うんこマン

うんこ

第1話 うんこがでる

 水のない厠があった。離れの奥の小さな一室に古めかしく、静謐を保っていたその厠には、わずかな空間とつめたい便器とがあった。小さい穴があり、この部屋よりもずっとひろい暗がりにつながっている。「肥溜め」といい、そこで屎尿を発酵するのである。そういえば隣には畑があった。田舎では農業で生計を立てるのが一般的であり、その多くを過去より代々受け継いできている。人糞が肥やしとなるというのも、なるほど先人の知恵というべきものであった。とはいえ、人のくそからできた野菜を抵抗なく食するに、僕はあまりにも現代に侵されていた。時代は汚い芋よりも、色鮮やかな見栄えの良い野菜を好んでいる。現代人は潔癖である。それを象徴するかのように、木造のプレハブが離れと母屋の間でにらみをきかせている。そこにはきれいな洋式トイレがあった。電気の力で稼働している。そのせいで便座があたたかい。尻は紙で拭かなくてもよい。水がきれいにしてくれる。水洗である。僕はこの便器の方がすきだった。くそがどこに流れていくかという疑問はついぞ抱かれることはない。目の前から、生活のうちから消えてしまうからだ。初めて知ったのは中学生のころで、下水として配管に送られひっそりと処分されるのだという。僕はその方が良いように思われた。その頃はなんとなくだったけれど、ばあちゃんの家で出された野菜には幾ばくかの抵抗があったことを思い出した。野菜にくそがこびりついていると思うと、僕は箸を置いてしまう。僕もまた潔癖だった。離れのトイレにはもう行っていない。


 僕が「うんこ」と口にすると母はそれをきつく叱った。親の教育方針は、よくもまあ現代風の「うつくしい時代」を表していたが、それがすこし哀しかったのは、僕が「うんこ」に心ばかりの好意を寄せていたからだった。児童漫画誌には「うんこ」が笑いのネタとしてよく使われていた。汚濁を避し、清楚をともがらにと教えられた当時の心には、ためらいもなく汚物を誇張して描く漫画家のおじさんが刺激的だった。登場人物が何度も「うんこ」と叫ぶ。道では平気で「うんこ」を漏らす。笑わずにはいられなかった。と同時に、低俗な悦びが確かに平然とあるという事実に身が震えた。良識で分別のある家に生まれたものだから、低俗な悦びというものを僕は知らなかった。それはたぶん「教育上よろしくない」ものだった。けれど些末なことで勘に障る良識家の親もどうかと思った。ぼくは「うんこ」が面白かった。それをなぜ大人は避けようとするのかがわからなかった。口を揃えて「下賤でくだらない」と両親は答えるのは、僕が子どもで、彼らが大人だったからかもしれない。僕はそれが嫌いで、「うんこ」を好きになり続けようとした。けれども、僕がもう「うんこ」で笑うのが恥ずかしいとされる年齢になったとき、僕は社会の美徳に隷従することをしぶしぶ認めてしまった。漫画はもう買わなくなってしまった。世間体というやつがやっかいだった。僕は大人になることを強いられ、また大人であることを極端に演じた。しかし僕の演技は、その内面の奥深くにひっそりと隠れている「うんこ」に裏付けられていた。僕は「うんこ」を忘れることができなかったのである。周りはすでに児童雑誌から少年・青年雑誌に乗り換えていた。僕も楽しもうとはしたけれど、どうも頭の中から「うんこ」が離れない。幼児的快楽の源泉。原初的な笑い。それが僕にはどうも、青年期特有の「かっこよさ」よりもすばらしいことのように思えた。その諧謔は僕の根拠であったから、僕は「うんこ」を心のなかに生かそうと決めた。そしてそれは誰にも見られてはいけないと直感した。僕の心は小学生で止まってしまったけれど、それでもいいと思った。人の生は回帰的であるべきだったし、子どもと大人は実は不可分なものであると知っていたからだ。


