移伝

marry.(マリー)

1章 「居場所、或いは痕跡」



 紫の蝶だ。

 いや――闇に飛ぶその色は、もうすこし、もっと――鮮やかではないか。


 ネオンに透かして見てみるといい。

 その羽根は――褐色の熱のかたまりの色だろう。







1-


 地下鉄の出口はいくつかあって、吾妻橋アズマバシ側に出るのはどれも小さな口だ。

 浅草寺のほうはいつでも観光客で賑わっているけれど、こちらのほうはまるで別の街のように静まっていた。

 二月――大船渡オオフナト開催のポスターが、点々と貼られている。



鵜野ウノさん、ホントにその女っていわゆる―特殊能力持ちなんですか?」

 スーツの男が言う。

 ひどく特徴的な部分はないくせに、近隣のサラリーマンというほど没個性ではない。黒髪で、肌色はやや白め。


「新人は黙ってついてくれば良いんだよ。合鴨アイガモくん」

 そちらを見ずにそう答えるのは、鵜野と呼ばれた男だ。

 スーツの色も質もたいして変わらないが、話しかけたほうよりはすこしばかりしっかりとした面持ちをしている。


「アイガモじゃなくて、アモですけど」

「食用とか言われてたよ、お前」

カモでウガモだってさんざんからかわれたでしょ。名字変えてくださいよ、うっとおしいなぁもう」


「……お前さ、俺が先輩だって解ってる?」

「解ってますよ。年長者たるもの年下には気を使える人物であるべきでしょ」

「なんなのコイツ。……怖いんだけど」

 まっすぐ歩けばスカイツリーの前まで続いているその道を真逆に、上野側へ辿る二人は、ペットショップとコンビニを目の端に捉えながら先を急ぐ。



「しかし、ここらにそんな細長いビルってありますっけ?」

 鵜野が左手に持っている一枚の写真を覗きこんで、合鴨アモは言う。

 

「無いな」

「え、なんですか急に。無いのに歩いてるんですか。――病院行きます?」

「無いけどあるんだよ。……だから連れて来た」

「ホントに……大丈夫ですか?」 

 合鴨からの憐みの視線を受けて、鵜野は嫌そうな顔をする。


「想像力を持てよ。無いのに、あるってことは」

「鵜野さんの頭が、イカれてる」

「――行く方法が、あるってことだ」

 うん、と一人で頷く合鴨の額を写真でぺしりと叩くと、鵜野は言う。



「方法ですか?」

「チケット制みたいなもんだ」

「えー、さっきコンビニ過ぎちゃいましたよ! なんでさっき言わないんですか」

「ピアじゃねえから」

「じゃあなんなんすか!」

「これ」

 ぼやく合鴨に、鵜野が写真をかざす。


「写真じゃないすか」

「写真だよ」


「はぁ、じゃあそれですか? チケットって……」

「そう」

「何言ってんすか? ほんとに」

「――まぁ、無理もないか」

 そう言って意味深に笑う鵜野を、合鴨は怪訝そうな顔で見る。


「無理もないって……」

「合鴨、左見てみろ」

「なんでですか?」

「早く」

「えぇ」

 向かい合った鵜野のしたり顔を一瞥すると、合鴨は言われたとおりにそちらを見た。



「――これが、無いはずの細長いビル、だ」

「うわ、マジだ」

 左手側には写真のビルがあった。

 ぎゅうぎゅうに詰まっていたはずの元のビルとビルのあいだに、なぜか、いつのまにか――細長いビルがあった。


 淡いグレーの、たいして新しくもない外壁、入口にタバコとジュースの自販機が二つ置かれていて、ビルサインには地下一階、一階、三階に飲食店の表示、四階には中国式マッサージ屋の屋号まで書かれている。



