第五部 四章 ーホーミィ・イ・アモールー

 三か月ほど経って私達はすっかり以前と変わらない調子を取り戻した。トロノ支所内も緊迫した緊張感が一時期はピリピリと漂っていたのも、もはや過去になりつつある。

 「警戒を怠っているわけじゃないんだけどね」

 試作の召喚陣を幾つも机に広げた研究室でザクロ色の髪をした女性召喚士、ソニアさんに話を振ると苦笑いされる。フエンテという存在、そして契約者の護衛強化。最初こそ皆が常に気を張っている様に見えていた。

 しかし何も起きない。召喚士が呼ばれる騒動が起きたと思えば、ビアヘロの仕業であったり壊れた馬車の荷を町まで運搬する作業だったり。皆も拍子抜けしている頃合いだと思う。

 「油断した時が一番怖いのかな」

 私やチコもセルヴァから戻ってから何度かビアヘロ退治に招集された事もある。私とレブだけで行った事はないけど、特に目立った損害はトロノ支所内ではなかった。

 「お嬢様にはアラサーテ様と我がおります!ご安心を!」

 召喚陣を眺めていた緑竜人、ティラドルさんが私を見て鼻息を噴出する。

 「ありがとう」

 ソニアさんも最近ではティラドルさんの私への態度も気にしていないらしい。私も少しずつ慣れてはきたけど……。

 「時にお嬢様……本日、アラサーテ様はどちらに?」

 「部屋にいるよ」

 レブはソニアさんの召喚試験士用研究室に行くと言うとついてこない。……ティラドルさんの小言を聞きたくない、と言っていたのを本人には伝えていなかった。

 「左様で……」

 なんとなく、煙たがられているのを察している様子でもあるし。勿論、会う時は何度もあったからその時は話をしている。

 私はレブが研究室に来たがらないのを利用している。見学と称して出れば一人になれるから。

 「してお嬢様、そろそろなのでは?」

 「うん、そうなんだよね」

 別にレブと距離を置きたいとか、顔を見たくないのではない。私が一人になりたがるのはそう、以前から仕込んでいたブドウ酒の発酵具合を確かめる為だった。今日までレブにはその存在を知られていないと思う。作る約束はしていたから、もしかしたら勘付いているかもしれないけど、ティラドルさんやフジタカを含め周囲の人には口止めしてあった。だから滅多な事ではバレない……筈。

 コソコソしていた仕込みもそろそろ終わりの時。本当はもう少しじっくり寝かせておきたいけど初めて作ったお酒だし、渋くし過ぎても美味しくない。まずは試しにでもレブに味わわせてあげたかった。

 「お嬢様からの贈り物……さぞ喜ぶでしょうな」

 「そ、そんな大層な物じゃないんだよ。ただ、私は普段のお礼とか約束を果たしたいだけで……」

 ティラドルさんが目を細めて笑う。初対面の時に見せた殺気は微塵も感じられない。

 「アラサーテ様と話し方が似ていましたよ」

 「えっ、嘘!」

 レブと私が似てるところなんて……。

 「素直じゃない遠回しな言い方とか」

 「あ……」

 そう言えばたまにフジタカがレブの言葉を訳してた。……今のをフジタカが聞いてたらどう解釈するのかな。

 「……レブに飲んでもらいたくて作っただけ。駄目かな……」

 自分なりの表現にティラドルさんは少し長い首を横に振る。

 「お嬢様が言うのです。アラサーテ様なら受け取りますよ」

 私が、と言うよりはブドウだからという一面が最も強力な気がする。……でも、そうだといいな。

 「近いうちに渡そうと思います。でもブドウを何日か我慢してもらってからの方が美味しいって思ってもらえるかな」

 「あまり我が主君を苛めないでくださいね」

 子どもの餌付けじゃないしね。それにきっと、レブなら約束を忘れたりしないだろうし。

 「今日はこれで失礼します。ソニアさん、ありがとうございました」

 「興味を持ってくれるのはこっちも話し甲斐があるから」

 ソニアさんは私と話しながらも机に向かい、たまにぶつぶつ呟いて紙にインクを走らせている。忙しい所に毎回お邪魔して申し訳ない。今度は果物の差し入れも持ってこようかな。

 カルディナさんとはカンポに戻ってから話したらしく、今でもたまに二人で歩いているのを見掛ける。……ココの件を責められたわけではないらしかった。

 「じゃあティラドルさん。レブにはたまに顔を見せる様に言っておくから」

 「そ、そんな!アラサーテ様から我に会いに来てくださるなど!くぅ……っ!でも、できれば会いたい……今からでも……!」

 ……そういう発言をしていた、と伝えたらレブは窓から飛んで出て行きそう。ティラドルさんを見ていて今日は会わせない方が良いんだろうな、という日を最近は判断できるようになってきた。

 研究室から出て廊下を進み、角を曲がってすぐに私の視界には赤が広がる。ソニアさんやミゲルさんの髪よりも明るく目に焼き付く紅の羽を持つのは一人しかいない。

 「ニクス様!」

 「………」

 私が名前を呼ぶと大きな翼を生やした背を翻して鳥人の契約者が振り返る。

 「ザナか」

 「はい!お疲れ様です!」

 横に並ぶとニクス様も向き直って私の方を見ながら歩き出す。

 「特に疲れる行為はしていないのだがな」

 ニクス様はこの三か月の間、ほとんど外に出ていない。ブラス所長の判断で契約行脚の旅を中断していたからだ。たまに出掛けてもトロノの町中だけで護衛もついている。支所の中ではかろうじて自由に歩いているけど、これでは半分軟禁状態だ。

 「じゃあ、お久し振りですね」

 「……そうだな」

 ニクス様にはお会いすれば会釈はしていた。しかしいつも横に別の召喚士がいるものだから、こうして話すのは本当にカンポ地方にいた時以来かもしれない。今日はたまたまソニアさんの研究室帰りだから二人きりで会えたんだ。

 「お加減はいかがですか?」

 「足腰が鈍っている様に感じるな」

 「あはは、ずっとトロノ支所にいますもんね」

 本当は笑う場所ではないのかもしれない。だけどニクス様からそんな返しが来るなんて。よっぽど参っているか、笑い所だと思う。

 「おかげで口先ばかり回る様になってな」

 「………」

 もうしばらく居たらもっと軽快に話せるんじゃないのかな。私が面食らってしまった。

 「あ、あの、ニクス様!」

 「どうかしたか」

 危うく引いたと思われてまた口下手にするところだった。なんとか頭を働かせて私は立ち止まる。

 「このあと、お時間ありませんか……?」

 「と、言うと」

 「……レブと、お話とかしないかなって。いかがですか」

 選択としては正しかっただろうか。お喋りばかりしていたニクス様と変わらないレブ。今の二人が話したらどうなるだろう。以前約束していた話をする時間を取る、という話を思い返していた。あの時のレブはニクス様にあまり良い印象を持っていなかったし。

 「……構わないのであれば、寄ろう」

 「はいっ!」

 返事をしてニクス様を私達の部屋へと案内した。寮を歩くニクス様を数人の召喚士に見られたけど、確かに珍しい。普段は所長室に続く支所内の廊下にある一室を使っていたから余計にこちらへ来る事なんてないし。

 「レブー。ただいまー」

 中に入るとレブが急に部屋の死角から飛び出して来た。

 「も、戻ったか!」

 「……うん」

 どうしたんだろ、声を詰まらせて。特に部屋の様子を見ても変わっていない。だけどレブが椅子で大人しくしていないなんて……。

 「機嫌悪いの?」

 「違う」

 こういう聞き方に機嫌を悪くするんだよね。……何してたんだろ、一人でこの部屋にいてもする事なんてあんまり無いのに。

 「今日はニクス様もお連れしたよ」

 「失礼する」

 「……ほぉ」

 ニクス様が部屋の扉を潜るとレブは腕を組み、目を細めた。

 「何用だ」

 「お話をしに来た人にその態度は止めなよ」

 私が言うとレブはしばし黙った。しかしぴょん、とベッドに跳び乗り毛布をぽんぽん叩く。私に来るよう促しているんだ。

 「ニクス様は椅子におかけください。水だけ用意しますね」

 「気遣いに感謝する」

 口調は似ているのにレブと発言内容は全然似ていない。水瓶からカップに汲んだ水を三つ運んでそれぞれに持たせる。

 「酒というわけにはいかぬが」

 「杯を交わせる様な身分ではない。気にするな」

 目を細めてニクス様が笑う。何となくだけど、表情も少し豊かになった様に見える。謙遜だと思うけど竜人って契約者から見たら凄い立場なのかな。契約者を必要としない種族だから、とか?