 その頃の僕はこの陳腐な哲学の演繹に自分の可能性を見ていた。あるいはそれが、僕が僕であるという心理的安定をもたらした。だが所詮は虚栄である。内に跋扈するそのおどろおどろしい自信は社会の認める通念よりは確かに逸脱していた。僕はその間での適応に困ることとなった。通常、多くの子供はだんだんと大人になっていく。幼い時から何度も失敗し、怒られては反省し、そうやっていくうちに気がついたら大人になっているのである。だが僕の場合は違った。僕は失敗を恐れ、失敗をする前に確かな黄金律を求めたのである。そのため、僕は子供であろうとする回帰願望と病的なまでの模範指向とを重ねることで、先んじて誰よりも大人になることを前提に、小児の美徳たる「うんこ」を生かすという選択を採らざるを得なかった。この逆説は内面の庇護と、社会的美徳との両立であった。僕は狂った人間でありながら、狂った人間であってはいけなかった。僕の学生時代は、そうした葛藤の「維持」に全力が注がれていたのである。ところで僕は「うんこ」が汚いものであると信じられなかった。僕にとって「うんこ」は笑いの象徴であったし、そのおかげで今の僕がいるからだ。とはいえ僕は、ばあちゃんの家で見たくそまみれの野菜を知らないわけではなかった。人のくそじゃなかったけれども、僕はあの時、くそを拒んでいたのだ。あれはくそであって、断じて「うんこ」ではなかった。そう思いこみすぎたのか、僕は「うんこ」が清らかなるものであるという耽美に似た倒錯に襲われた。幸いにも僕は学生という社会的身分にあったおかげで、くそがくそであるという事実を何度も聞かされた。僕たちが食べた朝ごはんは、しばらくしたら分解されて養分だけをとり、残った最後の老廃物はくそとして肛門から出される。こんなことは当たり前のことだったが、当たり前では済まなかった。僕はそれを耳にするたびに、「うんこ」があのばあちゃんの家で見たような、水のない厠のくそであるという煩悶に侵されたのである。そうしてかの如く苦しめば苦しむほどに、くそと「うんこ」の乖離は次第に広がっていく。「うんこ」がますます美化され、くそが堕していく。僕にはくそが現実の象徴であるような気がしてならなかった。そこからの逃避というさもしさが、僕を悪い子だとののしった。社会が認めた発育過程を拒みながら、僕は規範に隷従する模範生だったからだ。



