ⅷ∴Ω真理教の法則

「私は呪われてるとか変だって言われる。


突風が吹いて近くの窓ガラスが割れて怪我したり、カラスが空から落ちて来てクチバシで怪我をしたりする。

でも私が変なら私の家族みんな変だということになる。あまり周りでは同じような人を聞いたことが無いもん。変ってそういうことでしょ?私にとっては呪われてるのが日常なんだけど。

ヨガって知ってる?私のお父さんとお母さんなんだけど、ヨガのグループで出会って結婚したの。ダイエットの体操じゃなくてね。座ってね、身体の中の色々なエネルギーの蛇口をひねる方法。

それが使えると聞こえないものが聞こえたり、見えないものが見えたり、老化しなくなったり、あと身体から幽霊だけ出て散歩したりとか出来るのよ、怪しいでしょう?

二人は今はもうそのグループを抜けてる。恋人を作ってはいけないっていうルールがあるグループだったんだって。何でだろ、変なの。今は二人で喫茶店をやってる。つまりこの店ね。

でも、お母さんのお母さん、つまり私のお婆ちゃんはもっと変わってるのよ。私が占いに興味をもった切っ掛けになった人なんだけどね。

インフルエンザのことについて調べてたの。外国で“星の影響”っていう意味の言葉があるんだけど、インフルエンツァって言うのよ。昔の人は一定の周期で流行する病気と星の動きに関連性を見出した訳ね。それから占星術に興味をもったんだけど、ああ、これじゃあ分かんないよねえ。

お婆ちゃんはイタコっていう仕事をしてる人だったの。外国だとシャーマンっていうらしい。死んだ人の魂を呼び寄せて身体を貸すことが出来る人のことを言うのね。

まだ生きている人に死んだ霊を会わせて話をさせてあげたりするの。

一度だけお婆ちゃんが10階建てのマンションから落ちちゃった子供の霊を呼び寄せたのを見たことがあるの。確か名前は、ひかるくん。

お祈りをしてケーッて言ってパタリと倒れてね、起き上がるとお願いに来ていた男の子のお父さんとお母さんのほうによっこいしょっと座り直して「お父様、お母様。お元気で御座いませうか。わしゃとってもはっぴい」って言ったのね。でも、死んだ息子がそんな喋り方をする訳がない、馬鹿にしてるってお母さんが泣き出しちゃって、その時はもうめちゃくちゃ!死んだ男の子のお父さんも一緒になって、やっぱり来たのが間違いだった!なんて怒り出しちゃって大変!で、問題はその後。

お婆ちゃんはきょとんとしてそれを眺めながら「泣かずともよい、こちらは居心地が大変結構。ただ、何がわしを死に追いやったかといえば、ネンコロの薬じゃ。わしのおつむに森羅万象が流れ込んだのじゃ。あれはこわいこわい。故に儂は此処まで逃げのびた」って言ったの、そしたら男の子のお母さんがピタリと泣き止んだの。思い当たる節があったのね。

昔ある種のインフルエンザの薬を飲んだ子供が変な行動をとるって、ニュースでたくさん出ていたことがあったの。お母さんは何と男の子がベランダから落ちる直前にその薬を飲ませてたの。お婆ちゃんにはそのことを教えて無かったから、男の子のお母さんは驚いちゃって「ネンコロの薬って?」って確認する為に聞いたのね、そしたらお婆ちゃんは「ネンコロはネンコロじゃ。わしゃねんねんおころりよ」って喋って別の話にどんどん変わっていったんだけど、後で調べたらネンコロ風邪って言って、江戸時代のある年に流行ったインフルエンザのことだったのね。

私は元々説明の難しい変な物が見えたり聞こえたりしてたけど、それから占いとか、不思議なことに一層興味が出るようになったというわけ。

でもね、自分の家族を変だ変だって言ったけどね、学校の皆が聞こえないっていうものが聞こえたり見えたりすることが私にとっての普通だから、そんなにおかしなことだともやっぱり思ってないの、本当は。

私が変だと思うのは教科書に出てくる花子。私の名前は華子なの、花子じゃないのね。苗字は屑嶋くずしまなの、山田じゃないの。でも教科書の問題とかに出てくる女の子とかは山田花子でしょう?市役所で住民票が欲しい時に書かないといけない用紙があるでしょ?あれの書き方の例には山田太郎って書いてあるけど、女の子だったらきっと山田花子に違いないわ。絵とか入ってると全部おかっぱの刈り上げの赤いワンピースじゃない?戦後の子みたい。だから私は赤いワンピースは嫌い。でも花子じゃなければ今度は山田貞子とか山田クズ子とか言われるの。山田クズ子ってもう訳が分からない。

