第13話狂人通り

 ぎいぎいと喚く鉄格子を引き開けて、ヒーア・ナイエヴァイトはひょっこり顔を覗かせた。

 見えたのは、薄暗い通りである。昼だというのに夜みたいに暗く、夜みたいに人気ひとけがない。もっとよく見ようと身体を更に中にいれて、途端にヒーアは顔をしかめて両手を口許に押し当てた。

「何て臭いなのかしら。カビと埃と、汗とそれから………」

「獣の臭い、ですかな」

 突然の声に、ヒーアは飛び上がらんばかりに驚いた。誰もいないと思っていたのに、今度は足音も聞こえてくる。

の連中は、動物が好きなんですよ。注意はしとるが、猫やら鼠やらは何処からともなく迷い込むもんですからな。そら、その扉も鍵をしとる訳ではないですし」

「あら」ヒーアは唇を尖らせて、踊るように鉄格子の向こうへと踏み入った。「こんな風に?それじゃあまるで、私が猫みたいだわ」

「いいえいいえ、そんなつもりじゃあありませんとも。もちろん貴女ほどの器量なら、連中大喜びででしょうがね」

 器量よしと言われては悪い気はしないし、元よりヒーアの機嫌など山の天気より変わりやすいのだ。にっこりと笑うと、彼女はくるりと回って見せた。エプロンドレスのスカートがふわりと膨らみ、埃を巻き上げる。

 くしゃみをするヒーアに笑いながら、声の主が暗がりから姿を表した。

 一目で、ヒーアは彼に【風船ピエロ】とあだ名をつけた。

 上等なタキシードを着込んだ男の身体は、同じように上品に言えば、正しく風船であった。腹はもちろん二の腕や太ももなど、身体の各パーツがパンパンに膨らんでいるのだ。

 ピエロの方は、もっとそのままだ。男は、

「サーカスなら、私道を間違えたわね」

「いいえいいえ、合っていますよ恐らくはね。そしてサーカスというのもまあ、まちがってはいませんよ。奇妙な連中がいるという点ではね」

「それじゃあまるで見世物小屋だわ、サーカスではないでしょう?」

「元々は同じですよ、貴女のように若いお人にはわからんかもしれんがね」

 誰にでもわかるようでなきゃあ説明とは言えないわとヒーアは思ったが、黙っていることにした。人の無理解を確信しているような人に、いったい何を理解させられるというのかしら?

 それに。お預けはそろそろ御免だった。

「それで、私が道を間違っていないとしたら。そろそろ披露してくれてもいいんじゃなくて、ピエロさん?」

「失礼しましたな、話が長いのが私の悪癖でしてね」ピエロは肩をすくめると、にっこりと不気味に笑った。「そしてお待ちしておりましたよヒーア嬢。貴女がいらっしゃることは、公爵夫人よりお聞きしておりますからね」

 気取った仕草で、ピエロは通りの奥を示す。

「さあ、いらっしゃい。ようこそ、我が愛すべき【狂人通り】へ!………お代は見てからで結構ですよ」



「私はアルツトと申します」

 カンテラを片手に歩くピエロは、山高帽シルクハットをひょいと持ち上げ、ユーモラスに挨拶をした。名札をしておいてくれればいいのに、とヒーアはこっそりと思う。しっかり覚えておかないと、うっかりピエロさんと呼びそうだったからだ。

