黄昏の空の異端者

@estrella

第1話 Log in


 星の光も届かぬ地表に建てられた、とある駅の構内で人の波をかき分けて磁気浮上式高速鉄道マグレブを駆け降りる一つの影があった。

 その影は改札口を出て、人の行き来が多い通りを隙間を縫うようにして通り抜け、暗がりの道へ入る。夜闇の中で冷たい光を放つ街路灯が照らしている、人のまばらな裏道を足早に駆けていく。

 着ている外套コートの種類から、走る影が男性であることがわかる。深く帽子を被り、ゴーグルとガスマスクで顔を完全に覆っているためその素顔を覗くことはできない。


 空は汚染されたスモッグで覆われているためガスマスクなしで外出する者は極めて少ない。一日のうち太陽を拝める時間はほんの僅かだ。有害物質を含んだ濃霧が晴れない日などは、天気自体は晴天であっても太陽を見ることはできない。そんな日も少なくはなかった。

 水と土壌は汚染され、日照不足により緑もほとんど枯れ果てた。緑が無くなることによって自然の浄化作用が働かず、大気汚染がさらに進むという悪循環の輪の中にはまり込んでしまっている。

 植物の減少に伴い、それを啄ばむ鳥や虫、野生の動物も徐々に姿を消している。昔ながらの農村の風景はいまや完全に崩壊していた。

 限られた資源の中でエネルギー効率を上げるために政府は村落から都市部への居住を推奨し、その結果、各都市では環境汚染前よりも更に人口の過密化が進んでいた。このご時世で辺境の村や町にまだ住んでいる者がいるとすれば、それは余程の変わり者だ。


 彼も例外ではなく、都市の住宅街に住む一人である。

 年齢は30過ぎかそれよりも上ぐらいだろうか。はっきりとした歳はわからない。だが少なくとも彼は、若くはなかった。


 彼は全力で走るようなことはしない。ガスマスクを通してだと供給される酸素の量が少ないため、あっという間に息があがってしまうからだ。息の乱れないギリギリの速度ペースで走る。

 裏道から見通しのいい交差路にぶつかり、そのまま直進する。高架下を通り抜けると、ビルの壁面で輝く趣味の悪い色をしたネオンが街路灯とともに進む道を照らしていた。

 スモッグに煙る街並みの奥にはアーコロジーと呼ばれる高透過シールドガラスに覆われた高層街が見える。外の汚染しきった環境から遮断された完全環境都市アーコロジーを取り巻くようにして都市は形成されていた。

 遠目に見てもわかる煌びやかで洗練されたアーコロジーの建築物は、都市に無秩序に建てられたそれとは一線を画している。そこには巨大複合企業で働く社員や関係者が住んでおり、街を歩くのにガスマスクも要らず、美しい緑で溢れているらしい。伝聞なのは彼自身もアーコロジーの内部に足を踏み入れたことがないからだ。庶民が訪れる機会は恐らく永遠にない、別世界での話なのだから。


 歩道から逸れ、建物が林立する住宅地へと入っていく。この住居の密集した混沌の空間の中に彼の住む家があった。

 外壁の塗装が重酸性雨によって剥がれてきているが、ここの住民の中で何とかしようとする気概を持つ者はほとんどいない。「誰かがなんとかするだろう」皆、このようにしか考えていない。尤も彼らがそう考えるのも、今まで彼らが受けてきた教育に大きな原因があるのだが。

 建物の中に入ると、天井いっぱいに水道管やら電線管、配線用の管など諸々の管が無秩序に張り巡らされている。廊下には近隣に住む住民のゴミや不用品が無造作に置かれていた。

 彼は毎度のこととはいえ溜息をきたくなる思いがした。公共の空間という概念が頭から抜け落ちているのか、隣人の迷惑など考えたこともないのだろう。こういう常識がないのがいるから困る。障害物を避けながら小走りで駆ける。

 石段の傍らには頭から毛布にくるまり足だけを出しているホームレスが横たわっていた。寝ているのか死んでいるのか、その体はピクリとも動かない。たとえ死んでいたとしても彼の心が大きく動揺することはない。

 死んでいるのなら翌朝には行政機関の担当者が回収に来るだろう。もし誰も連絡していないようなら自分がするしかないが。――このように冷静に対処方法を考えられるくらい、街の片隅で誰かが死ぬことなど彼にとっては見慣れた光景であり日常茶飯事だった。


