誰かのために。あなたのために。

 それは暗闇を照らす灯火のような、清明たる理路だった。


『僭越ながら、まずは皆様の勘違いを正しておきます。精霊指定都市候補地の調査官は調査の中立性を確保するためにいくつかの独立した権限を有しており、補佐の任命、解任権もそのうちの一つです。

 ――雅比さん。あなたを補佐に任命したのは私です。私の許可なく補佐を辞めることはできません。よろしいですね?』

『む……? う、うむ』


 不意の宣言に目を白黒させる雅比を尻目に、火狐神は続いて狐たちを叱責する。


『先輩がたもです。一体なんのためにそれぞれの党から調査官を派遣しているとお考えですか。私の仕事の進め方に文句を言うぐらいでしたら、そもそも風神天狗党の方々は速やかに自党の調査官を選びなおすべきなのです。それをしないで口を挟んでくるのはただの怠慢、職務放棄です』


 非の打ち所のない正論に、百戦錬磨であるはずの狐たちが黙り込む。

 驚いた。まさかこんなに押しが強いヤツだったとは。

 もしかして久住が指示を出したのだろうか。

 そう思って隣を見るも久住もまた目を丸くしている。


 しばらく火狐神の言葉を噛み締めるようにしていた狐たちは、互いに顔を見合わせ無言のやりとりを交わすと、それまで黙っていた一番左の狐が重々しく口を開く。


『――火狐神どのの意見はもっともである。しかし貴君も与党の地位が危ぶまれていることは知っておろう。ここで風神天狗党との関係が揺らげば最悪、政権崩壊のきっかけともなりかねない。彼らとの紐帯を欠くようなことは極力避けねばならぬのだ』


 それがただの難癖だろうと聞き流すわけにはいかない、ということか。


『今の野党が政権を取ればどうなるか。火狐神どのも図らずしもここ数日で思い知ったであろう。党利党略を考えれば風神天狗党の意見にも一理ある。広い視野で見れば彼らの要望を受け容れるのが合理的なのだ。火狐神どの、ここは呑んでくれぬか?』


 腹を割った説得に、火狐神が応答するまでしばらくかかった。


『……皆様のお言葉、ごもっともと思います。ですが、より広い視野で見れば果たしてどうでしょうか』


 この場で一番年若い神である火狐神の疑義に、部屋の空気がざわめいた。


『より広い、とはどういう意味じゃ、火狐神よ?』


 そう訊ね返した宗旦に、火狐神はきっぱりと答えた。


『弱き立場の者を見捨てることが、政治家として正しい道ですか?』


 そのひと言に、居合わせた全ての者が胸を打たれた顔をした。


『火雷天神どのが人間たちを攻撃しはじめた時、私には見ていることしかできませんでした。党から送られてきた通達もありましたし、私自身には大した力もありませんから、人間たちの受難に心を痛めることはあっても具体的になにか行動を起こすことはできない――いいえ、正直に告白します。私は、諦めていたのです』


 そこで火狐神は一度、後悔するように言葉を切る。


『……雅比さんを縛りつけた条件は、私よりも遥かに重く、厳しいものでした。なにしろ神通力の使用をすべて禁じられ、禁を犯せば党を除籍させられるというものだったのですから。雅比さんは苦しんでいましたが、それでも禁を破ってまで行動を起こすようなことはないだろう――そう、私は思ってました。ですがそれは私の愚かな思い込みだったのです』

『……党員であれば、党の命令に従うのは当然であろう?』


 中央の狐の意見を、火狐神は認める。


『異論はありません。党には党のルールがありますから。しかし、私たちがそうすることで救われない、救うことができない者もやはりいるのです。雅比さんはそれをよしとしませんでした。手にした全てを投げ打ってでも雅比さんは弱き者を救う道を選んだのです。私には、その姿がとても尊いものに見えました。

 ……党利党略も政権維持ももちろん大切なことだと思います。ですが、狐神稲荷党の党員である前に私は政治家です。政治家とは弱き者に手を伸ばすためにいるのです。ならば、覚悟を決めて手を伸ばした雅比さんを助けずして何のための政治家、何のための私たちでありましょう。雅比さんは私の補佐です。私が選んだ補佐なのです。ですから、』


 自らもそう殉ずるのだと誇るように、決然と火狐神は告げた。


『雅比さんは、私が守ります。不都合がおありでしたら、どうぞこの場にて私を罷免なさってください』

『……火狐神どの』


 雅比の呟きが震えを帯びる。


 火狐神の言葉は高校生の俺の耳にさえ青臭く聞こえた。

 だけど『己はどう在るのか』を問われた時、無関心でいられるヤツなんてどこにもいない。

 それはきっと存在と起因が直結している神にとってはなおさらで、だからこそ自分自身を秤に乗せてまで信念の重さを問うた火狐神の覚悟を愚かと切って捨てることは誰にもできなかった。


