第終話(第14話) そして……

 ——と、

 そのまま気怠い疲労に身を任せて、心地よい眠りに落ちようとしていたハルトは、けたたましい鳥の鳴き声によって揺り起こされた。

 のろのろと上体を起こして見れば、元の体に戻ったヴァイオレットが、腕に抱えた鳥を乱暴に投げ捨てているのだった。

「ヘンタイ!」

 肩で息をして、声を振り絞るように叫ぶ。

 その表情は、誰が見たって怒っていた。

 半泣きで、怒っている。

「ヘンタイへんたいヘンタイへんたい、変っ態!」

 静かになった町に、少女の声だけが響く。

 頬に描かれた雫が、一足先に溢れ出てしまったかのようだった。

 叫び終えると、ヴァイオレットは己の体を見下ろして、ほこりでも払うように胸から、腕から、腰から——全身を叩く。そうして震え上がると、何かから自分を守るようにぎゅっと抱きしめた。

「うぅ……気持ち悪い……。

 お、お風呂に入らなくちゃ……ううん、水浴び……禊ぎ! 禊ぎをしないと!」

 どこも見ていない菫色の瞳でうわ言のように口走ると、決意を秘めた表情で固くうなずく。その姿は、無理に背伸びして大人びた振る舞いをするのではない、年相応に狼狽える少女そのものだった。

 危うく地面に叩きつけられそうになったアルグは、赤い翼を広げて羽並みを整え、小首を傾げて不満そうな声を絞る。

『そんな……ヒトをばっちいモノみたいに言わなくても……』

 その声はいつになく弱々しかった。アルグとしても、他に方法が無かったのだから仕方ないと居直る一方で、勝手に体を拝借して申し訳なかったかなぁという罪悪感を多少感じてもいるので、強く出られないのだった。逃げ場を探して首を巡らせてみるものの、ハルトが通訳しないのを良いことに、サビーノは急に用事を思い出したかのようにそそくさと顔を逸らすし、キィナに至ってははっきりと黄色の瞳を険しくして、「サイテー」と魔女の味方をする。最後の頼みとすがる視線を向けられたハルトにしたところで、こればかりは援護できない。アルグはがびんとくちばしを開けた。

『こ、孤立無援か。

 ッ……い、いいじゃないか! これも修行だ! 貴重な経験を積んだと思え!』

 そして開き直る。

 翼をばたつかせる鳥に、ヴァイオレットは精一杯の憤りを瞳に燃やして、涙声で言い返した。

「ふ、ふざけないでよ。

 なんだって言うのっ? わたしっ、わたしの体で、勝手なことしてっ。その上、トリに……トリにさせられてっ……ほんとに、気持ち悪いのに……っ!

 それを、経験なんて、よく……——ひゃっ!」

 体まで跳ねさせて、短い悲鳴を上げる。ヴァイオレットは口元に手を当ておののいた。

「なんで……? なんでわたし、トリの言ってる事が分かるの……?」

 一瞬きょとんと小首を傾げたアルグが、直ぐにしたり顔でうなずく。

『ほらみろ。それが魔法だ。

 経験すれば身に付く。

 いやぁ、実に好都合。これでハルトにばかり通訳を頼まずに済むな!』

「いやぁぁあぁぁぁぁ……!」

 それまでだって充分に混乱を極めていたヴァイオレットは、それで許容量を振り切ってしまったらしかった。思考を放棄して、頭を抱えてうずくまる。膝に顔を伏せて、本気で泣き出した。さすがに見ていられなくなったサビーノが、慰めようと声を掛けても、低く呻くばかりで取り合わない。——というより、彼女にはもう聞こえていなかった。

 ついさっきまでの、緊迫した空気はなんだったのだろうか。

 ハルトはそんな騒動を、ぼんやりと、遠くに聞く。

 一大事件の幕引きなんて、結局こんなものなのかもしれない。

 そう思う、ハルトの意識まで遠ざかった。倒れる、ごつごつした地面の硬さも気にならない。今度こそ、ハルトは気を失った。




     ▽ ▽ ▽


 それから数日後。

 ハルトが自宅で作業していると、ミラとサビーノが連れ立ってやって来た。ミラは片手に提げた籠にパンを山盛りにして、サビーノは両手で抱えた木箱に食料やら衣類やらを山盛りにして持っている。

