第三部 二章 -陸を目指して-

 旅、というのは人を開放的にすると誰かに聞いた。もしかしたらフジタカかな。

 だけど、私達は今その解放を別の方向に使ってしまっていた。

 「う、うぇえええぇぇ……」

 自分の喉から出たとは思えない声に驚愕しながら私は船の厠に向かって吐瀉物を出し続けた。私の背はレブがさすってくれている。

 「出せる物は出し尽くせ。吐き出せる時に出さないと、後が余計に辛いぞ」

 最初に私の異変に気付いたのも、厠へ連れて行ってくれたのもレブだった。遅れてやって来たフジタカと言えば……。

 「げぇーっ!」

 ……木の板で区切られてはいるが、同じ様に吐いていた。

 港町、アーンクラに着いて早々に私達はニクス様の予定通りに船へ乗った。その数時間後、私とフジタカの体調に異変が生じてしまう。

 「うぶ……!」

 「下手に耐えるな!」

 船酔い、という言葉は知っていたがここまで症状が重く酷いものとは知らなかった。絶え間なく進む船に揺られて私はすぐに立って歩くこともままならないくらいに気分が悪くなった。気の遠くなる不快感にどうしようもなく吐き気が襲い、結局はこの有様だ。

 「うえええええ………っ!」

 レブに言われた通り……というか、我慢仕切れずに遠慮なく生ゴミを落とし込む。何をどうしても溢れる胃液と涙。見られたくなくとも、出てしまうのを抑えられない。

 「……それで良い。出し尽くしたらうがい用に水は用意してある」

 「うぐ……!」

 用意の良いレブにはもう、お詫びの言葉しかない。朦朧とした意識の中でもなんとか顔を厠から離して向き合う。

 「ご、ごべんね……デブ………」

 レブは困った様に笑った。

 「貴様にまでデブと言われるとはな」

 「ち、ちが……!」

 そんなつもりで言ったわけじゃない。顔を横に振ると、くらくらして倒れそうになってしまう。

 「分かっている。だから、無理はするな」

 「う……げぇぇぇ……」

 醜いだろう、臭いだろう、耳障りだろう。止められない嗚咽に余計惨めさを感じながらも私は体が船を拒否するままに吐き出し続けた。

 「………う…っぷ……」

 「気が付いた?」

 気絶していた様で、私は目を開けると船室にいた。ランプが照らされている辺り、時間は少なくとも夜になっているらしい。

 「カル、ディナ、さん……?」

 「あぁ、無理して起きないで。このまま寝ても大丈夫よ?」

 カルディナさんの声がするから間違いない、ここは私と二人の船室だ。ニクス様が一室、レブとフジタカとチコにトーロを入れた四人部屋が一室。残りの私とカルディナさんの二人部屋が一つ。計三部屋を借りていた筈。

 ……頭が、少しずつ冴えてきた。私は枕を立てて、背を枕に預けて上半身だけ起き上がった。

 「あれ……レブは……」

 二人部屋だ。普通レブはいない。だけど、私は自然にレブの姿を探していた。

 「彼なら、さっきまではここに居たわ。だけど、ザナさんの表情が和らいだと判断したみたい。今は隣の部屋に居ると思う。……呼ぶ?」

 私は首を横に振った。

 「いえ、いいんです……。ただ、気になっただけですから」

 さっきまでは居てくれた。……もしかして、魔力線の繋がりが安定したから戻ったのかな。そこまで万能の繋がりとは思っていないけど。事実、私はレブの不調を感じ取れないもの。

