狼と太陽のトキメキ

じんくす

狼と太陽のトキメキ

「街路樹ってね、毎日見ていても、当たり前に素敵で、見上げちゃって、だからよくつまづくんだけどね。それにこのクリスマスのイルミネーションだもの。今日が最後だなんて、名残惜しいなぁ。しっかりと、このピカピカであったかい景色を、次のクリスマスまで、覚えておかなくっちゃね」


 夜の光輝く歩道路をゆっくり歩く、君が言った。


「この道は混むから、車の人は大変だよね。でもほら、クリスマスカラー。イライラでチカチカって点灯させる真っ赤なランプだけど、きれい」


 歩道橋の真ん中で急に立ち止まって言うものだから、後ろのカップルの歩調を乱してしまい、僕は、「そうだね」と、君の背中に手を添えて、端に寄って、道を開けた。


 あっ、と、君も気がついて、通りすぎるカップルに「ごめんなさい」と、お辞儀をしあって、僕を見てまた、「ごめんね」と、ささやいた。


 君はまだ、左右に輝き並ぶ街路樹と、真ん中を通る道のテールランプが織り成すクリスマスイルミネーションが名残惜しそうで、そこから動けない。


「何時に、イルミネーションは消えちゃうんだろうね。消えてしまうまで、ずっとここで、眺めていたいけど、その瞬間って、凄く悲しくなっちゃうと思う?」


 具体的な答えを出せない質問を、君はよくなげかける。


「その前に、君は寒くて音をあげて、最後を見ることはないよ」


「ふふ。私もそう思う」


 君は目を細めた。


 今回は、まずまずな、答えかな。




 君はいつだって、素敵なおとぎ話のプリンセスだ。


 君の物語を壊さないよう、僕は緊張してしまう。君みたいに、世の中を綺麗に見ることはできなくて、すぐに汚らわしい部分を探して、見つからなくてもいいのに、見つけてしまう。街路樹のイルミネーションなんか、税金がかかってるんだから、さっさと消えてしまえばいいし、消えてしまえば、葉っぱなんかすっからで、カサカサで、痩せ細った不健康で泥色の肌をした素っ裸に見えて、この間なんかはよっぽど酷いもので、立ち並ぶ様子から、地獄のガス室に送られる死の行列を想像してしまった。


 車に対して思う酷い考えは日常的で、こんなもの、忙しない人間の醜い気持ちが密集されたのが渋滞しているにすぎないし、一台に一人しかほとんど乗らないくせに、ガソリンを消費し続けるし、大排気量のアメ車なんて特に気が知れない。どう考えたって異常な商業車なんか、呼吸困難に陥りそうな悪どい排ガスを置いていく。無謀運転の末に、物や人を傷つける。これからの年末年始なんか、どれだけの飲酒運転が隠れ走ることだろう。この歩道橋のから見える中に、どれだけ殺人者予備軍がいるのだろう。それから、さっき見かけた黒い高級車。どんなに快適で速いのか知らないけれど、大層な車に乗っているくせに、運転手は太っていて醜くて、服装もだらけて、タバコを吸っては、おお寒い寒いという具合に数センチだけ窓を開けて、隙間から指で、ぽいっと火の消えていない吸殻を外に投げ捨てた。僕は運転席に寄り、コンコンと窓を叩いて、窓が開いた隙に、そいつが捨てた吸殻を車の中に投げ返したくて仕方がなかった。ここまで憎たらしく思うのは、昔、交通事故に巻き込まれてしまったというのもあるけれど、それより前から、車、正確には品のない運転手が大嫌いだった。