 「いつぞや話して以来か。随分と待たされたものだ」

 「雑談に興じている場合ではなかった」

 「それもそうだ」

 二人の会話って妙に空気が重くなるんだよね。お互いがどこか芯を持って、それを探り合っているというか。

 「ザナ、君の力は何度もこの目で見せてもらった」

 「え、私……でしょうか」

 このままレブと話すと思いきや、ゆっくりとニクス様の顔がこちらを向いた。高尚な話を竜人と鳥人で始めると思っていたので心構えができていない。

 「いや、君の言葉を借りるならば君達の力と言うのが礼儀だろうな」

 「私達……」

 ニクス様とは行動する機会が度々あった。その中で見せた力……。

 「得た力を互いに増幅している。それが君達の強さだと自分は感じている」

 ベッドの横に座るレブを見ると既にこちらを見上げていた。

 「レブも強くなっている……?」

 「そう見えるがな」

 体はまた少し大きくなっているのかも、と思っても日々測っているわけではない。でも、最初に会ってからは確実にレブの身長は伸びていた。

 それを強さに置き換えられるかは分からない。

 「この体での戦い方が分かった。それも進歩だ」

 レブは得意げに胸を反らす。重心が低くなったのと小回りが今までよりも利く様になったと自分で前に言っていた。だから巨人アルゴスと正面から殴り合っても互角以上に正面から戦える。ペルーダの時みたいに動けない状況になると危ないのは変わらないみたい。アルゴスは拳や足ではなく全身でレブを押さえ込むべきだった。……そうなればレブは魔法を使うけどね。

 一方私はどうだろう。このひと月、魔法を使ったのは鍛錬だけ。実際にレブを狙って撃っているけど動かれれば当てる事もできない。これでは守られるばかりだ。

 「貴様の力もいずれ発揮される。研鑽を積み続ければな」

 「うん」

 そう、二人で強くなると決めたんだ。一人でなく、二人で増幅できていると言ってもらえるのなら狙い通りに進んでいる証拠。だから止まってなんていられない。

 「私もですが……ニクス様は何か魔法も使えるんですか?」

 今まで聞かなかったけど、だからこそ素朴な疑問が浮かんでくる。ニクス様の力が一つではないと船旅で思い知ったから。……あの時は本当に助かった。フジタカと嘔吐に苦しまずに済んだのはニクス様のおかげなんだもん。

 「自分は……契約以外は何もできない。あとは……」

 ニクス様が座ったまま左の翼を広げ、一枚羽を抜き取る。

 「この羽の持つ癒しの効果。……これも魔法と呼ぶには些か以上に頼りない」

 「……頼りない?」

 私が最後の言葉を拾うとニクス様は頷き翼を畳んだ。

 「この羽は私の魔力に感応してじんわりと持つ者を回復するだけ。致命傷を強制的に治らせる万能の羽ではない」

 それだけの力を持つ存在を私は知っている。……レブの血だ。あれを飲んだ私に起きた現象は問答無用の癒し……いや、それを越えた劇薬だった。

 「怪我を癒そうにも体が生きようとする生命力を蓄えた状態でなければ成立しない。ある条件下のみにしか使えない代物だ」

 自身の赤い羽根を見詰めてニクス様は静かに目を伏せる。使えない、という部分だけ強調していたので耳に残ってしまう。

 「で、でもニクス様が体質を変えればその羽ってもっと強力になるんじゃないですか?」

 どうにかニクス様に前向きになってもらいたくて言うと、効果があったのかこちらを見る目が大きくなった。

 「契約者の魔力に感応するのなら、汲み出して身に巡らせる魔力の量を変えれば良い。やった事はないのか」

 「………」

 沈黙はレブへの肯定だった。

 「する理由が無かったからしなかった、か」

 「レブ」

 口の前に手を向けられ止められる。

 「今に甘んじるな。その翼が飾りでないのなら、更に高みを目指せ」

 静かに言ったレブを見るニクス様は嘴を微かに震わせた。

 「自分にもできる事か」

 私は頷いた。

 「……私の知っている契約者も同じ事で悩んでました。その子にフジタカが言っていたんです。人と違う事ができる意味を考えたらどうだ、って……」

 ある朝の事だった。名前は出さなくても二人も気付いている。

 「そうしたら……変われます。きっと」

 「気持ちを行動に移す力と意欲。それは誰にでも備わっている」

 心だけでも、動くだけでも秤の均衡は崩れる。それを私達はもう知っていた。

 「ニクス様も変わられました。契約という自身の力がそういう物か向かい合って、他の契約者と違う事を成そうとされた。私はそんなニクス様を尊敬します」

 「だがあの犬ころは新しく始める事ができる。できる事を増やそうと自ら体を張れる」

 私の言いたい事をレブが補完してくれた。こういうのが二人の力だとしたらやっぱり私達も高め合えていると言えるのかな。

 「だから……何もできないとは言わないでください。私やフジタカは船酔いでも、トーロは怪我でもニクス様に救われています。契約ではない力で」

 「………」

 しばらく私をじっと見ていたニクス様はゆっくりと首を縦に振った。

 「謙遜と卑下は違う。自分はどこかで卑屈になっていたかもしれない。気付かせてくれたのは君達だ。感謝する」

 その返答にレブも口角を上げた様に見えた。

 「レブも変わったよね。さっきの二人で話してるところを見てて思ったよ」

 「む」

 口が逆に下を向く。本当に分かりやすいんだから。

 「ニクス様への態度。前とまるっきり違うんだもん。すぐに気付いちゃった」

 レブが片目を細めて怪訝そうに私を見る。

 「どういう事だ」

 「だって。今までのレブだったらたぶん理由が無かったからしなかったんだな、で終わってたよ。私はそこで止めると思ったのにレブは続けて助言したでしょ。今に甘んじるなって」

 「………」

 レブが酸っぱいブドウでも口いっぱいに頬張った様な表情で私を見ている。言い返してごらんよ、と私が胸を張っても返事は無い。

 契約者に偏見を持っていた頃のレブなら呆れて声を掛けるのも止める。何を言っても無駄だ、なんて言って。でもニクス様という人物を知った今のレブは見捨てたりしない。行動を起こせと発破を掛けてくれるんだ。