 「……具合はいかが?」

 カルディナさんが優しく微笑む。私は深く息を吐き出し頷いた。

 「少し……落ち着いた様に思います。もう、これ以上は出せませんけど」

 「そうよね」

 出し尽くしてすっきりしたとは思う。体調から言えば、きっとまだ歩く事はできないけど。

 「カルディナさんはすごいですね……。船酔いとかはしないんですか?」

 「んー……そうね、小さい頃は少ししたかな。だけど、自然と平気になっていったの。ほら、初めて乗るわけでもないから」

 「そういうものですか……。すみません……」

 慣れが肝心、って言いたいみたい。私はまさか自分がこんな思いをする事になるとは思っていなかった。

 「やっぱり、体質なんでしょうね。私は昔から気持ち悪くなる事はあっても吐いたことはないし」

 聞いただけでも羨ましい。この苦しみを分かち合えるのはたぶん今はフジタカだけ。

 「医療室もあるのだけど……」

 「今は移動したくないです」

 「そうよね」

 カルディナさんがくすりと笑う。凛とした印象があったけど話してみるとその表情は華やかに変わる。自分の体調が悪くてもその笑顔で落ち着きを取り戻せた。

 「早く着かないかな……」

 今の私は到着を急いでもらうことばかり願ってしまう。早く大地を踏み締めたいと恋しくなる日が来るとは昨日までまったく思っていなかった。

 「だったら、着くまでの暇潰しに少し話さない?」

 「え……」

 カルディナさんからの提案に、自分でも思わずに聞き返していた。こうして雑談を振る様な人だとは思っていなかったもの。

 「あ、体調が悪いなら無理はしないで?」

 「いえ。……少し、起きていたいです」

 「良かった」

 カルディナさんが微笑む。私は深呼吸して自分の体調が多少落ち着いているのを確認した。

 「と言っても、何を話そうかってわけでもないんだけど」

 困った様に頬を掻くので私から気になっていた事を聞く。

 「……カルディナさんは、今回の話をどう思われていますか?」

 「ニクス様護衛に、貴方達も含まれている事?」

 私が頷くとカルディナさんは窓の外を眺める。

 「……自信はなくなりかけてるかな。何が正しいのかって」

 聞きたくなかった部分と、聞きたかった部分が混ざり合っている。私はそのまま受け取る事ができないで話の続きを待った。

 「私達のせい、ですか……」

 「そうは言わない」

 カルディナさんの表情は弱弱しい。言っては悪いが、言わないだけであり、切っ掛けはそうかもしれないと思われている。

 「あは、一応……ニクス様と同行した最初の二年は問題なかったんだ」

 すみません、と謝りたかったがカルディナさんがそれを許さない。

 「……私もだけど、トーロに悪いと思うんだ。どんなに私が嫌でも、私からの魔力がないとここには居られないんだから」

 カルディナさんの目が隣の部屋へ向けられる。この木の板数枚を隔てた向こうにはインヴィタド達とチコがいる。波や船の揺れる音が中心で、私達の会話の内容が全員にも丸聞こえという事はないと思うんだけど。

 「……嫌ならもっと前に出て行ってるんじゃないですかね」

 率直な感想を言うとカルディナさんが目を伏せる。

 「タムズの時も庇ったし……ううん、選定試験の時だってカルディナさんを守ろうと必死だった。……私はトーロの事はよく知らないけど、二人の信頼関係はちょっとやそっとでは崩れないとは思っていました」

 「………」

 カルディナさんの目線が、少し遠くを見ている様に感じた。

 「私、トーロとカルディナさんの話が聞きたいです。……教えてくれませんか?」

 前から興味はあった。……たぶん、トーロとの出会いは私やチコの様な事故ではない。私達が異常な繋がり方をしたとはトロノに居た頃に少しずつ察していった。……少なくとも、召喚士に自信が失くなってしまった話よりは前を向ける。

 「私とトーロの話か……。それも数年前の話になるかな」

 もしかしたら、もう少し召喚士としての自分についてお話したかったのかもしれない。それでもカルディナさんは私の話を優先してくれた。

 「通常召喚、だったんですよね?」

 「ええ。私はトーロと召喚陣の中で出会ったの」

 その時点で私達の知らない領域だ。私が召喚したレブも、チコの呼び出していたスライムも精々手や腕を陣の中に入れたに過ぎない。その中に全身浸かって異世界の住人と対話し、このオリソンティ・エラに招き入れる。それができる召喚士は優秀と評価されて当然だ。そして、カルディナさんはその評価を受けるに相応しい人だと思っている。

 自分にも心当たりがないわけじゃない。タムズに怪我を負わされた私は妙な空間でレブと対話した。一方的な話も多かったけど私はレブに言われた通りの事をしたのをよく覚えている。

 「あの頃のトーロは自分の生き様を見失った、幼い少年だった。だからここへも半ば投げやりに来たの。……理由を深く聞いた事はないけど」

 そこは、会話をできる相手だ。慎重に話を進めなければ関係は一気に悪化する。……あの時、私がレブと二人でいた空間で主導権を握っていたのはレブだったよね、完全に。

 「仕事をするトーロは頼もしかった。来た当初は細かったんだよ?」

 「え……」

 トーロと言えば口数は多くないが筋骨逞しい一人前の雄、という印象ばかりが先行していた。成長過程なんて想像したこともない。最初からそういうもの、と思い込んでいた。

 「根が真面目、とでも言えばいいのかしら。どんどん知識を増やして、必要な事は吸収して、応えてくれた。……私がビアヘロとの戦いや、力仕事ばかり任せていたからあんなムキムキになったのかな……」

 だとしても、あの状態に至ったという実績が今の彼を体現している。

 「頑張ってくれたんですね、トーロは」

 「なのに私がこんな調子なんだもの。トーロも参っていると思うわ」

 カルディナさんの溜め息は長く、深かった。私の船酔いの呼吸とは違う。思い悩んで出る溜め息に私自身も心当たりがあった。

 「言えば良いと思うんですよね、それをトーロに」

 「……私が?」

 力強く頷いたけど、そうしたら頭がくらっとして気分が悪くなった。まだまだ船酔いの油断はできない。

 「だってトーロは真面目なんですよね?付き合いも長いから、カルディナさんが悩んでるのも隣で気付いていると、思うんです」

 長く喋っても呂律が回らなくなってくる。

 「一番身近な人って誰か分からなかった。……だけど、思い返すとそうね。他の召喚士達よりも、よっぽどトーロと話してる事が多かった」

 ううん、とカルディナさんは唸る。

 「トーロとは直接繋がってるんだものね……。聞いてくれるかな……」

 「私ももちろん聞きます。そして、たぶんですけど、トーロも」

 答えるとカルディナさんの表情が和らいだように見えた。

 「そうか、ザナさんは最初からインヴィタドと交流してるんですものね」

 「えっと……?」

 一人で納得したカルディナさんに私は首を傾げる。頭の回転が遅くなってるかな。

 「私達、普通の召喚士は……石や自然物、スライムとかから入るでしょ?」

 「はい」

 意思疎通を必要としない物質のみを呼ぶ方が簡単。だからそうした召喚を重ねて段々と経験を積むのが普通だ。

 「だけど貴方達はそれを飛ばした。だから……ある意味私達以上に召喚術、インヴィタドに思い入れを持てるんじゃないかしら」

 「思い入れ……」

 前にフジタカが言っていた。ザナはインヴィタドの立場も考えているって。……自覚は無いけど、思い入れとかじゃない。そう、当たり前に彼らを受け入れていたんだ、私は。

 「……まずい、ですかね」

 「いいえ」

 私の迷いにカルディナさんは首を横に振った。

 「こちらこそ、目線を改めないといけない。……私達召喚士は、召喚したモノに対して扱いが不当……なのかもって少し思ったから」

 不当なんて表現をされて私は身を固くした。……レブこそ、私と同じ部屋で寝ていても問題ない事になっているけど一応は、その、異性……でもあるし。インヴィタドと区切る、一緒にするどちらが無難かまでは分からないが曖昧にしてないがしろにはしない方がいいのかな。