 君の隣で僕は、こんな惨たることばかり考えてしまうんだから、毒々しい僕の些細な言葉一つが、君を表情を強張らせやしないかと緊張するのは、仕方がないことなんだ。


 僕は、世の人間の中でも、特に低劣なやつだと、自分で認めている。でも、この世に生まれてくるものを愛おしく、尊いと思う心は、ちゃんとある。


 先日、ヨロヨロと歩いて、骨と皮だけになりかけている野良猫を見た。毛なんかばりばりでとっ散らかっていて、皮膚病にでもかかっているのか、所々が禿げていて、顔も酷くて、目やにがたまって瞳は淀み、もう、視力なんかろくに利いていなさそうだった。僕が近づくと、目じゃなくて耳で気配を感じて、ふるふると身構え、でも、逃げたりはしなくて、擦れた声で、「ひゃー、ひゃー」と鳴いた。人間の恐怖から身を守りたくも、もしかしたら助けてくれるかもと、猫は微かに期待もしているようだった。あんまりにも酷い様子だから、最後ぐらいうんと食べ物を与えてやるか、動けなくなってしまった馬や牛にするように、眉間に銃弾を打ち込んであげたいと思った。でも、食べ物も、当たり前だけど銃も持っていないし、せめて撫でて優しい声をかけて、震えを止めさせてあげようかと思って近づいたが、猫は恐怖が勝ったようで、ヨロヨロと茂みに入って、消えてしまった。ぽろぽろと、涙がとまらなくなった。今日、ショーウインドウの猫の飾り物を見て、あの猫を思い出し、もう、きっと死んでいるかもしれないと思い、目が涙で曇って、イルミネーションが万華鏡になった。


 僕が感傷的で優しいよ、なんてことを言いたいわけじゃあ、ない。僕は生きている限り、何かを見るたびに、どうしてか、悲しい出来事ばかりを次々と思い出して、連鎖して、辛くて辛くて、酷い時期は毎日、死んでしまいたいとさえ思った頃もある。みんなが呆れるほどの、後ろ向きなやつなんだってことを、分かってもらいたい。




 君は僕とは正反対。前向きで、おぎゃあと生まれた時から明るい未来が祝福されていたのか、不自由のない環境に恵まれたかは、分からないけれども、確かなのは、君の信じる心は、とにかく揺るがない。


 一日のはじまりから、正反対ではじまる。朝起きて、カーテンを開けて見た景色がどんよりと真っ暗で、冷たい雨が降っていたとしたら。僕は気鬱になって、まずは、交通事故で痛めた足の古傷が痺れ、足かせをしたような重苦しい一日が始まるなと構えるだけでなく、事故を思い出したり、それ以前や、それ以降の嫌なことも次々と頭に浮かんできて、酷い時は、もう一度ベッドに戻って、夢に逃げ出しすこともある。一方で君は、目覚めたらまず、恵みの雨に感謝して、滅多に身に付けられないレインブーツやアンブレラを使えるチャンスが訪れたと、無邪気に喜ぶのだ。


 つくづく人間は不平等で、世界平和なんてありえないものだと思うも、君は僕の側にいる。僕を選んでくれたのは、僕みたいな人間でも幸せにできると、君が深層で思ったチャレンジの結果なのだろうか。それは分からないけれど、君のお陰で僕は、陰湿な雨の朝でも、アンブレラを差して、レインブーツで水溜りの中を小躍りしたがっている女の子が同じ時間軸にいると想うだけで、雨の一日を生きたいと、強くなれる。


 散々、自分の心理を打ち明けたけど、僕は幸せな男だ。世界にうんざりする気持ちはあるけれど、毎日雨風を凌げる家があって、食べ物にも着るもの不足していない。交通事故のせいで不都合はあるものの、走ることだってできる。五体満足はありがたいことだ。僕は、普通なら多分気にしないような小さな小さなことだって、切なく想ってしまうけど、当たり前のことへの感謝を怠ってはいない。


 まぁ、要するに僕は、物事を壮大に誇張して考えてしまうだけなんだ。それは、君もだよ。ただ、僕はマイナス方向に大きくして、君はプラス方向に大きくする。磁石の極と同じだね。もしくは、凹と凸。ゆっくり優しく慎重に近づけば、これ以上ないってくらい強くしっかりとくっつき合う。けれども、勢いがありすぎたり、ちょっとでもずれたりしたら、痛かったり壊れてしまう。だから僕は、そうならないように、君の側で、緊張するんだ。


 君への緊張は、自分の心を偽るために起きる我慢じゃなくて、君を愛おしく思うトキメキだ。だから苦労なんてない。この先、五十年、いいや、きっともっと長生きができて、百年以上も君の側で緊張していたい。




 あぁ、しかし、我慢の苦労といえば、たった一つ、あった。

 そうして、クリスマスの今日は、その我慢なんかどうだっていいと、結構強気になっていたんだっけ。君のおとぎ話に出てくる、憎めないんだけど、やっぱり悪者だったというような狼になっても構わない。心はドキドキ、体はカッカしていてた。