 息のあがらないペースを保ち走ってきたつもりだったが、それでも家の前の錆ついたスチール製の階段を昇り終える頃には呼吸は相当なまでに苦しくなっていた。玄関前でひと息つき、駅の改札口を出る時からずっと手に握りしめていた鍵を扉脇にかざす。

 ――ピッ

 小気味よい電子音が鳴り、ドアを開けて中に入る。そしてドアを閉めたと同時に施錠する。


 玄関を開けてすぐの場所に設置された乾湿両用集塵機の中を通り抜け、靴を脱ぎ、壁に吊るしてあるハンガーに帽子と外套コートをかけ、手袋を靴箱の上の棚に放る。ゴーグルとガスマスクを外し、大きく深呼吸を繰り返し乱れた呼吸を整えることで、彼はやっと自分が家に帰ったことを実感した。


 帰宅した主人を出迎えたのは、剥きだしのコンクリートに四方を囲まれた――良くいえばシンプル、悪くいえば殺風景な部屋であった。彼は生活空間に余計なもの――特に生活臭が漂うもの――を置くことを好むタイプではないので、部屋には必要最低限の家具しか置かれていない。こだわりがあるからか、電球色の間接照明のみで構成された室内は薄暗く、温かく迎えてくれる家族もいないためとても静かだった。


 汚れたシャツとスラックスを脱いで洗浄機の中に放り込む。

 いつもならその後すぐにスチームバスに直行するのだが、今日に限ってはそんな時間はない。体に付着している黒ずんだ汚れをタオルで拭いて、若干の気持ち悪さを感じつつも部屋着に着替えた。まだ少し弾んでいる息を落ち着かせながらキッチンに行き、浄化フィルターを通して濾過された水で手を洗い、そのまま手ですくって喉の渇きを癒す。


 彼はリビングに入ると、部屋の片隅にあるどっしりとした椅子の中にその細い身体を滑り込ませた。

 壁から延びている二又の黒いコードを手にして、コードの先端を覆う保護カバーを取ると、中からは保護液によりぬめぬめとした光沢のある銀色のプラグが露わになる。

 プラグを持った手とは反対の手で首の後ろの髪をかき上げると、うなじに埋め込まれた人工物が異質な光を放っていた。それは、彼がこの人工物を体に埋め込む手術を受けられるほどの収入があるという証でもあった。

 縦横3センチほどのプレートをスライドさせて、そこにプラグを差し込む。

 その瞬間、彼の身体を貫くように光が走った。同時に彼の視界には青白いウィンドウがいくつも立ち並ぶ。


 視界に浮かぶウィンドウを無視してサイドテーブルに目をやると、そこに置かれたフルフェイス型のヘルメットが、己の存在を誇示するかのように照明の光をギラギラと反射させていた。

 電脳法で義務付けられているとはいえ、このフルフェイス型ヘルメットを被るのは今でも抵抗がある。これから行くデジタル世界での出来事をすべて録画するシステムが組み込まれているからだ。プライバシーも何もあったものじゃない。だがこの録画されたデータが残ることで、ハッカーに脳をハッキングされ、自分の意志に反した違法行為に従事させられた際に、自身の無実を証明することができる。


 有罪――


 それはこの世界では死を意味する。一度有罪に処せられた者は罪状とともにインターネット上に顔と名前が晒される。罪を清算し、刑務所から出所した後も晒されたデータが消されることはない。

 再就職の際に人事担当者は就業希望者の名前を検索し、情報を照合する。当然新たな職に就けるはずもなく、大抵の場合、出所者のその後の人生は惨憺たるものだ。

 これは深刻な人権侵害だと一時社会問題にもなったが、検索サイトを運営する巨大複合企業の傘下であるIT企業が、個人サイトやSNSをも含む広大な電脳世界に一度流出した情報をすべて回収して消去することは技術的な面で不可能であると回答し、全面拒否をしたため実現には至らなかった。

 よって、ヘルメットを被らないという選択肢は存在しない。彼は首の後ろに垂れるもう片方のコードをヘルメットに差し込んだ後に、それを被る。


 視界の隅に記録開始の文字が表示されると、彼は意識をポップアップしたウィンドウに戻した。目の前の空間に手を伸ばして操作し、不要なウィンドウを消していく。

 脳に埋め込まれた演算器に情報が次々と流れて込んでくる。思考がそのままケーブルを通して演算器に伝わり、テレビを起動させた。すると、黒髪の綺麗な女性がこの日のニュースを伝えていた。