 「彼ら……隣にいる連中ね。彼らは動植物じゃない。一方的な関係では済まされないのね。魔力の繋がりも、心の繋がりも」

 最初は物言わぬ相手を召喚していたから、それがいつの間にか当たり前になっていた。話せるインヴィタドが現れても、同じ様に接してしまっていたというのはあり得る。

 「……レブに、会いたい」

 自然に口から言葉が零れていた。今すぐレブと今の話をしたい。

 ……だけど、答えは分かっている。貴様は貴様の思うままにしていれば良いなんて言うんだ。あのつっけんどんなのに優しいドラゴンは。

 「私も、トーロと少し話そうかな。せっかくだしね」

 カルディナさんが立ち上がると、船が少し揺れた。

 「おっと……。ザナさんは、動けないかな。私が呼んできましょうか?」

 ありがたい提案だったけど私もなんとか立ち上がった。

 「……じゃあ、甲板に。待ってるから来てほしいと」

 「分かった。……無理はしないで?」

 「はい」

 ……吐きそうだけど、もう何も出ない。それは分かり切っているからたぶん気分が悪いだけ。自分に大丈夫と言い聞かせて、私はカルディナさんにレブの呼び出しを任せて外へ向かった。

 甲板に出ると夜風が私の髪を揺らした。少し冷たい風だけど、毛布を被っていた私からすれば火照りを冷ますのに丁度良い。

 「……ふう」

 ……やっぱり、来るべきじゃなかったかな。もう、少し気持ち悪い。

 星空が夜の海の姿を見せてくれる。揺れが私を酷くふらつかせていたが、実際見てみると大して波が強いわけでもないようだった。黒い水の奥底は当然見えず、中に何が居るかまったく分かったものではない。夜の森で木々のざわめきに怯えた事もあったが、一定に押し寄せる波もどこか不気味だった。嵐が来ればこの波が荒れ狂うのは本で知識のみ知っている。容易く客船も沈めて呑み込むというのだから森よりもよほど厄介だ。

 「ザ、ザナ……」

 「……あれ、フジタカ?」

 船縁で限りなく遠い水平線の境界を見詰めていると声がした。振り向くとそこにいたのは呼び出したレブではなく、フジタカだった。

 「大丈夫なの?」

 「……どうにか」

 答えたフジタカは明らかに口を曲げて気持ち悪そうだった。丈の短い服から出た腹を擦りながら私の横に来るが、その前に。

 「レブも。何してるの?」

 「……いや。どう声を掛けるべきかとな」

 船室に繋がる階段の隅で腕を組み、影へ隠れる様に立っていたレブの姿が見えた。正確には角だけなんだけど。呼んでようやくレブも私の隣に立った。

 「どうって……何か言いたいの?」

 「………」

 答えないし。……私がレブだったら、私に何を言うかな。

 「貴様が心配だ。夜風は身体に毒だし、先は長いからもう休め。まだ明日も船旅は続くのだぞ」

 「………」

 「………」

 二人で黙ってしまう。だけどそういう訳にもいかないので私から口を開く。

 「フジタカ、どうかしたの……?」

 「いや、デブの真似してみたんだけど……似てなかったか?」

 低い声を更に低くしゃがれさせたな、とは思ったけどどうかな。判定をレブに任せると……。

 「全く似ていない。論外だな」

 容赦なく切り捨てるし。フジタカも顎と腕を船縁に乗せて拗ねた様に鼻を鳴らす。

 「なんだし……。具合悪いやつに言う事なんて決まってるだろ」

 「……そうだったの?」

 レブの方を見ると途端に目を逸らした。

 「みっ、妙な事を言うな!私が言いたいのはだな!その……この珍しい乗り物の乗り心地がそこまで不快かと確認したかっただけであって……」

 そうか、レブも初めて乗るんだよね。

 「うん……。ちょっと、馬車とは違い過ぎるね。まだ気持ち悪いもん……」

 目線を下へ落とすと、波飛沫が船壁を何度も叩き付け、白く泡立っているのが見えた。その泡がまた、自分の逆流した水や食べ物を連想してしまっていけない。縁に体を預けて海に背を向けると、レブが私をじっと見ていた。