 「契約者が変われば周りも変わる。変えられる。それだけの話だ」

 「流石、男前を上げただけあるね?」

 「皮肉のつもりか」

 「疑わないでよ、褒めてるんだから」

 私に褒められても効果はないのかも。ルナおばさんでないとダメかな。

 「……男前」

 良かった、言葉は受け止めてくれたみたい。

 「ニクス様もそう思いますよね?」

 「あぁ。誰よりも気高く雄々しい」

 「ほら!」

 ちょっとブドウに目が眩みやすいと思うけど。

 「……邪念が見えたぞ」

 「……だって」

 冷静に見抜かないでよ。さっきの言葉まで薄っぺらく見えちゃう。気高いとか雄々しいもそうだけど……男前とも思ってるんだよ、私は。

 「契約者の方が曇りない視点で私を見る事ができているらしいな」

 「そりゃあレブの力を離れて見てるし……」

 ふとニクス様を見て思い出した事がある。

 「あの、ニクス様はレブの事を知っておられましたよね?異界の武王、って」

 「話したな」

 ニクス様が頷く。

 「どの様にして知ったのですか?ティラドルさんに聞いた、とか」

 「それは違う」

 組んだ手の指を見詰めてニクス様は数秒黙った。しかしすぐに顔を上げるとレブの方を見る。

 「契約者は異世界を漂う契約者と情報を共有し、世界と世界を渡り歩く事ができる。故に知っていたのだ、竜人の世界に住まう武王を。……まさかその武王が召喚士の手でこの境壊世界へ召喚されるとは思わなかった」

 だったら召喚される前から知っていた?その割に何も反応してなかったのは……契約者的に考えると自分に害が無いから放っておいた、とかかな。

 「自分も武王の姿はセルヴァで見ていた。だから他の契約者と共有して知った。武王が自身の世界から姿を消したと」

 小さくなる前のレブを見て確認したら元の世界にいなかった。だからたぶんレブが竜人の世界の武王って存在だと気付けたらしい。

 「その……情報の共有っていつ行っているのですか?」

 「念じれば送り、受け取る事が出来る。例えばこうして話している間にもできない事ではない。条件は限られ、非常に断片的な物だがな」

 そうして契約者同士繋がれる……。だからココとも連絡がついていたのかな。

 「秘密主義の契約者にしては随分お喋りだな」

 「知られたところで模倣できる者はいないからな」

 レブの棘にニクス様がすかさず返す。鼻を鳴らしてレブも腕を組んだ。

 「確かにな。だが、それを利用する者が現れたらどうする。お前を生贄に他の契約者を誘い出したりな」

 「だから自分は信用できる貴方達に話しているのだ」

 「………!」

 レブが固まった。いや、私もだけど。

 ニクス様が……私達を信用して契約者の秘密を話してくれた。そんなの私からすればとても光栄な事で……。

 「顔が赤くなっている」

 「そ、そんな事無いって!」

 調子に乗るなって言いたいのは分かってるよ!でも……少しくらい浸らせてよ!契約者に認められるってそうそうないんだから。レブだって紫竜がブドウの粒を一斉にぶつけられた様な顔をしてたもん。

 「自分は君の頬を染める様な男ではない」

 「……分かってます。って、それも失礼ですが」

 「よい」

 ニクス様に言われてやっと顔の熱も引いたと思う。自分の発言にもひやりとした。なんて口の利き方をしてしまったのか。

 「契約者は客観的に世界を見なければならないのもまた、真理。しかし自分にも主観はあり、自身を知ってもらいたいと思う人物もいる。君や、武王達の様に」

 ヒトである以上感情があるのは当たり前。自分について聞いて欲しい相手が私達だった、と言ってくれるのなら応えたい。私達だけでなく、ニクス様をよく知る人達ならきっと誰でもそう思う。

 「私達も知りたいです、ニクス様の事をもっと」

 「あの契約者が口を割るのだ、私とて腹を割るのはやぶさかではない」

 召喚士が、契約者がなんて言うけどレブの見ている人物はとっくに契約者という括りではなくニクス様個人だった。でなければ腹を割って話そうなんて絶対に言わない。

 話をするのも大事だが、聞くのはもっと大事。だから私もレブもニクス様に積極的に話を聞かせてもらった。話せば話す程に私がいかに世界を知らないか思い知らされる。地図帳を眺めただけでは分からないことだらけだった。

 「じゃあ、この世界をオリソンティ・エラと名付けたのは……」

 「部外者、つまりは自分よりも以前からこの地にいた契約者だ」

 元々居た世界をなんて呼んでいたの、とフジタカに聞いた事がある。いつかも忘れたけどその時彼は普通に世界は世界だろ、と言った。なんでこの世界には名前があるんだ、とその方が不思議だったらしい。私達にとっては当たり前だったから気にした事もなかった。

 「契約者が名付けた地名を原住民が取り入れて広まったか。しかもそれは国や村ではなく世界に通じる。契約者はそれだけこの世界に影響を与えたのだな」

 それだけ契約者はこの世界で頼られていた。昔はもっと権限や力も持っていたのかも。

 「そしてビアヘロに悩まされるだけだったオリソンティ・エラの人達は契約者によって、自分からインヴィタドを召喚して対抗できるようになった……か」

 なんだか歴史の勉強をしている様だった。こうした先人の知恵は今代に生きる私達の糧になっている。

 レブの世界では異世界と繋がる地が幾つか存在し、そこに赴くことで異世界の技術と触れ合う事ができたらしい。もっとも、レブやレブの世界からすれば特に必要のない物だったらしいけど。

 「召喚する地を自身の意思で指定できる。それはこの地、この地に住む者にしかできない特権だった」

 「それが私達の特徴……」

 横でレブも頷く。

 「彼を知り、己を知れば百戦殆うからずと犬ころも言っていたが……起源を知るのも興味深いな」

 「フジタカがそんな事を?」

 よく分からない言葉だけでなく、そんな戦術指導みたいな話もできるんだ。教養があるんだろうな……。

 「この世界は酷く危うい。だから風化する話も数多い」

 「では、ニクス様が伝道師になるというのはいかがですか?」

 私の提案に自分で目を丸くする。思ったよりも良い考えかも。契約者が力を与えると同時にその起源も語る。親や友人、他の誰よりも聞く様な気がした。

 「契約者に関しては伏せたままで言っても胡乱に思われるだけだ」

 「……そうかな」

 冷たくレブに言われて私も落ち着く。……全部は話せないよね、まして今は契約者が狙われているなんて騒がれていたんだし。

 「……だが」

 レブの口が再び開く。俯いた顔を上げると横目でこちらを見ていた。

 「召喚士に力に関して話す分には構わない。違うか」

 「力を行使する者には必要だな」

 二人の会話に挟まれ呆然としてしまいそうになったが我に返る。

 「じゃあ……」

 「所長に打診してみよう。反応次第では自分が言わずとも、歴史を語り継ぐ事はできる」

 今の私達は技術的な話ばかりで、技術の生い立ちは二の次になっていた。使いこなす事が急務、というのもあるけど疎かにしたままではきっといつか立ち止まる。調べれば分かる事ではあっても知る機会を先に用意してやるも後の世代には必要だ。

 「ありがとうございます!」

 「気付かせてくれたのは君だ。やはり、聞いてもらえて良かった」

 私が頭を下げるとニクス様はゆっくりと立ち上がった。

 「もう行ってしまわれるのですか」

 「ご馳走になったな。所長には早速話してくる。……あまり遅いと仕事をしないからな」

 ニクス様はカップを私に手渡すと静かに部屋から出て行った。最後のはニクス様なりの冗談だったのかな。

 「長居させたな」

 「うん……」

 部屋からニクス様が去った後、急に室内が静かになった様に感じた。椅子に腰掛ける派手な赤が消えただけでとても殺風景に見えた。

 「話し足りない、と顔に書いてあるぞ」

 「具体的に何を聞きたい、ってのがあるわけでもないのにね」

 契約者が私達に力を与える理由を聞いて幻滅した事もあった。だけど私からすればこうして部屋に招いてニクス様に面と向かって話をしているのが今でも現実味を帯びていない。旅をして、その姿をずっと横で見ていたにも関わらず。

 「ならばまた話せば良い。自分自身が満足するまでな」

 「また明日も会えるんだもんね」

 私達の行き着いた結論にレブも同意してくれる。そしてそのままベッドから降りようとしたレブの手に私は自分の手を重ねた。

 「……どうした」

 「だったらまずは、レブともう少し話そうかなって。どうかな?」

 するとレブはいや、と微かに口を動かすと短く鼻を鳴らして笑った。

 「悪くない提案だ」

 