 狐たちが言葉をなくし、部屋が沈黙に包まれたとき、


『アッハッハ! 百にも満たない仔狐が、なかなかどうしてイカした啖呵を切るじゃあないか!』


 狐たちの背後、横へとスライドした障子戸の向こう。

 茜色の夕焼け空を背景に歯を見せて笑っていたのは、緋色の和服を纏った一人の女性だった。


 すらりと伸びた背。黒とも金ともつかない不思議な輝きを帯びた長い髪。

 粗野と洗練という相反した要素を己の中に同居させているような鮮烈な印象の女性は、部屋に入ってくるなり圧倒的な存在感を振りまいて他の全てを霞ませてしまう。


『玉藻前どの……!?』


 仰天する狐たちから玉藻前と呼ばれた女性は悪戯小僧のようにパチリと片目をつぶってみせ、


『よう。お前らがあの高慢ちきな天狗どもの件で調査官を呼び出したって耳に挟んでな。おもしろそうなんで混ざらせてもらうぜ』

「……誰だ、あの派手なお姉さん?」


 久住の問いに、火狐神は声に緊張を滲ませながら答える。


『党の幹部の一人です。直接お会いするのは私も初めてです』

『大妖狐じゃな。豪放磊落な女傑として、風神天狗党でも名が通っておった』


 補足を入れる雅比の顔もわずかに強張っている。

 玉藻前は中央の狐が空けた場所に腰を下ろすと、覇気に満ちたまなざしをぶつけてくる。


『玉藻前だ。知ってるかもしれんが、ま、よろしくな!』

『は、はい! 火狐神です! よろしくお願いします!』

『よし火狐神、まだるっこしいことは抜きだ率直にいこう。要はあのやかましい天狗どもの口さえ塞げりゃウチらとしてはなんだっていいんだ。お前がそこの「美人すぎる天狗」を見捨てる気がない以上は別のネタがいるわけだが……どうだ。何かあるか?』


 そう、結局はそこに尽きる。

 具体的な解決策を提示できなければ火狐神が見せた意志はただの理想論で終わってしまう。

 火狐神は考えを整理するようにしばらく間を置き、


『先ほども申し上げましたが、彼らの話は筋が通っておりません。新たな調査官を設けるよう彼らに勧告してはどうですか? 議会では私たちのほうが多数を占めておりますから、無視はできないはずです』

『ダメだな。それじゃしこりが残る。コイツはメンツの問題、気に食わねえもんは気に食わねえって話なんだから、うまいこと不満を解消してやる必要がある』

『……でしたら、調査の内容を彼らに提供するのではどうでしょう? 彼らだって雅比さんを辞めさせたことで調査に穴が空いているはずです。一考に値するのではないでしょうか?』

『ソイツも難しいな。損得感情とのすり替えってアプローチそのものは悪くねえが、肝心の調査の出元が自分たちがクビにしたヤツってのが受け入れられねえだろ。最低でも人間界では一切活動させないぐらい言えないと連中も首を縦に振らねえだろうな――おまえらだって色々考えてくれたんだろ?』


 玉藻前が首をうしろに傾けると、控えていた狐たちが畏まったように頷く。


『我々としても調査への差し支えは極力避けたいところですからな。代案は検討しましたが……』

『ん。まぁ、そうだろうな』


 玉藻前が頷くと火狐神は続ける言葉を見失ったように口を閉ざし、わずかな間沈黙が降りる。そこへ、


『……ワシが候補地の地主神になる、という話ではどうですかの?』

『雅比さん!? それは――』


 不意に差し挟まれたひと言に、全員が顔色を変えた。

 本当に雅比が地主神になれば、精霊指定都市の話そのものが根こそぎ吹っ飛ぶ。

 彼らの反応は当然だろう。


『――そいつぁずいぶんデカい爆弾だな。マジで言ってんなら、ウチらだって黙っちゃいねえぜ?』


 鋭く瞳をギラつかせる玉藻前を前に、雅比はゆっくりと頷いてみせる。


『で、ありましょうな。しかし……ワシが地主神になり、なおかつ精霊指定都市制度を受け入れると宣言すれば、どうですかの?』


 これまで一度も出てこなかった案に、俺たちを含めた全員が黙り込む。

 ええっとそれは――つまり、どういうことになるんだ?