 「……大丈夫か」

 レブからの質問に面食らってしまった。

 「どう、かな……?」

 さっきも確認したけどいきなり吐きはしないと思う。出せる物がお腹に無いからというのもあるけど、夜風で少しだけ気分は落ち着いてきた。しかしレブはまだ私を見ている。

 「無理してないよ?それに、魔力を消費しているわけじゃないしレブに迷惑は……」

 「体調が悪い事に変わりはないのだろう。迷惑とは思っていない。……少ししたら戻れ」

 「うん……」

 魔力はそうだよね、レブはもう自力で活動できるんだもん。私が倒れても他に皆もいるし困らない……。

 「あれ、レブ……」

 「どうした」

 「今の、一回否定したけどフジタカが言った事とだいたい同じじゃない?」

 「…………」

 レブの顔が歪む。

 「だから言ったじゃねぇか……。デブはザナが心配なんだよ」

 体長が悪いから鼻から抜く様に小声で、しかしフジタカは笑いながら言った。

 「出鱈目を言うなっ!」

 フジタカに怒鳴り出す始末だけど、もう変わらないよね……。

 「ありがとう、レブ。ごめんね、弱くて」

 「………謝る事では、ない」

 レブは目を閉じてそのまま私達に背を向ける。これでもだいぶ素直になってくれたのかな。

 「それで、牛すじ肉の召喚士から呼ばれて来たが、何か用か」

 すじ肉って、トーロはレブから見て美味しそうなのかな。トーロはたまにフジタカの背中を見て舌なめずりしてるけど。

 「トーロとカルディナさんはどうしたの?」

 「二人で部屋から出て行った。甲板に居ないなら部屋に戻ったんじゃねぇか?」

 言っても帆の高台に見張りらしき人が見えたくらいで船外には私達しか見当たらない。それだけ夜も深い時間なのかな。

 「そっか……」

 ちゃんと、話してるといいな、あの二人。長くなると私が戻れなくなるかな。

 「あの二人に係る事か」

 「うん」

 私にはレブという話す相手がいてくれる。それを変だと思った事はない。だけど当然と思うわけでもなく、これからを話したい。だから先程船室でカルディナさんと話した内容をレブと、ここにいたフジタカに伝えた。

 「なんか、そう思うとチコは召喚士、なのかもな」

 「貴様よりは、という意味だ」

 「分かってるってば」

 一通り話してフジタカは腕を上げて身体を伸ばした。レブの解説も言うまでもない。

 チコがフジタカに以前言っていた召喚したのは俺だ!という話。それは召喚士がインヴィタドよりも立場が上という主張だ。

 「レブもソニアさんに似た様な事を言ってたよね?」

 「このオリソンティ・エラでは魔力を操れる人間の方が活躍する。インヴィタドはその相手から魔力を供給してもらい、吸い上げているのだ。召喚に応じた以上、言う事ぐらいは聞くのが普通だ」

 中には魔力を奪えるだけ吸い出して逃げ出す凶悪な異形もいるらしい。だけど良心的なインヴィタドであれば、言う事は聞くのかな。

 「俺が世間知らずって事だよな……」

 「隣の異世界だもん。召喚術がなきゃ知らなくても仕方ないよ」

 フジタカには魔法の話をする時は一から話さないといけない。それは自分でも理解できている様で曖昧にしたままだったりするから、私達の勉強にもなる。基礎を抜かした私には余計に必要な部分だと思う。

 世間知らず呼ばわりされても私達の常識にフジタカは捕らわれていない。

 「召喚術か……。なぁ、ビアヘロっているだろ?あいつらってどこにでも現れるんだよな」

 「そうだね」

 ビアヘロが好き勝手現れる、とは違う。彼らは急に開いた異界の門に吸い込まれてオリソンティ・エラに放り出されると表現した方が近い。

 「だったら、可愛い女の子が風呂入ってるところに現れたりとか、空から降ってきたりとかもあるんだよな?」

 「……ゼロではないよね?」

 「あぁ」

 レブに確認すると彼も同意してくれる。普通、村や町の中にはビアヘロは出ないように結界としての特殊な召喚陣が用意されていた。……そうか、アルパではその陣が何者かに破壊されていた事をフジタカには話していなかった。それを、自力で気付いたんだ。

 「怖いよなー。下手したら、海の中にもいるんだろ?」

 フジタカが船縁から顎を少し突き出して海面を見詰める。私も視線を落として波を見ていたが、言われると海の底で何か光った気がした。

 「……泳げないビアヘロが海中で現れたり、飛べないビアヘロが空高くに出たら……」

 「泳げなければ魚の餌で、飛べなければ地表に叩き付けられ死亡する。単純な話だ」

 分かり切っている、とレブは言いたげに船縁に跳び乗って腕を組んだ。

 「じゃあ、運良く海の生き物がこの世界の海に生きていたら……」

 「餌もあり、繁殖相手もいれば増えているかもな」

 脅威となる天敵は異世界に残し、自分だけ転移してくればそこはそのビアヘロにとっては天国かもしれない。

 「そういうの、帰化生物って言うんだろ?あぁ、でも……帰化生物は人間が余所から持ってくるからこの世界のビアヘロが暴れてもただの事故、か」

 難しい言葉を使ったフジタカに今度は私が疑問を持つ。

 「フジタカの世界でもあるの?」

 「んー。そうだな、外国の魚を川に放したら、その外国の魚が現地の川魚を絶滅させたりとかさ。環境問題で取り上げられたりしてたよ」

 陸地のビアヘロで似た様な話はあったけど、川や海に関して私達は何も知らない。何故なら直接入って調べる術がないからだ。人語を介する水棲生物のインヴィタドなんて私は聞いた事が無い。もし、私と同じ様な召喚士の割合が多いなら、この世界として海がどうなっているか知る者は皆無だ。