「――先月より始まった北米第二アーコロジーと中南米第四アーコロジー間における戦争は――」


 あぁ、またか――。心のどこかで突き放したような、乾いた感情を彼は抱く。

 アーコロジー間の戦争など珍しいことではない。特にこの数年間は。この戦争の前に欧州や南アジア間でも大きな戦争が勃発したし、日本の極東第七アーコロジーも二年前には中国大陸の旧大連だいれんにある第二アーコロジーと戦っていた。

 アーコロジー間の戦争では両陣営が自分たちの戦争遂行の大義と正当性をしきりに宣伝する。戦場に兵士として駆り出され、愚かにも自らの正義をかたくなに信じたまま前線で戦って命を失うのは、常に貧困層持たざる者だった。


 白か黒か、戦争の勝敗が決することはなかった。戦った後に国境線が変わったり経済が傾くほどの賠償金が支払われたなどの事例も聞かない。いつの間にか和平交渉が進展し、平和裏に戦争は終結している。その後はニュースにもまともに取り上げられない。


 時々こう思う。アーコロジーは裏で結託をしていて、本当の目的は貧困層の口減らしなのではないか、と。

 彼がこのように考えるのも実は根拠があるからだ。


 ニュースに目を通すのは日課ではあったが、今日は時間がない。すべてのチャンネルをざっと確認した後にテレビの電源を落とす。そして再び空に手を伸ばし、コンソールを操作してYggdrasilユグドラシルと書かれたウィンドウをタッチした。

 Yggdrasilユグドラシルとは仮想現実疑似体験型ロールプレイングゲーム、通称DMMO-RPGのタイトルで、他のゲームと比べて圧倒的な自由度の高さから日本で絶大な人気を誇っていた。


 ウィンドウをタッチした瞬間から自分の意識がまるで宇宙に投げ出されたかのようなふわふわとした奇妙な錯覚に陥る。いや、実際に仮想世界の宇宙の中に投げ出されていたのだ。

 星の光が瞬く広大な宇宙空間の中では、すべてを覆い尽くさんばかりに枝葉を伸ばした巨大な樹が浮かんでいた。その樹の太い幹の前で見覚えのある異形が徐々に姿を形作っていく。

 複雑によじれた山羊の角、鋭い鉤爪の生えた白く大きな手、その指にはめられた色かたち様々な指輪、その中で一際目を引かれるのが金で縁取りされた赤い宝石の入ったものだ。簡素なローブに身を包んだ山羊の頭部をもつ悪魔の姿……もう一人の自分。


 懐かしさを感じつつ、彼は目の前の異形に手を触れる。

 触れた瞬間、世界は闇に染まった。



 彼の目的はただ一つ。



 最後に、あの人にひとことだけでもいいから謝りたかった。


 ギルドの和を乱す原因を作った、過去の過ちを――――







 闇の世界に一筋の光が零れる。やがて光は広がっていき、漆黒の世界から眩き世界へと人を誘う。


 ナザリック地下大墳墓、第九階層円卓ラウンドテーブルの間。黒曜石の輝きをした巨大な円卓の中央には所属ギルド、アインズ・ウール・ゴウンのサインが大きく刻まれている。その円卓を囲う四十一脚ある椅子の一つに彼は座っていた。



23:33:28



「もうこんな時間になるのか……」


 彼――ウルベルト・アレイン・オードルは小さく声を漏らした。


 引退してからずっとログインしていなかったゲームを立ち上げた動機は、共に遊んだ同志でありギルドマスターでもあるかつての友人からの一通のメールだった。


 ユグドラシルのサービスが終了になるので、最後の日にもう一度みんなで集まりませんか――


 自分のことは後回しにして、いつも人のことばかりを気遣っていたギルド長のささやかな願い。ゲーム時代にギルド長を困らせたことは一度や二度ではない。だからこそ最後に義理だけは通しておきたかった。

 あいつも来ているのだろうか。もし来ているのだとしたらどんな顔をして会えばいいのか。足が遠のく思いもあることにはあったが、しかしそれはギルド長モモンガからの誘いを断る理由にはならなかった。


 こんな時間になってしまった原因は、帰宅間際に押しつけられた残業。ログインが遅れた理由を弁護する材料はあったが、最後の最後でギルドのメンバーに対して言い訳をするつもりはない。その言い訳を喉の奥にそっと呑み込む。


 それにしても気になるのはこの衣装ローブ。引退前に全盛期の頃の装備を譲ったので、今着ているのはアイテムボックスに入っていた物の中から適当に見繕ったものだ。パンツ一枚で再会するわけでもないし別に問題はなかった。しかしトレードマークである帽子シルクハットがないのはいただけない。

