好意と脅威


「ミラノだったらスフォルツェスコ城に一度は行きたいですね。

レオナルド・ダ・ヴィンチがこの城の改修に携わっているんですよ。

他にミケランジェロの未完の彫刻があったり、ルネサンス芸術全盛期を感じさせる装飾の数々、これは本当に見ものなんです」


話し終え、高宮瑞希をみれば、呆気に取られたようにぽかーんと口を開けていた。


『ミラノにも城ってあるの?』

そんな問いに対し、答えた結果が今のこの有様。


「そんなに……お城の事が好きなんだね」


高宮瑞希は感心したように頷いていた。


「父からはくだらないと言われてますけど」


そう父は古城研究をくだらない。との一言で片付ける。

高宮瑞希は私の手元にある地図を不思議そうに眺めている。

今、見ているのはチェコで最も美しい白亜の城館フルボカー城の城内図。

これは久美教授が手に入れた地図をコピーさせてもらったもの。

柱の数や、扉の数、何世紀も前に作られた建築資料の一つ。


「城って名前の割に、塔とか少ないんだな」


そうフルボカー城は城と言うより城風の館。

莫大な財力で施した豪華な装飾や調度品、表は白亜で裏手に周れば黄色い細い柱が城を囲み、鉄の装飾がレースのように柱を飾っている。


そして外にはバラ園。

見事なイギリス庭園が広がっている。

観光客はツアーに申し込まないと城内を見る事は出来ない。

そしてツアーに鍵係という人が一緒について周る。


そう、一つ一つの部屋を開けながら見学する。勝手にうろつけない、厳重なルールが

存在する。

高価な調度品が多い事がそのルールをもたらしている。

城館内は木がふんだんに使われていて、木彫りの装飾があちらこちらに存在する。

ベネチアンガラスで作られたシャンデリア、フルボカー城周辺で猟をした獲物のはく製。

武器を並べた部屋、高価なタペストリーの数々。


どこを見ても歴史を感じさせ、中世の世界へと誘ってくれる。


「本当に好きなんだな」


高宮瑞希の声が真横から聞こえた。

声がした方に顔を向けると、すぐ目の前に高宮瑞希のドアップが。


「っ、ちかい、ですけど」


彼の鼻先は私の眼下。


「ねぇ」


彼の吐息が私の顔にかかる。

その声に惹かれるように顔を上げれば……。

彼の前髪が私のおでこに触れ、柔らかいものが唇に触れた。






キスをされた。


そう気づくのに数秒かかった。

ただ触れるだけのキス。



時間にすればゼロコンマ何秒の世界。

でも、私の中では何十秒にも感じ。

彼はふっと笑い、自分の席に戻って行った。



私は彼が触れた唇を無意識に指で触っていた。



不快感はなかった。

それに驚き、そして思い出した様に、彼が触れた唇を隠すように手で覆った。







あの忌々しいキスを思い出してしまったから。


あれは中学3年の夏。

一人目の家庭教師に恋をし、その人が母の情事の相手だと知り母も家庭教師も信じられなくなっていた時だった。

一人目の家庭教師と別れた母が、連れてきた二人目の家庭教師。

国立大の4年生だった竹田真(たけだまこと)先生は就職活動が終わり、無精ひげを生やし、お世辞にもキレイとは言えない身なりの人。

少しマッチョで体育会系な感じだった。


母の相手にしては汚すぎる。

だから安心していたのかもしれない。


一学期の成績は家庭教師がついたお陰で上がっていた。

私立のエスカレーター女子学校だから成績が余程悪くない限り高校にはそのまま進める。

でも、学校が夏休みに入った今、新しい家庭教師をつけられた意味に困惑していた。

午前中はピアノやバレエのお稽古事、午後は家庭教師が全教科を見てくれる。

夏休みなのに私の自由時間は無かった。


竹田先生は口数が少なく、赤ペンを指先でクルクル回しながら、私の勉強を隣でみている。

間違った場所を持っているペンでチェックをいれ、そのペンをまた指先でクルクルと回す。


会話らしい会話などなく、ただ勉強するだけ。



3時に母がお茶を持ってくる。

そのタイミングで私は息が詰まる部屋から脱出する。

トイレに行ったり、キッチンで冷たいジュースを飲んだり。気分転換をしていた。

その日はいつもより早く部屋に戻ってきた。


それが間違いだった。



自分の部屋のドアの手前、人の話声が聞こえてくる。

まさか母がまだ部屋にいるとは思わなかったから、先生が携帯で電話でもしているんだろうと思い、話しが終わるのを待つことにした。

でも、ドア越しに聞こえてくる声は男性と女性のもの。

そしてそれが母と先生の会話だとすぐに分かる。


嫌な汗が背中をすーっと流れる。


母が好きなのは知的でスマートな男性。

竹田先生は明らかに母の好きなタイプじゃないはず。


でも、部屋から聞こえてくる会話は卑猥そのもの。

私の勉強が終わったら、部屋に来て。そう母は先生に言った。

そして先生は、自分で軽くほぐしておけよ。そんな風な事を言っていた。


そして目の前のドアが開き、頬を赤めた母が出てきた。


「あら、戻ったの?ちゃんと勉強しなさいよ」


白々しく言う母の唇はリップがはみ出している。


「あ、うん」


母の顔を避けるように部屋に入れば、先生が面白そうな顔を私に向けていた。

その顔にはみたくない証拠がしっかりとついている。

わざと先生にティシュを渡し、ついてますよ。と教えれば、悪びれることも無く唇を拭いた。


「オマエもして欲しいの?」


先生はティッシュを私に見せながら言った。

意味が分かんない。

私は無視し、机の前に座り教科書を開いた。

途中まで進めていた公式を解くために。



「オマエ処女だろ?」


耳元で先生の声がする。

あまりにも近すぎる声。意識していなくってもドキドキしてしまう。

でも、それを隠すように平常心を装い、公式に没頭した。


「あははは、オマエも母親に似て淫乱なんだろな」


先生が発した言葉に思考と身体が止まる。

母と同じ?