「さすがイマドキの若者、見えたら信じるのは早いんだな」

「いや、こんだけリアルじゃ信じないわけいかないでしょ。――どうなってんすかこれ」

「さぁね」

 ビルの奥のほうに見えているエレベーターの乗り口に向かって鵜野が歩きだす。合鴨はそれを追って、きょろきょろとしながら距離をつめた。


「で、その鵜野さんの知り合いの女ってのはここの――二階にいるんすか」

「たぶんね」

「一年半くらい、前なんすよね? 会ったの」

「そのときは、ここの五階の空きフロアを借りに来たんだ。ここから見える裏側の通りのビルに、デカイ空き巣グループの潜伏情報があってな……」

「昼飯んときに話していたやつっすね」

「ああ、最初はオーナーフロアの九階に行ったんだけど、出て来たのはおじさんだった」

 エレベーターフロアには大きなビルサインと、右手に各階のポスト、左手に一階の中華屋の入り口のドアがある。


「捜査にご協力を、って話をしてたら、彼女が奥から声をかけてきた」

「……どんなふうに?」

「捜査三課だって話してたら、名刺を頂けますかって声が」

「声だけなんすか」

「いや、最初は手首だけで。ぬぅ、っとさ。――たぶんそうして奥で名刺を見てから出て来たんだ」

「へえ、なんか怖ぇ」

「俺もちょっと驚いたんだけどな。でもまぁ、よく考えたら本当に警察かどうかを疑ってたんだろう」

「まぁ、そう――でしょうね」

 エレベーターのボタンを押して、鵜野はそのころのことを思い出すように表示の昇降を見ている。

 合鴨は、スーツのなかに微かな震えを感じた。

 かすかな、とても小さな、静電気よりも些細ななにかが肌を張った気がした。



 エレベーターの扉が音もなく開く。

 なんとなく、二人は無言で乗り込んだ。


 特別綺麗でもない、緩衝材代わりの壁紙を張った薄茶色の箱がゆっくりと移動して――二階で止まる。

 す、と、扉が開く。



 まだ昼をすこし過ぎたところなのに。――そこには、ほんのりと赤く、昏い空間があった。


「どうやら、お招きいただけたようだな」 

「……無いのに――在る、か」

 深いっすね、一言いうと合鴨は鵜野の背中を追って そこ へ足を踏み入れた。









2-


朱鷺雄トキオ、今度のライブっていつ?」

 ギターケースの中身をなにやら掻き混ぜている背中に、控えめな声がかかる。 


 赤いキャップの鍔が後頭部にくるようにかぶった青年は、黒目がちな目をぱちりと瞬いてから笑った。


「――えっとね、来月の中旬くらい」

「けっこう先だねー」

「ごめんね、ちょっと色々やることあって」

「大学?」

「それもあるけど……」

「え、まさか彼女――!」

「はは、ちがうちがう、」

 花柄のスカートをゆらゆらさせながらすこしずつ近づく少女から一歩引くと、青年はケースのなかから紙切れを出して渡す。


「なにこれ?」

「今度のフライヤー。十枚あるから、友達に配っといてくれる?」

「……わかった」

 人のはけた、ライブ後の雑多な空気にまぎれて転換時に掛けていた曲は今もまだ掛かったままだ。

 重低音の聞いたハードな調子。

 ライブ中ほどではないしろ耳の奥には、ドン、ドンと衝撃が加わる。



「ありがとね、今度ライブんとき舞台のうえから、なんかハンドサインするから」

「え! じゃあね……あたしが手振ったら、投げキスしてっ」

 急に目の色をかえた少女に苦笑すると、朱鷺雄はうなづく。


「わかった。約束ね」

「絶対だよ!」

「うん、絶対ね」

 嬉しそうに一度、朱鷺雄が差し出した手のひらに一回り小さな手をぱちん、と合わせ少女は出口に向かって駆けて行く。




「――モテモテじゃないの、朱鷺雄ちゃん」

 舞台の向かいにある音響ブースから出て来た男が声をかけてくる。

 ガタイの良い長髪を束ねて、カーキのティーシャツが汗で湿っている。どことなく不潔そうな風体だ。


須藤スドウさん、今日もありがとうございました。――たぶん来週には違う奴に同じこと言ってますけどね」

 またケースのなかをごそごそとやりながら伏せられる視線を、須藤と呼ばれた男が腕を組んで見守る。


「そうかねえ、あの子は前も来てたじゃないの」

「……そうでしたっけ」

「今日は打ち上げ出ないで帰るのか?」

「用事があるんです」

「あの子より大事な、か」

「そうですね」

 段々と温度を失っていくようなその声に、須藤はすこし寂しげにかるく目を閉じる。


「なぁ、朱鷺雄。メジャーデビューの話ってどうするんだ」

「メジャー?」

「違ったっけ?」

「違いますよ。そうじゃなくて、まだアマチュア同士だけど地方含めたツアーやろうって話が来てて……」

「参加するのか?」

「……いえ、」

「すれば良いじゃないか」

「――色々あるんですよ、ホントに」

 どことなく心配そうな声色に、朱鷺雄はギターケースの留め金をぱちんと閉めながら須藤のほうを向いた。


「いまどきギターボーカルでお呼びがかかるなんて珍しいだろ。行っとけって」

「言ったでしょ、これは趣味なんですって」

「少なくとも――趣味でやってる奴の演奏じゃねえけどなぁ」

「……先生が、良いんですよ」

「そんなんいるのか。誰? 俺の知ってる奴か」

「――へへ、俺だけの先生ですから。秘密ですよ」

「……ほう、お前がそんな顔して笑うの初めて見たな」

「そうですか?」

 朱鷺雄はギターケースを背負うと、ダッフルコート生地の肩の部分がケースのベルトに詰まるのを直しながら言う。


「まぁ、お前が納得してるなら別に構わねえんだけどな。次回も楽しみにしてる」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 朱鷺雄はそう言ってキャップを脱いで器用にベルトに括ると、ポケットから出したニット帽を被る。ぺこりとお辞儀をしてから、防音扉の重たい取っ手を上にあげる。