 でも、これも僕にとっては、トキメキなんだ。







 街路樹が輝くメインストリートから横に伸びている、車は入れないけれど、それほど細くはない歩道路があって、人の往来は、道に詳しい人が抜け道にとたまに一人、二人といるくらい。道の真ん中に、等間隔に植え込みがあって、随分と先まで続いている。その道を進むと、ほんのちょっと道が膨らんだ箇所があり、真ん中に一本の木がちょこんと伸びていて、この時期だけのささやかなイルミネーションが施されて、クリスマスツリーになっていた。ツリーを囲むように植え込みがあって、僕らはそこの段差に、腰をかけていた。


 クリスマスツリーは、街路樹のケヤキと比べるのも恥ずかしいくらい控えめなサイズで、高さは、三メートルは無さそうで、身長世界一のビックリ人間ってくらいの丈だ。何の木だかは分からないけれども、モミの木のような綺麗な円錐型じゃあなくて、幹は細いし枝は四方八方に自由に伸びて、形状は円錐より球に近い。少し強めの風が吹けば、幹からゆらゆらする。


 赤いリボンがついたヤドリギと、多分、アダムとイブが食べてしまったという知恵の実をイメージしているんだろう、いくつものまあるいオブジェに飾られている。半透明のまあるいオブジェにはLEDが仕込まれていて、ぼんやりとした明かりが、周りを柔らかく照らしている。街灯なんかは少し離れているから薄暗い。地面のほうはよっぽど暗いけど、しばらくそこにいるものだから暗さにも目が慣れてきて、植え込みの茂みに隠すように捨てられた空き缶や小さな包装袋がいくつか、うっすらと見えた。明るい時間のここを知らないけど、昼間だったらはっきりと目立って、僕だったら、小汚い場所だと思う。


 カップルのために気を利かせて飾られた違いない、このツリー。でも、みんな街路樹のイルミネーションに夢中で、それに横道の随分奥にあるものだから、気がついてさえもらえずに、今日の最後まで勝手に光ってて、明日にはさっさと空しく飾りが撤去され、ただの小汚い場所の真ん中にある頼りない木に戻るのだろう。


 桜見を思い出した。たまに、たくさんからちょっと離れているだけで、ほとんど見向きもされない仲間外れの桜木がある。栄養不足で幹は細く背も低かったりして、でも一人前に花だけはしっかり咲かせているのに、誰も立ち止まって眺めてはくれない。小さいながら、魅力はあるはずなのに。


 可愛そうなこのツリーだけど、それが僕の“狙い”には好都合だった。程よく静かで周りに人の気配がないし、何より、このツリーにはしっかりとヤドリギが飾られているのが、1週間前にここをファーストキスの場所にしようと決めた一番の理由だった。まぁ、実際はそれなりに活躍してきたのかもしれないこのツリーだけど、偉そうに最後に大役を与えてやろうではないかと、他にもいくつかあったキス候補場所の中から抜擢して、「この辺りに、クリスマスツリーがあるの知ってた?」なんて言っては、ここまで彼女を導いたのだった。




 ヤドリギの下で君とファーストキスを…… 


 なんていうロマンチックをやってみたかったのに、君はずうっとツリーを見つめてうっとりで、僕はずうっと君を横目に臆病のままで、時が流れていく。


 ふいに、君が僕のほうを向いた。慌てて視線をツリーに逃がした。「綺麗だね」と、心にもないことを言った。キスに向かう方法をあれこれと考えて、頭の中は熱暴走寸前で、寒いに決まってるはずなのにダッフルコートを脱いでしまいたいくらい、暑い気がしていた。僕を見透かした君のクスクスという心の笑いが聞こえた気さえしてきて、いよいよ、蒸気を噴出すかもしれない。


 植え込みの段差に腰を掛け、ヤドリギを見つめる。辺りは静かだけど、メインストリートから声や車の音がわずかに聞こえるから、しん、とするほどじゃない。しん、としていたら、この沈黙に耐えられなかったかもしれない。


 君はすっかり落ち着いて、僕が何かを提案しない限りは、永遠にうっとりしていそうだ。どう切り出して、せば、目の前にあるヤドリギの下まで二人が向かえるのだろうかと必至で、僕は落ち着かない。「大失敗だよこれじゃあ……」と、後悔しても遅すぎたし、引くにも気持ちは高ぶっているから、引きたくない。


 時間さえあればと、悔やまれる。例えば、どこかに小旅行にでも出かけて、夜景が綺麗な海岸公園とか、小さな山から夜景を眺めるとか、いかにも恋人同士を歓迎してくれる場所に行けば、ロマンチックなんていくらでも転がっていたろうに。重要なのは、勇気と雰囲気だ。でも、思い切りでキスを迫る勇気はない。正反対にいる君を深く傷つけて、取り返しがつかないのではと、怖いから。だから、雰囲気さえどうにかして、君だって僕とキスをしたくなると、魔法にかける必要があるんだ。


