最終話 天国

 「多聞、このダンボール箱どっかに移してよ!」

 「どっかって、どこだよ!もう仏間くらいしか場所ないじゃないか」

 「じゃあ、父さんに話して仏間に置いておいてよ!」

 それを結局自分に実行させるのかと、多聞は不満たらたらで重いダンボール箱を持ち上げる。折角の夏休み、クーラーの下でのんびり涼むことは、多聞には許されない。

 何故ならば、この宮下家には珍しく泊まりがけの客がやって来るからだ。

 最初こそ、夏休み中の課題を理由に来客の準備を断ろうと目論んでいた多聞だが。課題はいつも夏休み後半になってから慌てて片付けるという長年の傾向を母は知っていた。

 故に「どうせ勉強しないでしょ」の一言のもとに、多聞は片付け要員として駆り出されたのである。

 確かに、高校生の夏休みなど関係なく働いている母に一人で準備をさせるつもりはないが、今多聞が運んでいる荷物のほとんどは彼女の私物だ。やる気も減退するというものである。ついでに、仕事を任せるならばもっとやる気が出るように頼んで欲しいという多聞の主張もあった。

 「ベビーベッド、ここでいいと思う?」

 「いいんじゃない?あとは姉貴に任せるしかないし」

 「そりゃそうね」

 しかし、母が張り切るのも無理はない。

 もうじき、結婚式以来帰っていない柚梨が、久しぶりに帰郷するのだ。

 

 「ただいま。久しぶりねぇ、母さん」

 「おかえり、柚梨。ジャンさんもお久しぶり。まあまあ、テオくんもいらっしゃい!」

 夏、世の中の多くはバカンスで浮き足立つ人々で溢れる季節に、柚梨は空の旅を経て日本のここ、宮下家に帰って来た。

 昨年の春に生まれた息子のテオバルドのみならず、夫のジャンまで引き連れて来たために、宮下家は一気に賑やかになる。なにせ普段は、母と多聞の二人だけで暮らしている家に、いっきに五人もの人が集まったのだ。

 「本当に、うちに泊まっても大丈夫なの?」

 「平気平気、この日のためにちゃんと掃除して、寝るとことか確保しておいたんだから」

 柚梨も一度に増えた人数のことを気にしていたが、彼女ら一家のために、多聞たちはここ一週間ほどを迎え入れるための準備に費やしたのだ。むしろ泊まってもらわなければ、骨折り損というものである。

 「姉貴、久しぶり!ジャンさんも」

 「こんにちは、タモン。ほらテオ、タモン叔父さんだよー」

 ジャンに抱かれたテオは、ちらりと多聞を見たものの、すぐに、父親の肩に顔を埋めて、うーうー唸り出す。少しばかり人見知りに育ったようだ。

 「あらら、ごめんね、多聞」

 いつもはもっと愛想がいいんだけれど、長旅で機嫌が悪いみたい――柚梨がフォローをするが、勿論、子供のすることに一々文句をつける多聞ではない。気にしないでくれと、笑って済ませた。

 

 テオをはじめ、メローニ一家と顔を合わせるのは、実に一年と数カ月ぶり、多聞が千佳を連れてイタリアを訪れて以来になる。

 この一年の間に最も変化があったのは、やはりテオだろう。多聞の記憶にあるテオは、ベッドの中、おくるみに包まれてほとんどの時間を眠っていた赤ん坊だったが、今めのま前にいるテオは、何かに掴まりながらならば、数歩は楽に歩けるようになっていた。

 小さな足がよちよち一歩ずつ前進し、時折「マーマ」「パーパ」と単語を喋るだけで、彼を取り囲む大人三人は大騒ぎだ。特に、今まで写真でしか初孫を見たことがなかった、多聞の母のはしゃぎっぷりは凄まじい。勿論、多聞だって甥っ子が可愛くないわけではないけれど、子供のように、赤ん坊の一挙一動にテンションを上げている母を前にすると、かえって一緒に盛り上がれなくなってしまうのだ。

 「アモ……あ、……」

 「!」

 小さな手のひらが多聞へと伸ばされる。皆から少し離れたところで赤ん坊と大人たちを見ていた多聞は、少しだけぎょっとした。

 一年前の春の夜を思い出してしまう――最近はすっかり思い出すこともなくなっていたのに。

 「あら、多聞のこと分かるのかしら?ほら、多聞叔父さんよー」

 結局、テオの身に起こったことを知らない柚梨は、多聞への態度を和らげた息子の様子を純粋に喜んでいた。

 柚梨はテオを抱き上げ、「抱っこしてあげて」と、多聞の腕に預ける。最初に人見知りしたのが嘘のように、テオはきゃっきゃと喜んだ。

 「アモー」

 「……」

 喋れるようになったばかりの、拙い喃語(なんご)で多聞を呼ぶテオには、もうあの日の面影を見出すのは困難になっていた。しかし、あの夜の記憶が拭えない多聞は、無邪気に笑う甥っ子をどうしても勘ぐってしまうのだ。