 その姿は、ほどなく表へ続く昇り階段に消えた。



「朱鷺雄、帰ったんですか」

 入口を見つめていた須藤に、ブースの奥から声をかける男がいる。


「ああ、なんか――」

「どうしました?」

 ブースの小窓から顔を出した男は金髪で、須藤より多少、小奇麗なシャツを着ている。

 

「……変な女に捕まってないと良いんだがなぁ」

「え? いつも来てる子が彼女じゃないんですっけ」

 須藤が渋い顔で首を振ると、金髪の男は何か察したような様子で口をつぐむ。


「そうだと思ってたんだけど、全然違うみたいね」

「なんで解ったんです?」

 ブースから抜けだした男は、須藤の近くにやって来て尋ねる。

 首から下げたパスケースのなかのスタッフカードには藤野フジノと書いてある。


「あいつ今日、タートル着てたでしょ?」

「ああ、そうですね。暑そうでした」

「ここのさ、首の付け根んとこ」

「よく見えましたね」

「なんか、ケースごそごそしてたから隙間からね……」

 無精で生えた顎鬚を撫でながら、須藤は語尾を濁す。


「……なんです?」

「なんか、すっごいキスマーク?」

「えー、意外だわ。まだ子供みたいな顔して、カタギじゃないお姉さんとでも付き合ってんのかな」

「いや、なんつーか。キスマークというかさ、」

「違うんですか?」

「こう、歯型?」

「……」

「無言はやめてよ」

「聞かなきゃ良かったって思って……今の若いやつってすごいんすね」

 ばつの悪そうな顔をする須藤を横目に、藤野は腕を組む。


「いやぁ、なんていうか……そういう色っぽいやつなら、別に良いんだけどねぇ」

「えー、止めときましょうよそこまで踏み込むの」

「別に無理してるふうでもなかったしなぁ」

「じゃあまぁ、たまたまってことで良いんじゃないすか」

「そうね」

「そうそう、好奇心旺盛な男なんでしょう、あんな無害そうな顔して。よく女の子連れて便所にこもるのも今度注意しないといけませんかね……」

「いやでもあれは、すぐ出てくるからシロって話になったじゃないよ」

「――早いだけかもしんないでしょ」

 やだやだ、とか言いながら藤野は奥へ引っ込んでいく。

 須藤はそれを追いながら、もう居ないと解っていながら朱鷺雄の姿を階段のあたりに探す。


 けれどそこにはもう終演後のさびしさと、チケットの切れ端くらいしか残っていない。

 奥から藤野に呼ばれて、須藤はやっとそちらに向けていた意識を完全に戻した。









3-


「センセイは、今いらっしゃらないんですよ」

 眼鏡をかけた小柄な女性が、そう言って二人を中へ招く。


「――お手紙を、差し上げたと思うのですが」

 鵜野が言うと、女性は首を傾げる。

 後ろでまとめられた黒い髪がそれに合わせてゆるくゆれる。


「あら……。そうでしたか」

「聞いていらっしゃらないですかね?」

 合鴨が鵜野の背後からそう言って、思案顔の彼女を見る。


「私は、常にこちらに居るわけではありませんから」

「そうなんですか。……いつ頃、戻られるかは」

「あいにく、解りません」


 女性はそう言うと、二人に背を向けて奥のほうへ行く。

 その様子をうかがうように覗きこむと、エレベーターのエントランス部分の向かいはすぐに非常階段へ通じる扉があって、左手には水道のメーターなどが入っているだろう締め切りの金属の扉、彼女が入って行った右手にフロアは続いているようだ。