 レブと話したのは主に私の事だった。前に話したビアヘロに襲われた事も含めながら自分が過去に触れた出来事にどう感じたか聞いてもらうだけで時間は過ぎる。レブはその一つ一つへ耳を傾けてくれていた。

 「ふぁあ……」

 おかげで少し寝不足。喉も少し喋り過ぎてイガイガする気がする。そんな話をしたら喉には果物が良い、と勧められた。その手には乗りません。

 「おはよう、ザナ」

 「ルビー。おはよう」

 顔を洗って鏡を見ていると私の横に立ったのはルビーだった。私が退くとすぐに冷水を顔に三度浴びせて水を振り払う。

 「……っし!今日も頑張ろう!」

 「気合入ってるね」

 水も滴る良いルビー。一方私は顔を洗っても少し体が怠い。

 「ザナこそ。いつもの元気はどこにやったのさ。」

 「昨日、かな……」

 今日に余力を残そうと考えずに昨夜を迎えたのがいけなかった。私とレブの体力差を考えずにずっと話していたから目が重いんだ。

 「なんか難しい事してたんだね……」

 「そうじゃないけど……有意義にはしたかったかな」

 立ち返るには良い機会だった。自分がどうして今ここにいるのか。これからも戦っていくにはどうしたら良いのか自分の経験から考えられた。もちろん、レブにも協力してもらって。

 「特待生も努力してるんだもん、私もやっちゃうからね!」

 「張り切って、どうしちゃったの?」

 分けてもらいたいくらいにルビーは気を昂らせて拳を握っている。前のルビーはも少し控えめだったと思うのに。

 「私ね、チコの出したフジタカ君みたいなインヴィタドを呼ぼうと思ったの」

 「どういう意味?」

 フジタカみたいな、と言うと不都合も多少あると思うんだよね……。強力な特技を持っていても平和な国からやってきたから戦うまでに苦労するとか。

 「なんというか、歳の近いインヴィタド!それでミゲルさんとリッチさんみたいな関係になれたら素敵じゃない?」

 フジタカの力が目当てで言ったわけじゃないんだ。そこに安心して私も顔を拭きながら頷いて見せた。……レブの名前は少しも出なかったな。

 「そうだね。女子のインヴィタドってあんまり見ないから、いたら楽しいかも」

 「でしょ!だから私、今は色々試してるんだ!……なかなか、話の通じる相手には出会えないんだけどね」

 カルディナさんでもトーロと出会うのにかなり時間を要したみたいだし、すぐには難しいのだろう。だけどルビーのやる気は燃焼し続けている。表情も明るく、今日を良くしようと輝いて見えた。

 ビアヘロに怯えるよりも前に自分の召喚技術が上がっている実感を得られたのかな、と見ていて思った。リッチさんみたいな人を呼ぶなら戦闘は難しいかもしれない。自分達の行き先を話し合える関係って築けたら最高だと思う。

 「じゃあね、ザナ!私は講義受けてくるよ」

 「うん、またね。いってらっしゃい!」

 顔を濡らしたままでルビーは小走りで洗面所を出て行く。手を振りながら私もそんな時間だったか、と気付かされた。

 基礎学の課程を君達は飛ばして良いと所長に言われて私やチコは受けていない。でも私は独学で勉強を続けていた。でないと他の召喚になんて辿り着けない。

 それは何もレブに不満があって言っているのではない。……寧ろ、逆なんだ。

 私はレブを異性として意識してしまっている。セルヴァで召喚士とインヴィタドの正しい関係を説かれて私はしっかりと言えなかった。それは私がレブに命令をするのが苦手とか怖いからではない。

 ルビーとルナおばさんに気付かされて私は自分がこれからどうレブと向き合えば良いか分からなくなってしまった。昨日の夜はあんなに楽しかったのに、それは私が一人で喋っていたからに過ぎない。

 「………」

 独りよがりでいたくない。レブと少しでも優位ではなく対等でありたい。そんな事を考えると胸が切なく締め付けられる。魔法を使う痛みとは違うのに息苦しくなってしまうんだ。

 「……よし」

 だったら自分はあのへそ曲がりの相棒に何をするのか。決めていた事から少しずつやってみる。……この気持ちが本物なのか確かめる為にも。

 私は洗面器に水を再度張って顔をしばらく浸けた。ぶくぶくと息を吐き出し、限界を迎えて顔を引き上げる。

 「ぷっはぁ!」

 前髪も濡れ、水が目に入らない様にと目を細める自分の姿は鏡で見ても滑稽だった。だけど、他ならぬこれが私なんだ。

 「はぁ……はぁ……」

 顔や髪をもう一度拭って私は手に力を込める。ぎゅ、と握った拳はさっきよりも手応えが強くなっていた。

 「待っててよ、レブ……!」

 洗面所を出て私は食糧庫を目指して歩き出す。木張りの床をギシギシ鳴らして廊下を進んだ。今日はレブに手早くブドウ酒を渡して飲んでもらう。初めて作ったお酒だけどもし、美味しく飲んでもら……。

 「呼んだか」

 「う、うぇぇ!?」

 曲がり角からぬっ、とレブの手と顔が出てきて思わず変な声が出た。自分でも奇声だったと自覚があるものだからレブの冷ややかな視線が余計に痛い。

 「へ、部屋にいたんじゃなかったの?」

 「洗顔にしては遅いと思ってな」

 腕を組んで私を見上げるレブが鼻を鳴らした。……最近、ティラドルさんのところに出入りしたりでレブの近くにいないとこうして迎えに来る日も出てきた。警戒されてるんだろうな、と思って私も注意しているんだけど……。

 「……寝不足で気分を悪くしたか」

 「え?……ううん、平気。私こそ、昨日はありがとう」

 「……いや」

 顔を背けてレブは部屋の方へと引き返す。食糧庫とは逆方向だけどこれで一人で戻したら追ってくるだろうな……。仕方なしに私もレブに続く。細かな事もレブが心配してくれていた。背中を見ながら私は彼が何を思っているのか考えてしまう。

 ブドウ酒作りは黙っていたからなんとか素振りを見せずに完遂したかった。本来ならこの場で話して一緒に引き取りに行くのも悪くないのだろうけど。

 「今日は身体を動かしたい。誰か訓練相手はいないか」

 「急だなぁ」

 部屋に戻って鞄に自分で用意した教材を中に入れてみる。外に出てみようというのは同意見でも中身が違う。今日は勉強に付き合ってくれそうにないな。昨日や一昨日はこっちに合わせてずっと室内にいたもん。

 「うーん……」

 ルビーにスライムか何かを召喚してもらって訓練も良いかな、と思ったけど講義って言っていたから頼めない。フジタカは朝からどこかに出掛けたみたいだし、カルディナさんとトーロはもう私達の教育係からも外されている。……外された、というよりは自然消滅みたいなものだ。責任追及もうやむやになってついでに私達への指導も。結局、カルディナさんから直接魔力や召喚術については教えてもらえなかった。個人的に会って頼めばソニアさんみたいに教えてくれるかな。

 「アラサーテ様!いらっしゃいますか!」

 ソニアさんの事を考えていると部屋の外から聞こえたのがちょうど彼女のインヴィタドの声だった。私とレブは顔を見合わせる。レブは苦い顔をして首を横に振ったけどこの位置だ、竜人ならば集中すれば私の心臓の鼓動だって聞こえていると思う。

 「お嬢様!おはようございます!」

 扉を開けるとティラドルさんが私を見下ろしにこやかに笑う。今日もきっちり服を着こんで身なりも笑顔も完璧。レブを見下ろし、ティラドルさんを見上げるのを繰り返すと首が痛い。