 「この海にも、船よりも大きな巨体を持った魚がいるやもしれんわけだ」

 「怖い事言うなよ……うぷっ」

 そこでフジタカの様子が変わった。

 「フジタカ?」

 「へへ……。なんか、考えてたらきぼち悪くなってきた。先に戻るわ……」

 耳も尾も垂らしてフジタカは船室へと下りる階段へ向かう。足取りはまだしっかりしていたが、追い掛けた方が良かったかな。

 「………」

 「………」

 フジタカがいなくなった途端に急に外が静かに感じた。波の音は止まないのに、それ以外が無いせいだろうか。

 「フジタカ、魚は嫌いだったのかな。自分の国じゃ魚の身を切り裂いて生で食べるとか言ってたのに」

 「国に住む全員がそれを好いているとは限るまい。生臭さもあるし、腐っていれば当然腹を壊す」

 腐る、か……。

 「分かっていた事と思っていた。けど、オリソンティ・エラってこういう世界だったんだね」

 絶えず召喚術がどこかで作動し、事故扱いで死が溢れる世界。海に現れた陸上生物はビアヘロ故に溺れていようと救助されずに沈み、腐り、海中生物の血肉と変わる。……そういう部分も知っていなければいけないのに。

 「考え出しても果てはない。哲学と言ってもいい」

 レブに無駄は止めろと言われた気がする。

 「私だって、ビアヘロとしてどこかの異世界に飛ばされちゃうかも」

 冗談のつもりで言ったけど、レブの目は笑っていない。

 「貴様には既に召喚術がある。いざという時でも大丈夫だ」

 「……そうかな」

 上達したかは分からない。だって、私はまだチコの様にスライムも出せていないのだから。

 「それに、私が貴様を繋ぎ止める。必ずだ」

 「……うんっ」

 だけどレブの頼もしい断言は、こういう時にすごく元気付けられる。次も頑張ろう、彼と一緒に、と心から思えるんだ。

 「……時に、貴様は部屋へ戻らないのか」

 それに、話題を変えたがるのは恥ずかしいからかな、と少し予想もできるようになってきたのは進歩だと思う。口に出したら否定されるのも分かっているし。

 「どうしようかな。……なんだか目が覚めてきたし」

 口には出さず、レブの横に陣取る。私だって、これでも貴方の事を見ているんだよ。

 「……そうか」

 それ以上言わずにレブは船縁に座ると遠くを眺めてしまう。私がすぐ横に来ようと、こちらは見ない。

 だからって何かを話すわけではない。お互い、口数が多い方じゃないし気まずさは無いから平気だった。

 「ふん、ふふ……ん」

 沈黙を先に破ったのはレブだった。聞こえてきたのは鼻息ではなく、韻律を伴った鼻歌だった。

 「ふんふん、ふふん……ふふふ…んふ……」

 鼻歌は続く。一度も聴いた事のない歌をレブは目を閉じ、ゆっくり頭を揺らしながら鼻で奏でていた。

 「ふんふ……ふふんふ…ふ……」

 「………」

 レブは歌が好きなの?レブの世界の歌?意味の込められた歌?疑問は幾つも浮かんだけれど、口には出せない。私が喋った途端、この歌がもう聴けない気がしたから。

 泡より儚く、今にも消え去りそうな声でレブが歌う。いつしか質問するのも忘れ、息を潜めるくらいに夢中でその美しく独特な歌に聴き入っていた。


 それでも、もっと聴いていたいと思っても体が許してくれなかった。

 「デブ……おえ。おえええぇ!」

 「ほら、やっぱり……デブって言われてるじゃ……おぼぉろろろろ」

 「……二人して情けないな」

 翌日も、翌々日もこんな風に食べた物は一通り厠で逆流していた。フジタカもたまに壁一枚向こうに居た。

 「ご、ごめ……うぅっっ!」

 「だからブドウだけにしておけと言ったものを……」

 そうは言ってもお腹は空くし、食べたい気持ちもあったんだもん。涙を流しながらでは何も言えなかったけど。

 こんな地獄の様な日々もやっと終わる。私達は港町、コラルで五日ぶりの大地を踏みしめる事になる。

 「調子はどうだ」

 「まだ……くらくらする」

 着けばすぐに元気になるかと思った。だけど、歩くってこんなに難しい事だったっけ。足元がおぼつかなくて私はフジタカにぶつかった。

 「おわっ!」

 「ごめんフジタ……あぁっ!」

 フジタカも私にぶつかった衝撃で倒れてしまう。振り上がった腕を避けようと身を反らしたら私も勢い余って前に戻れず空を仰いだ。

 「………あれ?」

 「……しっかり立て」

 尻餅をつくと思えば、いつまで経っても痛くない。恐る恐る目を開けると、レブの顔が近い。

 「あ……うん」

 言われて立ち上がる。倒れる寸前にレブが受け止めてくれていたみたい。

 「ありがとう」

 「ふん」

 どういたしまして、とにこやかに言ってくれるレブ。……なんて、想像しても無駄かな。

 「しかし、トロノに戻る際もこうでは困るぞ」

 「そうなんだよね……」

 往来の船の向こう。太陽が照り返す水面の線を見て目を細める。来た道を引き返すとはそういう事だ。まずは目の前に集中しないといけないのに今から先を考えて憂鬱になっても仕方ない。

