第25話 愚者の裁定

「二ノ宮……!?」

「優希…………!?」

 勢いで飛び出したあと、左手入り口側に立っていた三人と目が合った。なんだか三人の表情がいつもと違って見える。陽が陰っていたからかもしれない。……動揺していたからかもしれない。

「………っ」

 一瞬とも言える静寂が訪れて、私は何かを言いたそうに唇を震わせている遠藤さんから視線を転じて、床に座り込んでいた茅ヶ崎さんの手を取ると、驚き固まっている三人の間を掻き割ってその場から逃げた。

 この先どうしようとか、どうなるかとか、何も考えられなかった。ただひたすら走っていたら、いつの間にかウサギ小屋の前に来ていた。

「――ねえってば……!」

 そこでようやく、茅ヶ崎さんの声が耳に入ってきて、私は足を止めた。

「……あっ……その、……ごめん」

「……いつまで手……握ってるの? ……放してくれない?」

「あ……ごめん」

 私はばかみたいに頭を下げていた。茅ヶ崎さんの顔が見られない。

 茅ヶ崎さんは肩で息をしながらきょろきょろと周りを見回し、大きなため息を吐いた。

 私はタイミングを見計らって、恐る恐る声をかけた。

「あの……茅ヶ崎さん、だいじょうぶ……?」

 茅ヶ崎さんの制服はところどころ皺がついていて、乱れていた。直接目にしたわけではないが、音だけでも何をされたか想像するのは難くない。

 しかし、心配する私をよそに、茅ヶ崎さんの口から出たのは予想外の言葉だった。

「アンタ……なんで出てきたの……?」

「え……?」

「トイレの中に居たのに、なんでわざわざ面倒くさいことしたの、ってこと!」

 茅ヶ崎さんは怒っていた。なぜ茅ヶ崎さんは怒っているのだろう。

「だって……茅ヶ崎さんがひどいことされてたみたいだったから……」

「べつに誰も助けてなんて言ってないじゃん。関係ないんだからほっといてよ!」

 茅ヶ崎さんは私を突き放した。

「茅ヶ崎さん、どうして……?」

「……っ。あたしは一人でいたいのよ。あなたには関係ない」

 それだけ言って、茅ヶ崎さんは背中を向けた。

「ちがさきさ――」

「ああもう、関係ないって言ってんでしょ!? うっとうしいからこっちくんな!」

 もう一度手を握ろうとして、振り払われ――。茅ヶ崎さんは私の前から足早に歩き去っていった。

 私はべつにお礼を言ってほしかったわけじゃない。でも、茅ヶ崎さんがイジメを受けていた事実を知って、ものすごくびっくりして、とても悲しくて、茅ヶ崎さんのことを考えると私も辛くて……。

「私は……」

 私よりももっと辛いであろう茅ヶ崎さんを、助けてあげたかっただけなんだ。

 だけどそれ以上、茅ヶ崎さんを追いかけることはできなかった。



「優希、あのさ……昨日はごめんね。あたしたち、優希がいるの知らなくて……」

 翌日。昼休みにお手洗いへ行こうと廊下に出たとき、遠藤さんが話しかけてきた。近くに鈴木さんの姿はない。

 正直なところ、そばにいた友達が自分の知らないところで別の誰かをいじめていたことはショックだった。同時に、あんな恐ろしいことが自分のすぐそばで行われていたことも。私には笑顔を向けていた友達が声を荒くして誰かを侮蔑する姿も。

 私は、陽向ひなたの世界しか知らなかったんだと、気付かされた。

「私……私ね、あのとき優希の驚いた顔を見て、気付いたの……! 何やってんだろうって……こんなことしちゃいけないって……私、悪いことしてた。サイテーなことしてた……」

 私が黙っているからか、目元に涙を浮かべながら立て続けに懺悔の言葉を連ねる遠藤さん。真に謝るべきは私ではなく、茅ヶ崎さんに対してではないかとも思ったが、自分にそんなことを言う資格があるのかすら疑わしい。