 「お、おはよう……。……どうぞ?」

 「これは!失礼します!」

 廊下に響くんだよね、ティラドルさんの声って……。すぐに私は部屋の中へと入れてあげる。レブは椅子に腰掛け既にティラドルさんを睨んでいる。

 「アラサーテ様!おは……」

 「用件を言って消えろ」

 「あうん……!」

 レブからの接し方は変わらない。ティラドルさんがレブへ行う反応の方が過剰になってきている気がする。どこか女々しいというか……冷たくされる事への興奮の仕方が激しく大袈裟に見えた。癖になっているのかな。

 「そんな事を仰らずに。挨拶は大事ですぞ」

 「……うん。レブ、あんまり挨拶してくれないよね」

 「………」

 試しにティラドルさんの話に乗ってみる。私も薄々感じていた部分だったし。……たまぁにだったらやってくれるんだけどね。

 「それではアラサーテ様もご一緒に!おはようございます!」

 「おはよう、レブ!」

 「ふん」

 あぁ、今日は駄目だ。絶対にやらないつもりだ。自発的に言うのを根気良く待たないと絶対に返事をしない。挨拶って何気なく出るから人に言わせるって難しいよね。

 「……ティラ」

 「はっ」

 横顔をこちらに向けていたレブの目だけがティラドルさんを射貫く。

 「私に同じ言葉を言わせるなよ……!」

 「う、あ……はい……」

 しかも殺気立ってる。ティラドルさんが何かしたわけでもないのに。はたから見ると自分よりも小さな竜が一回り以上大きな竜を気圧している。妙な絵面だが二人には絶対的な力関係になっていた。

 「し、強いて申し上げるならこの数日、御身を拝見する機会が無く……」

 「安い言葉で修飾するな。用も無いのに顔を見に来ただけとは情けない」

 虫の居所が、とか間が悪い時に来たのではない。ティラドルさんが来たのがレブの苛立ちの原因だ。

 私は理由も無く顔を見たい、って気持ちは分かるけどなぁ。それはレブからしたら軟弱って事なのかも。

 「レブ、せっかく来てくれた相手に……」

 「良いのです、お嬢様。こんな我にアラサーテ様はお声を聞かせ鼓膜を震わせてくださった。それだけでもお邪魔した甲斐があったというもの」

 前は数か月会えなかった事に比べれば叱られるだけでも有難いのか……。会えないよりも会えた方が良いけどこれではティラドルさんがあまりにも報われない。

 「今日の予定を確認してたんでしょ?だったら……」

 「ふむ」

 私が言い欠けている段階でレブが何かに反応した。

 「ティラ。お前の今日の予定はどうなっている」

 「……まさか」

 察しが付いてレブを見ると、彼は普段見せない笑みを浮かべた。


 「くっ……!」

 「はぁっ!」

 上半身を裸になった緑竜の締まった体に紫竜の剛腕が次々に振るわれる。……私はソニアさんの横に立って気が気じゃなかった。

 「あ、あぁぁぁ……ズボンが解れる……破ける……!」

 「………」

 訓練場に引っ張り出したのも申し訳ないのに、ティラドルさんが着ている服もレブが拳で所々を弾け飛ばしている。ソニアさんの悲鳴に私は逃げ出したかった。

 レブは自分の訓練相手にティラドルさんを選んだ。ティラドルさんはレブの命令は断らないし、ソニアさんはティラドルさんの一声ですぐに承諾してしまう。だからソニアさんは今日の研究を中断してこちらに来てしまった。それが私には申し訳なくて頭が上がらない。しかも竜人達もいるから下手に謝る事もできない。

 「ふっ!」

 「遅ぉい!」

 振りかぶった輝く緑の拳が届く前に跳び上がったレブの足がティラドルさんの顔面を捉える。

 「がぁ!」

 訓練だからと言って躊躇も遠慮もなくレブがティラドルさんを蹴倒す。吹っ飛んでズボンが土や泥で汚れるのも私は気になっていた。肉体の方の怪我はあまり心配していない。致命傷は与えないでいてやる、とレブが言っていたから。

 こんな予定じゃ無かったのにな……。そう思いながら私は二人の竜人の激突を眺めていた。

 「……やるじゃない」

 「えっ?」

 ティラドルさんだって当然、無抵抗ではない。お互いが魔法を禁止した上で戦っているし、何度もレブだって吹き飛ばされている。

 「アラサーテ様よ。私のティラドル様が崇めるだけはあるわ」

 「………」

 そう、それでもレブは本気のティラドルさんを相手に一歩も引かない。殺気立った二人の間に人間である私達はとても近寄れなかった。

 多少細身とは言え、自分の倍以上の大きさをしたティラドルさんの攻撃は一発一発がとても広い。体を急に回転させて繰り出す尾の一撃に至っては手斧を持った状態のトーロよりも範囲が大きかった。

 レブはティラドルさんの攻撃を一つ一つ確実に飛び越え、いなし、反撃している。初撃は譲りながらも確実に当てているのはレブの方だった。

 「ち……っ!」

 レブは距離を調整する際に度々翼を使っていた。最初こそ戸惑っていたものの、ティラドルさんもすぐに対応して逆に翼を広げた時に畳み掛けてくる。翼を使って間合いを詰めても離れても必ずティラドルさんの距離には入るのだから。まして、棒立ちしているわけではないのだから向こうからもどんどん攻めてくる。

 「もっとだ、ティラ!もっと激しく攻めてみろ!」

 「必ずや満足させてみせます!」

 「おぉぉぉ!」

 「はぁぁぁ!」

 広げた翼で浮いたレブとティラドルさんの拳が激突し、レブが背中から地面に叩き落とされる。地に足が付いている分、ティラドルさんの方が踏ん張りが利くからだ。

 状況を冷静に見て、インヴィタドへ的確な指示するのが召喚士の役目。だけどこんなにも常人離れした戦闘を見せられると私からは何も言えない。思った事を口に出してもレブだってそんな事は分かっているからだ。

 「ティラドル様!飛ぶと左手か右足から攻撃が来ます!」

 「……っ!」

 ソニアさんの声に呼応したかティラドルさんの両腕が広がる。それと同時にレブの攻撃を受け止めた。

 「そこぉ!」

 「くっ……!」

 レブからの攻撃は左手からだった。ティラドルさんは先読みした様に右腕で受け、左手を引き戻し振り上げてレブの腹に一発。レブは一度着地しすぐに足払いを狙ったが後ろに跳んで躱されてしまう。

 「ソニアさん、今の……」

 「変幻自在な戦い方、なんでしょうけど絞る事ぐらいならできるわよ。ずっと見ていたんだから」

 読まれていた。ティラドルさんはソニアさんの声に反応してレブの左手と右足からしか攻撃が来ないと踏んだから両腕を広げる。そして見事にレブの一撃を右で受けた。だからすかさず空いていた左手で攻勢に転じる。どんなにレブに比べて大振りでも、速度もゴーレムや獣人の比じゃない。同じ竜人として決定的に遅れていないのだから攻撃は当たってしまう。

 「確かに、普段なら私達の常識は通じない。だけど、それは何もしない理由にはならないのよ」

観察に集中してたんだ。魔法は使わないで体術だけなら同じ両腕と両足を使う。選択肢は無限というわけではない。絞り切れずとも候補は挙げられるんだ。

 「私は模擬戦でもティラドル様を勝たせたいわ。あなたはどうなの?」

 「私は……」

 既にレブなら大丈夫だろう、彼に何を言っても聞いてくれない。そう思い込んでいた。

 見守る事も大事だけど私だって何かしたい。見ているだけ、任せているだけではいられない。だったら……!