 とはいえ、仮に名札があっても役目を果たせるとは思えなかった。覗いた通り道は暗く、胸元のちっぽけな紙なんて読めるはずもない。

「どうしてこんなに暗いのかしら、アルツトさん?外はあんなに明るいのに」

「あぁ、今は昼なのですか?ここにおりますと、時間は時計を見なくては解らなくなります」

「それは町のみんなもそうでしょうね、きっと。けれど、太陽がこんなに慎み深い所があるとは私、ちっとも思わなかったわ」

「空をご覧ください、ヒーア嬢」

 ヒーアは空を見上げた。少なくとも顔を上には向けた。しかし、そこには空は無かった。そこには、レンガを組み合わせた天井があるだけだったのだ。

「ご覧の通りですよ、ここは、塀と扉だけではなく、天井でも区切っておりますから」

「どうしてそこまでするの?」

 首を傾げたヒーアに、アルツトはくすくすと厭な笑い方をした。

「まあ、見ていただければ解りますよ。さあ、



「あぁ、あぁ、あぁ、あぁ………」

 通りの壁に、鉄格子が嵌め込まれていた。中には牢屋みたいに、四角くて、余計なもののない空間がある。そしてそこに、男が一人、ボロボロの布を纏って呻いていたのだ。

 ヒーアは鉄格子に近付いた。男は顔をあげた。それから、痩せこけて落ち窪んだ眼窩をヒーアに向けた。

「こんにちは、骸骨みたいな人。何をしていらっしゃるの?」

「………こんにちは、猫みたいな人。あまりこちらに来てはいけないよ。僕は気が狂っているんだからね」

「それを決めるのは貴方でなく周りの人だわ、貴方がそう信じるのは自由でしょうけれど。ねぇ、どうしてそう思うの?」

 男はのろのろと身体を起こした。それから、身体を不安定に揺らしながら微笑んだ。

「だって、僕は、

「生きるのにそう思わない人はいないわ」

「違う。僕はね、猫みたいな人。

 ヒーアは首を傾げた。男は、そんな反応は慣れっこだというように、気を悪くすることもなく話し続ける。

「お菓子の家みたいなものさ、猫みたいな人。僕にとっては、この鉄格子も、君のブーツも同じようにキャンディーに見える。食べたくて食べたくて堪らないんだ。………もちろん、?」男は肩をすくめた。「狼みたいに食べたら、狼みたいに撃たれる。そうならないように、僕はここで我慢をしているんだ。けれど時々限界になる」

 ちらりと男が、部屋の隅に目を向けた。ヒーアが視線を追うと、そこには、赤黒くて生臭い肉の塊が転がっていた。

 ヒーアが視線を戻すと、男はいつの間にか、鉄格子の直ぐ側に移動していた。男が手を伸ばせばヒーアに届くような距離だ。

 その顔を見返して、ヒーアは首を傾げた。

「………?」

「………え?」

「それがどうしたの、と聞いたのよ、骸骨さん?さっきも言ったけれど、人はお腹が空くものだわ。そして、好物が何かなんてその人以外に誰にも解らないものよ」

 ヒーアは微笑みながら、男を見詰める――

「貴女は、?」

 ざざあ、と派手な音を立てて、男は鉄格子から離れた。怯えて震えながら、目を丸くしてヒーアを見詰めている。

 ヒーアはくすくすと笑うと、アルツトに振り返った。

「さあ、次にいきましょう?」



 次の牢屋は、女がいた。

「こんにちは、泣き女さん。貴女は、何をしていらっしゃるの?」

「こんにちは、可愛らしい声の人。私は人が怖いのよ。人の目が怖いのよ、私を見詰めているわ。人の耳が怖いのよ、聞き耳を立てているわ。人の口が怖いのよ、私を笑っているわ」

 女はヒーアに背を向けて、背中をボリボリと掻きむしっている。会話に面と向き合うつもりは無いらしい。

「痒いわ、痒くて堪らない」

しらみが居るのだわ、泣き女さん。洗濯してもらうべきね」

「いいえいいえ、違うわ。!」女は背を向けたまま、金切り声を上げる。「!!」

「気のせいよ、泣き女さん」

「違うわ!わたしは………?」

 女は叫び、弾かれるように振り向いた。そして、口を閉ざす。

 ヒーアは鉄格子の直ぐ側に立っていた――

」ヒーアはくすくすと肩を震わせる。「世間は貴女が思うよりも、貴女に関心がないのよ。恐れるのならそちらを恐れるべきだわ、泣き女さん」

 牢屋は静かになった。ヒーアはスキップで、アルツトの元に戻って微笑んだ。



「眠れないんだ」若い男は、目元にくっきりとした隈を浮かび上がらせてため息をつく。「目を瞑ると直ぐ、夢が始まる。僕を追い掛けて捕まえて、何処かに運び出そうとする奴等の夢さ。もう逃げ切れそうにないんだ」

