第7話 新しい扉

最後にメリーさんの姿を見たのは……



彼女は目に涙を浮かべて呟いたという。僕が大人になった頃、一つの懐中時計から知り合った女性の言葉だった。



トルコ風呂とは個室で男女が営む場所である。昭和三十二年の四月、一人の男が設立した。もちろん設立したのは生まれも育ちも伊勢佐木町出身のかがみという男。僕にトルコ風呂で働かないかと誘った男である。出会った時から鏡という名前しか知らない。男の本名を知っているのは誰もいない(偽名じゃないかという噂もあった)。この際、名前なんてどうでも良かったんだけど。


とにかく鏡さんが設立したトルコ風呂で僕の新しい生活は始まったのだ。大柄な体格の関田さんから大まかな説明を聞かされた。経営者は鏡さんで、関田さんが専務だった。総務件、経理の担当が美琴みことと呼ばれる女性。タイムカードを魅力的に差し込むひとで美しい女性だった。社員は僕を含めて、あと二人居ると言われた。そしてこの日の夜、僕は一人の男と仲良くなることになる。年齢は僕より三つ上の先輩に当たる。


「ボウズ、最後に聞かせてくれるか?この仕事をやっていけるな」


鏡さんはあえてそう聞いたのか、僕の頭ではわからなかったけど、『やっていけるか?』ではなくて、『やっていけるな』が印象的な言葉だった。それと同時に重みさえも感じた。すべての責任は僕にあって、最終的に決断するのは自分自身で自分次第なんだ……と。


「やります。ここで新しい扉を開けます」


「新しい扉か、その扉を開ける鍵が見つかると良いな」と鏡さんは力強い表情で言ってくれた。


扉を開けるには鍵がなければならない。僕の鍵は、僕だけの鍵であって世界に一つだけなんだ。19歳の僕が飛び込んだ世界は異質の世界なんだと、僕はこの数日間で体験しようとしていた。それは未知なる遭遇で新しい生活の一歩だった。ここにはルールがルールブックに記載されてるワケではない。身体で覚えて感覚を身につけるのが大切な手順なんだ。


僕は今日から一秒一秒に神経を研ぎ澄ますと誓った。生きる意味を無駄にしないように。

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