第2章 *5*

「これは……」

 美味しいスープにお腹も心も満たされた気分で家についたサミルとセオは、扉を開けた瞬間、絶句した。

 今朝、家を出た時と、室内の様子が――あまりにも変わりすぎていたからだ。 

 曇っていた窓ガラスはピカピカに磨かれ、上品なレースのカーテンが取り付けられている。壁や床に染み付いていた汚れは綺麗に落とされ、穴が開いて雨漏あままりしそうだった天井は、補強用の木の板でおおわれている。それだけではない。

 二部屋ふたへやの間にある狭い共有スペースには、小さいながらもオシャレな丸テーブルと椅子が置かれ、嫌なカビ臭さはどこへやら、可愛い花瓶に活けられた花から甘い香りが漂ってきている。

「まさか、そっちの部屋も?」

 サミルは自分の部屋の扉を開け、息を呑んだ。

 そこは、かつて住んだことのないような、女の子らしく清潔感の漂う、それでいてシンプルで可憐な部屋に模様替えされていた。さらに、押しあけたそのドアノブまで、いつの間にやら鍵付きのものへと付け替えられている。

 その隅々まで行き届いた配慮とセンスの良さに、サミルは首を傾げる。

「あの……えっと、これはどういうこと?」

 サミルが共有の部屋に戻ると、同じく自室内を確認し終えたセオが、従者の青年の方へと呆れたような視線を向けた。

「シェルス、確かに俺は『綺麗にしておけ』とは言ったが、ここまでしろとは言ってないぞ」

「えっ、じゃあこれ、シェルスさんが全部一人でやったんですかっ!?」

 サミルが上げた驚嘆の声に、誇らしげな笑みを浮かべたシェルスが頷く。

「正確に申し上げますと、サミルさんの部屋に関してはウチの姉たちに意見を聞いたりしましたので、一人で、というわけではございませんが……」

「へえ、お前が苦手としているあの人たちを頼るなんて、めずらしいこともあるものだな」

「シェルスさんのお姉さんたち……?」

「ああ、コイツの女嫌いは、その三人の姉さんたちのせいでなったといっても過言ではない……そうだよな?」

 淡々と説明するセオに、シェルスはわずかに頬を引きつらせながら微笑んだ。

「それはそうと、セオ様。今朝、汚いと文句を仰ってらした浴室の方も綺麗にしておきましたので、ご確認を……」

 その言葉に喜んだのは、セオよりもサミルの方だった。

 貸してもらっている身なので、文句は言えないと黙っていたが、その相当な汚らしさに入るのをやめて、これまで通り泉湯せんとうへ行こうと思ったほどだったのだ。

(どうやったら一日でここまで綺麗にできたのかしら……?)

それは心底不思議だったが、同時にサミルはこの従者の仕事ぶりに対して尊敬の念を抱いた。

「……シェルスさんって、凄い方なんですね」

「いえ、私はセオ様に命じられたことを遂行すいこうしただけですので」

 その味気ない答えに、セオは小さくため息をつく。

若干じゃっかんやりすぎな気もするがな……」

あるじが浮かべた苦い笑みに、シェルスは我に返ったように姿勢を正した。

「セオ様、お疲れのようでしたら、すぐにでもお風呂の用意を致しますが……いかがなさいますか?」

(うひゃー。お風呂の用意を従者がするとかって、どんだけお坊ちゃんなのよ! 親の顔が見てみたいものだわ……)

 サミルはひそかにツッコミを入れながら、思わず出そうになったあくびを噛み殺す。

「……っ」

 配達時に町中を案内してもらいながら歩き回ったせいか、それとも、昨夜、力を使った疲れがまだ残っているのか、まだそんなに遅い時間ではないにも関わらず、猛烈な眠気が襲ってくる。

 そんなサミルに、セオの呆れたような視線が注がれた。

「……俺はあとでいい。あくびが出るほど疲れてはいないからな」

「な、何よそれ、私に対する嫌味? いいわよ、じゃあ、遠慮せず先に浴室を使わせてもらうんだからねっ」

「勝手にすればいいだろ。そんなことより、シェルス、話がある」

 ぷいっと互いに背を向けてそれぞれの部屋に入っていった二人の姿を見やり、シェルスはふとかすかな笑みを口元に浮かべた。

「おい、何一人でニヤついてんだ。気持ち悪いぞ、シェルス。というか、早く来い!」

「失礼致しました。あ、今、お茶をご用意しますので、少々お待ち下さいますか?」

「……サッサとしろよ」


 サミルが入浴を済ませて自分の部屋に戻っていったその頃、セオの部屋には優雅な紅茶の香りが漂っていた。

 しかし、ティーカップに映っているセオの顔には、わずかな緊張感が浮かんでいる。

「あいつが持ってたあの種……どう思う?」

「とてもよく似ていましたね、リゼオス様の持っていらっしゃるその種に……」

 シェルスの視線が、セオの手のひらに乗せられている空色の種に向けられた。

「やはりお前もそう思ったか。まさか、こういう色の宝種ほうしゅって、実はよくあるものだったりするのか?」

「いえ、ないかと思われます。それはガイア師匠が仰っていたとおり、亡きラエル様が大切にされていたというめずらしい宝種ではありませんか。あるとすれば、それは……」

 その先の言葉を飲み込んだシェルスを、セオは鼻で小さく笑う。

「有り得ないだろ。だが……」

「彼女のことが気になりますか? なんでしたら、私の方で調べ――」

「いや、そんなことはしなくていい。それより、あいつの能力のことがリリシア様の耳に入らないよう、気をつけておけ。さすがに今この時期は……色々とまずいだろ」

 今年の『託宣の種』の内容が国民に開示されるのは、五月一日。その日まではすでにあと一月ひとつきを切っている。

 もし万が一、アエスタ国から呼び寄せているという彩逢使の身に何かがあった場合、いや、何もなくとも、自国で彩逢使が見つかったとなれば、彼女の方が利用されることになるのは明白だ。

 そして、リルカが言いかけたのはすんでのところで止めたが、城に連れていかれた彩逢使がどうなるか――。

 とにかく、寝覚めの悪い結果を迎えることだけは、できれば避けたかった。

「承知致しております、

 返事と共に深くこうべを垂れたシェルスに、しかしセオは不満げな表情を浮かべた。

「お前、間違っても外でその名で呼ぶなよ。あいつはボケッとしてるからごまかせるかもしれないが……」

「もちろん、承知致しております」

「ふん、どうだか。ところでお前、早朝に一度この家を出て、どこへ行っていた?」

唐突な話題転換に、シェルスはわずかに目を細めながら答える。

「……市場いちばの方へ、朝食用の果実を仕入れに行っていただけですが、それが何か?」

「……へえ。じゃあ、お前の服から兄上がこのんでつけてる香水の匂いがしたような気がしたのは、俺の気のせい、ということなんだよな?」

セオのどこか緊迫した問いの後、

「――リゼオス様。私が生涯しょうがい忠誠ちゅうせいを誓うと決めたのは、貴方様あなたさまにだけです。どうかそれを信じてください」

 シェルスはいたって平静に答えを返したように見える。だが、逆にそれが、セオの勘に触った。

「ふん……口だけの忠誠なんて、俺はいらないからな」

「口だけだなんて、とんでもございません!」

 従者から真っすぐに向けられたその眼差しから、セオは逃げるようにして立ち上がると、窓辺に立つ。

 そこから見上げた夜空には、触(ふ)れたらケガをしそうなほど鋭い三日月が冷たく輝いていた――。

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