「ただの夢よ。ただの夢だわ。夢では貴方は自由なんだから、空でも飛んでしまえば良いのよ」

「墜ちたらどうするんだい?」

「海に墜ちるのね」ヒーアは肩をすくめた。「そしたら、あとは泳いで逃げればいいわ」

「海なんて、見たことがないよ」

「見に行けばいいわ。ねぇ、貴方は怠けすぎよ?夢の中で捕まりたくないのなら、起きている内に努力をしなきゃ。眠る努力なんてしている場合じゃあないわよ」



 中年の男は、せっせと何事か手帳に書き込んでいた。なにを書いているのかしら、ヒーアはそっと近付き、しゃがみ込んで覗き込んだ。

 そこには、日々の予定がびっしりと書き込まれていた。細かい、けれども丁寧な字で、罫線もなくぴっちりと一直線に。

「それは日記かしら、作家さん?」

「いいえいいえ、忘れないようにですよ」

「忘れないように?」

「私は気が狂ってましてね」

 随分とよく聞く台詞だわとヒーアは眉を寄せる。ここにいる人は、皆そう言うのだ。

「それはそうですよ。ここは【狂人通り】。この鉄格子の中に居るのは、皆狂人なんですから」

「どうしてそう言うのかしら、おかしな人たち。狂人かどうかなんて周りの人が決めることで、本人が名乗ることじゃあないと思うのだけれど」

「………貴女は、我々が狂っていないと思いますか、お嬢さん」男は顔をあげた。その瞳が熱を帯びて、それが口調にも移っている。「ならこれを開けて下さい。これが証なのです。狂人だから鉄格子の向こうに居るのではない、鉄格子の向こうに居る狂人になるのです」

 男が、鉄格子にしがみついた。両手でそれをガシャガシャ揺らしながら、噛み付こうとするみたいに笑った。

「私を自由にしなさい、お嬢さん。そうしたら、私が狂人だと名乗る理由を見せてあげられる。貴女にも、そして世界にもね」

 ヒーアは少しの間、男の顔を眺めた。それから、軽く鉄格子を撫でてから、にっこりと微笑んだ。

「やはり開けないのですね」男も微笑んだ。「理由は見せられないが、貴女に狂人だと信じてもらえたようだ」

「いいえ?私は貴方を狂人だと思ってはいないわ、作家さん。そもそも、狂人というのは多数決の敗者の事よ。ここには三人しかいなくて、一対二で貴方が負けているだけだわ」

 男は、困惑したようにぱちぱちと目をしばたかせた。拍手みたいだわと、ヒーアは笑った。

「ではなぜ開けないのですか?」

「決まっているわ、作家さん」ヒーアはくるりと男に背を向け、肩越しに振り返った。「私は貴方が好きじゃあないからよ。ここを開けて、隣を歩いてほしくないわ」

 いきましょうと、ヒーアはアルツトを促した。男は鉄格子を軽く揺すり、それから大声で笑った。ドーム型の通りに、その声はしばらく響いていた。



「さて、いかがでしたかな、ヒーア嬢。ご満足頂けましたかな?」

 通りを一周し、二人は元の入り口近くに戻ってきていた。

 カンテラを壁に掛けながら、アルツトは腹を揺すりながら唇を歪める。もしかして彼は、私にピエロを嫌いにさせる使命でも帯びているのかしらと、ヒーアは眉を寄せた。そのくらい、厭な仕草だったのだ。

「終わりなのね、アルツトさん。お代は今お支払いした方が良いのかしら?」

「えぇえぇ、出来ることなら」

「おいくらかしら?」

「いいえいいえ、お金ではないのですよ、ヒーア嬢。貴女から、是非ともお言葉を頂きたいのです。未来への一寸ちょっとしたをね?」

 回りくどい言い方だわと、ヒーアは肩をすくめた。本当に、このピエロは嫌いなタイプだわ――まるで大人みたい。

「簡単ですよ、ヒーア嬢。………私がしっかりやっていると、公爵夫人にお伝え願いたいのです」ヒーアの嫌悪に気付いた様子もなく、アルツトは揉み手せんばかりにへり下っている。「が如何にうまくいっているのか、それがどれだけ大変かを見たままにお伝え頂ければ結構です。えぇ、結構ですとも。………それと、ほんの少し、休暇や娯楽が頂ければ幸いですと………ね」

 お分かりでしょう?とアルツトは厭らしい笑いを浮かべる。ヒーアはため息をついた。

「見たままに?だとしたら、大変ね。………私、狂人なんていたかしら、不思議なくらいなのよ」

 アルツトは一瞬表情を変えた。メイクの奥の瞳から感情が抜け落ち、硝子玉みたいに無機質な光を宿す。

 直ぐにアルツトはピエロらしい笑みを取り戻したが、彼の瞳は最早メイクをする気は無さそうだった。

「困りますな………貴女はご覧になったはず。ここにいたのは皆、どうしようもない狂人なんです」

「ここにいる限り、そうでしょうね」アルツトがこっそりと――少なくとも本人はそのつもりで――入り口の方に動くのを、ヒーアは呆れながら見た。「ここには貴方と彼らしかいない。貴方がそう言えば、彼らはそうなってしまうのだわ」

「えぇえぇ、その通りです。そして、お分かりでしょう?。貴女が狂人かどうか決めるのは私だけだ。………貴女曰く、狂人かどうかは多数決の結果によるのですからな」

 アルツトが下卑た笑い声を上げる。目の前に置かれたケーキに舌なめずりをするように。苺から食べようか、それともクリームを舐め取ろうか、ヒーアの身体を足首から見上げていく。