 ハルトは手を止め、顔を上げた。

「ハル坊、生きてるか? 差し入れだぞー」

「あら? 女の子たちは?」

 ミラが居間を見渡して首を傾げる。

 ハルトの傍らでは、アルグが食卓に本を広げて眺めていた。相変わらずの鳥の姿で、大きなくちばしやあしゆびを使って器用に紙面をめくる。本を読む鳥だ。知らない人が見たら——知っているハルトが見たって、それはなんとも奇妙な光景だった。

 ハルトはサビーノに礼を言って荷物を受け取りながら、返事をした。

「キィナは森」

 朝食を終えると直ぐに出掛けていった。

 暇だから、体が鈍ってしまうから、落ち着かないから——などと理由を並べているけれど、本音はこの家が怖すぎるから、だ。コードリッカ本島でさえ居心地悪そうにしていたのに、空の人でも住もうとは思わないこんな小島では、居ても立ってもいられないのだろう。ここに避難してきた時なんて、家を目にするなり蒼白になっていたのだとか。

「魔女さんは、部屋」

「そうなの……」

 ハルトはヴァイオレットにあてがった、本来はハルトの母親の部屋へと続く扉を見遣る。ミラもまた、眉を曇らせてそちらを見た。

 ヴァイオレットはここに来てからも立ち直れず、塞ぎ込んでいた。寝台で寝ているならまだしも、部屋の隅で毛布を被ってうずくまっていることが多いらしい。ハルトはなんとなく部屋に入れないでいる。食も細いので、ミラがあれこれと気を遣っていた。

「着替えを渡してくるわね」

 微笑んで、ミラは布の包みと一緒に果物を持って、部屋を出ていった。

 あれから間もなく、コードリッカにはあちらこちらの方面——行政やら、魔法院やらから、調査の人たちが数多くやって来た。その人たちの宿泊先として、また家を無くした島民の一時避難先としても使われている宿屋は、どこも満員で大忙しだ。

 それでなくても、事件の主謀者の共犯であるところのヴァイオレットや、世界的に有名な大悪党で、現在魔法院によって指名手配中のアルグを、金枝亭のような人目に付く場所に置いておけない。オルレインの息子であるハルトや、地上から来たキィナにしても、詮索されると厄介な身の上だ。そんなわけで、町の外れにあるハルトの家にまとめて匿われているのだった。

 自由に出歩けないハルトたちに代わって、ミラとサビーノがこうして必要な品を届け、また町の様子を聞き込んできてくれる。

 それによると、コードリッカの被害はそれなりに甚大だった。甚大だったものの、その被害をもたらした獣が嘘のように消え去ったため、その分支援の手は迅速に差し伸べられたそうだ。今はぼちぼちと復旧に向けての作業が始められているのだとか。

 そんな支援の為の状況の確認作業はともかくとして、不可解な事象の原因というのか、正体というのか——真相を究明しようという動きの方は、難航しているようだった。

 獣が死体も無くどこかへ消えてしまったので、町に残された爪痕くらいしかその痕跡がないのだ。森にぽっかりと口を開けていたはずの大穴さえ、再び封印できた影響なのか、すっかり元通りになっている。——アルグがこっそり見てきたのだそうだ。さらに幸いなことに、魔神の毒も消えていた。

 つまり現在のコードリッカには、「誰も見たことがない巨大な獣に襲われた島」という人々の記憶にある事実と、それを証明する壊された町並みだけが、不気味に残っているのだった。

「ハルトはさ」

 椅子に腰掛けて、荷物を確かめるハルトを眺めながら、サビーノが不意に言った。

「あのままどこかへ行っちゃうかと思った。そこの鳥に連れられてさ」

 ハルトは顔を上げて首を傾げる。少し考えてから、普段通り、ぽつり言葉にする。

「片付け、あったから」

 一瞬きょとんとして、「違いない」とサビーノは笑った。

 あの後ハルトは、丸一日眠っていたそうだ。あまりにも慣れない事態に、心も体も疲れ切ってしまったのだろう。そうして目を覚ましたハルトの目の前にあったのは、ぐちゃぐちゃになった我が家と、大変な故郷。足を止めるには、充分な理由だった。