それも不条理ではあるけど、私の中でもっと変だなって思うのは今こうして生きてて、世界がここに存在してること。そっちの方がよっぽど変だと思うんだけどなあ、突風でガラスが割れたりすることより。そのことは皆変だと思わないみたいなんだけど、私からするとそれが一番変だなあって思う。フルマラソンを走れる人が居る位だから、目や耳が他の人より良い人もいる。インドのババジっていう人はヨガであり得ない位長く生きてるらしいんだけど、私にはフルマラソンの方が凄い。

実は私はオーラとかも見えるの。それにしたって体からは熱が出てるでしょ?熱って遠赤外線っていって、つまり光らしいのね。生き物は体から光を発してるの。それって人より少し目が良いだけだと思うんだけど、どうなの?

そんなことより生きてることはもっと凄い。

何かの本で「なんと摩訶不思議な、私は炭をもち、水を汲んでいる」っていうのがあったんだけど、何か分かる気がしちゃう。

生きてるって元々とても不思議じゃないかな?どうなの?」



《『アデプトへの回帰〜クンダリーニ•ヨーガ純粋瞑想』

ヨーガは体内に存在するとされるエネルギーセンター、チャクラを活性化し、人間に眠る秘められた力を覚醒させ、世界との合一を果たすことを目的とする瞑想法である。

ヨーガは名前や様式は異なれど、ヒンドゥー教や禅、密教だけでなく西洋の神秘体系の礎にもなっており、瞑想の存在しない神秘体系は存在しないとされる。

これらのキーワードは科学や医療の発達した現代に生きる我々にとって眉に唾を付けるような話題と分類されることも多い。しかし、スポーツの試合前のイメージトレーニング等、形を変えて我々は日常的に瞑想を行っている。

そしてその瞑想の中で最も長い歴史を持つのがヨーガである。

ヨーガのチャクラは超能力と結びつけられて語られることが多いが、非科学的だとそのまま流してしまうには余りある事柄が存在する。ヨーガの経典において、身体の中心に沿って7つあるとされるチャクラの内、6つが体内のホルモン分泌腺と一致している点がその一つだ。

蝶は、芋虫から蛹という形態を経る。この形状的にも生体的にも極端な変貌はホルモンの働きによるものである。

人間においてもその働きは男女の性差として個体に多大な影響を与え、時に超常的とも形容されるような能力として現れる。

鼻から15mm程入ったところに周囲に浮遊する化学物質を知覚するヤコブソン器官というものがある。妊娠時の女性は胎児を守る為、この器官の能力が飛躍的に向上し、他の鋭敏になった知覚との複合的判断により人間の心や思考を見抜くことがある。これはその能力を経験出来ない男性にとっては超能力と名付けられてしまうレベルの勘の鋭さと言える。

ホルモンには未だその作用がどのような効果を及ぼすのか未知の部分が多く、体内にある6つのチャクラに、対応する分泌腺から出されるホルモンに関しても明確には分かっていない。それが科学的にどのような効果があるかという点に関しては現在も研究が進められているが、ホルモンが個体に与える多大な影響からの類推と、体内のチャクラと分泌腺の位置の一致から、ヨーガとは自らの身体的変化を自律的に促す為の手段とも捉えることができる。

額の位置にあるアージュニャー•チャクラは、第三の目と呼ばれ、ここを開くとヨーガでは透視能力やテレパシーが備わるとされている。

このチャクラは松果体という分泌腺の位置と対応しているが、細胞がごく若い胚の時期、松果体は網膜ニューロンなど、眼をつくる細胞になる可能性を持っている。ここを第三の目と何千年もの昔に呼んでいた古代人が何かしら現代人が知り得ない知識を持っていたとすれば、彼らの言う千里眼やテレパシーと訳される能力は、実際何を指すものなのだろうか。》



学校から穢圡町を抜けると、壹全商店街いちぜんしょうてんがいと書かれた大きなアーチ型の看板がある。看板の枠に付いている豆電球の電飾はいつも殆ど切れたままになっている。そのアーチの先は昭和から続く古い木造の建物で埋め尽くされていた。一本一本の道が狭く入り組んでいて、どこに行くにも細い階段を上がったり下がったりする。そんな道ばかりだから車なんかは勿論全く通れない。