 「次は蹴りです!」

 「ぐぁ!」

 レブの拳がティラドルさんの顔に直撃して倒れる。

 「あ……」

 「………!」

 ソニアさんを一睨みするとティラドルさんは立ち上がって再度レブに向かう。

 「……こういう事もあるけどね」

 「………」

 聞こえてはいたけど私はもう意識をティラドルさんに向けていた。次に相手がどう動くのか観察し、見極める。……一長一短でできることじゃない。

 「はっ!」

 「ふんっ!」

 「ぐぅ!」

 私に分かるのはティラドルさんの動きが止まらない事。川の水みたいに絶えず動いていて、一挙一動が一つの流れになっている。……あれ?

 「はぁ!」

 「……ふん!」

 今だ!

 「跳んで!」

 「な……!」

 私の合図と共にレブが跳ぶ。すると直前までいた位置にティラドルさんの尻尾が鞭の如く振るわれた。しかし、そこにレブはもういない。

 「おぉぉぉぉぉるぁ!」

 「が……っはぁ!」

 レブの振り上げた踵がティラドルさんの額に叩き付けられた。大きく跳ねてからティラドルさんは倒れ、しばらく立てなくなる。

 「スリーカウント、だったか」

 よく分からないけどレブの勝利で決着したらしい。ティラドルさんも頭を押さえてゆっくりと起き上がる。

 「……有難うございました」

 「うむ」

 立ち上がったティラドルさんとレブが少し離れて一礼。そして二人は大きく胸を膨らませると鼻から一気に白い何かを噴出した。

 「なに、これ……」

 「離れた方がいいぞ」

 「え?って、熱っ!」

 広がる白い靄は霧よりも深く濃い。風が吹いて私とソニアさんを包むと一気に気温が上がったように感じる。騒ぐ程ではなかったがそれは蒸気だった。レブとティラドルさんが放熱の為に体の外に出したみたい。

 「ティラドル様!お怪我は!」

 「大事は無い」

 蒸気が過ぎて二人の姿が見えるとすぐにソニアさんは声を荒げてティラドルさんに駆け寄る。本人は頭から手を離すとズボンの土埃を払い始めた。

 「鮮やかでしたアラサーテ様!まさか我の一撃をここまで見事に躱され反撃をされるとは……」

 「いや」

 ティラドルさんを放置してレブは私を見上げていた。

 「ティラの攻撃が見えていたのか」

 「いや……見えたというよりは、聞こえたのかな」

 レブは腕を組んで一息吐き出す。まだ少し白い。

 「ティラドルさんの攻撃をじっくり見ていたの。そうしたら、綺麗だなって思った」

 「光栄です」

 一度動きを止めてティラドルさんが私にお辞儀をする。そんなの必要ないんだけどな。

 「でも、あのレブが避ける直前にティラドルさんの踏み込む足音が変に転調したんだ。だから、何か来ると思った」

 「決め手にする奇襲のつもりでした。それを音で読まれるとは……我も精進が足りません」

 自分の尾を見てティラドルさんは歯噛みする。やっぱり勝つつもりでいたんだ。

 「気付いてもどう伝えたら良いのか分からなくて咄嗟に跳んでって言っちゃった。ごめんね、最後はレブ任せになってた」

 「いや」

 レブは首を横に振ると笑った。

 「私が見えない瞬間を見て伝えた貴様の指示は的確だった。そこから隙だらけのティラを血祭りに上げるのは造作もない」

 「物騒な事言わないの!」

 褒められて少しホッとしたのにすぐ乱暴しようとするんだから。……でも、最後のレブには見惚れてしまった。それこそ雷を思わせるほんの一瞬だけが私の中へ鮮明に焼き付く。

 「やり手はアラサーテ様だけじゃなかったわけね」

 私達を見ていたソニアさんががっくりと肩を落とした。負けたのが悔しいのか、それともズボンの修繕をどうしようか考えているのかな。……買い直した方が早そう。弁償しないとダメかな、アレ。

 「あ……ソニアさん、お忙しいところレブに付き合って頂いてすみません!」

 まずは謝らないといけないと頭を下げる。ソニアさんは私の肩に手を置くと苦笑した。

 「いいのよ。私もティラドル様に甘えてこういう訓練を怠っていたわ。たまにならいいのかもしれない」

 言ってソニアさんはティラドルさんとレブを見る。自分達の放熱蒸気に包まれたからか妙に鱗が艶々と光を反射していた。拭き取ってあげた方が良いのかな。人間なら放っておくと風邪をひきそう。上着を差し出してソニアさんは口を開いた。

 「竜人とは誇り高い種族。私達人間の言う事は癇に障るかもしれませんが」

 「的確であれば指図だろうと構わん。ビアヘロの情報と同じだ」

 ティラドルさんはソニアさんから上着を受け取るとボタンは留めずに羽織った。一度レブの攻撃を読み違えた場面がなかったら勝負はどうなっていたか分からない。

 それでもティラドルさんはソニアさんの事も信用している様だった。既にビアヘロに関しては信じているから、戦闘の指示だって場合によっては任せられると思う。

 「私も頑張ってみて良い?」

 「貴様の努力を阻害する理由は無い。度を過ぎなければな」

 レブに追い付くには一朝一夕にはできないと思うから頑張りたいんだけどな。時間は掛かりそうだった。

 「お嬢様」

 「なに?」

 そこにティラドルさんが少し身を屈めて私に耳打ちする。

 「今こそ勝利の美酒をアラサーテ様へ」

 「あ……!」

 もしかして、その為にわざわざ体を張ってくれたの?ティラドルさんが顔をつい、と背けたので私はレブに向き直る。

 「……レブ、疲れた?」

 「そうさな……」

 ゆっくりとレブが腕組みを解く。

 「竜人同士で争うこの感覚は随分と久しい。未だに昂ぶりが治まらない」

 ……まだティラドルさんを殴り足りないとか、そういう意味ではないよね?

