第10話・距離

 チャリから投げ出されたはずみに、痛みがぶり返してきた。が、そんなことを気にしてはいられない。

「いろはっ!」

 倒れているいろはのところに駆けつける。砂まみれの腕をつかんで、引き起こした。どこか痛めたのか、みけんにしわをためている。

「あたしは平気だよ。それより・・・」

 さらに前方の砂山で、大惨事が起こっている。あわてて駆け寄ると、ひっくり返ったチャリの下で、ノリチカと権現森が大の字になっていた。遠目には、死体のように見えた。絵に描いたような、死亡事故現場だ。しかし、現場検証で間近から見下ろしたとき、倒れた二人はゲラゲラと笑いはじめた。

「うはー、す、すげーっ・・・す、す、すげーっ」

「わはは、怖かった・・・わはは、怖かった・・・」

 こちらの心配をよそに、ハイテンションだ。拍子抜けだ。しかし考えてみれば、頑丈だけが取り柄の連中だ。心配する必要などなかった。

 汗で張り付いた制服シャツを背中から引きはがし、脱ぎ捨てた。シューズもソックスも、学生ズボンも放り投げ、パンイチ姿で、白く割れる波に飛び込む。初秋の海水はスネに食い込むほどに冷たかったが、しぶきが日焼けした肌に弾けて気持ちいい。クラゲがちらほらと波間に漂っている。それをよけつつ、男三人でバカみたいにはしゃいだ。波間の光の綾の中で水底が揺らめいている。胸のあたりまで浸かっているのに、足指の間から舞い上がる砂粒のひとつひとつまでがくっきりと見える。一生忘れられないような、鮮明な砂粒だ。

「うわー、すげーぞ。水がきれいだ。おーい!」

 オカに向かって叫ぶ。人影もまばらな浜では、いろはがせっせと立ち働いている。やんちゃな男子たちが脱ぎ捨てていった衣類を、草の上に干しているのだ。ばっさばっさとシャツをはためかせて砂を払い落としてから、きれいにしわを伸ばしてひろげ、風に飛ばされないように四方に石を置く。あたりまえの仕事とばかりに、いつものことと言わんばかりに、黙々と、淡々と動きつづける。マネージャーの性なんだろうか?母性?・・・考えてみれば、いろはには三年間、甘えっぱなしだった。いつもオレたちのことを気に掛けてくれていた。あいつにはなんでもわかっていた。そういう役割だと思っていた。そしてふと、海の中の男子三人と、浜辺のいろはとの、決定的な距離を思う。グラウンド上のプレイヤーと、ベンチのマネージャーとの距離。

 いろはが声に気づいて、小さく手を振ってきた。思いきり手を振り返す。一層、声を張り上げた。

「おーい!おまえもこいよ!」

 いろはは手を振りつづけている。顔の影が陽射しにひらいて、笑ったように見えた。だけどすぐにきびすを返し、「仕事」に戻っていく。仕方がないのだ。水際で隔てられた、届きようもない距離。この距離をいろはは三年間、男子と同じ時間を過ごしながら、ずっと感じていたのだ。

 この瞬間まで、いろはを含めた四人は完全にひとつの共同体だと信じきっていた。四つのピースで完成するまんまるのパズル。すき間のない完全なる調和。だけどそうは言っても、ひとりきりの女子は、現実には異質な存在に決まっている。いろは本人だけが、それを理解していた。間抜けなことだ。オトコ三人がどれだけニュートラルに接しようと、いろははどうしたってオンナなのだから。そこに思い至った途端、恐怖にとらわれる。シャツを脱ぐ三人を見たときの、彼女の目に差した影。非難のような。嫉妬のような。怒りのような。だけどあれは、思えば、あきらめの色だった。

 熟しきったキンカンみたいな太陽が水平線ににじんで、とろとろと溶けかけている。昼間に砂浜が吸収した熱は、ゆっくりと空に向けて還元されていく。海から上がったオレたちは、誰からともなく浜辺に散って、転がった流木を集めはじめた。運び込まれたそいつを、いろはが積み上げていく。

「ね、だれか、火、持ってない?」

 ノリチカが近づき、ジッポを差し出した。なぜそんなものを持っていたのかは訊くまい。いろはは怪訝な顔で受け取る。やがて二人は、ひと言ふた言交わし合うと、静かに笑い合った。二人きりで秘密を共有したような、そんないたずらっぽい笑いだった。そんな光景を横目に見ていると、なぜか心がささくれる。いろはの足下に当たるように、両手に抱えた流木をわざと放り出す。

「いたーい。なによお」

 そんなオレのぞんざいさに気づいたノリチカは、ふうんと鼻を鳴らし、オレンジに照り映える浜へと再び出ていく。いろははこちらを見て、「ヘンなの」とでも言いたげに、細い肩をすくめている。

「こんな組み方じゃだめだ。火がつかないよ」

 いろはがゴチャゴチャに積み上げた焚き木をほどいて、下から井の字井の字に組み直した。

「へえ、几帳面ね」

「合理的と言えよ。ボーイスカウト式だ」

「えっ!義靖ってボーイスカウトだったの?わかる。なるほど、わかるわあ」

 いろはが爆笑しはじめた。そこへ、権現森が巨大な流木を肩にかついで現れた。ボーイスカウトを指差して笑い転げる(失礼だろ)いろはを見て、目をパチクリとさせている。たまらず、ぷいと夕暮れの浜へ走った。しばらくいったところで振り返ると、二人はほがらかに笑い合っている。一抹の寂しさに襲われる。そのとき急に、四人の関係に、オトコとオンナ、なんて問題が介在しはじめた気がした。

 辺りはずいぶん暗くなってきた。水平線の向こうの残照で、わずかに手元が見える程度だ。オレが戻ると、いろははまだ火をつけるのに手間取っている。

「ちょっと手伝ってよう、ボーイスカウトさま」

 ノリチカが、ひゃひゃひゃ、と笑い転げた。三人はもう焚き木の周りに車座になっている。ライターを受け取って、オレがお役にまわる。しかし潮風が強まってきて、焚き木にはなかなか火がつかなかった。

「まだかよ、からだが冷えちまうぜ」

「まあ、待てって」

 パンイチで泳いだが、心地よく乾いたシャツが、冷えたからだを包んでくれている。肌に日向の名残が浸透してくる。

「やっぱライターで直じゃ無理だな。なんか燃えやすいもの、ないか?」

「ようし、みんな。カバンの中を探せ」

 権現森が号令をかけると、みんなそれぞれにスポーツバッグを開けた。手を突っ込み、中を引っかきまわす。

「あったぜ」

 ノリチカが競輪新聞を突き出してきた。

「なんでこんなもの持ってんだよ?」

「チャリ屋だからな。タシナミとして競輪くらいやるだろ、フツー」

 なるほど、そういうものかもしれない。その新聞紙を裂いて、焚き木の下に突っ込む。

「賭け事なんてやっちゃダメだよう、ノリチカ。もっと健全に生きなきゃ」

「そうは言っても、ギャンブルみたいなもんだからな、俺様の生き方そのものが」

「そうね、走りもね」

 これにも納得だ。みんな、この日のいくつかのシーンを思い出していた。そして、なぜか言葉が継げなかった。

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