地上に居ても周囲の建物の軒で空が殆ど見えなかったり、壁からダクトや何かのパイプやらが剥き出しで突き出ているような場所があったりする。

それらをくぐっているうちに地上だか地下だか分からなくなってしまい、気を抜くと籠目市民の芽吹も迷ってしまう。

そんな迷路の様な通りに面して八百屋や魚屋、駄菓子屋、ボロボロのコインランドリー等が並ぶ、華子の家族の経営する店舗兼住宅のカフェはそんな場所にあった。


「夢?」

「そう変な夢。ええと、あの人、名前なんて言ったかな」

店内にはうっすら白檀の薫りが漂っている。

芽吹はここに来る前に寄った図書館でいつの間にか気を失っていたこと、そしてその最中に見た夢のことについて華子に話した。

「血塗れの私が知らない男の子に腕を引かれて、たくさんの怪物がいる街の中を走っているイメージ」

芽吹は映像として記憶に残っている印象的な怪物の容姿の特徴をあげた。そのいずれもが本来の人間の形を歪ませたようなデザインだった。

「何で芽吹ちゃん血塗れなの?」

「うーん、何でだったかな。何かとんでもないことがあったような気もする」

不意に脳内に眩しく光る図形が浮かんだ。

「あ、星模様」

華子は星模様?と繰り返す。

「一筆書きの星模様が出てきた、でも上下が逆向きなの。ああ、でもそれも何だったかな。暗い世界にふっと現れる星模様のイメージ」

丸い木製の小さなマホガニー材のテーブルに二つ並んだホットココアから甘い匂いが立ち上っている。

華子はココアを一口すすると小さな顔に不釣り合いな大きな黒縁眼鏡を外し、曇りを拭き取りながら言った。

「逆向きの五芒星は悪魔を表す形なのよ」

「悪魔?」

「そう、バフォメットっていう山羊の頭をした悪魔。その頭の形は逆向きの五芒星のデザインになってるの。ちょっと待っててね、書くものとってくるから」

華子は席を立つと店のレジの方へパタパタと歩いていった。

芽吹は何となく店内を見回した。小さなカフェはそれなり繁盛しているようだった。

店は元々書店だったものを改装したらしく、その作りを活かして建て付けられた本棚に華子の両親の趣味なのか何やら怪しい本が詰まっている。

『ヴェールを脱ぐカバラー』『死の文化史』『猫を愛で尽くす本』『アデプトへの回帰〜クンダリーニ•ヨーガ純粋瞑想』『虐徒の法悦』

(虐徒の法悦?あ、この本知ってる)

「おかえり」

「え?ああ、おかえりなさい」

華子が戻ってきて、椅子に座った。

そしてテーブルの上のペーパーナプキンを一枚取ると、そこに鉛筆で五芒星を描いて、上下が逆に見えるように芽吹の前に置いた。

「一筆書きの五芒星を上下逆にすると、先端がそれぞれ上斜めに2本、左右に2本、下に1本になるでしょう?この上斜めの2本が山羊のツノ、左右の2本が耳、下の一本が顎ね」

そう言いながら華子は鉛筆でそれぞれの先端を突いた。

「うん、正面を向いた山羊の顔に見えてきた」

「でね、それには深い意味があるの」

華子は辺の幾つかを鉛筆で示した。

「こことね、ここが“黄金比率”なの。あと、こことここも、そこも、それも、全部」

どうやら五芒星は華子の言う“黄金比率”の塊のような図形であるらしい。

φファイ、1対1.618…、小数点以下無限に続くんだけど、大体5対8。この比率がね、たくさん出てくるの。絵画の構図やギリシャの神殿、あと着物の帯の位置とか、自然と人間が綺麗だなって思えるものに含まれている比率なの」