 だからハルトはまず、片付けをすることにした。足の踏み場だけを作って、それから、ひとつひとつを手に取り、ゆっくりと眺めながら。そこには思い出があった。父の絵も、手帳も——。なかなか、終わりそうにない。

 それに、

「知らなくちゃいけないこと、たくさんある」

 今回の一件を通じて、しみじみと、思い知った。

 ハルトは何にも知らなかった。

 世の中のこと、神話のこと、魔神のこと、両親のこと、それに自分自身のこと——。

 もっと、知りたいと思った。

 それにはたぶん、慣れ親しんだ島でじっとしているだけではダメで、父の絵にあるような遠い空へ、出て行かなければならないのだろう。行きたい気持ちも、あった。

 でもまずは、手元から。

 ここには、父の遺した資料がたくさんある。ずっと暮らしているこの島にさえ、知られていなかった秘密があった。

 外へ出るのは、それから。

 そうやっていろんな事を知って、実際に目にして、自分が本当にやりたいことを、見付けようと思った。今度こそ、あの人の問いにきちんと答えられるように。

 それに、

「強く、なりたいな」

 ハルトはささやくように、噛みしめるように、その言葉を口にする。

 ハルトはこの大変な出来事の中で、結局、何もできなかった。

 強くなければ、望み続けることすら叶わない。

 それが身に染みて分かった。

 このまま外へ出たとしても、きっとどこへも辿り着けず、ただ呆然と立ち尽くすことになる。そう思った。それは、嫌だ。

「……へえ。

 ハルトも男なんだな」

 食卓に頬杖をついて、サビーノがにやりと笑う。そんな風に微笑ましく見られると、気恥ずかしくなる。ハルトは顔を伏せてその視線から逃れ、小さく付け加えた。

「争うのは、苦手だけど」

『なに、暴力だけが強さではないさ。ハルトに見合った強さを見付ければいい——というより、ハルトはもう、他人ひとに負けない、否、真似できない強さを持っているじゃないか。まずはずっとほったらかしにしてきたそれを、磨くことだな』

「ぼくの——?」

「ああなるほど。それは確かに強力だ」

 首を縮めてふくふくと鳴くアルグの言葉を、ハルトの反応から推測して、サビーノも納得の表情だった。

「それにハルトは手先も器用だろ。

 それだって、俺からすれば強みだよ」

 そう言って、食卓に広げられたままの、未完成の木彫細工を手に取る。さっきまで作業していたそれは、木片を薄い円形にした透かし彫りの飾りだ。サビーノが親指と人差し指で上下を挟んで持てるくらいの大きさ。紐を付けて、首から下げられるようにするつもりだった。

 まだ不格好なそれをしげしげと眺めて、サビーノは眉を寄せた。

「ところでコレ、なんの動物だ?

 獅子? いや、狼かな?」

 円形の——八角形の枠の中には、大きな口を開けて吠える獣がいる。サビーノが分からないのも無理ない。それは父の絵にあった、言ってみれば空想上の生き物だ。ハルトは躊躇いがちに言った。

「ムルガン……さん」

「げっ」

 サビーノの顔色が変わる。手に持った飾りを嫌そうに卓の上に戻し、遠くへ追いやる。ハルトはまだ彫り途中のそれを受け取って、回し見た。

 ここにいる獣は、この前実際に見た本物とは違っている。あちらは耳が垂れて長い毛に埋もれていたけれど、こちらはぴんと立っている。遺跡の壁画にあったのを参考にして、父が記号化した図だった。

「なんで『さん』付け?」

「ともだち、だから?」

「なんだそりゃ。

 うーん、見た目けっこう格好良いから、魔除けのお守りとか言えば、売れなくもないかなぁ?」

『商魂たくましいな』

 横でアルグが呆れていた。

 ハルトも笑う。

 思えば、この真っ赤な鳥と出会ってから、本当にいろいろな事があって、怒濤のように時が流れた。あっという間の一日だった。

 びっくりすることがいっぱいで。

 恐いこともあって。

 ハルトの世界は様変わりした。

 だからきっと、これまでと同じではないのだろう。

 そんな予感が、ハルトの胸にはあった。



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