ⅸ∴ダンテスダイジのプロローグ

市の職員や町内のボランティアが掃除をする為、明るくなる頃、穢圡町からは捨てられた煙草の吸い殻や源氏名がだけが印刷されたような名刺等のゴミは無くなり、夜の歓楽街の気配は古びた雑居ビルの電気の消えた看板に残る程度になる。

芽吹は、んー、と伸びをして眩しく差し込む朝の光に少し目を細めた。

二色のランドセルが揺れながら芽吹を追い越して行く。

街の中にある小さな公園の滑り台の上からわらわらと登校する学生達を眺めていたカラスがカアと鳴いた。

「ふふ、何か不満そうな鳴き声」

芽吹と目が合ってビクッと引き、危うく滑り台の手摺から落ちそうになったカラスは、そこから少し飛んだ。そしてベンチに座る老人から豆の施しを受けていた鳩を、何かの腹いせの様に翼を広げた状態で追いかけ回した。

「わ!」

後方から何かが走ってくる音がすると芽吹が思った次の瞬間、それは芽吹にぶつかった。

「あ、悪りい。て、キューチョーじゃん?」

「いたた、あら」

心の奥底で得体の知れない記憶の欠片が繋がり、芽吹の表情から一瞬感情が消えたようになり「城戸くん」と目の前にいたクラスメイトの名前を呼んだ。

「丁度俺の登校の軌道上に立ちはばかってんだよね、キューチョーはさあ」

そう言って肩をすくめ、何処か少し意地悪そうに笑った城戸に芽吹は微笑んだ。

「また私ぼんやりしてたのかも、城戸くんの登校の軌道を塞がないように気を付けるね」

「うん、そうしてくれよ。じゃー後でな」

そう言って生徒達の隙間を縫って走って行く城戸を追いかけるボーズ頭があった。城戸と仲が良い隣のクラスの男子生徒だった。

その生徒は芽吹の方をチラリと見る、目が合った芽吹は微笑んだ。男子生徒は目を丸くしたまま城戸に追いつき何かに感心するような感じで言った。

「いつ見ても半端ねえス、あの子。アレに似てる、今日のあのさ、夏に流行ってた映画に出てたさ、えーっと、なんつーんだったっか、あー出てこない!っつうかさ、城戸さっき、“後でな”とか言ってたけど、もしかして結構仲良い感じだったりすんのか?」

城戸はその男子生徒の肩に腕を回し「何だ、丸山さっきから。お前狙ってんのかよ。同じクラスなんだから後で会うのは・・」と、言った次の瞬間、城戸は丸山のボーズ頭を腕で締め、通学路になっている多くの生徒が通る歩道の真ん中でヘッドロックをかけ、「普通だろおが!」と、そのまま思いっきり締め上げた。

「いて、いてえよ!マジだって、離せっ!」

二人を除けて歩いて行く生徒達の中に夏美と唯、加奈子の姿があった。夏美は「城戸ってほんと見かける度にうざいね」と城戸本人に聞こえるように唯や加奈子と話しながら木戸と丸山を避けたが、その遠回しな忠告は城戸の耳には入らず、彼の腕はひたすらボーズ頭をがっちりホールドしていた。

「っカーッ!」

警策けいさくを振り下ろす禅寺の坊さんのような声をあげて城戸の腕を振りほどいた丸山は、痛みにイライラしながらボーズ頭を抱えた。悪ふざけを超えた力加減で、あと少し続いていたら怒りで殴ってしまうところだった、と丸山は思った。

「いってえ。お前さ、分かり易過ぎなんだよ。さっきのアレだってただの攻撃だからな?小学生じゃあるまいし」

「そうだ、攻撃だ。ヘッドロックは立派な技だからな」

城戸は顎を上げ、腰に手を当てて言った。

「3分前の偶然を装った“城戸タックル”の方だよ」

「何かケンカしてませんでした?」

後ろから追いついてしまった芽吹があげた声に、城戸と丸山の丸まっていた背中がぴっと伸びた。

城戸と丸山の周囲を除けていく生徒達の流れに沿って、「ほらほら、それこそ皆の登校の軌道を邪魔しちゃってる。仲良くしてね」と言って髪を揺らし困ったように微笑む芽吹に、城戸と丸山は表情を緩ませた。


「うーむ、よいかんじだ。予告編に使えそうだな。ザ、朝の学校という感じで」

学校の屋上の手摺に上半身を預けた一人の生徒が、生徒達の登校風景を両手の人差し指と親指で作ったフレームで切り取った。

こうして屋上から見下ろすと活発さに溢れた生徒達の雑談や笑い声が学校の正門に飲み込まれて行くように見える。

正門を抜け、昇降口で上履きに踵を入れていた芽吹にクラスの女子が、瑞樹さん、おはよ、と声をかけ、芽吹はそれに、おはよう、と条件反射的に微笑み応えた。

芽吹は何かを探すように周囲を見回し、小さく溜息をついた。

「あの人、いなかったな」



[どう?金作れそう?]