 装備を生成する魔法があったと思うが、何という呪文だっただろうか。あまりにも久方ぶりにログインしたので忘れてしまったようだ。コンソールを開き、使用できる魔法を確認する。


「〈上位道具創造クリエイト・グレーター・アイテム〉」


 魔法の光が瞬く間に全身を包み、霧散する。

 現れたのは数輪咲きの赤いヒナゲシの花をアクセントにした黒色のシルクハット、アンティーク調のブロンズでできた鎖で前を留めた黒い短めのマント、その下にはシングルブレストスーツと上質な革のブーツ。

 装備の質としては全盛期の頃と比べると数ランク劣るが、最後の再会を飾るにはこれで充分だ。


「これで、よし」


 だいぶ収まりが良くなったような、納得した気持ちになった。

 ウルベルトはコンソールをもう一度開き、習得していた数百種類の魔法を確認する。そういえばこんな呪文もあったな。そんなことを思いながら、懐かしさのあまりつい夢中になってしまっていた。

 そして少し時間が経った後に違和感に気がつく。

 辺りはシンと静まり返っていた。自分以外誰もいない。雑談をする時は大体この部屋に集まっていた。ログインした時はこの円卓の間に転移するようになっているはずなのに――


 ――いや、違う。


 ウルベルトの胸の奥から嫌な予感がこみ上げる。同時に冷たい汗が背中に流れているような感覚に陥った。

 あのメールには続きがあった。そこには『グレンベラ沼地の小島で、美しい花火とともにギルドの最後を盛大に飾りましょう』と書かれていた。きっと皆は今頃グレンベラ沼地に集まっているのに違いない。

 どうして今まで忘れていたのか。最後の機会を無為にしてしまった粗忽そこつな自分に苛立ちつつ、視界の隅に映る時計を見て時刻を確認する。



23:57:09



 ――遅すぎた。

 今からリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンで第一階層に転移しても間に合わない。皆がまた戻ってくる可能性に賭けて、この場で待つしかないのだ。

 そうは決めたものの居ても立ってもいられず、椅子から立ち上がり後悔の色を滲ませつつ円卓の間を歩く。モモンガさんには後でメールで謝ろう、そう考えながら。


 四十一脚の椅子が並ぶ円卓を半周し、豪奢なシャンデリアが照らす広間で靴音を響かせる中、一本の杖がウルベルトの目を留めた。


 ギルド武器、スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。


 色の違う7つの宝石を咥えた蛇が絡み合った姿をした、ヘルメス神の杖ケーリュケイオンをモチーフとして創られたスタッフ。ギルド武器が破壊されればギルド自体も崩壊するため、この杖の活躍をただの一度も見たことがないが。

 装備できるのはギルド長のみなので使うことはできないが手に持つことはできる。


(最後なんだから、いいだろ?)


 ここにはいない仲間たちに一度尋ねてから、ウルベルトはそれを手にする。手に収めた瞬間、杖から陽炎の如くどす黒い赤色のオーラが立ち上がり、人の苦悶の表情を象り、崩れ、消えていく。その消えていく様はまるで怨嗟の声を響かせるように。

 こういうエフェクトにしたいと皆に提案したのは自分だ。悪の本拠地を統べる支配者が持つ杖なのだから、見る者を恐怖に慄かせるような威容がなければ困ると熱弁して。ギルド長も笑って了承してくれた。

 このエフェクトにこだわって、ヘロヘロさんに無理を言ってプログラムを組んでもらった。無茶振りな注文をしてもそれをやり遂げる変態……いや、職人が多いのもこのギルドの特徴だ。本当に多種多様な才を持つ人間が集まっていた奇跡のようなギルドだった。

 杖の宝石の一つを収集するのに他の仲間たちと競争したりもした。報復のために敵対ギルドへ殴り込みに行ったりも。高レベルのダンジョンを縛りプレイで攻略しようと提案された時は本気でアホだろと思ったが、達成した時の感動も一入ひとしおだった。

 走馬灯のように甦る冒険の日々――



23:59:44



 ……結局、誰とも会えなかった。悔いが残らないと言えば嘘になる。だからといって今更どうする事もできない。

 仲間との楽しかった思い出に包まれてこのゲームを終えることができるのならこれ以上の終わり方はない。そう考えて、ウルベルトは杖を持ち、ゆっくりと目を閉じてサービス終了の時を待った。




