血と眼

初夏の陽に照らされると、万象の血色が有り有りと見える。血色良きモノは、木曽を漂う川魚も然り、頂きの城館より広がる裾野も然り、前途洋々とした気色が見え、血色悪きモノは追い先に待つ暗雲の立ち込めた様相が表れる。民にそうした色は未だ見えず、心の内に胸を撫で下ろしたのも束の間、門前に至るとその光明は影を潜めた。陰陽五行に照らせば、悪しき気とも表現すれば良いであろうか。こうした"気"なるものに対して、十兵衛は幼少より妙な鼻が利くのであった。

「、、、穏やかならぬ。」

おもむろに口を開く。

「近頃は尾張の方が騒がしゅうござる。商人らは利に敏いゆえ、最先を案じておるのでございましょう。」

横を追随する弥平次の言葉を聞きつつ、眼前に聳える山々を見遣った。今の十兵衛の生命と同等の価値があるこの山に血色の変化が感じられた際には、為すべき事を為さねばならぬ。今一度そう誓うと、馬を降り館へ続く参道に踏み入った。


「それにつけても解せませぬ。何ゆえ兄者が城下警固の任などやらねばならぬのです。元はと言えば正当な明智の惣領に就くべきでは御座らぬか。」

「控えよ弥平次、昨年まで大殿に御奉公しておった某をこうして温かこう迎えてくれたは叔父上ぞ。父亡き後もこうして明智の地を安寧に保って頂いておるだけで某は果報と思わねばなるまい。」

「そういうものなのでしょうか。。」

弥平次の息を吐いたような呟きは、森林の静けさに漂った。


亡父たる明智光綱が当時の美濃国主土岐頼芸家臣、斎藤道三(当時は長井規秀、以下道三)に敗れた後、十兵衛は小姓として道三に仕えた。亡き父の仇であろうと、それ以上に梟雄たる道三へ魅入った十兵衛は弟子の如く厚遇され、軍学や砲術、算術は言うに及ばず、禅や当時未だ盛り立てであった茶道、舞踊など武家の嫡男として一流の教育を施されたのであった。父が自刃を遂げた時七歳であったこともあり、昨年の暮れに小姓の任を解かれるまでの十年に及んだ薫陶は多感な時期であった十兵衛のその後において大いなる基盤となったであろう。奇しくもその十年の間は鍛錬を施した道三自身にとっても波乱そのもので、美濃で成り上がっていくために主家を乗っ取り、守護代にまで登りつめる道程を突き進んだ年間であり、その最中次代へ向けた白羽の矢として十兵衛を育てたのである。十兵衛自身、何故自分が見込まれたのかは定かではない。しかしながら、その名を美濃近隣に轟かし、梟雄、蝮など囃される道三を間近で見てきた眼には、愛しき父であり、敬愛する師であり、崇奉する主君がうつり続けた。

「、、天を仰ぎ、地を這え十兵衛。うぬには美濃一国はおろか、日の本六十余州いづこにも負けぬものが備わっておる。されど、真にそれが開花するは当の先になろう。それでも己が身を修練し、知を磨け。いつかこの美濃の蝮を超えうる臥竜が泥濘の淵より昇天しよう。」

別れの際にかけられた予言めいた師からの言葉は、十兵衛の心の臓に未だ深く刺さっていた。その真意をも聞けぬまま稲葉山を去り、今年の如月に明智城へ戻ってきた十兵衛は、何度もその言葉を頭の中で反復し、それでも引っ掛かる箇所を気にする日々を送っている。明智城の本丸へは麓から徒歩で四半刻かかり、その間耳へ穏やかに波立つ森のさざめきや空高くを悠然と舞う鳶の鳴き声や、目を潤し身体を包み込む山のひんやりと心地よい冷気へ身を置き、師より授かった数々の言葉や天下の情勢、果ては自身の身の振り方に思案を巡らすのも数か月の間で習慣となっている。ふと立ち止まり、深く息を吸い込むと半歩後ろを上っていた弥平次が怪訝な顔を浮かべた。

「どうされました兄上。」

「いやな、自然の気を取り込んでおったのよ。」

「ふふ、兄上にお貸しいただいた三国志演義の諸葛孔明と兄上のかようなお姿が重なりまする、諸葛亮もそのように自然を風靡しつつ劉備玄徳を待っておられたのでありましょうか。」

「ふむ、我もまた臥竜、、か。」

弥平次の言葉に道三を思い起こされ自然と背が張ると共に、少しずつではあるものの苦手な書物にも触れるようになった従弟を頼もしく思った。

「さて、叔父上に任の報告を済ませた後は立ち合うぞ弥平次、膂力では負けるが技では負けぬ。今日も儂が勝つぞ。」

「望むところっ。」

さわやかに微笑む従弟と共に、本丸への道を一気に駆け上る。先ほどから聞こえる鳶の声も一段と軽やかに聞こえた。

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