 いち早く話を理解したのは玉藻前だったらしい。

 じっと伏せていた顔を上げると、これまでで一番真剣な目を雅比に向ける。


『……おっもしれえこと考えるなアンタ。それが通るなら地主神がいる土地でも制度運用の前例ができちまうことになる。だが、わかってんのか? いきなりそれだけの話をぶち上げて賭けに負けたらアンタの政治生命は完全に終わるぞ?』


 勝ち目はあるのか? という問いに、雅比はにやりと笑みを返し、


『覚悟の上です。勝算は……まぁ、二割もあればいいところですが。それでもここまでワシを見込んでくれた火狐神に応えられねば女がすたるというものでありましょう?』


 それを聞いた玉藻前は呵呵大笑する。


『くっははははは! 女がすたるか! そう言われちゃあ止めるわけにはいかねえなあ! ……で、同族のよしみで天狗どもを優遇するってのか?』

『期待するのは向こうの勝手ですからのう』

『……ったく、食えねえなぁアンタ。ま、そういうことならウチとしては文句はねえ。それだけのエサをちらつかせてやれば連中も大人しくなるだろう。それじゃ最終確認だ。……その線で話をしちまって本当にいいんだな?』


 雅比は即答を避け、俺たちを振り返った。


『良いかの?』

「いや良くねえよ! 先に相談しろよそういう重要な話は!」

『そうですよ! びっくりしました!』

『うむ、すまぬ。本当に先ほど思いついたのでな』


 俺たちの文句に、照れくさそうに頬をかく雅比。

 このタイミングで雅比が話を切り出した理由はわかっている。

 ここで彼女を失えば地主神の選出という切り札が切れなくなるし、火雷天神に抗することも難しくなる。

 議会での奇襲効果には期待できなくなったが、代わりに狐神稲荷党に根回しができたと考えれば悪くはない。

 だが――、


「見切り発車、だよな?」

『うむ。正直、二割でも甘いじゃろうな』

「お前が地主神として認められるかどうかに全部かかってくるってことだよな?」

『成せば総取り、成さねば……まぁ、泥沼じゃな。それでもワシが火雷天神を実力で下せばワシを補佐に据えておる火狐神の報告が優位となろうが……』


 言葉尻を沈黙で締めくくる雅比に俺もまた昨日の戦いを回想する。

 あの時はなんとか凌ぐことができたが、負けないのと勝てるのとでは天と地ほどの違いがある。

 なにしろ敵は強大だ。

 このまま雅比の力が順調に底上げされたとしても、まるで勝てる保証はない。


「……園村。一応聞くんだけど、仮に今から他の神さまが手伝いに来てくれたとして同じように人気を集めることってできるか?」

「うーん、難しいねぇ。二番煎じになっちゃうから同じ手は使えないし、議会って明後日でしょ? 時間が足りないよ」


 まず無理だね、と園村は結論。

 つまりはこれが一番勝ち目のある方法ということだ。

 だが、もしもしくじればここ数日の状況がこれから先もずっと続くことになる。

 それどころかこの騒動が全国展開されるかもしれないのだ。

 こんなデカい話、本当に俺たちみたいなただの学生が決めてしまってもいいのだろうか。


「……みんなはどう思う?」


 すると久住がこちらを見返し、


「ああ? ま、いいんじゃね?」

「軽いなオイ!? ちょっとは真剣に考えろよ!」


 俺の抗議にしかし久住は腕を組む。


「いや、つーかこれ考えて正解が出る問題じゃねえだろ。ほとんどの人類にとって初見だろうし、未確定要素が多すぎだし。未知のプログラム言語を使って仕様書抜きでコード書かされるようなもんだぜ?」


 続いて追風が、


「雅比さんの案を採用しなかったとしても、火雷天神の問題がなくなるわけでも議会を説得しないで済むわけでもないしね」


 園村が、


「これって結局、あたしたちが雅比ちゃんのことを信じられるかって話なんじゃないかなー?」


 火狐神が、


『これが一番望みがあると思います』


 仲間たちの意見は俺の頭の中などよりよほど整理されていて、要するに外堀を埋める段階はとっくに過ぎていた。

 そして、そういう話であれば確かに俺の中でも覚悟は決まっていたのだ。


「……わかった。雅比を信じる。みんなもそれでいいんだな?」

「おう」

「それでいいよ」

「おっけー!」

『もちろん私も信じてます!』


 答えは四者四様に、それでも思うところは一つだった。全員から信託を受けた雅比は心から嬉しそうに一礼。


『感謝するぞ、お主たち。……それでは玉藻前どの、ならびに狐神稲荷党の皆様方。どうかよろしくお願いします』


 再度頭を下げる雅比に、玉藻前は今年一番愉快な話を聞いたとばかりに唇の端をつりあげる。


『承知した。ま、当たって砕けたら骨ぐらいは拾ってやるよ。干物になったらウチに来な』

『そうはならないよう、祈っておいていただければ』

『今さら誰に祈れってんだよ。届く先はアタシら神だぜ?』


 玉藻前の諧謔に雅比は苦笑。


『それじゃあ今日はこれでお開きだ。火狐神、足労かけたな。後はこっちで進めとく。――当日、楽しみにしてるぜ』


 玉藻前はパチリと片目をつぶってみせ、


『はい。それでは失礼いたします』


 火狐神の挨拶を最後に、画面がブラックアウトした。

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