00:00:00





 …………。


 …………………。


 ……………………おかしい。



 強制排出され、自分の部屋へと戻されるはずだった。しかし何も起こらない。サーバーダウンが延期になったなどの通知もなかった。自分の意識もしっかりとある、ハッキングではないだろう。だとするとバグか、それともシステムの不具合か。思い浮かぶ可能性を羅列していく。

 ウルベルトは杖を手放しコンソールを開く――いや、開こうとしたができなかったのだ。GMコールに繋がらないし、システムの強制アクセスも強制終了もできない。先程までできていたであろうあらゆることが、今はできなくなってしまっている。もしや仮想世界に閉じ込められてしまったのか――最悪の展開が脳裏をよぎる。


「――ッ! 糞製作……!!」


 ウルベルトの口から反射的に出てきた言葉はそれだった。

 閉じ込められ、この円卓の間からも出られないのだろうか。まさか。冗談じゃない。靄のように纏わりつく不安を振り払うようにして入り口である両開きの扉を勢いよく開ける。


「……ウ、ウルベルト様……?」


 扉を開くと、目の前の廊下にいたのは端整な顔立ちをしたメイドだった。

 目は大きく見開かれ、驚いた表情でこちらを見ている。ユグドラシルではプレイヤーもNPCも顔の表情までは変えられないはずだ。密室の中に閉じ込められるという最悪の状況は回避できたが、またわけのわからないことが起こってしまった。硬直したままの体でウルベルトは頭だけは懸命に働かせ、思案する。

 ウルベルトとメイドの間に流れた不自然な沈黙。その沈黙を破るようにしてメイドは小首を傾げて尋ねた。


「あ、あの……どうかなさいましたか?」


 間違いなくこのメイドは口を動かして喋っている。NPCはコマンドワードに沿った命令にしか従うことのできない存在だ。会話ができるようにはなっていないはずなのに、目の前の存在はまるで意思を持っているかのように話しかけてきているのだ。

 あり得ない。だがそのあり得ないことが今現実に起こっている。突然の出来事に頭が痛くなりそうだ。一人で対処するには荷が重い。だがあるいは二人なら、相談して協力して知恵を出し合えばこの難事を乗り越えられるかもしれない。その人が見つかれば……。メールを送ってくれたのだ、ログインしている可能性は高い。その人物、それは――


「ここにモモンガさんは来ていなかったか!?」


 両手でメイドの肩口を掴んで尋ねる。焦りのせいか肩を掴む力は強かったが、ウルベルトにそんなことを気にする余裕は今はない。


「あ、はい。一時間ぐらい前でしょうか、廊下で見かけましたが……」


 その言葉を聞くや否や、ウルベルトは廊下を走りだす。そして十数メートルほど走った後に思い出したようにして赤い宝石のついた指輪――リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを使い、第一階層へと転移した。





「……今のはなんだったのかしら……?」


 まるで嵐のようだった。

 突如扉が開いたかと思えば、現れたのは御隠れになられたはずのウルベルト様。歓喜に心が震えたのも束の間、肩を掴まれ切迫した表情でモモンガ様の所在を尋ねられ、あっという間に消えてしまった。


 嵐は去っていった。

 ぽかんとした顔でウルベルトが消えた場所を見つめている、一般メイドのシクススひとりを廊下に残して。







 第九階層から転移した先は、指輪の力で転移できる最も地上に近い場所、第一階層中央霊廟の広間だった。


 ――メイドが喋っていた。そして違和感なく自分と会話をしていた。ログインしていなかった間にギルドのメンバーの居場所を尋ねられた時に答えられたり、表情を変えられるプログラムが組まれていたのだろうか。……それだけでデータの容量が膨大になることを考えると現実味がない話だ。

 ウルベルトはこれ以上悩んでいると思考の沼にはまりそうになると考え、頭を切り替える。

 彼女は教えてくれた。つい一時間前までは第九階層にモモンガさんはいたのだと。誰よりもユグドラシルを愛していた彼の性格を思うに、サービス終了前にログアウトしたとは考えられない。きっとまだグレンベラ沼地にいるはずだ。

 そんな思いを巡らせながら彼は霊廟の出口に向かって走っていた。


 重く厚い黒雲が空を覆う冷気と常闇の世界、ヘルヘイム。ユグドラシルの9つある世界の中の一つであり、異形種で冒険をするプレイヤーの多くがこの世界とニヴルヘイム、ムスペルヘイムを拠点としていた。