葛藤に次ぐ自己嫌悪によって、僕はめざましい信仰に導かれた。友達はいなかったし、誰も僕を現実に戻してくれる人がいなかったから、僕はどんどん現実から離れていった。その先にあるものが宗教だとしたら、神の誕生の秘話なるものはなんと悲劇的であろうか。僕の場合それが「うんこ」であったのだけれど、もとから神は僕と共にあったのだし、あるべきだったから、あまり抵抗はなかった。僕は高校で習った倫理の話をもとにして、意味に依らぬ無意味という目線から、「うんこ」はいかにして神になりうるかという空想を真剣に考えた。宗教の崇高性はおそらく聖典の存在と、多岐に渡る聖典の解釈とにある。キリスト教であれば聖書と中世神学による功績が大きかったといえるだろう。僕は「うんこ」にも聖典と解釈が必要であると考えた。まずは聖典からあたることにした。そもそもなぜ人には聖典が必要だったのかという問題からはじまる。それは僕らが神を求めていたからである。つまり僕らは、僕らと、僕らを超えた神との間に、友好的な関係があると認めたいからこそ聖典というものが存在するのである。神が僕らに悪徳をばらまくならば、僕らに害を与えるならば、僕らはそれを神として崇めたりはしない。僕らに友好的でないものを、僕らは悪魔と呼んだりする。万物のうちの否なる流れを悪魔によるものであるとスケープゴートすることによって僕らは神の寵愛を受ける。その証が聖典なのだ。聖典は僕を正しい方向に導かなければならない。教えがなければ人は動かないのだ。僕はなぜ「うんこ」が世界を導いてくださるのかを考えた。ここで僕の中の、意味に依らぬ無意味の発想が生きてきたのだけれど、つまり神がダイレクトな何かである必要はないのである。神は教えであり、ヨハネが言わんとする通り、神とは言葉である。すなわち聖典に顕現している「意味」である。だからこそ「意味」の創生に僕は「うんこ」という呼称をつけるだけでよかったのだ。そしてその「意味」の創生には神学、すなわち解釈の存在が不可欠であった。解釈には二種あり、そうあるべき解釈とそうあるべからざる解釈とである。そうあるべき解釈とは、そうあるべきだと誰もが思う解釈であり、たとえば僕が生きているのはまさしくそうあるべきだと思うかもしれないが、そうあるべからざるものだとは思わないだろう。一方でそうあるべからざる解釈とは、たとえばそうあるべからざるものがそうあるべきであるとする発想がそうである。僕が生きていることはあるべからざる事態であると考えるのはそうあるべきではないだろう。僕が頭を悩ませたのは、そうあるべからざるはずの「うんこ」がそうあるべき信仰に依るという発想である。それはおかしかったから、とても頭を悩ませなければならなかった。僕はどう悩んでもあるべからざるものがあるべきものになるはずがないと思って泣いてしまったのだけれど、ニコラウス=クザーヌスが言うように、「うんこ」とはそもそも「反対の一致」である。「反対の一致」とはつまり、「うんこはうんこにあらず、ゆえにうんこである」というものであるが、これはどういうことだろうか。言わずもがなクソみたいな矛盾である。だがこの、クソみたいな矛盾が信仰というものであり、つまり論理に信仰が先立つという現象が宗教なのである。このような、そうあるべからざる解釈の海に宗教という枠組みが創出されるのであるから、僕はひたすらに抽象性と論理矛盾性を求めていった。そんな僕は、もう現実から完全に孤立し、体はあるべきように動くけれど見ている世界はそうあるべからざる世界でしかなかったのだ。



そんな僕はくそを、あるべからざるものとして認識することに成功した。もっとも人からすればおかしく思えるかもしれないが、僕の中にはあるべからざるものがあるべきものであるという信仰があったのだ。信仰が論理に先立つ。だからこそ僕は僕の感覚すらも疑えて、僕が見ているものがありえないと信じられたのである。僕は信仰とは心地よいものだと思った。宗教音楽が心地よいのは、そういう音律で心を揺さぶるからだ。宗教絵画が魅了するのは、そういう画で僕らを心地よくさせる意図があるからだ。そこに不快があってはならず、心地よい世界だけがあるべきなのだ。くそは心地が悪い。不快だ。悪魔なのだ。僕はくそを悪魔であると確信した。だから僕はくそをするたびに、切れ痔を耐えながら「悪魔よ、去れ!!!」とわめいた。僕は水洗トイレが好きだ。くそを水に流してくれるからだ。そしてぼくは「うんこ」と共にある。これほどまでに心が満たされることがあるだろうか?

だけど僕の中には、その充実が満足にはいかなかった。それは僕は論理的であってしまったからなのだ。心地よい世界だけがあるべきである、という考えは、そうあるべきものである。だが僕の信仰の動機はそうあるべからざるものが、あるべきものであるというものであったはずなのだ。つまり僕は、そうあるべきものがそうあるべきものであるという認識を否定し、そうあるべきものがそうあるべからざるものであるかもしれないという発想から、そうあるべからざるものがそうあるべきものであると逆説的に立証した一方で、そうあるべからざるものがそうあるべきものであるという発想そのものに、そうあるべからざるものとして否定しなければならない要素があることに気がついてしまったのである。だから僕は、あの水のない厠でみたくそを忘れることができないでいた。この循環論理に僕はおかしくなりそうだったけれど、矛盾こそが信仰、信仰をもとめよと自分を言い聞かせて僕は乗り切った。