 「……私の翼が使えればあんな乗り物必要ないのだがな」

 バサッとレブが折り畳んでいた翼を展開する。それを見て、私は首を傾げた。

 「あれ……レブ」

 「なんだ」

 「……翼、大きくなってない?」

 気のせいかな。レブの翼が前よりも広く見える。

 「ならば試すか」

 ふふん、とレブが笑う。そして久し振りにレブは翼をはためかせた。

 「ぬん!」

 「お、おぉ!?デブ!浮いた!」

 チコに引っ張り起こしてもらったフジタカがレブを見て大口を開ける。そう、レブが自力で浮き上がったのだ。

 「この感覚……久し……ぐうっ!」

 「レブ!?」

 得意げに笑っていたレブだったが、突然不時着し、顔を歪めて背中を押さえ出した。

 「つ、つった……!羽が!つった!」

 「………」

 どうしよう。羽ってつったりするんだ。しばらく見ているとレブはなんとか落ち着いて翼を畳んだ。

 「ふ、ふん……!まぁ、なんだ。この状態では久し振りに使ったから少し感覚が鈍っていたか」

 苦しい言い訳だよ、レブ。……私の力が足りないせい、なんだけどね。

 「若くないんだから無理すんなよ」

 「怒るぞ、犬ころ……」

 翼が思いの外使えたからか上機嫌だったレブもフジタカに年齢を指摘されて拳を握る。

 「だって三十路だろー?単位違うけどよ」

 そこで話に加わってきたのはトーロだった。

 「止せ、フジタカ!カルディナが本気で傷付いている!」

 「トーロォ!」

 すかさずカルディナさんがスカートを翻してトーロに蹴りを入れる。ニクス様も身を引いていた。……何歳か聞くのはしばらく止めておこう。

 「いて……!」

 「もう!知らない!」

 「待て!契約者もいるんだぞ……ふふ」

 カルディナさんは背を向けて、荷物も持たずに歩き出してしまうトーロが代わりに荷物を持って追うが、不思議と彼は笑っていた。

 吐いていてそれどころではなかったが、どうやら二人で話し合ったらしい。結果は見ての通り、私がレブの鼻歌を聴いていた日以降、二人の距離感は良い方向に縮まったように見えた。少し荒っぽいけど二人の会話に無邪気な笑顔が現れるようになったと思う。

 ニクス様を連れて私達はコラルの宿に入った。護衛と今後の打ち合わせを兼ねてだ。

 「……本来、船旅の中でできた事だったがな」

 「……ごめん」

 「……面目ない」

 地図を睨むレブは私を責めるつもりで言ったわけではない。分かってはいたけど、申し訳なくて堪らず謝っていた。フジタカも同じだと思う。

 「ともかく、コラルまでは着いたんだ。こっから先を決めようぜ」

 チコが机に広げた地図をトントン指で叩いて一同の注目を集める。私も落ち込んではいられない。

 そう、ここまでは最高の状態で来れた。……体調は最低だけど。

 「海で攻めてくる事はなかったな」

 「海では攻めにくかったか?」

 チコが眉をひそめた。

 「それって……」

 「襲ってくるなら夜だ。それはお前が二番目に分かっているべき事だ」

 「あ……」

 私も気付いてフジタカを見る。彼は手に持っていたナイフへ視線を落としていた。

 「……俺が、夜に戦えないから」

 迷いなく頷いてレブが肯定する。

 「だが、それだけ警戒されていると思った方が良い」

 トーロの一言にフジタカの顔が上がった。

 「でも俺……」

 「いい加減自覚しろ。お前は高校生等ではいられない」

 「うっ……!」

 レブも、まだ言いたい事はあるんだろうな。フジタカの能力は条件付きにしても、明らかな特異だ。一般人を名乗るには無理がある。本人の意識に関らず、だ。だからこそ私達も彼に頼っているんだし。

 「犬ころが怯えても相手がもっと竦んで襲ってこない。それはお前にとっても、私達にも好都合だがな」

 そこまで言われてフジタカがククッと笑った。

 「勘違いすんなよ、デブ」

 レブみたいな言い方でフジタカがナイフを展開し、金属輪を悪戯に数度回した。

 「俺は怯えてるんじゃない。……まだ力を制御できてない、って言いたかっただけだ」

 「ほう」

 トーロも唸って目の前に立つ狼獣人の少年を見詰める。

 「それに、俺が捕まえるって言ったんだ。及び腰でなんていられない」

 レブは黙って腕を組み、目だけで笑う。その笑みは分かりにくかったけど、とても穏やかな笑みだった。

 「良い返答だ。ならば、今襲われても構わんな?」

 「迎え撃つさ。……気持ちは悪いけどな」

 無理をせずに言っているフジタカの目に迷いはなかった。確認だけをしたかったのか、レブは再び地図に目を落とす。

 「船で攻めてこなかったのなら、もう相手はこちら側にいるな」

 レブがコラルの先、カンポ地方をぐるりと指で囲む。恐らく、目的地として言っていたロカ村までのどこかで仕掛けてくる。それは、コラルも今のところ同様だ。

 「相手は事を荒立てたがっていない。港町で、とは考えにくいな」

 「どうしてそう思うの?」

 トーロにカルディナさんが尋ねると、彼は頬を掻いてしばらく唸った。

 「……ピエドゥラはともかく、アルパに重要施設はない。ただのエルフの集まりだ。見境がなければトロノでも、道中でも挑んでくる事はできただろう」

 言い分は聞いた。港として、貿易としてコラルやトロノは重要な拠点だ。ピエドゥラで契約者の護衛を担当していたトーロを葬り、アルパで契約者と召喚士の口を封じる。そうすればトロノに被害はない。アルパの生き残りが無傷のトロノへ疑念を向けようと、烏合の衆として聞き流される。……考えたくはないけど、妥当だ。皆も分かっているからか感情的になる者は誰もいなかった。