 けれども、今年は二人とも忙しくて、クリスマス当日の仕事終わりに、君の職場が近いこの街のレストランを予約するのがやっとだった。その後にキスができるような場所はないかと一週間前に下見をして、見つけたのが、このクリスマスツリーで、よく考えれば貧相だし、ゴミもチラチラとうかがっているもんで、あんまりだ。抜擢してやったツリーは「お役に立てずに申し訳ない……」と、しょげてるように見えてきた。勝手に期待しておいて酷い言いようだが、キス、したいんだ。


 もう、まったくこの先、どうキスに運んだら雰囲気が出るものか、考え過ぎて頭痛がしてきて、その辺りの煉瓦の壁にでも頭を打ち付けつけたくなった。


 君の視線に気がついて、はっとする。君から視線を反らした時からずっと君は僕を見ていて、キス欲でおかしくなっている心が変な挙動になって、それを見られていたのではと、緊張する。


 不安を上手く隠せないままの目で、君の目を見た。目を細めて笑いジワが寄っている。笑いジワを作りたいがために、心無い笑顔をする女性もいるみたいだけど、君はくしゃくしゃに笑うから、笑いジワも目立って、でも、君の幸せの数だけ深くなるそのシワが大好きだ。だから、君と歳をとっていくのが楽しみで仕方が無いし、おばあちゃんになっても、心の底から可愛いって言うことができる。なんてことを考えたら、僕も頬が緩んでいた。


 僕の笑みに満足したようで、さっきの僕とは違う本物の、「綺麗だねえ」を言って、クリスマスツリーに向いた。小柄な君だからってわけじゃなく、僕が見るよりずっとずっとこのツリーは大きくて、しょげたりしてなくて、立派な大樹なんだろう。


 君はとっても寒がりだから、頭をすっぽりと隠してしまうニットキャップの上からさらにコートのフードを被って、それでも足りなくて、真っ赤なマフラーをぐるぐると首と顔に巻き、口も鼻も隠して、埋もれちゃっていて、「こりゃあ、先に唇の発掘が必要だな」と、また嫌らしくもキスのことに考えがたどり着く。僕から見えるのは、おでこにかかる前髪半分と、イルミネーションを反射してキラキラと輝き、いつだって幸せだよと訴える人生に満ち足りている瞳だけ。


 手首をコートごとすっぽり覆う大きなミトン手袋をしていて、これがまた、北極圏の人がするんじゃないかってくらい大袈裟なもので、でも、お花の刺繍がチャーミングで、君がいかにも好きそうな手袋だ。時々、息苦しくなって、その手袋をした両手でマフラーを引き下げ、鼻と口を発掘するんだけれども、「あぁ、今ならキスができる!」なんてことは、見とれてしまい、一瞬、忘れてしまう。君は、鼻から息をゆっくり吸い込んで、「ふわぁ」と、小さな声と大きな白い息を漏らす。体にこもった熱で火照った頬は、頬紅じゃない自然な淡いピンク色をしていて、季節はずれの桃のようで、甘い香りが漂ってきそうだ。ちょっとしたら、また寒くなって、鼻と口をマフラーでいそいそとうずめ、手袋をしたアンパンマンみたいな両手をグーパーしたり、コートの上から太ももをさすったり、足を少し浮かせて遊ばせたり、そんなのを見ているだけで、可愛くて可愛くて、もう何にもいらないって、こういうことなのかと、毎秒、想わせてくれる。


 あぁ、もう、ヤドリギなんてどうでもいいから、このトキメキに任せて、男らしく君を強く抱き寄せて、マフラーを引っぺがして、キスしてしまいたい。キスをして、力いっぱい抱きしめたい。そうして、これからは会うたびに、唇を重ねて、「苦しいよう」って言われるくらい、ぎゅうっと抱きしめたい。


 狼どころか、悪魔になってでもいいから、ええい、自制など……




「どうしたの?」


「え?」


 君の尋ねに、ハッとしたものだから、つい、上擦った声を出してしまった。

「今日は、なんだか落ち着きないけど、調子よくないの? 仕事終わりに急いでこっちまで来てくれたから、疲れたんじゃない?」


 随分と心の挙動が、外に溢れていたんだ。深呼吸して、落ち着こう。


 冷たい空気を鼻から吸い込んで、体内を空冷する。鼻、気道、肺、血液、そして煩悩でもんもんとする頭と、順に冷やしていく。次いで、口からゆっくりと時間をかけて息を吐き出していく。嫌らしい毒も、一緒に外に排出されていく。キスへの欲望でどうにかしていた心は落ち着きを取戻す。少し、震えた。