僕は筆を執った。うんこの神話を御手の導きで記述する。「あ、うんちがしたい。うんちがしたいから、トイレにいこう。よし、うーん、うーん、ぽん。で、でた うんちがでた。神の誕生の秘話である。」こんな一節が生まれた。これに解釈を加える。神話は人にとってそうあるべきでなければならず、心地よくなければならない。創世記においては人類誕生の真実、史的意義を読み手に認知させねばなるまい。第一節、「あ、うんちがしたい」によると、人は確かに願望から生み出されたのではないか。また人のみならず、人によりて生まれたすべてがこの、「あ、うんちがしたい」に類する渇望によって生じたのであるから、世界とはすなわち「あ、うんちがしたい」を動機として誕生したのである。第二節における「うんちがしたいから、トイレにいく」という描写は、なるほど願望が行動によりて形を生むという過程を示している。僕らが悩んだり不安になったりして行動しなかった時、世界は行動しない人を避けるように発展していく。行動しないというのはそれほどに愚かしいことだし、逆に行動するということは人類が得た望まれるべき真実なのだ。それがトイレであれ何であれ、世界はかくのごとき発展を遂げる。第三節、「よし、うーん、うーん、ぽん」が示すのは、行動に伴う苦の存在である。蓋し僕らの世界に広がるある画一的な信仰の一つに、苦しみたくない、楽がしたいというものがあるが、それはやはり発展的ではないだろう。第二節にも述べた通り、僕らは苦を楽にするためにどうすべきかということを考え、行動しなければならない。またそれは第一節にあるように、渇望がなければ成立しない。理想を持ち、行動し、自らに苦痛を求めよ。さすれば「ぽん、」の末に第四節の如く、「で、でた うんちがでた」の感動があるのである。あらゆる現象においてこの過程は成立し、これらすべての行動が、最終的には「うんこ」を求めるということに繋がっていく。この体現こそが「うんこ」による聖典の、説かれる意義である。



「すべからくうんちは三位によりて一体なるべし。1つにうんこ、1つにうんご、1つにうんにょなり。うんこは常なる形にして常なる質、うんごは堅なる形にして堅なる質、うんにょは軟なる形にして軟なる質とせよ」「はなくそをたべるときは、うんこを考えよ。たしかにたべられるが、果たしてたべたくないのだろうか。それは信仰である。」こんなクソみたいな神話を何個もつくってきた。その時分、もう高校生の男がである。あるいは蒙昧の徒であるから、確かな心境にあったとは思えないが、それでも僕としては不断にして悪魔から逃げなければならなかったので、そうすることに幸せを感じていた。次第に僕は、僕の学問の動機が僕の神話創生の材料とするためにあるべきだと思うようになってきた。だから僕は勉学への好奇心が冴え、確かに秀でた才に恵まれたが、この男の哀しき性は現実に対する無知である。僕は僕の外の世界にはいっさいの興味がない。いったい、僕はなぜ僕が得るはずだった並の人生を歩まずにボイジャー1号となってしまったのだろう。たしかに後悔もあっただろうが、僕にはもうそれを感じることができないほど、どうしようもなくなっていた。「うんこ」はもはや、僕だけの固有のものではない。僕から離れた自立的な普遍性である。信仰に導かれ、信仰のなすがままの世界を受け入れなければならぬ。