 「ここは人もインヴィタドも多いしね。……となれば、人気が少ない場所の方が相手にとって好都合なわけだ……」

 ここまで来たら相手が本当に追ってきているかなんて考えない。確実に背中を狙われていると思う方が賢明だ。相手がフジタカの不調に気付いていなければいいけど。

 「コラルとロカ村の中腹が狙い目だろうが……張るか?」

 トーロの提案にカルディナさんは首を横に振った。

 「……いいえ。私達はあくまでも真っ直ぐにロカに向かいます。待ち伏せされていたとしても、追い付かれるにしても。相手に動きを読まれても構わない」

 私達はあくまでも契約者の護衛。脅威は何もアルパを破壊した犯人だけとも限らない。私達が待ち伏せたとして、そこにただの野獣やビアヘロが現れてニクス様を危険に晒しては本末転倒だ。

 「……奴らの狙いは契約者だ。ならば、自らの身を囮にするだけの事。元々、そういう手筈だったのだからな」

 ずっと黙っていたニクス様の口が開く。その重く低い言葉に誰もが口を閉ざす。

 「覚悟と自殺は違うぞ」

 彼、レブ以外は、という話だが。返し方も余計に重い。だけどニクス様もすかさずに返事をした。

 「分かっている。こちらとてまだ死ねん。……約束を果たしていないからな」

 言って、ニクス様は私を見た。

 「君とも、また話したいからな」

 「え……」

 ニクス様が、私達の約束を覚えてくれていた。それが少し意外で私は合わせた目を離せなかった。

 「……グォッホンっ!」

 「は!あ……」

 背後から聞こえたレブの咳払いで我に返る。

 「あ、あの……すみません!それも船でできたかもしれないのに……ずっと酔ってて……」

 言い訳じゃないけど乗馬も馬車も平気だったのにな。だから大丈夫だと思ったらあの有様。レブも言っていたけど本当に情けない。

 「気にするな。誰にでもある事だ」

 「……はい!」

 ニクス様に許して頂けた。契約者に目的意識などない、とは言われたけど彼はやっぱり私からすれば少し特別というか。話していて妙に緊張してしまう。

 「気にするなら、今夜をどう明かすかだ」

 レブが話を切り替える。と言うか、脱線しかかった話を戻してくれたんだ。

 「言っても、デブは温存しときたいよな。なんてったってゴーレムを一発でぶっ壊せんだから」

 「それなら無理だぞ」

 フジタカの意見をレブは一蹴して鼻を鳴らした。

 「は、はぁ!?なんで!」

 「あの状態の消耗に……耐えられないんだ」

 フジタカとチコが目を丸くしてレブを見るけど、彼が答えないから私が。カルディナさんとトーロは落ち着いている。

 「レブが全快じゃないの」

 「ザナじゃなくて、デブが?」

 私は頷く。

 「正確には両方だ。よもや貴様も、その体調で私の本気を維持できるとは思っていまい」

 仰る通り。レブが、とは言ったけど私だって酔いが抜けない今は無理だ。

 「私は見ての通りの体調だし……レブもあの日から魔力が全快になってないの」

 「竜の回復が追い付かない程の消耗だったのか、アレ……」

 フジタカが思い返している。私だってあんなに鮮烈とは言え、一瞬の出来事。大丈夫だろう、と思っていたのは間違いだった。

 フジタカがアルコイリスを受け取った日でさえ、レブの魔力が本調子でないのは分かっていた。本人は口に出さないし、回復は着実にしているから平気なのかなと思っていたのもある。