それはない。


絶対ない。



睨みつけるように先生の方を向けば、イヤラシイ笑みを浮かべる先生が私を見下ろしていた。


そこからはどうしてどうなったのか。

気づけば床に押し倒され、先生は私の上に馬乗りになり……。


顔を手で固定され、先生のザラザラした舌が私の口内を侵入し……。


『気持ち悪い』そう感じるキスをしてきた。



舌が口内一杯に侵入し、息も出来ない。

先生の唾液が口の中を一杯にして、飲めるはずもなく唇の端から零れ流れる。


私のファーストキスは気持ち悪いキス。

知らない生き物が口の中で暴れ、私を苦しめる。

吐き気が襲ってきても先生は私を離さない。



唇の端から零れた唾液は私の首を伝い、床へと流れる。

それは涙と一緒に流れて行った。


それから、私はキスが嫌い。

むしろ男性が嫌いになった。


キスは素敵なモノで、レモンの味。そんな乙女チックな幻想を抱いていたけど、実際は気持ち悪く、息苦しい。


高校生になり、告白されて付き合った事もある。

でも、あのキスがよみがえり、鳥肌がたつ。

だからキスもさせない私に愛想をつかした彼らは、私を振る。


恋愛なんて出来ないと思っていた。



でも、高校 三年生の夏、好きだと思える人が出来た。

私のキス嫌いも理解してくれようと努力してくれた。

そして、ただ手を繋ぐだけで満足してくれた彼。


この人となら。そう思ったけど……。

学校の帰り道、一緒に歩いているところを父に見られていた。


そして帰宅した私に父は、『婚姻は会社の為にある。オマエの将来は会社の為にあるんだ。そして絶対に処女でなければいけない』そう言われた。


『もし、処女じゃなくなったら、その相手を地獄だと思う所まで突き落してやるからな』

父はそう私を脅した。


好きになった人。

でも、父は言いだしたら聞かない。

私は彼から引き離されるように、父の独断で短期留学をさせられ、彼とは自然消滅という形で終わった。



私の恋愛はない。

そう思い今まで過ごしてきた。






でも、今された触れるだけのキス。

嫌な感じがしない。

むしろ私の中に何かが飛び込んできたように、心が温かくなった。

なんで高宮瑞希は私にキスをしたんだろう。


考えても分かる訳もない。

きっと何かの気の迷い。


女性経験が豊富だと梅ちゃんが言っていた。

きっとキスも挨拶の一つ。



そう、きっとそうなんだろう。

その証拠に、高宮瑞希は私の方を見ない。


そしてキスについて何も言わない。


ただ触れてしまった。

そう位置づけるしかなかった。



12時間のフライトはあっという間だった。

隣に座っていた高宮瑞希は8割寝て過ごしていたし、私は誰にも邪魔されず、久美教授が書いた本を熟読できた。


ミラノについてから高宮瑞希と一緒に簡単な食事をとり、私はプラハに向かって旅立った。


チェコでの10日間は素敵な時間を過ごせた。

久美教授の口利きにより、普段入れないような場所まで見学させてもらい、閉館になった後じっくりと部屋を調べられると言う特典までついていた。


10日間という長いようで短い時間、私は最高に幸せで充実していた。

そのツケが帰国してから私を襲う事など、疑いもせず。








私は身売りされる。



伊波物産が負った負債と相殺される事となっていた。