 「だったら今度は私のお願いを聞いてくれないかな」

 「言ってみろ」

 もう一度ソニアさんに私は頭を下げる。

 「ではソニアさん、今日は私達……」

 「戻るのね。私は服屋に寄るからここで解散にしましょう。……次はどんな服を着て頂こうかしら」

 あっさりとソニアさんは私を解放してくれた。たぶんティラドルさんの服を買いに行くんだ。意外に汚したり破いた事は気にされてなくて少し助かる。

 「行こう?」

 「……うむ」

 私はレブを連れ立ってトロノ支所へ向かって歩き出す。ティラドルさんの目配せに私は微笑んで応える。

 「歩いてるとどう?落ち着いたんじゃないの」

 「多少はな」

 二人の姿を完全に見失ってから口を開くとレブの声の調子も低くなっていた。だいぶ平静を取り戻してくれたと私も感じる。

 「ティラもティラだ。幾ら私が縮んだからといって、あの程度しか動けないとはな。あの赤毛に甘やかされていた証拠だ」

 「あ、あれで……?」

 ティラドルさんは本当ならもっと動けるって事だよね?あんな試合を見せられた後にそんな容赦ない事を言われてはこちらが言葉を失ってしまう。

 「わざと受けても全く腰が入っていなかった。ああいう時に加減をする様なやつではないのだが」

 「え?わざと……?」

 本当はもっと避けられたのに自分から蹴られたり打ち込まれていたの?私がレブの顔を覗くと彼はしっかりと頷いて前を見ていた。

 「ティラも私に不平不満は持っている。それを少しでも晴らさせてやらねばな」

 「心配してたんだ」

 「断じて違う」

 そこは否定するんだから。でもまさか、レブがティラドルさんの鬱憤を気にしてわざわざ殴られていたなんて。

 「結局私の方が何発も直撃させたから意味はないのだろうか」

 私の知るティラドルさんならレブに危害を加えるよりは、加えられたいと思う気がする。本音は今度聞けるかな。

 「レブなりの対処法だったんだ」

 「この方法が迅速かつ即効性が高いからな」

 竜人なら誰しも、ではなくレブ個人の考えだろうな、これは。

 「それはそうと」

 前に回り込んでレブが自分の腰に手を当てる。

 「先刻はティラと何を話していた」

 「う……そっちも気にしていたんだ」

 レブが首を傾げて見透かすように私を見上げて目を細める。

 「当たり前だ。それにこのところ妙にティラの顔を見に行っていたからな。二人の関係を疑う者も少なくない」

 いや、確実に疑うとしたらレブしかいないから少ないよ。関係って言っても、ソニアさんのインヴィタドと私は専属契約はできない。既に私にはレブがいるのだから。

 「観念するよ。だから話す前に先に私の用事を片付けさせて」

 「……仕方あるまい」

 レブの承諾を得たところで私達は真っ直ぐにトロノ支所の食糧庫へと向かった。今度こそ邪魔は入らない。

 「えーと……」

 冷暗所に保管してもらった瓶は外にも何本かあるみたい。だけど私は自分が用意した瓶の栓に印を付けておいたから間違える事は無かった。

 「こーれ!」

 「む……」

 瓶の中から一本を引き抜いて私はレブの前に掲げた。レブも目を細めて瓶を見上げる。

 「これは……」

 「レブに。前に約束してたでしょ?私が手作りしたブドウ酒」

 レブに瓶を渡してやると見下ろしてしばし固まっていた。しかしブドウ酒と言った途端に目の色が変わった。

 「これを用意していたのか……!」

 「う、うん……飲んでいいよ?」

 「貰おう」

 瓶の中の液体を凝視するレブに圧倒されながら私は食糧庫を後にする。グラスは実は既に食堂から許可をもらって拝借してあった。

 「………」

 黙って歩くレブの足取りは妙に軽やかだった。軽く跳ねていると言っても過言は無い。尻尾も揺れてさっきから床を何度も叩いている。気に入ってくれたんだね、なんて意地悪を言うのは止めておく。まずは味も確かめられてないし……。

 「お?」

 寮へと続く廊下を歩いていると後ろから声がする。聞き覚えのある声に私が振り返ると歩いていたのはフジタカだった。

 「フジタカ。出掛けてたのに今戻ったの?」

 「おう。ちょっとな!ポルとセシリノのおっさんに会いに行ってたんだ」

 言われて数か月前、一緒に工房へ行った事を思い出す。あれから進展があったのかな。

 「何かしたの?」

 「いや、それが……」

 ばつが悪そうにフジタカが頬を掻く。

 「ほっとんど雑談だったんだよな。やれ最近の景気だとか腰の調子だとか」

 「仲良くなってるんだね」

 ポルさんってどこかぶっきらぼうで私はまだ調子を掴めないんだよなぁ。フジタカにはとっても協力的で良い人なのは分かるんだけど。

 「そうだと……お?デブ、お前何を持ってるんだよ?」

 そこでようやくフジタカがレブに気が付く。加えて言うなら、レブが大事そうに抱える瓶の方だけど。

 「あれ、これって……」

 「うん、ブドウ酒」

 フジタカにも荷運びを手伝ってもらったから覚えてたんだね。

 「一滴たりとも渡さぬぞ。これは既に私の物だ」

 「ブドードラゴンからブドウ酒盗むなんて真似、誰がするかよ……」

 瓶を持つレブにフジタカが苦々しく口を曲げる。確かにレブからブドウを取り上げたら反撃が恐ろしい。場合によっては命も賭けないといけないかも。

 「……っと、チコには早く戻るって言ってたのに遅くなっちまったから行くわ。じゃあな、お二人さん!」

 「またね」

 小走りで行ってしまうフジタカを見送り私達も部屋へと戻る。遂にご対面の時だ。

 「じゃあレブ」

 「うむ」

 二人で椅子に腰掛けて私は瓶を受け取る。レブがグラスを見ていた隙に私は栓を抜いた。

 「よっと」

 キュポン、と良い音を立てて抜けた栓を置くとたちまち部屋には熟成させて濃厚なブドウの香りが漂い始める。それだけでレブの表情はどこか恍惚に見えた。

 「ふむ……」

 「はい、持って」

 レブにグラスを持たせて私は瓶を傾けた。並々とではなく、とりあえず半分だけ注いで私は瓶を置いた。

 「本当は樽とかに詰めて何年も寝かせてから飲むのが良いらしいんだけど、今回は……」

 「………」

 レブはじっと寄せたグラスの中の液体を見ていた。うんちくやご託を延々と並べても仕方ない、よね。ずっと楽しみにしていてくれたんだから。

 「とにかく、飲んでみて?上手にできたかは分からないんだけど」

 手順は間違わなかったから別物になっている事はないと思う。これだけ薫り高く仕上がったから失敗ではないかな。

 「では、頂こう」

 レブがグラスに口を寄せ、傾ける。鱗に対して更に暗い色の液体がゆっくりと彼に流し込まれるその瞬間を私も見逃せなかった。

 「……っ……っ」

 「あ、あぁ……」

 舌先を濡らす程度に一度口に含み、次にもう少し多めに飲む。正しく上品な飲み方があったと思うけどそんなものはレブには関係ない。三度目にはグラスを空にして机の上にそっと置いた。

 「………」

 レブは黙ってグラスの底で微かに光るブドウ酒を見詰めている。何を想って黙っているのかは分からない。答えを急かしたいのに私は彼の横顔を見ている事しかできなかった。

 「……っ」

 するとゴキュン、とレブが喉を鳴らす。それがブドウ酒を飲み下した音とはすぐに分かった。口の中で味わってくれていたらしい。

 「ふぅ」

 レブが横目で瓶を見る。私の方は完全に遮断している様だった。

 「………」

 おもむろに瓶を持ち上げるレブ。中身はまだかなり残っていると思うけど……。

 「……ぬぅ……」

 瓶を傾け、中身をグラスへと移す。注ごうかと思ったけど感想が無いから私も動くに動けない。……不味いけど無理に飲んでいるとしたら勧めるのも悪いだろうし。

 「……っ」

 更にもう一杯を飲んでくれた。今度は少し多めに注いでいる。酒には料理も付き物だけど今回は用意していない。レブってブドウ以外に関心を示さないけど肉とかも好きなのかな。

 「………ぷは」

 三杯目も飲み、四杯目を私が注ぐとレブは頷いてから飲んでくれた。

 「………」

 「れ、レブ!ちょっと!」

 半分を切ろうとした頃、突然瓶の先を自身の口に直結してレブは一気に中身を傾けた!いわゆるラッパ飲みと呼ばれるその行為につい、黙っていられなくなった。

 「ぷ……っふぅー……」

 瓶が空になるとレブは口から引き抜いて息を噴出した。今度は湯気が出なかった代わりに、ふんわりブドウ酒の匂いの流れが私の鼻を再度くすぐる。

 「なくなっちゃったね」

 コト、とレブが置いた瓶を見て。グラスと同じ様に微かに残った水滴は……。って、レブがグラスを舐めてる!