ふと携帯端末からメッセージの受信を告げる音が響いた。

夏美は唯と加奈子と教室に向かいながら遊都からのメッセージに返事をした。

[誕生日のイベントの時は任せて。今日少しだけお店行くね]

夏美はメッセージを打ち終わるや直ぐに両手で次のメッセージを打ち始めた。

[それと、雛乃と連絡つかないの、今日学校も来てないみたいだし。何も知らないよね?遊都は関係無いよねえ??]

[関係無いよ。っつーか夏美以外の女に興味無えし]

[きゃー(≧∇≦)私も興味あるのは遊都だけよ(((o(*゚▽゚*)o)))]

「夏美、何かあったの?楽しそう」

携帯端末のディスプレイを見て甲高い声を上げながら大袈裟に悶絶する夏美に、加奈子が話しかけた。

「彼氏とね、調子良いの。ほら、もう返信来た!見て見て、“愛してる”だって!ひゃー!」

夏美はニヤニヤした顔で携帯のディスプレイをつつきながら一人で軽やかに廊下の角を曲がって行ってしまい、一緒に教室に向かっている筈だった唯と加奈子は置いてけぼりにされ、眠そうな目をして舌を鳴らした。



店の外、警察がやたら居るけど何かあったのかな。


殺人事件でもあったんじゃない?あれよ、耳掻きのフワフワみたいの持った、えーっと、あの、カンシキ?何とか事件簿みたいなドラマで見るようなやつ。ほらほら、本当に白い手袋するんだね。


そんな会話が雛乃の視界の外側で交わされていた。

穢圡町のマックの二階の窓に面したカウンター席から見える筈の穢圡町公園には、青いビニールシートで目隠しがされ、その中を警察関係者らしき人物が出入りしている。

特に興味を惹かれることも無いテレビCMを眺めるかのように、ぼんやりと雛乃の瞳は一面の硝子窓を映している。ストローを咥えた顔を肘をついた手で支えると、耳元で揺れる黒い三角形プレートのピアスが揺れ、光がキラリと反射した。

不意に、コーラの横に置いた携帯端末が振動する。

雛乃の心が条件反射的に沸き立ちピクリと反応したが、画面の表示を見ると期待感は倦怠の中に直ぐ消えてしまった。

“メッセージ受信:吾妻 夏美”と表示があった。

[どうしたの、今日学校休み?何してるの?連絡ちょうだーい(´・Д・)」]

遊都が隣から“待たせちゃってごめんな”等の何か気を利かせたメッセージを送ったのかもしれない。

雛乃はメッセージの送信者が夏美であることを確認するまで、そんな淡い期待をしていたことに気付き「バカかあたし」と自身に少し呆れた。しかし、雛乃がそんな期待を抱いてしまったのは、だいぶ前に雛乃の方からの頼んで連絡先を交換した遊都が初めてメッセージをくれた場所が、丁度今座っている席の位置関係と同じ、ということもあったからだった。

例え何の変哲もないマックの喫煙カウンター席であったとしても、そこは雛乃にとって小さな奇跡が起こった大切な場所だった。

[元クラスメイトが隣に居ることに全く気付かねえのな。お前~_~;]

そんなメッセージが来ていることに気付き横を振り向いた時、「おっす」と言ってカウンターテーブルに肘を着いた手を挙げた遊都がニッと笑っていた。髪の色が明るくなり、眼光は一層鋭く、別人のようになっていた。

当時、雛乃は同じクラスの城戸と付き合い初めたばかりだった。しかし、それは表面上のことであって、中身は全く伴っていなかった。何故なら一度も二人で遊びに出掛ける、つまりデートというようなことをしていないからだ。

元より雛乃が気になっていたのは遊都で、城戸のことは“うるさい奴”としか思っていなかったし、城戸自身も雛乃とは全くタイプの異なる芽吹のことが気になっていた。

何故その二人が形の上でも“付き合う”ことになったか、それは夏休みの時に同世代で集まり、酎ハイを飲みながらカラオケでバカ騒ぎをした際に、何かのゲームの流れで城戸が雛乃の頬に口付けたことが切っ掛けだった。