 

 クーラーの風が直接当たらない位置で、すうすう寝息を立てるテオに寄り添いながら、多聞は扇風機の首の動きを調節する。

 久しぶりに地元に帰っていた柚梨は、懇意にしていた友人や恩師に会いに行くために出掛けていった。長い移動の後ではテオを連れて行くのは大変だろうと、多聞は自ら子守を申し出た。

 テオの体調を心配したのも、柚梨の負担を減らしたいのも勿論だが、多聞は密かに、あの『救世主』たる者がまだテオの体を借りてはいないか疑っていたのだ。うまいこと二人きりになった多聞は、無垢な寝顔をじっと観察していた。

 「なあに、そんな熱心に見ちゃって」

 「いや、……うちに小さな子供が来るのって珍しいからさ」

 叔父と甥の和やかな光景――母はそう受け取って、にこにこしている。当然だ。彼女には知る由もないことなのだ。

 「……おーい、お前、本当にテオなんだろうな?」

 子供らしいふっくらとした頬を、優しく指で突く。その滑らかな肌の感触が指先に伝わった瞬間、眠っていた赤ん坊の両目がカッと見開かれた。

 「うおっ!?」

 驚いて起き上がった多聞を、テオは静かな眼差しで見つめる。一歳児とは思えない穏やかな目は、ゆるく微笑んでいた。

 「……実に久しい、多聞」

 そして、聞き覚えのある声がその口から出て来たことに、多聞は頭を抱える。起きて泣きだされる方が楽だった。

 「お前、まだテオの中にいたのか?」

 「いいや、こうしてこの体から見、喋るのは半年ぶりにもなる。最近はめっきりこの体に入ることが減った……いや、私の意識そのものがほとんど覚醒してない」

 「そうか……」

 「多聞、君なのか?世界を終焉の危機から救い、彼方で彷徨える魂たちを軛(くびき)から解放したのは。私の意識が覚醒しなくなってきたということは、もうこの世界は救世主を必要としていないということだ。もし、私の目的を君が代わりに実行してくれたのならば……」

 「違うよ」

 「しかし……」

 じっと見上げる両目には、困ったような気色がある。多聞が彼の願いを叶えてくれたのだと確信し、しかし当の本人に否定されて困惑しているのだろう。

 だが、多聞に言わせれば、やはり問いの答えはノーだ。

 「俺だけじゃない。銘刈の親父さんや、色んな人が自分の出来ることで世界を救おうとしていたんだ。俺は……まあ、思いがけず最後のスイッチを押す係りになってしまったってだけさ」

 「……色々あった、ということか。この一年に」

 「ああ、色々あったさ」

 尋ねられるより先に、多聞は身の回りに起こったそれはもう沢山の出来事を順々に話していく。言葉にすると、あの事件の全てがどんどん遠く過去のことになっていくようだ。

 実際にもう一年の時間が経過しているが、緊迫に震えた心臓の鼓動も、身を隠した通気口の埃やカビの匂いも、何もかもが体にしみついていると思っていたのに、全て急速に色褪せていく。

 その感覚に戸惑い時々言葉を切る多聞を、テオは急かすことなく待ち、話の全てを聞いた。

 「そうか……多くの人々の手で世界は救われたのだな。囚われていた魂をも解放するとは、感謝してもしきれぬ」

 「でも、中には色々邪魔してくるやつも沢山いたんだ。さっき言っただろ?世界の終焉が来ても、自分たちだけは助かるって信じてる奴がいたって話」

 「その者たちは、自分たちの信じた救いの形を頑ななまでに信じていたのだな。私は……原罪を贖った最初の私を信じていない者でも、共に助かることを不満に思うことなどないのに」

 「そうなのか?何か、せいさん?せんれい、だっけ?何かしてないと原罪を赦されないとかどうとか……?」

 いつか銘刈博士とした会話を思い出そうとするが、記憶の彼方から呼び起こした単語はひどく曖昧で、全てに疑問符がついた。

 「確かに、かつて私と同じ魂を持って生まれた者の言葉を、またその弟子たちが記した書物を信仰の基盤に置いているという事実はあるだろうが……しかし、多聞よ」

 テオは、幼児らしからぬ難しい顔で、傍らの叔父を見つめた。

 「最初の私の魂が役割を終えてから、既に世界は千年単位で時間が経過しているではないか。人が、社会が、世界が変われば思想も宗教も変わる。全ては生命のようなもの、流動的なものだ。むしろ、環境に順応できないものから、本来滅びていくものだろう。地に繁栄し滅びた全てがそうだったように」