 しかし実際はアルパの再現も今の私達ではできない。たぶん、姿を変えて、飛び上がるかどうか、という瞬間には戻っている。レブにも私にも無茶が過ぎた。

 「私の覚悟を契約者に見せただけの事。次は他が気張れ」

 「気張れってお前なぁ!」

 何かしないつもりもない。レブも私も、普通に魔法を使う分には問題ないし。だからその中で自分達に何ができるか見出さないと。

 「こうして見ると、頼りになりそうで随分偏りがあるわよね……」

 カルディナさんの呟きに上手く言い返せない。だって事実だもん。

 「さっきは温存って言ったけど、デブが超強くなれる条件について相手が知らなきゃデブを前に置けばハッタリにはなるんじゃないか?」

 レブとチコが首を横に振る。

 「悪くはないが、半々だと思うぞ?」

 「は?なんで?」

 「ゴーレムを一撃で破砕……それも、物理的にやってしまったのだ。余程強力な魔法を使ったと思われているだろう」

 そこでフジタカも気付いたのか、あ、と大きく口を開く。

 「連発できない」

 そうだ、とレブが肯定した。

 「いくら希代の特待生と言っても、まだなりたての召喚士だ。波状攻撃をすれば、と考えているかもしれん」

 そこでニクス様が地図を畳む。

 「考え出せば果てはないぞ。ロカに向かう事に変わりはない。迂回するわけでもないのだからな」

 「出会えば叩く。単純な話か」

 レブって落ち着いてはいるけど好戦的なんだよね。……ティラドルさんにその辺も聞けばよかった。元気にしてるかな。

 「ならば、今夜の見張りは俺がする。お前達は休んでいろ」

 言って、見張りを申し出てくれたのはトーロだった。

 「寝ずの番なら、私の方が適しているぞ」

 話にレブも加わってくれる。だけどトーロは眉間に皺を寄せた。

 「アンタは魔力が全快じゃないんだろ?」

 「消耗したのは魔力だ。寝れば回復するものでもない」

 レブの返答にトーロが顔から皺を消して目を見開いた。

 「そうか、専属契約しているから召喚士は関係ないのか」

 「召喚士は見ての通り休養が要るが、一晩もあれば解決する。そうだな」

 レブの目がギョロリと動いてこちらを見るので、私はコクコクと頷いた。

 「数日振りに揺れぬベッドで寝れるのだ。しっかり休め」

 「うん……」

 レブが背中を向ける。そうか、今夜は地面にしっかり着いて寝れるんだ。寝心地なんて考える余裕もなかった。だけど言っておかないと。

 「レブ、ごめん。今日は休むね。……見張り、引き受けてくれてありがとう」

 「……言われるまでもない」

 トーロを残し、レブが外へ出る。見張りは一人で大丈夫か、と声も上がったがそれは頼む相手を見て言ってもらいたい。……いや、見てもあの姿じゃ説得力に欠けるかな……。

 しかし私達の中で微かな不安視はあったものの、レブの戦績を疑う者はいない。まして少なくともニクス様を誰にも気付かれずに仕留められるなんてヘマは絶対にないと言えた。私もレブも、他の皆も同意の上でその日は床に就いた。


 「……うっ」

 早めに休んで私は窓から差し込む陽の光に目を眇めつつも開ける。朝を告げるには強烈な光が私を温めてくれていた。

 「あっ!朝!」

 穏やかな暖気を擦り付ける様に腕で顔を拭ったが、時間を考え跳ね起きる。部屋にいたカルディナさんも目を擦り、眼鏡をかけて起き上がる。私が起こしてしまったらしい。

 「カルディナさん!おはようございます!」

 「ザナさん……おはよう」

 まだはっきりと目が覚めていないのかカルディナさんの頭はまだ揺れていた。あれ、いつもはもっとハキハキしてたと思ったのに。

 「あ、あの……ニクス様は?」

 「え?ニクス……様?はっ!ニクスさ……きゃあぁ!」

 急に動き出してバタン!なんて大きな音を立てカルディナさんがベッドから落下する。私も毛布を退けて立ち上がる。

 「だ、大丈夫ですか……?」

 「わ、私よりもニクス様を!早く!」

 「あ、え……?」

 凄い剣幕でカルディナさんが言うものだから、思わず走り出しそうになってしまった。しかし、落ち着いて数秒。物音はほとんど聞こえない。

 「……静かですね」

 「あれ……」

 カルディナさんもボサボサの髪を掻いて眼鏡の位置を直す。

 「騒々しいぞ、どうした」

 聞き馴染みのある声が部屋の外からした。私はカルディナさんをそのままに一人で扉を少しだけ開ける。

 「……おはよう」

 「まだ着替えてもいないのか。熟睡していた証拠か」

 「うん……」

 すぐに紫鱗の塊が足元に見える。レブは私の挨拶は無視してこちらを見上げていた。

 「って!ニクス様は?無事なの?」

 「無事でなければ起こしているに決まっている」

 ……そういう事なのは分かるけど、答えになっていないんだってば。

 「無事なんだ。……良かった」

 「奴ならとうに起きている。……平和に越した事はないが、見張った意味もなくなってしまうのがな」

 レブは夜の間、見張りながら何をしていたんだろう。コラルの散策とかしてたのかな。

 「ありがとう、レブ。お疲れ様」

 「この程度、労われるまでもない」

 言ってくれるのは助かるけど、押し付けてしまったのはこちらだ。

 「カルディナさんと身支度したらそっちに行くね。あぁ、体調はもう平気みたい」

 ふと自分の体を確認する。握った掌に感じる確かな力みの手応えに冴える頭。体への不快感はもう全くなかった。

 「うむ、ならば待っている」

 レブはあっさりと部屋の扉を閉めてくれた。……ニクス様が起きてからずっと部屋の前にいたのかな、もしかして。

 「ニクス様なら無事だそうです」

 「そう……良かった」

 切り替えて報告すると、ベッドに座っていたカルディナさんが胸に手を当て微笑んだ。

 「嫌な夢でも見たんですか?」

 「最悪。トロノが火の海になってニクス様が誘拐される夢だった」

 よく見ればカルディナさんの前髪がしっとりとした汗で額に張り付いている。私が夢もみないくらいに寝ていた横で悪夢にうなされていたんだろうな。

 「でも、そんな事はさせない。私達と、貴方達がいるんだもの」

 「はい!」

 夢はどこまで行っても幻だ。それを証明するのが現実の痛みを伴った力だ。

 「レブ達、たぶん食堂に集まり出しますよ。急ぎましょう」

 「男って急かすばっかりで、こっちの事をあんまり考えないんだよね」

 「そうですね」

 今取れる最善の策は、疲れが取れた体へ栄養を補給する事。それが相手に立ち向かう力に変換される。一夜を明かすだけで気持ちはだいぶ晴れやかになっていた。

 ロカに向かう私達にできたのは恐れる事よりも立ち向かう為に開き直る事だった。ソニアさんが言っていた。気を付ける相手はビアヘロだけではない。それは契約者を狙う召喚士以外にも気を付ける必要があると言い換えられる。

 危険はどこにでも潜んでいる。杞憂に終わったコラルでの一夜から朝陽を迎えた私達はもう後ろから刺される事へ警戒はしても怖がらない。


 下手にこちらへ態勢を立て直す余裕を与えてくれた相手の鼻を明かす日はそう遠くないと、その時の私達は思っていた。

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