「デザインに用いると綺麗だと感じる比率ということかな?」

「うん、だけどね、似てるんだけどね、全然違うのよ」

華子は首を横に振りながら、感じていることに当てはまる言葉を探すように両手をバタつかせている。

「だって巻貝の渦巻き、銀河の渦巻きのデザインもその比率が関係しているの」

「ん。銀河のデザイン?何か変」

芽吹は自分の理解と華子の言葉に直感的にずれのようなものがあるのを感じた。

華子はするりと消えてしまいそうな自分の気持ちの端っこを引っ掴み、言葉を続けた。

「あとね、それとね、地球上の花の花弁の枚数が全部このφに入ってるの」

「花弁の数?」

「うん」

「比率に花弁の数が入っているの?」

華子は紙ナプキンに数字を書いていく。

「1、1、2、3、5、8、13、21…、左の数字と自身を足して右に書いていくの」

「1+2=3、2+3=5、3+5=8、っていうことね。」

「うん、フィボナッチ数列っていうんだけど、この単純なルールで現れてくる数字の中に地球上の全ての花の花弁の数が入ってるの。でね、増やしていくに従って隣り合ったある二つの数字の比率は限りなくφに近づいていくの。あ、ほら、さっき大体5対8って言ったでしょ?ここにも5と8出てきてる」

(※百合は3枚、蝦夷菊は21枚、向日葵の144枚、等。例外も幾つかあるが、それらはフィボナッチ数を単に2倍にした品種改良のもの、或いは最初の数字が1、1、2、から1、3、4、に変わっただけで、同じフィボナッチ数列の規則の上に成り立つ数字に収まってしまう)

「ああ、逆だ」

不意に目の前が明るくなったような表情をして芽吹は言った。

「そう!うん、そうなの」と、華子は嬉しそうに笑う。

「自然を感じるものを人は美しいと思うのね」

芽吹は、はぁー、と少し身を引いて感心して言った。華子は気持ちが伝わった様子に安心して微笑んでいる。

芽吹には五芒星が自然という言葉より自然を体現している“言葉”に見えた。そして歴史の授業で聞いた“万物は数なり”というピタゴラス学派の言葉を思い出した。

「バフォメットというのは、この神秘的な形をひっくり返して悪魔だと言っているということかな」

「そうなの、どういう角度で見るのが正しいっていうのは人の決めることなんだけどねえ」

この図形にしたって、机を挟んでみれば逆向きになってしまう。かといってその図形の性質が損なわれることはない。

「単純な法則の積み重ねで複雑になった世界の設計図の一つなの、五芒星は。あれもね、似てるのよ」

そう言うと華子は壁を指差した。

何かアジア調の幾何学模様のアートのようなものが印刷されたポスターが壁に貼ってある。芽吹はそのポスターをじっと眺めた。

「全体の中に一部があって、かつ、一部の中に全体がある。あそこに貼ってあるのは仏教の曼荼羅まんだらって言う世界の構造を書いた図なんだけど、大体同じ構造になっているの。鏡合わせ、世界の中の世界の中の世界、表裏一体の光と影、陰陽」

華子はそう言いながら五芒星の内側に出来た角が下に向いた正五角形の頂点を結び、逆向きの五芒星を書いた。同じことを繰り返していけば、五芒星の内側にはどんどん順に五芒星を描いていくことができることが分かる。