 「生命、か」

 「そうだ、生命だ。信仰は心の拠り所になることはできる。しかし、それは柔らかく形を変えるものでなければならない。硬すぎるそれは、誰かを傷つける道具になってしまう。場合によっては、信じている者自身をも傷つけかねない。お前を襲った者たちは、まさにそうだったのだろう。……申し訳ない」

 「何で、謝るんだよ。何も悪くないだろ」

 「いいや。どうであれ、原罪を贖ったかつての『私』を信じる者たちだ。私に、謝らせてくれ」

 「……」

 気にしないでください、とでも言うべきなのか、多聞は少し考える。けれど結局、どう答えるのが正解なのか分からなくて、テオの腹に掛けられたタオルケットを掛け直すに留めた。

 「ま、その……全部終わった、それでいいだろ?」

 「ああ、それでいい。いいな。すまないが、私を抱き上げて窓の外を見せてくれないか?君たちが救った世界が見たい」

 抱っこをねだって腕が伸ばされる。多聞はその脇の下から腕を回して持ち上げ、夏の日差しが入る窓へと近づいた。アスファルトの照り返しが、申し訳程度に整えられている植木の緑を鮮やかにしている。

 「美しいな。これが君たちの救った世界か。見ることができてよかった」

 「何の変哲もない住宅地だろ、こんなん。地方だからちょっと緑はある方だけど、美しいって言うほどのものじゃないだろ」

 「いいや、変哲のない町、変わらぬ日々、平穏は多くの人々がそうあるよう願い、努力しているから作られるものだ。つまらない欲のために、あるいは平穏な日々を形作ることを放棄した人々のために、未だ争い尽きぬことは知っているだろう。最後に、こんなに穏やかな世界を見ることができた。感謝する」

 「何だよ、そんな言い方……」

 「私は役目を終えた魂。不必要な存在だ。もう、この肉体に留まる理由はない。お前と会うのも……これで最後だろう。なに、テオバルドがテオバルドとして生きていくだけのことだ、安心しろ」

 「安心しろって……そんな、突然、あっさりと……」

 どうにか文句を言おうとする多聞の試みは、失敗に終わった。勿論、テオの体が別の魂に乗っ取られる心配がないのは安心なのだけれど。

 「……もしかして、また世界の終わりが近づいたら、復活したりするのか?また、テオの体に?」

 「はは、それはないだろう。多聞、お前が言ったではないか。この世界を救おうとした多くの人の手で終焉を退けたのだと。人々がそう望む限り、私の出る幕はないだろう。……叶うならば、長く続く未来においても私が不要であればと思う」

 「そうだな、そうあれば……」

 彼の希望は、叶いはしないだろうと、多聞はふと思う。

 今回のことだって、本当は皆、各々のベクトルを持って行動していた。偶然それらが同じ方向を向くことができただけで、今後はどうか分からない。いや、向くことができないから、様々な問題が未だ地球上に存在しているではないか。

 「心配するな、多聞」

 しかし、それすらも理解しているというように、テオは笑う。

 「少なくとも、私は信じているのだ。人々を、世界を……では、さらば」

 「あっ」

 別れの言葉を言うが早いか、テオは再びくうくう寝息を立てて眠り始めた。心地良さそうに抱えている腕に擦り寄って、よだれで多聞の服を汚す。

 「……さようなら」

 呟きは去り行く彼に届いただろうか。多聞には分からなかった。

 

 花火大会が催される晩、多聞や柚梨は各々の目的で会場の河川敷まで足を運んだ。

 ジャンは初めての日本の夏、花火に屋台にと浮かれているようで、花火を見るのに最も良い場所を探すと言って柚梨を引っ張っていった。

 姉夫婦について行く母とも別れ、多聞は会場の端っこへと向かう。人ごみを掻き分けた先には、すでに到着していた千佳の姿が見えた。打ち上がる花火を今か今かと待っている横顔が、屋台の灯りに照らされている。

 「銘刈」

 呼びかけに振り向いた千佳には、もう天使の翼は生えていなかった。

 「……くん」

 笑って多聞を呼んだ千佳の声は、打ち上がった最初の花火で掻き消される。

 それを嬉しく思うのは、頭上の夜を彩る花火こそ、かつて交わした約束が実現した証明だからだ。

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てんごく 海野てん @tatamu

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