「なんだ、とくに恐ろしい場所じゃないですね」

 合鴨は呟く。

 とくべつ誰に、というわけではなくて、ただそう言って自分に聞かせているような。


 入ってすぐ右手にあるちょっとしたスペース軸にして、二階の間取りは比較的縦長に続いている。

 表通りに伸びた座敷側と、裏通りに伸びた厨房側だ。


 裏通り側の単純な厨房の間取りより、座敷側は間取りが込み入っている。

 入ってすぐに一段高いところに掘り炬燵式式の座席が二対ある。

 そして、そこに入るには床から天井まで覆う本棚のあいだに設けられた出入り口を通る仕様だ。


 合鴨は物珍しそうに、きょろきょろと辺りを見回していると鵜野がそれを制する。


「あんまりきょろきょろすんなよ」 

「あ、すんません。なんかちょっと居酒屋みたいだなって思って……」


「ああ、まぁ確かに。場所柄的にレトロモダンってイメージだったけど、この本棚とか日本酒の一升瓶とか入ってるあれみたいだよな」

「そうですよね、そうそう、これ居酒屋だ」


「ここ、元々は居抜きの物件なんだそうですよ」

「あ、じゃあ前は居酒屋だったんですか」

「みたいですね」

「なんだ、やっぱりそうなんだ」

 奥に行った女性が戻って来て、そう二人に言う。


 掘り炬燵のスペースに上がればそれなりに広さがあるがら、三人が向き合って立つには本棚脇のスペースは狭すぎるのだ。


「……お待ちになりますか?」

「ああ、そうですね。よろしいですか」

「すぐには、いらっしゃらないと思いますが」


「待たせて貰うのは大丈夫なんですか」

「ええ、営業時間内であれば。――十七時までですね」

「わかりました」

 女性はかるく腕時計を見てから言う。

 頷いた二人は、かるく目を視線を合わせて座敷にあがる。



「ちなみに、なんですが」

「なんでしょう」

「貴方のお名前を、うかがっても?」

 鵜野の言葉に、女性は首を縦に振った。


春日 絢子カスガ アヤコと申します」











4-


「ただいま――あれ、居ないの?」

 ガチャリ、と施錠の音とともに、朱鷺雄はギターケースをせまい玄関の靴箱の横に置いた。


 キッチンとは名ばかりのコンロの置いてある廊下を突っ切り、ユニットバスをかるく覗き、リビングの電気を点ける。


 小さく四角い部屋には二面の窓とそれに掛かった分厚いベージュのカーテン、壁にくっついたまま何年も動いていなさそうな、飾り気ないシングルのベッド以外にはとくに目を引くものがない。


 ビニールの袋に二つ入った弁当を床に置くと、毛糸の帽子とダッフルコートを脱ぐ。

 窓につるしてあるハンガーをとってそれを吊るすと、朱鷺雄は着ていたティーシャツに両手をかけながら風呂へ向かう。


 ドアの前に置かれたオレンジのカゴにそれを落とすと、がしゃと音を立てて風呂の扉を閉める。

 シャワーカーテンを引く。

 そのままさぁさぁと湯の流れる音と、湯気が室内に漂った。


 朱鷺雄の髪からタバコの匂いが一度漂い、風呂桶の排水溝へ流れていく。


   

 シャワーから出る湯が朱鷺雄の顔にあたり、閉じた目から頬を辿るように流れが出来る。

 長いまつ毛が濡れて、鼻筋から唇をなだからに滑り落ち、顎のあたりから透明に滴っていく。


 足元にびしゃりびしゃりと湯のかたまりが落ちて、湯気が立ち込める。

 鏡が曇っていて、しばらくすると一筋ずつ雫が出来て、それが膨れきってしまうと反転した世界を滑っていく。


 滑って行った水滴の跡だけ、鏡のなかに映る世界が輪郭を取り戻す。

 



 





 ――はぁ? 打ち上げに来ないって、お前最近付き合い悪すぎだろ。


 悪い。でも最近本当に忙しくてさ。


 メインが居ないのに飲み会やっても来てくれた人に悪いだろ。



 メインって……。そんな大層なもんじゃないよ。



 皆お前が来るっていうから、明日仕事の子も残ってくれたんだぞ。


 今日は、元々行けないかもって言ってただろ。


 



 



 シャワーをすこし強めにして、温度を上げる。

 散らばる湯が、耳障りな音をたてて湯船に跳ね落ちる。





 


 行けないかも、って言ってたから、だと。……ツアーの話もノッて来ないし、お前どうしちゃったんだよ。


 どうもしてないよ。本当に、そんなに何日もバンドのために時間が割けないんだ。


 皆楽しみにしてるんだぞ? ……すこしで良いから来いって。


 今日は帰るよ。急いでるんだ、本当に。






 