カラーリングした髪の毛、雑誌やネットで研究したファッションやメイク、ネイル。雰囲気こそ垢抜けてはいたものの、それまで男の手すら握ったことの無かった雛乃にとって、その出来事は、相手が“うるさい奴”でも動揺するに十分な事件だった。そして思いの外、何故か歌が異様に上手い雛乃の頬が柔らかいことを知った城戸も満更では無かったようで、その日のうちに二人は「付き合う」ことになった。

酔いも手伝って、その現場に立ち会った唯や加奈子も「良かったね雛乃、城戸だけど」と涙ぐみながら雛乃をハグして祝福し、雛乃も貰い泣きして「ありがとう」なんて言ったりしていた。

しかし酔いから醒めてみれば、何故この騒がしい男と自分が付き合わねばならないのか、というイライラが込み上げ、雛乃は人生で初めてゲームセンターのパンチングマシーンに百円硬貨を投じた。

そんな状態だったから、遊都とこうして逢うようになった雛乃の頭から、城戸との間で起こった怪奇現象は無かったことになった。

雛乃は夏美からのメッセージに返信せずに、携帯をコーラの隣に戻すと溜息をついた。それから小さく咳をして、あどけない雰囲気のある表情を作ると、顎を少し引くようにしてチラリと自分を放ったらかしにしている遊都に意味深な上目遣いを送った。その熱い視線を知ってか知らずか、遊都はセブンスターを蒸かしながら隣で携帯の操作を続けている。

「ねえねえ、見て。最初にここで会った時に買って貰ったピアス、毎日付けてるんだよ。偉くない?」

「おし、お茶引き回避」

自分の世界に遊都を引っ張り込む為に唱えられた呪文、“偉いでしょ?”は効果を上げず、遊都は全く一人の世界で喜びに拳を握った。

「何、それ」と聞く雛乃に遊都は「今日俺指名の客を店に呼べたってことだよ」と応えた。

「ねえ。あたしが隣にいるよ?バイトの話やめてよ。何かムカつき過ぎて悲しい。本当にあたしのこと好きなの?」

バイトじゃなくて俺の全部だ、そう言った後、遊都は「雛はどうなの?俺のこと好きか?」と言った。

「そりゃあ、まあ」と雛乃の顔は赤くなる。

じゃあさ、と遊都は雛乃を抱き寄せて頬に口付けをし「店に来て俺を指名してくれよ」と耳元で囁いた。雛乃は「は?」と固まった。

「今月は俺の誕生日があるんだ。その日はぜってー売り上げ伸ばして俺を馬鹿にしてる店の奴らを見返してやりたい、男上げさせてくれよ」

「そんな金持ってないし、それにあたし未成年だよ?遊都が前言ってたじゃん?えーぎょーていしでしょ?それって」

「雛が店で酒を飲んだらな。でも別に飲まなくても良いんだよ、シャンパンさえ入れてくれれば。未成年だから稼げる仕事も知ってるし、そっちは紹介するぜ」

「やだ」

遊都は何も言わず雛乃から顔を逸らし再び携帯をいじりだし、雛乃はうつむいた。

沈黙の中、店内にいる客の色々な人の気配と遊都の携帯のメッセージ受信の音が響いた。

「ねえ」

「何」

雛乃はうつむいたまま呟くようにして言った。

「どんな子がタイプなの、あたし遊都にもっと好かれたい」

「あ?“もっと”だって?」と遊都は首をかしげて肩を竦めた。

「あー・・、俺を支えてくれるような子」

「・・それ以外は?」

「ない」

「それってどんなのでも良いってことじゃん?ブスとかデブとかでもいいわけ?」

遊都は携帯の操作をやめ、一瞬考えた。

「瑞樹って居ただろ?学校にさ。ああいう子は近くに居ても不快じゃないかな。うるさくなさそうだし、品があるって感じだろ?そういうのは良いよね」

雛乃のうつむいた首の角度は一層下を向き、「ひどい」と呟いた。

・・瑞樹芽吹なんて、あたしじゃどんなに頑張っても全然無理じゃんか。

視界いっぱいのカウンターが涙でぼやけた。

ああ、全部無くなれ、ぶっ壊れろ!