 じっと、それを見ていた君に振り向き、微笑んだ。


「大丈夫だよ。ただ、ちょっと、寒くなってきたなぁってさ」


 急に寒く感じだのは、本当だ。


「そんな風通しがいい首元してるから、冷えちゃうんだよ」


 いつの間にか分からないけど、僕は、カッカするあまり、体の熱を逃がそうと、ダッフルコートのトグルボタンを上から三つも外していた。


 君は手袋を脱いで腰を上げて、僕の前に立ち、「まったく、だらしないんだから」と、お節介ごとをいくつかつぶやきながら、ダッフルコードのトグルボタンを一つ、二つ、三つと留めていき、一番上の小さなボタンも留めるべきかを少し悩んでから、やっぱり留めようと思い、顔をぐうっと近くに寄せた。そしたら、彼女のマフラーの下にある唇と、僕の唇の距離は、もう十センチくらいしかなかった。


 また、カッカとしてくる。早鐘を打つ心臓の音、聞こえやしないか。いいや、そんなことよりも、これこそ最大のチャンスと思い、君だって、こんなに顔を近づけて、本当は間違いを望んでいるか、僕をからかっているんじゃないかと、腹立たしくもなり、ええいならばと、躍起になりはじめる。


 なかなかボタンが留まらず、君は苦労する。自分で留めるなんて言わないで、君に苦労させて、チャンスの時間を引き伸ばす。心臓が口から飛び出しそうとはまさにこのこと。君にいつか、殺されそうだ。そんな想いにさせる君は、天使じゃなくて、本当は、悪魔なんじゃないだろうか……


 と、ここで最低な自分に血の気が引いて、自己嫌悪が自制心に加担した。


 君が、悪魔だなんて。


 君は小さなボタンをしっかり留めて、襟元を完璧にして、「これでよし!」と、満足して、また僕の横に腰かけた。




 僕は神様のことをイマイチよく分かってないし、クリスマスの本来の意味だって、先月に、「クリスマス」、「キス」なんていう甘いキーワードでインターネット検索をしていた時に、ようやく知った。また、その時に見つけたのが、ヤドリギのお話でもだった。


 ヤドリギの下では女性は男性からのキスを拒めない。クリスマスの伝説の一つで、北欧、またはケルトの神話に通じているらしい。古くからヤドリギはとても神聖なものとされ、全ての幸福を実現すると言い伝えがあり、それがどういうわけかは分からないけれども、キスのお話になったそうだ。詳細まで知らなくても、ロマンチックなことには違いない。パンだって、焼き方を知らなくても、美味しく食べられる。神様だって、会ったことがなくたって、支えになる存在に違いはないのだろう。


 僕は分からないものに頼らなくても、困らない。だから、キスだって、したいと思う気持ちだけで、恋人の唇を奪うことは可能なはずだし、それが普通なんだろう。けれども、君が万が一、傷ついてしまって、取り返しのつかない後悔を抱えさせてしまうかもと思うと、キス一つがとてつもない難題になってしまうのだ。


 君と出会って、一年が過ぎ、もう二年経ったと数えるほうが近くなった。増して行くのはひたすらな君への愛おしさばかりで、狂おしくなってしまう。辛くて辛くて、いっそ君を忘れてしまいたいと思った事は、一度や二度ではないし、それ以上に、やっぱり君が大好きだから、忘れるなんてありえなくて、だから気持ちを確かめたくてキスをしたくて、それなのにキスはできない。


 それは、君がキスを望んでいないから。


 結婚するまでキスはできないなんて、言うものだから。


 それが君の信条ならば、それを奪おうとする僕こそ、君を誘惑する悪魔だろう。




 これは、僕が君と反対の世界を生きていることが、関係している苦労なのかい?

 君は強くて、僕は弱いから、いけないのかい?


 でも、けれどもだ、大好きだから、キスしたいって、悪いことなのかい?


 このトキメキに素直になって、キスしようって想うのは、悪魔の仕業かい?