 そのヘルヘイムの辺境の地。ツヴェークという厄介な蛙人間型モンスターが生息する毒の沼地グレンベラ沼地に浮かぶ小島――ナザリック地下大墳墓はそのような場所に位置している。――本来であれば。


 しかしウルベルトの眼前に広がっていたのは、遥か地平線の彼方までつづく緑豊かな大草原と紺碧の夜空いっぱいに輝く星々の世界だった。

 まったく想像もしていなかった絶景の出迎えに、ウルベルトは思わず立ち止まり息を呑む。もし時間があるのだったら、時を忘れてこの透き通った夜空を只々眺めていたかった――が、今はできない。かぶりを振り、意識を戻す。

 風に乗って鼻腔をくすぐるのは青草の匂い。ユグドラシルでは嗅覚、味覚の類は感じることができないはずなのにどうして嗅覚が働いているのか。またひとつ疑問が増えていく。

 満天の星のもと、その星明かりを受けぼんやりと幻想的に浮かび上がる白亜の神殿の階段を駆け下りて、ウルベルトは草原を走り出す。柔らかい土を踏みしめる足裏の感触にどことなく懐かしさを感じる――さっきまで走っていた無機質な鉄とコンクリートの冷たくて硬い感触とは大違いだ。


 霊廟を守護する戦士像の近くまで走った時にふと気が付く。

 先ほどは無意識的にリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを使って第一階層まで転移してきた。だがこうして転移ができたということは、サービス終了の時刻後もゲームの常識が通用しているということだ。

 その証拠にサービス終了時刻前に上位道具創造クリエイト・グレーター・アイテムで作った装備は今もまだ消えていない。強制終了ができなかったりGMコールに繋がらなかったりしたので、こうしたことはできないとすっかり思い込んでいたが。


(まさか。でも魔法の効果は消えていない。ということは――)


 俄かには信じられない。そんな思いを抱きながらもウルベルトはある呪文を唱える。

 それはゲーム時代に幾度となくお世話になっていた呪文。


「〈飛行フライ〉」


 重力のくびきから解放された身体が宙に浮かび上がり、上空へと飛翔する。

 夜空に散りばめられた星屑の海。仄かな青白き光を放つ、月に似た大きな惑星が近づいてくる。手をまっすぐ伸ばせば届くような、そんな気さえしてくる。耳を切る風の音、体を撫でる空気。呼吸をすると冷たく澄んだ空気が肺を隅々まで洗うようだ。そのままスピードを上げ、上昇していく。

 夢でしか味わうことのできない、いや、夢でも体験することが叶わなかったこの不思議な感覚に笑みがこぼれそうになった。

 地表から千メートル近く離れたところで上昇を止める。ここなら遥か彼方まで見通すことができるから。あまりに高くいきすぎて魔法効果範囲外になっても困るが、これくらいなら大丈夫だろう。


「〈魔法効果範囲拡大ワイデンマジック鷹の目ホーク・アイ〉」


 魔法によって知覚が研ぎ澄まされる。視界の広い横長の山羊の瞳で眼下の大地を眺め、漏れがないよう入念に調べるがモモンガさんらしき気配は感じられない。

 ほかにも思い出せるかぎりの探知魔法を唱えるが、反応はなし。

 緑の草原がただ広がっているのみでグレンベラ沼地は影も形も見当たらなかった。暗欝な雲が空を覆っていないことから、少なくともヘルヘイムではないことは間違いない。ここはいったいどこなのか。抑えていた焦燥感が高まっていく。


 結局、モモンガさんは見つからなかった。

 ユグドラシル時代の魔法は使えるようだが、使い方はユグドラシルとは異なり呪文を詠唱するだけで発動した。ゲーム内では表情を変えることができなかったはずだが、口を開こうと思えば開くことができるし、匂いも嗅ぐことができた。まるで自分がそっくりそのままアバターに生まれ変わったかのようだ。NPCだって、NPCではなく一人の人間と接しているように感じられた。


 置かれている現状を落ち着いて挙げたつもりだが、あまりにも常識とかけ離れた現実に乾いた笑いを漏らしてしまいそうになった。

 そんな時だ。





「――ウルベルト様」


 誰もいないはずの背後から優しく耳あたりの良い声が聞こえてきた。


 振り返るとそこには、穏やかな笑みをたたえた悪魔が佇んでいた――――





 原作よりも数割増で悪化したディストピアな世界になっています。

 そんなサイバーパンクな現実世界のイメージ→1984でブレードランナーでミッドガルでネオサイタマなとってもマッポーな世界。サツバツ!

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