雛乃は両膝を押さえつけていた手を握り締めた。

その時、再び雛乃の携帯が夏美からのメッセージの受信を告げる反応を示した。

今日はやけにしつこい。何なの。

雛乃は携帯を遮二無二しゃにむに掴み内容を確認すると、短く返事を返し、電源を切った。

[何してるの(´・Д・)」]

[遊都とせっくす]

そして携帯をバックに突っ込んで立ち上がろうとしたその時だった。

突如強烈な金属音が雛乃を襲った。

何事かと思わず雛乃は周囲を見回したが、その音の出処は分からず。両耳を抑えても、仏壇のお鈴を耳元で鳴らしたかのようなその音は頭の中でどんどん増していくばかりに思えた。

そして呼吸と身体を巡る血液の循環が止まったかのような感覚がしたと感じた次の瞬間、全身がぞっとし、鳥肌が立った。その禍々まがまがしい気配は正面の硝子窓の向こうから発せられていることが雛乃には分かった。

公園のブルーシートの隙間から腕が生えている。

「え、何、あれ」

往来する人々の日常的な風景の中で、明らかに異質な存在感を放っているその腕に気を留める者は無い様子だった。

ただ、日常の背景に明らかに不自然な腕が一本浮いている。

その手首の辺りから何かがぼたぼたと滴っていることに雛乃が気付いた次の瞬間だった。

ズルッとブルーシートの中から、どす黒い塊のようなものが出てきて行き交う人の中で膝を着き、項垂うなだれた。

雛乃はギョッとして後ろに引いた。

その黒い塊は行き交う人々の間をうごめくようにして、膝を伸ばした。それは雛乃と同じ学校の制服を着た少女だったのだが、全身が赤黒い血に塗れている。

そして、雛乃はその死体のような少女の顔に見憶えがあることに気付いた。

「•••芽吹?」

赤子のように据わらない頭が不規則にガクガクと痙攣し、ぼたぼたと粘液質の体液を垂らした。

雛乃の耳鳴りは止む気配が無く、寧ろ一層激しくなっていく。

公園を囲うブルーシートの中から引っ張り出されるようにして現れた死人の様な芽吹の肌が朱黒い髪の隙間から青白く覗いている。

朦朧とした意識の中にあるようなその表情は、半ば白目を剥き、笑みを浮かべているような口元が何かをブツブツ呟いている。

雛乃の直感は理解を超えた目の前の出来事を一人で受け止める恐怖から庇護してくれる何かを探したが、声を上げるという手段に至らず、一番近くにある遊都の肩を引っ張って揺らした。しかし、その手は突然放り込まれた異次元から救い出されることは無く、無言の内に振り払われ、雛乃の身体と注意はその混乱にはりつけにされ、金縛りになったかのようだった。

芽吹は姿の見えない何かに腕を引っ張られるようにして、こちらに、つまりは、雛乃と遊都の居るマック方に引きずられて近付き、そのまま視界から消えた。

「あらあら、楽しそうね。こんにちは、如何お過ごし?」

突然聞き覚えのある声が後方でして雛乃はギョッとした。

それは何日か前に雛乃が見た悪夢の中に出てきた声だった。

ドラッグを何百倍、何千倍にもしたような多幸感、歓喜の極限の中、雛乃は名も知らない少年に腕を引かれ穢圡町を引きずり回されていた。

その夢の中で歩道橋の上に居た魔女にかけられた声と同じものだ、そんな確信が雛乃の全身を貫いた。振り向くと、雛乃と遊都の後方にある席に座っていた男女四、五人のグループが雛乃を見つめていた。いずれも喪服のような黒尽くめの出で立ちで、焦点が合っていないような目をしている。

そのグループの中で唯一席に座って居ない者が在った。片手の甲と手首が当てられた腰から弓のように反った背筋の曲線が先ず在り、他の肢体はそのことによる不安定な重心を補正するように曲がり、伸び、何とも名状し難い奇妙な立ち姿、そして店の中で明らかに浮いている黒い網目のヴェールの付いたトークハットを被った女だった。どうやら声はその女が合流したグループに発したようだった。その女は黒尽くめ達の視線を辿り窓の外を眺め「おっそろしい。なんや殺人事件あったらしいわ」と言った。

黒尽くめの男女は何がおかしいのかクスクスと笑っている。「団長がやったんじゃないんですか?」団長と呼ばれた女は、雛乃にいぶかしげに見つめられていることに気付くと「何言うとるんや君は、人聞きの悪い。なぁ?」と言い、顎を少し上げ雛乃にキスするようにして赤い口紅の付いた口先を鳴らした。