 その視線が顔に達したとき、アルツトは不審に眉を寄せた。

 ヒーアは、

「ねぇ、アルツトさん、そうしたら聞いてみましょうか」天使のように笑いながら、悪魔のように声を紡ぐ。「私、ヒーア・ナイエヴァイトが狂っていると思うのはどなた?」

「………私だ!そしてそれで決定さ!」

「それでは」アルツトの喚き声を遮って、ヒーアは両手を広げて微笑んだ。「彼が狂っていると思うのはどなたかしら?」

「「「「」」」」



「っ!?な、なんだと、そんな………」

 ヒーアの背後、暗い通りから現れたに、アルツトは呆然と呟いた。

 ヒーアは楽しそうに、両手を広げてくるりと回る。その手には、いつの間にか鍵束が握られていた。

「なんてことを!彼らは狂人だ、外に出しては大変なんだぞ!!」

「もう遅いよ、アルツト。私たちは出た、格子の境界は意味をなさないぞ」

 【作家さん】が肩をすくめる。その横から【骸骨さん】と【泣き女さん】が進み出て、アルツトを両脇から抱えた。

「馬鹿な!狂人だから閉じ込められたのだ、お前たちは!外に出ても、それは変わらない!!」

 喚きながら、アルツトは両腕を振り回す。それを面白そうに眺めながら、ヒーアは入り口に近付いた。

「その通りね、アルツトさん。ところで、貴方は鍵を持っている?」

「彼らの鍵か?君が奪って持っているだろう!!」

 肩を怒らせるアルツトに、ヒーアはくすくすと笑いながら首を振った。それから、入り口の鉄格子を軽く叩く。

「いいえ?そこのではないわ、アルツトさん。………?」

 ぴたりと、アルツトは動きを止めた。目を大きく見開いて、口も半開きで、虚を衝かれたとばかりに呆然とした。

 その瞳に理解の色が浮かび、それから、恐怖が染み込んだ。

「………馬鹿な」

「狂人だから鉄格子の向こうに居るのよね、アルツトさん?」呟き、力が抜けたようにしゃがみ込んだアルツトに、ヒーアは笑いながら声を投げた。「どうやら、?そして、私は今日の内初めて狂人を見たことになるわけね」

「ちがう、ちがう、わたしは、私は狂ってなどいない………!」

 抵抗は最早弱々しかった。【夢男】が薄汚れた毛布を掛けて、その上から三人はアルツトを押さえ込んで運んでいった。

 もごもごと呟く毛布の塊を見ながら、ヒーアは肩をすくめる。

「えぇ、貴方はそう思っているようね」ヒーアは振り返り、鉄格子に手を掛けた。「だから、貴方は狂ってるのよ」



「………眩しいな」

 【作家さん】は太陽を見上げて、目を細めて呟いた。あの闇の中にいたのなら、外は刺激が強いかもしれない。

 ちらりと彼の後ろを見て、ヒーアは首を傾げた。

「あとの三人はどうしたの?出ては来ないのかしら?せっかく開けてあげたのに」

「二人は、もう少し中に居るそうだ。まだ外は怖いとさ」

「もう一人は?」

出るそうだよ」

「そう」ヒーアはくすりと笑うと、鉄格子に近付く。楽しそうに、鼻唄交じりにステップしながら。

「………そう言えば、聞いてもいいですか?」その背中を見ながら、【作家さん】は口を開く。「彼らはともかく、私が何故入っているのか、貴女はご存知ないでしょう?何故開けたのです?」

「知らないわけでもないわ。公爵夫人の哀れな御使いさんから、貴方の事情は聞いたもの。ついでに、『貴方だけは出すな』と言われてもいるわ、大変なことになるからとね」

「では、何故?」本気で困惑したように、【作家さん】は首を傾げた。「何故開けたのです?私は相当つもりですよ?」

「あらあら、貴方も私をご存知ないようね?貴方の事を聞いたから、私は貴方を出すことにしたのよ?だって――」

 。そう言って、ヒーアは天使のようにとびきりの笑顔を向けた。

 【作家さん】は目を丸くし、それから、腹を抱えて大声で笑った。

「なるほど、ふふ、私も今日の内に初めて狂人を見たことになるわけですね、ヒーア嬢。貴女は、

「えぇ、知っているわ」軋む音を響かせながら、ヒーアは鉄格子をしっかりと閉めた。「その線引きが如何に無意味で、不安定なものかもね。そして今、私も貴方もよ?」

 振り返ったヒーアは、にっこりと微笑んだ。

 悪魔のように。

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ヒーアと退屈な町 レライエ @relajie-grimoire

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