チェコからの帰路はウィーン経由で成田空港へと降りる。

隣には久美教授が古い重い本を辞書片手に翻訳している姿。

大学時代何度もみたその姿がそこにあった。


成田についてすぐに携帯が鳴る。

ディスプレイには父の秘書の名前。

久美教授に断りをいれ、電話にでれば迎えに来ているとの事。

それを久美教授に伝えると、彼女もまた迎えが来ていると言った。


素晴らしい時間を過ごせた感謝の言葉と、ミラノで買ったガラスビーズで外装されたクラッチバックを渡した。


「あら素敵ね。ありがとう今度のパーティーで使わせてもらうからね」


久美教授に沢山の御礼を言いながら、父の秘書が待つ駐車場へと足を進めた。

父の車、後部座席のドア前に立つ父の秘書。


大きなスーツケースとお土産一杯の袋をトランクへ積め、開けられた後部座席に身体を滑り込ませれば、いつも以上に仏頂面した父がそこにいた。



「あれ?お父さんどうしたの」


わざわざ私を空港まで迎えに来ることなんて一度もなかった。


「ああ、オマエに話があってな」


嫌な予感しかしない。

車は秘書さんの運転で走り出す。

父は前を向いたまま何かを考えているようだった。

車は自宅とは違う方向へと進む。


「あの、私疲れているんだけど。どこに行くの?」


時差のせいか、身体がとっても重い。


「ああ、これから見合いをしてもらう」


見合いね。



……え!

お見合い??


「ちょ、ちょっと待ってよ」

「いや、待たない。もうこれは決まった事だ」


私の抗議など合って無いようなモノ。

父がいつも使うホテルで相手が待っているという事だった。

旅行帰りの私はボロボロ状態。


「椿が用意して待っている」


母がホテルで待機しているらしい。

きっと母好みのド派手なドレスを用意しているんだろう。



分かっていた事。

こうなるって、


いずれはこうなるって。






でも、

でも、あまりに理不尽。

父は無言になり、車内は重い空気を帯びている。


ぼーっとしたまま車窓を眺める。

先ほどまで感じていた幸せは泡となって消え、現実が迫ってくる。




急な見合い話。

もしかしたら急な話でもなかったのかもしれない。

私が知らないだけで、進められていた話かも。


私の生活や結婚、それらは全部父のモノ。

ううん、伊波物産のモノなんだもん。




車がホテルにつくとドアマンがさっとドアを開ける。

バック一つ持って中へと入れば、ホテルの従業員が私をエスコートし最上階の部屋へと案内してくれた。


「あら、相変わらずもったりしてるわね」


優雅にソファーで寛ぎお茶をする母がそんな事を言っていた。

母のおしゃべりに付き合う気力は今はない。

言われるままシャワーを浴び、ドレスに着替える。


ホテルの美容師が私の髪を弄り、化粧を施す。

マツゲは増やされ、真っ赤な口紅が塗られる。

鏡に映る私は、どこかの水商売の女の人みたい。


ざっくりと胸元が開いたブルーのドレスは、あきらかに母の趣味だろう。

膝上15センチのミニドレスを着た私は、身売りされるために着飾らされる。




「あら、いいじゃない。これで迫れば男はイチコロよ」


母の言葉に、売られていくことを実感した。

全ての用意が整い、父が先頭を歩く列の最後尾について行く私。

まだ午前中の明るい時間。

ケバケバした化粧と洋服、私を相手はどう思うんだろう?


