第29話 安らぎの場所

正式な本名は誰も知らないという。オーナーであり、生活費を支援している鏡さんで冴え、アゲハさんの本名を知らない。鏡さんと美琴さんの間に、どんな契約が交わされて、どんな関係性なのかも秘密であった。ここ伊勢佐木町を中心にした界隈では、そうした噂が人々の中で囁かれていたという。それは今から10年前の話しであって、今となっては誰も噂にしなかったし、話そうともしなかった。


「それはどうして何ですか?」と当たり前の疑問を山川さんにぶつけてみた。


すると山川さんは困ったような顔をして、パイプ椅子から立ち上がった。傍らには空になった缶ビールが置かれている。沈黙を破るように映写機にセットされたフィルムを廻し始めた。ジィ……カタカタカタカタと場面を送る音が室内へ細やかに聞こえた。時計を見ると、いつの間にか午後の上映時間が迫っていた。


「俺っちの仕事は、例え誰も居ない劇場であっても上映しなきゃなんねぇんだ。もしかしたら遅れて入って来る客が居るかもしれないだろう。それに俺っちは、このフィルムが映写機の中で廻る音に心地良さを感じるんだ。わかるっちか?」


「癒されるんだ。このカタカタって音に心が安らぐんだよ」と僕の言葉を待たずに、山川さんは言った。


「アゲハはそんな女なんだって。みんな、彼女の事が好きで癒されてるんだよ。この世は痛みの連続で成り立っている所もあるんだっち。だから心の安らぎが必要となってくる。俺っちも劇場を一歩出たら、安らぎを失うことになるわな。小さな街に癒される場所は少ないもんだろう。そりゃ、家族の居ない連中だっているさ。春子もそうだな……」と最後は寂しくも小さな声で呟いた。


春子には家族が居ない?それって僕と同じ境遇なのか。だから似てるって……


「春子のことは忘れてくれや。俺っちの言いたいことはわかるか?アゲハは皆の安らぎなんだよ。それが彼女の中にいるアゲハなんだって」


「僕も安らぎを求めていると思います。山川さんが言う、皆のアゲハって意味がわかったような気もするし……。でも、美琴さんは誰を癒しているんだろう。山川さんはアゲハさんから安らぎをもらってる。だったら彼女は、美琴さんは誰なんだろう」


僕は納得できなかった。アゲハは皆に安らぎを与えるソープ嬢なら、美琴さんの存在する意味がわからない。誰にも安らぎの場所が必要としているなら、彼女は余りにも自分を犠牲にしているのではないだろうか。そんな考えが頭に浮かんだ時、僕は美琴さんの顔を思い出した。理由は寂しそうにしている彼女の姿だった。どうして自分でもそんな姿を想像したのかはわからない。だけど、昨夜の彼女はどこか寂しげで哀しい表情をしていたような気がした。


「坊主よ。いつまでもそこに突っ立っててもしょうがあるめえ。俺っちが知ってることはそれぐらいだ。お目ェさんが何を思ったかは頭の中だからわかんねぇさ。でもな、自分の目で確認したらわかることもあるさ」山川さんはそう言うと客席が見える小窓を覗いて、背中を向けたまま動かなかった。


これ以上は何も教えてくれないと思った。僕は彼の背中に会釈をしてから、カタカタとするフィルム音を耳に残して映写室から出て行った。帰り際、売店の方を見ると、映画を鑑賞しに来てる客の姿があった。売店ではその客の対応する春子の姿を見て、山川さんが言うように遅れて映画を観に来る人が居るんだなと思った。もしかしたらあの人も、安らぎを求めて映画館に来ているかもしれない。


ゴールド劇場を出た時、僕の真上には灰色の雲が覆っていた。まるで、はっきりと気持ちの整理がついていない僕を表しているような雲だった。あの灰色の雲から雨が降る頃、僕は安らぎを求めて、美琴さんと一つになるなんて思いもしなかっただろう。


空はいつまでも、灰色の雲を漂わせていた。

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