 きゅ。

 シャワーを止める。





 長袖のティーシャツとジャージのズボンを簡単に身に付けたあと、バスタオルを無造作に頭にかぶり、朱鷺雄はリビングへ戻ってくる。

 床に置いたままの弁当を見下ろしながら、窓のほうへ進みカーテンをすこしだけ指でよけるようにして外を見た。






 すこし遠くに見えるビル群の上についている赤いランプが、やけに鮮やかだ。

 しばらくそれを見つめて、朱鷺雄は目を閉じる。

 窓枠に額をつけるようにして、身体を寄せるようにして。





 


 わかった。……お前にはもう期待しないよ。


 そうしてくれると、助かる。










 ――ガチャリ、施錠の音。

 静かな部屋に、それはやけに大きく響く。


 振り返った朱鷺雄の目のなかに安堵の色が浮かんだ。

 まるでその光彩がひらめいたかと錯覚を起こしそうなほど、ひどく鮮やかに。



 









5-

 

「この画像に映っている人、ですか」

 絢子は合鴨が向けた携帯の液晶を覗きこんでそう言った。

 眼鏡のガラスに、鈍く発光した画像が映り込む。




 その黒い画面には、浮かび上がるようにほの昏い赤。

 写真の中央に、その色の球体のようなものが在るからだ。

 

 すぐ後ろに、赤いパーカーを来た人物がいた。

 恰好はいまどきの、ジーパンにウォレットチェーンのつけたパンクふうの洒落っ気のあるものに見えるが、問題はその表情だった。


 まるで、こちらを――糾弾するような目つき。

 いまにも噛みついてきそうな威勢だ。

 しばらくはその真白い肌と、その目の印象しか残らない。


 件の赤い球体はその人物にまとわりつくようにして、画像のなかに尾っぽのような余韻を残している。



「くわしいことはまだお話できませんが」

「我々は、貴女が“センセイ”と呼んでいらっしゃるかたにご意見をうかがいに来たんです」

 鵜野が携帯を胸ポケットにしまうと、合鴨が絢子の顔を見て言う。


「この人について、ですか?」

「そうです」


「なぜ」

「この人物が、聞きたいんです」

「はぁ……」

 鵜野の言葉に、絢子は困ったように首をかしげた。


「鵜野さん、その説明じゃ解りにくいと思いますけど」

 合鴨が横からそう突っ込むと、鵜野は大きく息をつく。


「ああ、まぁそうなんだけど。どうにも、これしか言いようがなくてだな」

「――この際なので、俺も聞きたいんですけど。いくら一度こちらで捜査協力をしてもらったからって、ただ部屋を提供してくれただけの人にこんな情報を流す必要があるんですか?」

 合鴨の言葉を、絢子は机の向かい側でじっと聞いている。


「内偵は済んでるからな。あとは確証が欲しいんだよ」

 鵜野は重苦しい口調でそう答える。


「だから――からじゃないですか」

 絢子の視線が眼鏡の奥で、合鴨の言葉を一つ一つ捉えるように動いた。


「違う」

 鵜野が言う。


「なにが違うんですか」

 らちがあかない、合鴨が呆れた顔をする。


「疑いようのない肯定が、必要なんだ」

「……そんなの、あるわけないでしょう」

 二人の言葉を、絢子はじっと見ている。


「一年半前の捜査のとき、窃盗団がそこに現れる可能性は低かった。ダメもとで、一か月近く張ってた。彼女とは、そのあいだほとんど会っていない」

「……じゃあもう――夢でも見てたんじゃないですか」

「ただ、一度だけ。張り込みの最後の日……彼女が扉の前に現れて言ったんだ」

「そうですか。……なんて言ったんです」


「奴らはここに、でしょう。――って」

 合鴨の目を見て、鵜野が言った。



「……だから来たって言うんですか? それがあったから、内偵済んでる奴のことをわざわざ一般人に聞きに?」

「そうだ」

 合鴨は、あからさまに鵜野から目を反らす。


「――バカバカしい。鵜野さんってほんと、ちょっとアレですよね。何の意味があるんすかこの行動に」

 そのうち手帳取り上げられますよ、と合鴨は呟く。



「――この内偵が事実なら、手帳なんて何冊あっても足りないからな」

「……まーた機密事項っすか。俺もう新人じゃないんですけどね」

 鵜野の静かな様子に、合鴨はまだ納得のいかなさそうな表情でそう詰った。


「大事なお話を聞かせていただいておいて恐縮ですが――」

 絢子がふいに口を開いた。



「ああ、すみません」

「あ、俺もつい」

 そちらへ意識を戻した二人に、いえ、とかるく頭を下げると絢子は控えめに笑った。



「差し出がましいようですが。そのご様子だと――センセイはまだしばらくと思いますよ」




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