 ……さっきからキス、キス、キスって、自分が卑猥すぎて、情けなくて、滑稽で、あきれ果てて、なんだかくだらなくなったとこで、クスクスっと、笑いをも漏らしてしまった。


「なぁに。急に笑って?」


 君の声が届いても、笑いを押しころすことができなくて、「ねぇ、ねぇ」と、ちょっぴり不安げに君が何度か尋ねて、ようやく、落ち着いた。


「ごめん。ちょっとした、思い出し笑いなんだ。ごめんね」


「どんなお話?」


「とてもくだらないよ。なんで笑っちゃったのかも、分からないくらいにね」


 君は首をかしげた。


 どれだけキスのことを考えて、果てに笑ったなんて、言えやしない。


 笑った理由が聞けなくて、つまらなそうな目をした君が、また、愛おしくなったけど、キスをしたいって、躍起には、ならなかった。僕を気にかけてくれる君という世界がそこにあるだけで、僕はとてつもなく幸せなんだから、なんて、思ったからだ。

 急に吹いたわけじゃないけど、十二月の冷たい風に激しく身震いした。


「やっぱり寒いね。どこか暖かいところに入る? まだ、時間あるよね?」


「うん。今日はクリスマスが終わるまでは、大丈夫だよ」


 期待を込めたクリスマスツリーに目をやって、「やっぱり、残念だったよ」と、お別れして、来た道を戻り始めた。


 キスを諦めた僕は、気持ちがスッとして、そのせいで、ようやく気がついた寒さに体を強張らせ、下を向き、黙り込んでしまって、君もやっぱり寒いのか、うつむいている。僕は、二人の革靴が地面を踏み鳴らすのを見ていた。君の小さな歩幅に合わせて、僕もちょうど同じくらいの歩幅にしてみた。少しずつ調整して、君の軽やかな靴音と、僕のちょっぴり重い靴音が、ぴったり重なって、頬が緩んだ。


 しばらくおとなしい君も、二人の合唱に気がついてるだろうと思っていると、突然、僕のコートの袖を両手で掴んで、ピタッと立ち止まった。うつむき顔で、ぐいっと袖を自分の方に引っ張って、小さく言った。


「ねぇ、ちょっと…… ちょっと」


「どうしたの?」


 と、少しかがんで君の顔を覗こうとした。


 君は頭に大きくかぶさったフードを外して、顔にかかったマフラーを引き下げて、いっぱいに背伸びをして、それでも足りなくて、ちょっぴり、ぴょんととびはねて、僕の頬にキスをした。


 突然のことに、唖然として、君を見つめ、君の頬は、桃色が急激に熟して赤みを増していくのが分かって、僕の視線を反らそうと一瞬うつむいて、顔を上げたら、


「ほっぺたでごめんね……」


 と、くしゃっとした笑顔で、八重歯を覗かせた。


 君は中々、歯を見せて笑わない。可愛いのに、人よりちょっと鋭い八重歯がコンプレックスなのだ。だからいつも口を閉じて、唇を横に伸ばして笑う。歯を見せてしまうのは、八重歯が見えちゃうよりも、ずっとずっと恥ずかしがっている時で、思えばこの笑顔に骨抜きにされて、君に夢中になったんだっけ。


 鼓動が再び忙しなくなり、呼吸を荒げ、怖いくらいに見つめていた。


 君は、僕の心中なんか全部分かっていて、だって、君がヤドリギについて知らないわけがないし、急に人気のないところに向かうし、妙な時間が流れるし、落ち着かない僕がいるし、僕が君とキスしたいって企んでいたことは、顔に書いてあるようなものだったんだ。でも、死にたくなる恥ずかしさなんかはもうどうでもよくて、ただ、君が愛おしいから、僕は狼になって、太陽のような君の全てを飲み包み込んでしまうほか、トキメキの収拾がつかなくなっていた。


 君の顔から恥ずかしがった笑みは消えて、不安と緊張の色がどんどん強くなる。僕がどうしたがっているのか分かるから、怯えている。


 肩に手を添えた。目を逸らさない。顔を寄せていく。


 君の唇が震えている。「唇は……」と、お願いするように動いて見えた。


 僕は、僕の唇は、君の桃のような柔らかくて甘い頬に優しく、けど、ちょっと長く、キスをして、抱きしめた。


 君は僕の背中に手を回して包み返してくれて、僕の胸の中で優しくつぶやいた。


「ありがとう」


 君を抱きしめながら、視線を遠くに向けると、だいぶ離れているけれど、さっきのクリスマスツリーが光っていて、あんなに明るかったっけ、と、思った。

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