研鑽を重ねるうちに、もはや「うんこ」は体系化されてきた。僕の手によってだ。見よ、この崇高なる教義を。見よ、この内なる恍惚を。機は熟した。今こそ僕は外界に向けて布教していかなければならない。今の僕はさながら下界に降り立つツァラトゥストラである。しかし彼らは「うんこ」を受け入れるのだろうか?幾ばくの論考も、嗜好に勝ることはない。彼らにとって「うんこ」はくそであり、人類の長い歴史の中で遺伝的に培われた、本能的にくそを嫌う性質というものには抗えないはずだ。僕はどうなのであろうか。僕もまたくそは嫌いなはずだ。だがくそではなく「うんこ」なのである。そしてそもそもくそは存在しないのではなかったか。くそは僕に見せる悪魔の幻影である。ひょっとして、そもそもぼくの肛門から垂れてくるものは「うんこ」だったのではないだろうか?だとするならば僕らは悦びをもって「うんこ」を出さなければならないだろう。彼らはそれを知るべきだ。でも、どうやって?彼らには宗教的事実が必要だ。つまり彼らが信仰するに足るスピリチュアルな事態が起こらなければならぬ。それは何か?教義の実行、教義の体現、それによる教義の正当性の確立。なるほど、僕は大衆の前で「うんこ」を漏らさなければならない。それは信仰の本質という意味での的を射た行動である。信仰は倫理に先立つ。信仰の前にアブラハムは子であるイサクを殺そうとした。人道に反する行為であったが、神はその論理矛盾的信仰を蔑むどころか、尊んだのである。信仰の狂気とはまさにこのことだろう。僕は「うんこ」の前において、大衆に侵されている「恥」という概念を信仰の前に超越する役割を与えられた。僕は選ばれたのだし、また超越者として僕は「うんこ」を漏らさなければならない。大衆はそのスピリチュアルな現象を前に理解するであろう。僕らが今まで持っていたものの、なんと無意味であるかということが。



けれども、僕が「うんこ」を漏らしたからといって、大衆は気づかないのではないだろうか?僕が「うんこ」を漏らしたとしたら、僕が今まで、肛門によって妨げられていた「うんこ」のニオイが外界に顕ずるばかりであるだろうし、その結果僕のまわりのわずかな人たちが「あれ、なんか臭くない?」と疑問に思い始めてから、それがオナラであるのか、脱糞のニオイなのかを感じ取ろうとするばかりであろう。こんなことは日常茶飯事であり、断じてスピリチュアルなものではない。僕は僕が「うんこ」を漏らしたという事実を彼らの多くに知らせなければならない。どうやって?僕は大都会東京のスクランブル交差点の中央にパンツ一枚で立ち、大声をあらげ、パンツをさげて、うんこ座りをして、そこにうんこを漏らす必要があると分かっていた。そして漏らした後に、今度は泣きわめかなければならなかった。そうすることで彼らはその精霊的な現象を異常な事態であると感じ取り、彼らが納得できる答えを導き出そうとするだろう。大衆は無知であるから、脱糞の崇高性を知ることはないだろう。彼らの限界は、僕という存在が理解不能であると認識し、関わりを極力避けようとするということだけだ。僕はその先の世界にいるのだから、野蛮人に教えを説くソクラテスのようなものだ。だが僕の教えは、いつか、何百年もの後の時代において、語り継がれるべき伝説となるだろう。僕は「うんこ」教の教祖。時代の先駆者なのだ。その前の迫害など、取るに足らないものだ。