「上手く言えないけど、凄いね。華ちゃん不思議なことを知ってるのね。何か今日は別人みたい」

芽吹は感心して言った。

「変な物や本がたくさんあるから、ここ。だからみんなの変は私の普通なの。だから私からすると学校の皆が変に見えるのねえ」

華子はココアを一口すすると小さな顔に不釣り合いな大きな黒縁眼鏡を外し、曇りを拭き取りながら言った。

ふと芽吹は先程見かけた見憶えのある本のタイトルを思い出した。

「そう、華ちゃん。その棚に入っている本なんだけど、どんな内容か知ってる?」

華子は芽吹の視線を追って古いボロボロの背表紙に指を伸ばした。

「これ?『虐徒の法悦』」

「うん」

芽吹は頭が大きくグラリと揺れる感覚がした。

「読んだことないかも、何で?」

「さっき、図書館にいた人が読んでたの」

「男の人?」

「男の人、同い年位かな」

「ふうん・・、かっこいい?」

芽吹はパチパチと瞬きした。

「・・かっこいい??」

華子が悪戯っぽくはにかんでみせる。

「めぶちゃんが男の子の話をするのって初めてだったから、何となく聞いてみた」

「あはは、そういうのじゃないよ」

芽吹の脳裏に一瞬、高天ヶ原高台のあずま屋で逆光に浮かび上がるシルエットが浮かんだ。

「全く知らない人」

それは一瞬芽吹をはっとさせた。

しかし図書館にいた少年との繋がりを考えれば考えるほど、その像は曖昧になり、煙のように跡形も無く消えてしまった。



「当時処刑見物は人間の嗜虐心、暴力衝動を満たす最高の娯楽であった」

「凌遅刑、えーと、肉を削り取る。生きたまま骨や内臓をさらけ出されたまま市場にさらされた」

「断頭台に送られた残虐と美貌の女王、メアリー•スチュアートの首はうまく落ちず、斧で何度も挽かれた。首無しの死体は何度も処刑人に犯された。ありゃ」

華子はカフェの棚から『虐徒の法悦』を引っ張り出してページを適当にパラパラ巡ると、目についた文章のいくつかを読み上げた。

「こんなのがずーっと、書いてあるみたい。皮剥ぎ、水責め、内臓摘出」

不穏な言葉の羅列に芽吹の表情は複雑に曇っている。

「色々な拷問や処刑の歴史が載っている本なのかな?」

「うーん。酷いことを考えちゃう人間を賛美するような内容に見えるなあ。あ、ほら、この辺とかも、《絶望の頂に上り詰める時、苦痛は苦痛を捉えられなくなり、快楽も人生も幻であったことを悟るのだ。永遠より長い拷問の中で。》」

芽吹は首をかしげている。そして考察に関する論拠を読み示そうとした華子本人も何故か首をかしげている。

「うん、読んでみたら何とも言えない感じだったけど」

華子は本を閉じテーブルの上に置いた。

「何か、詩みたいね」

芽吹の言葉に華子は胸の前でぽんと掌同士を合わせた。

「そうそう、そういうこと。何か変でしょう?本のあっちこっちからため息が聞こえたの。この人、惨酷に片想いしてるの」

惨酷に片想い、道徳的なバランスを極端に欠いた事柄に憧れを持つ。そんな人間がいるとすれば、

「そんな片想いがあったら、きっと悲しいことになってしまうね」

ふと、胸の前で合わせていた手の指先を交差させた華子に見つめられていることに気付いた。

「あなたの感性好きよ。きっとこの本を読んでる男の子も芽吹ちゃんのことを知ったら好きになると思うな」

華子の言葉に色々思うことや、何か指摘をしたくなる気持ちが芽吹に湧いたが、いつもより楽しそうな華子の様子に、「そうねえ」と受け流し、何気無く机の上の本を手に取って開いた。

そして本に視線を落とすと、不意に芽吹を不安の感情が襲った。

白い布をまとった淡い光を放つ女が黒い狼に内臓を喰われている挿絵がそこにあった。

何気無く本を開いた気持ちの軽さには釣り合わないグロテスクな挿絵だったが、何より芽吹に不安の感情を呼び起こさせたのは、挿絵の女が瀕死の怪我を負っていることでも、その傷口を食い荒らす狼の存在でも無く、その女が命を差し出すように両手を緩く開いていたことだった。

女の表情は喰い殺される自分を受け入れ、首を垂れて死後の世界を見ているようにも、破れた下腹部から内臓を引きずり出す狼を慈しむように眺める表情にも見えた。

次の瞬間、その女の心は本に収まり切らないほどに膨れ、本から溢れ出し、芽吹の感情に入ってきた。

芽吹は黒い狼の気配を周辺に感じた。感情の中に残された僅かな“芽吹”性は胃から込み上げる自分の血の匂いを感じ取り、戦慄し、次の瞬間勢いよく本を閉じていた。

「大丈夫?」

恐怖の余韻が芽吹の周囲に強く漂っていた。華子は芽吹の手から本をそっと取り、手をぽんぽんと撫でると、「しまってくるね」と席を立った。

あの少年は、どんな感情であの本を読んでいたのだろう。

そんなことを芽吹は思った。



また明日ね。また明日。

目の前を子供が手を振りながら駆けていく。

帰り道、胸の鼓動は少し早く打っていた。そのリズムに合わせて芽吹は街灯が灯り出した壹全商店街を歩いた。

芽吹は薄暗くなった商店街のどこかから聞こえてくる歌声に合わせて小さく歌っていた。

カバンの中には華子から借りた『虐徒の法悦』が入っている。


かこめかごめ

かごのなかのとりいは

いついつでやる

よあけのばんに

つるとかめがすべった

うしろのしょうめんだあれ

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