 「レブ!行儀悪い!」

 「………」

 伸ばしていた舌を引っ込めてレブはグラスを渋々置いた。しかし既にグラスからは紫が綺麗に取り除かれている。

 「行儀など気にしていられるか。貴様からの贈り物を私が残すわけにはいかない」

 「瓶を割って中身を、なんて止めてよ。十分味わってもらったんだから」

 レブが口を腕で拭い、やっと私の方を見てくれる。放っておいたら爪で真っ二つに瓶を切り落としそうな勢いだった。

 「……これを貴様が仕込んだのか」

 「う、うん……。フジタカに作り方を教えたり、荷物運びとかは手伝ってもらったけど、作ったのは私だよ」

 レブは瓶を机に置いたまま先を少しだけ斜めに傾ける。奥底に残るブドウ酒のほんのわずかな一滴を見ていた。

 「レブに飲んで欲しかった。最初はほら、ただの口約束だったけどね」

 ……フェルトでの出来事だった。話した時は口が滑ったとか、作っている時はこんな事をしていて良いのかな、と引け目も少しあった。でも今は作って良かった、レブに飲んでもらえて良かったと思っている。

 記憶力の良いレブならちょっとした事でも覚えているから、きっと忘れてはいない。最初にブドウ酒を見た時の反応からして、消し去る事なんてできるわけないしね。

 「……約束を守る女は、好きだ」

 どこかで誰も聞いちゃいないのにレブは少し小声に言った。最後の一言に突然自分の胸が一際大きく存在を主張する様に跳ねる。……レブは私に無断で魔法を使ったのかもしれない。

 「いや、今のは……」

 「私も」

 どんな魔法かなんて、何かを言われる前に自分から。レブの目が大きく見開かれて、彼の目には自分が映っているのだろうなと思いながらもう一度。鏡を見る様に、自分と向き合って本心を伝えよう。

 「私も、作ったお酒を飲んでくれる竜人、とか……好きなんだよ?」

 言ってしまった。しかもレブの言い方を真似してさり気無く。というか、笑って誤魔化すのは止めようとしたのに結局こうして言葉のどさくさに紛れさせてしまった。こういうの、レブはきっと……。

 「………」

 こちらを見上げるレブの瞳が揺れていた。

 「………」

 また沈黙が二人を呑み込んでいく。目が合ってもすぐに逸らしてしまい、机の上に置いた手を見詰めるだけ。前の様に、私も愛しているなんて言ってくれない。かといって、冗談にしては度が過ぎると怒られてしまうわけでもなかった。

 口が動かない。だけど私の手は、指先は動いてくれる。その手がゆっくりとレブの方へと動いた。

 自分で何をしているのか分かっていない。でも、こうしたいという気持ちだけが強く私の手に命令している。レブの手と重ねたいと。少しでも近づいて、触れていたいと。

 「まっ……待てっ!」

 あとほんの爪一枚分、というところまで手が動いてくれたところで先に机から手を離したのはレブだった。

 「きっききききき貴様!今の発言は……!」

 「……なにさ」

 あぁ、やっと口が動いてくれた。狼狽するレブに私も手を反射的に引っ込める。あまりに沈黙が長くて今の、というよりはさっきだ。とりあえずなかった事にはされていない。

 「そ、その……今は口が酒臭いのだが」

 「何をされるとおもったの!?もしくはしようとしてたの!」

 「う、うるさい。私にも準備がだな……!」

 そういうのは雰囲気でそのまま済ませてから……ああもう、私まで何を想像したんだ!

 「突然だったかもしれないけど……私だっていつ言おうか考えてたんだよ」

 「………」

 黙らないでよ、お願いだから。私の気持ちは受け取ったんでしょ。もう、返却だってさせない。訂正もしてあげない。

 「レブ……さっきのお酒、美味しかった?」

 「無論だ」

 酔ったわけでもないのに顔が熱い。鏡を見れば自分が赤面していっているのがよく分かる。自分で話題を逸らしでもしないと落ち着けそうになかった。でも、レブが真っ直ぐに言うから私は息が詰まってしまう。

 「今まで飲んだどの酒よりも芳醇だ。液体故に満遍なく濃縮された深い味わいがすぐに口内で広がった。そして深みに反して喉越しも好い。注ぐ手が止まらないとはまさにこの事よ」

 つらつらと感想を口に出すレブの姿は酔っている様にも見えた。量は多くないけど一気に飲んだから回りが早かったのかな。

 「だが……」

 そこにレブが付け加える。相手の神妙な面持ちに私は緩みかけていた表情を引き締めてしまう。

 「何よりも君が作ってくれたのが……堪らなく……嬉し、かった」

 だけど無駄だった。レブに美味しい、と言ってほしかった。彼の口から美味しいとは出なかったけど、代わりにもっと……聞きたいと思い付く事もできないくらいに言われたかった事を面と向かって言ってくれたから。もう緩む表情は押さえて持ち上げでもしないと無力。

 「私だってそうだよ」

 自分の胸元に手を置くと、そこで光るのはレブの鱗の首飾り。

 「レブがこれをくれた。貴方にとってはちょっとした鱗一枚でも、私にとってこれは……もう、大事な物。かけがえのない、貴方から貰った宝物だよ」

 寝る時と入浴の時以外はずっと肌身離さず首に下げている。とっくにあるのが当たり前くらいにこれは体に馴染んでくれていた。

 「それだけ常に寄り添えるのであればその鱗も本望だろうな」

 「羨ましい?」

 私の冗談にレブは口を曲げる。

 「答える必要は無い」

 「羨ましいんだ」

 背中を向けるものだから私はレブの翼に手を置いた。

 「レブってさ」

 思い付いたままの言葉を口に出す。

 「恥ずかしがり屋なのに頑張って気持ちを伝えてくれていたんだよね」

 「………」

 私が手を置いた左の翼が微かに動いた。

 「私はさっきのが限界。もっときちんと言えるのはもっと先になりそう」

 「だったら私はそれを待つ。これまでと変わらない」

 まだ、レブは私に時間をくれるんだ。

 「レブの気持ちは前から変わっていないから?」

 するとこちらを向かずに彼は首を横に振る。 

 「当時の気持ちなど、とうに越している」

 それって……つまり?

 「君と過ごす程に私は……」

 待っても言葉の続きは出てこない。そのままこちらを振り向くとレブは腕を組んだ。

 「……こんな話をするから恥ずかしがり屋だとか頑張っているなどと思われるのだな」

 「あ、怒った?」

 「ふん」

 レブはそっぽを向いて鼻を鳴らした。恥ずかしがり屋で素直じゃない。だからたまに出た本音をからかうと拗ねちゃうんだ。

 ……それすらも今の私は近くで見ていたい。他の、誰よりも。

 「先を聞きたければもっとブドウ酒を用意して酔わせてみる事だな」

 「でもレブは酔うと裸踊りを始める、ってティラドルさんが言ってたよ」

 この調子では酔わせるまでに要るブドウ酒の量も並大抵ではあるまい。

 「あやつは後で完膚なきまでに破壊する。余った鱗は人間の武器防具に加工すれば良い」

 あぁ、否定しない……。知られたくない秘密だったんだ。

 「ブドウ酒、それしか作れなくてごめん」

 「……気にするな。手間ぐらいは想像できる」

 手慣れ様にも数か月前の話だから実は手順もまた曖昧。そこまで難しくはないけどやっぱり一本じゃ足りなかった、よね。

 「次はお店で買う?酒屋ならきっと、もっと美味しいのも……」

 「いや」

 予想通り。

 「この酒が良い。他は機会があれば十分だ。だから……頼む」

 「……うんっ」

 私だってそうしてあげたかったもん。また作ったお酒を飲んでほしい。だけど、一点だけ気になる……。

 「機会があれば、他のも飲みたいんだ」

 「う……」

 言葉に詰まったレブはグラスを持ち上げる。

 「……洗って返しに行くか」

 「話は途中でしょ」

 私が言うとレブは瓶も持って椅子から降りた。

 「ならば、共に行くか」

 「うむ。そうしよう……なんてね。お酒飲んだんだから手元ふらつかない?」

 「心配は無用だ」

 でも、グラスは私が持つ。

 「さ、続きと行きましょうか」

 「……承知した」

 私から差し出した手とレブの空いた手同士を繋ぐ。そして私達はこっそりとトロノ支所の裏にある水汲み場へ向かうべく部屋を出た。まだ遅い時間ではないし、人目もあるけど気にしない。皆に見てもらおうよ、私とレブの二人……新しい召喚士とインヴィタドの関係を。

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