12月25日。大都会東京。今日この時より、新世界が始まる。天使がラッパを吹いている。僕はパンツ一枚で昼のスクランブルに駆り出た。人が多い。大衆が大衆を見ながら自分だけは特別だと思って歩いている。都会とはそういうものだ。しかし外から見れば彼らも大衆であり、いったい僕の個別性は理解されない。そういう時代にいるのだから、僕のこの行為は彼らの救いとなるはずである。僕は怒号を放った。「あ、えっと、おい!!!おい!!!!みんな僕を見ろ!!!み、見てくれ!!!」通行人が一斉に僕を見た。僕は怖くなったけれど、僕のとなりには「うんこ」がいるのだった。何も恐れなくてよいではないか。「い、いまからうんこします!!うんこ!!!!うんこ!!!!!!」僕は勢いに任せてパンツを脱いだ。そしてうんこ座りをした。「い、いくよ!!!!!!」僕はケツにマイクをあてがいながら脱糞した。音が漏れた。「うんこ」も漏れた。そして僕は伝説となる自分に酔った。通行人は黙って僕を見ていた。彼らは僕をどう評価してくれるんだろうか。考えたら自然と涙が出てきた。涙が止めどなく出てくる。僕は誰かに認めてもらいたかったのだろうか。両親にも、友人にも、誰にも認めてもらえない「うんこ」を認めてもらいたかったのであろうか。よくわからない。僕の考えはくその臭いでかき消された。通行人は何事もなかったかのように僕を無視した。全員だ。誰もが僕を認めてくれなかった。残されたのは僕と、くそだけだった。警察が来た。僕は署に連れていかれ、初犯だということで厳重注意を受けた。宗教的事実は達成されたけれど、僕は涙が止まらぬまま家に帰った。家でも泣いた。「うんこ」教なんて、なんてことを考えたんだろう。くそだ。僕のケツから出て、彼らが評価したのはただのくそだ。くそだったんだ。僕は、もうどうしようもなかった。




数日後、僕の初めての布教がニュースで報道されていた。評論家は僕を精神異常者と評し、僕は事態の重みを噛みしめた。誰も「うんこ」を理解してくれぬ。誰もくそと「うんこ」の区別を知らぬ。だが、それがなんだというのだ。分かっていなかったのは僕の方だったのではないか。そう思って僕は田舎に戻ることにした。ばあちゃんの家に行くためだ。ばあちゃん、どうしてるかな。僕の顔、実名報道されちゃったからな。当然知っていたと思う。でも僕がばあちゃんに会ったとき、ばあちゃんは一言も僕を蔑むことはしなかった。やはりそこでも申し訳ない気がした。しばらくして僕は、あの水のない厠を巡礼することにした。もう何十年も行っていないから、今では寂れているのだろうか。古い木戸を押し開け、僕は明かりをつけた。わずかな空間と、冷たい便器があった。僕が否定した、くそがここで生まれたのだ。たしかにくそは唯物的だ。そしてそれを見る社会の目も冷たい。まるでこの便器のようだ。現実はとても冷たい。だけどプレハブの洋式トイレはどうだったのだろうか。電気のおかげで暖かい。冷たさに苦しみ、我慢することもない。それにくそを意識することもない。だけど本当は?本当は、僕の「うんこ」は、確かにくそだったのだ。いつからか、僕はくそを「うんこ」と見るようになった。それはそれでよかった。だけど、僕はそのままで、見えざるものとしておくままで終わらせておくべきだったのだ。だが僕は、僕が見た空想を、現実であると思い込もうとした。それがあの脱糞である。それは僕から見たらすばらしいことだったけれど、外から見れば滑稽なことなのだ。そして思った以上に、本人にとってその理解は得られない。迫害など取るに足らぬと言ったけれど、結局僕は、最後まで虚と実の間で悩んでいた。そして今でも、とても怖い。




ふと便意が襲った。僕は厠の和式便座にまたがりくそを出した。ポシャっという音がした。僕は便器の中に頭をつっこみ、穴を覗いてみた。くそがいっぱいあった。だけど、もしかしたらくそは悪魔じゃなかったのかもしれない。僕はそう思った。くそも「うんこ」も、元はひとつのうんちだった。くそを否定し、「うんこ」ばかりがあると思うのは間違いではないか?どっちもあるのだった。美醜において、美に傾倒するのはなるほど愚かしいことだ。しかしだからといって、蓋しすべての醜きを世界に認め、至上の現実と豪語するのもまた滑稽である。虚と実は対にして、一となる。くそを受け入れて、僕ははじめてうんちを、世界を、受け入れられる。僕は久しく笑顔になった。


これは僕にとっての、人生の教訓だった。

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