。

 太陽センセーにろくろを教わったのは、これを含めて二度きりだった。

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