再びギョッとした雛乃に、黒尽くめの内の一人が「気をつけてね。このお姉さん、レズだから」と言い、団長と呼ばれている女は妖しくニヤリと笑って唇を舐めた。雛乃は青ざめて顔を逸らし、正面の硝子窓を向き、硬直した。「ほな、行こか」「団長、次回分のチケット未だ出来て無いですか、何枚か捌けそうなんで早目が良いです」

あるで、後で渡すわ。

そんな話し声が階段の方に消えて行った。


硬直した雛乃の隣で遊都は相変わらず携帯を弄っている。

「帰る」

「あ?」

「あたし、疲れた、帰るから」

そう言ってグッタリと疲弊した表情の雛乃は立ち上がった。

その顔を見ることなく、遊都は「あ、そ」と応え、雛乃はヨロヨロと階段の方に向かう最中、突然吐き気がこみ上げ、トイレに駆け込んだ。



「今日、朝9時頃、籠目市穢圡町の穢圡町公園内に設置されているゴミ箱内より、血のようなものが流れ出ているとの通報があり、通報を受けた警察が調べたところ、ビニール袋に入った女性の頭部と思われるものが発見されました。

警視庁では殺人、死体遺棄事件として捜査を開始すると共に、DNA鑑定による被害者の特定を急いでいます」

「ご馳走様」

「今日はずいぶん早いね、食べるの」

芽吹の母親が言った。

「そうかな」

母親はいつもと微妙に空気感の違う芽吹の様子が引っかかった。どことなく表情や返事が素っ気ない様に思った。

「何かあった?」

母親の問いかけに芽吹の動きは小さく揺れて止まった。

「何もないよ」

芽吹は自分の食器と空いた小皿を重ねて立ち上がるとシンクで水に漬けた。

母親は、そ、と言って焼き魚を口に入れた。

芽吹はそわそわした様子でタイニングから出て行った。


自分の部屋に戻り、電気を付けると机の上に置いてある赤紫色の本が芽吹の視界に真っ先に映った。

心臓がトクンと強く打った。

あれを見たい。

本の前にある椅子に腰掛けると、いつもより椅子がギシッと鳴った気がした。

こんな大きな音がするのだったか。

目の前には『虐徒の法悦』がある。

何だろう、確かに何かおかしい。隠れて悪いことをしているような気分だ。

子供の時に母親と離婚した父親の浮気現場に偶然出くわして、その様子を陰から覗いていた時の感覚に似ていた。

芽吹は止まっていた手の指先でしおり紐を引き本を開いた。

分厚い本のページが広がり。

はらわたを狼に引きずり出される女神の挿絵が目の前いっぱいに広がった。

感情が身体の奥から胸を突き上げ心臓が耳の内側に脈打つほどに大きくズキンという音を響かせると、白黒の挿絵に艶かしい色味が滲み広がっていった。


全身から淡い光を放つ女神の両腕は力なく斜めに広がっていた。指先は開かれていたが意志のようなものが通っている気配は無く、背後の漆黒に拘束されているようにも見える。

それ自体が淡く光を放つような純白の布が頭からふっくらした乳房や臀部の曲線の上を這うようにして覆い、甘く濃厚な薔薇の瘴気と共に大きく波打ち部屋の床に紅く広がっている。

黒い悪魔のような妖気をまとった巨大な狼はその布と肌を食い破り、内臓を無慈悲な顎の力で引きずり出している。

この瞬間の為に存在するかのような鋭い歯は肉に深く喰い込み、その目は神聖なる身体を食事の対象に変えるという冒涜の狂喜に血走っていた。

首を垂れ、為すがままに滅茶苦茶にされる全てに芽吹の視線は落ちていた。

はらわたうずくまるようにして貪っていた狼は「醜いか、嘲るが良い。だが俺はどんなに抵抗しても徹底的にお前を犯し尽くしてやる、ざまあみろ」と言って睨め上げ、そして芽吹の首を丸ごと喰らうかのように噛み付いてきた。

首にめり込む顎の力から、芽吹は絶望感のような物が伝わってきた。それは語られる言葉よりリアルで立体感があった。

その獣の存在性の全てが叫んでいた。

神よ、何故俺を創った。

両脚が爪先までギュっと伸び、緊張した太腿や脹脛ふくらはぎが熱くなる。

ころされる。私、しぬ、しぬ!

真っ白な感覚の中に意識が飛び散る。

そのまま芽吹は巨大な耳鳴りの中、痙攣するようにして椅子の背もたれに叩きつけられ弓のように仰け反った。

そして深い吐息と共に自分の首を絞めていた手は、芽吹ごとダラリと暗闇の中に崩れ堕ちた。



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