父がいつもなら有り得ない程、ペコペコと頭を下げながらレストランの個室へと入って行く。

母は上品そうな笑顔を相手に向けていた。


「ほら、すみれもご挨拶なさい」


母の声に目を上げれば、ガマガエルがスーツを着ているのが目に入った。


「い、伊波すみれです」


相手に聞こえるか、聞こえないか。そんな小さな声しか出なかった。


「おやおや、可愛らしい御嬢さんですね」


ツヤツヤとした顔をハンカチで押さえながら、でっぷりとしたガマガエルの様な男性が目尻を下げながら私の全身を隈なくみている。


不躾すぎる視線。

それを父も母も気づいている癖に何も言わず、ただ愛想笑いを浮かべている。


「じゃ、後は二人でゆっくりと」


父は当たり前のように母を伴い、この部屋から出て行ってしまった。


「ほら、すみれさん。座って一緒に少し早いがランチをしよう」


ガマガエルはそう言いながら呼び鈴を押し、ウェイターにオーダーを告げる。


「まだ早い時間だけど、少しくらいはいいよね?」


そう言い、シャンパンを頼むガマガエル。

私の事など、気にもしない。

そして私も言われるまま、グラスに口をつけ、食事をする。

ガマガエルは金融関係の会社を5つも経営しているらしい。

その全ての会社から伊波物産へ融資をする。


そんな条件がこの結婚についているらしい。

ガマガエルから伊波物産の状況を聞く事になるとは思っても見なかった。


10年前に官庁が手を引いた案件が今の伊波物産を苦しめている。そうガマガエルは言っている。


「すみれさんみたいな若い奥さん、みんな羨ましがるだろうな」


額の汗をハンカチで押さえながら、ガマガエルは嬉しそうに言った。


「結婚したら、好きに過ごしていいからね。なんでも買ってあげるよ」


私は物欲に溢れた女に見えるらしい。

47歳のガマガエルは離婚歴が2度あるらしい。

子供はおらず、作る気もない。


「でもボクは絶倫だから、若い奥さんの方が体力合っていいよねぇ~」


キモッ。

こんなガマガエルに抱かれるくらいなら死んだ方がまし。


「すみれさんは処女なんでしょ?」


私の思考が停止する。


「ボク、処女って初めてなんだ」


ガマガエルはそれは嬉しそうに涎を垂らさんばかりに私を見つめていた。


「君のお父さん、本当にやり手だよね。君の処女。かなり高く買わされたんだから」


分かっていた事。

ショックを受けるまでもない。

でも、

でも、胸が痛い。


私は私のはずなのに。

選ぶ自由もなく、売られる。


こんなガマガエルみたいな人、絶対に嫌なのに。



「さ、話はこのくらいで……」


ガマガエルはのっそのっそと私の方に歩いてくる。

いや、来ないで!!


「ちょっとくらい味見させてもらいたいなぁ」


ガマガエルの手が私の肩に触れる。

虫唾が走る。

全身に鳥肌がたち、吐き気がしてくる。


強く、下を向き、拒絶を露わに。


「ははは、やっぱり処女って本当なんだね。可愛いなあ」


ガマガエルは私の足元に膝をつき、私と同じ目線になるように屈んでいた。


「ほら、こっちをみて」


ガマガエルの手が私の顎にふれ、無理やり顔を上げさせられる。


「ああ、本当に可愛い」


ガマガエルがどんどんと近づいてくる。

嫌だ!!





助けて……瑞希!!

瞼の下に浮かぶは高宮瑞希。


彼の笑顔が浮かんだ。

力を振り絞り、顔を後ろに引く。

するとバランスを崩したガマガエルは私の顎から手を滑らせ、椅子の背もたれを掴んだ。



「ああ、本当に恥ずかしがり屋なんだね」


ガマガエルはそう言いながら、私を舐めるように見た。


「こんな所に……これは美味しそうだね」


ガマガエルは私の胸を見つめていた。

ざっくりと胸元が開いたドレス。

胸の谷間に釘づけになるガマガエル。


「そんなに強調されたら、ボク我慢出来ないよぉ」


気持ち悪い甘い声を出しながら、私の胸に顔を突っ込んできた。


「い、嫌!!」


そんな私の声は宙に浮き、ガマガエルは私の背中をシッカリとおさえ、胸の谷間に顔を埋め……ザラザラとヌメヌメとしたものが胸を湿らせた。


「はぁ、美味しかった」


ガマガエルは満足そうに顔を上げた。

先ほどまでガマガエルの顔があった胸元はテカテカと光っている。


「これ以上はココじゃ無理だから」


ガマガエルは、また今度ね。とウィンクする。


「すみれさんは合格だよ。君にならいくらでも出すよ」


ガマガエルはそういい、席を立ち部屋を出て行った。

テーブルに置かれているオシボリに手を伸ばし、テカテカと光っている胸元をヒリヒリするほど擦る。

ガマガエルの唾液と汗が、ドレスに染み込み、マダラになっている。





そこに私から零れる涙が合わさり、ドレスは水玉模様となっていった。



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