「ごめん、優希……」

 足元で床に手をついて謝罪する遠藤さんに、なんと言葉を返せばいいのだろう……。

 人は誰しも心の中に悪魔を飼っている。だから、一時の気の迷いや過ちは誰にでもあるものだ。大切なのは、それに気付けるかどうか――。

 そしてその人を判断するとき、過ちを犯した瞬間の性格を疑うよりも、それまで自分が見てきた人格で判断したい――。

 だから。

 少なくとも遠藤さんは、今まで私にああいった世界を見せないよう、努めてくれていた。私が気付けなかったのは、彼女のおかげであり、所為せいでもある。

「私のこと……嫌いになった…………?」

 そんな遠藤さんなら、きちんと正しい方向へ導いてあげれば――お願いすれば、解ってくれるかもしれない。

 遠藤さんの問いに、首を振った。

「ううん、なってないよ」

「ほんと、に……?」

 足元に縋り寄ってくる遠藤さん。私は頷いた。

「うん、ならないよ。……でもね、遠藤さん。お願い。もう……ああいうことはしないでね……?」

 遠藤さんの前にしゃがみ、手を握った。すると遠藤さんの頬に大粒の涙が伝った。

「うん……やくそくする……もうしない……絶対、しないから……!」

 そして何度も頷いた。

 私は顔をくしゃくしゃにして泣く遠藤さんを抱きしめた。それから、優しく撫でてあげる。ほどなくして、遠藤さんはわんわんと泣き出した。

 遠藤さんは、温かかった。

 そんな彼女の温もりを感じながら、思う。

 遠藤さんには、もう誰かを傷付けてほしくない。

 そして、それと同じくらい、茅ヶ崎さんを助けたい。

 これまでは気付けなかったが、これからは違う。

 私も遠藤さんと同じように心を改めて、教室の隅々まで見渡すんだ。陽向の世界ばかりではなく、日陰の世界にまで届くように――。


 今まで飼育に費やしていた時間がなくなったことで、茅ヶ崎さんを見つけることは難しくなった。教室で話しかけようにも、窓際の私の席から入口側にある茅ヶ崎さんの席までは距離がある。休憩時間にその距離を詰めようにも、私がそうするよりも早く彼女がどこかへ消えてしまう。

 遠藤さんが何故いの一番に私に謝罪をしてきたのか分かったような気がした。

 きっと、不安で不安で仕方がなかったのだ。突如として芽生えた罪悪感に押しつぶされそうになり、とにかく誰かに赦しを得たかったのかもしれない。

 私自身も、日が変わり、改めて茅ヶ崎さんに意識を向けたことで、無意識のうちに意識を逸らそうとしていたことに気付いた。拒絶されたことを想い出すと、怯えている自分がいた。

 そんなこんなで茅ヶ崎さんと話す機会を得られないまま三日が過ぎ――木曜日。

「思い悩んでいるときは、身体を動かすのが一番だ」という言葉はよく聞くが、実際その通りで、部活のきつい練習の時間は、なぜあんなにも茅ヶ崎さんを追いかけられなかったのかと疑問に思えてくるほど足が軽かった。

 我が女子バドミントン部は、週末に県選抜強化大会を控えている。部内の空気は殺伐とし、真剣に練習に取り組んでいたために余計な思考は自然とすべて振り払われていた。

 大会が近いため、筋トレやロードワーク等のアップは行わず、軽く体育館内を走ってからコート内でのステップを応用したシャトル拾いをして、身体が温まってきた所でラケットを取った。

 県選抜強化大会は団体戦のみ行われる。出場選手は最大八名までで、その中からシングルスが一つとダブルスが二つ組まれることになる。当然勝ちを狙いにいくため、そこからさらに実力上位の五人が試合に出場するメインになっていた。

 決して部員は少ないわけではないが、私と遠藤さん、そして鈴木さんは一年生ながらもその五人の中に含まれており、コーチの話では第一ダブルスとしての出場を予定していた。ちなみにシングルスに出場するのが鈴木さんで、残りのメンバーは部長を含む二年生の先輩たちだ。

 基本的にアップのためのコート内での基礎打ちは、ダブルスのパートナー同士で行う。もちろん私もその日までずっと遠藤さんとペアを組んでやってきた。当然今日もそのつもりで遠藤さんに声をかけたのだが――。

「遠藤さん、やろう」

「――あ、うん」

 遠藤さんの返事はいつもよりうわついていた。

「遠藤さぁん、今日は私とペア組みましょぉ?」

 と、鈴木さんからの横槍が入り、こちらへ向かっていた遠藤さんの足が止まった。

「ね?」

 と、鈴木さんが微笑む。それを見た遠藤さんが、私に向き直った。

「……ごめん、優希。今日は、変則編成のときのために鈴木さんと基礎打ちするんだ」

「あ……うん、わかった。それなら仕方ないね……」

 遠藤さんは踵を返して鈴木さんのもとへと走っていった。

 あくまで第一ダブルスとして出場を予定しているが、対戦カードによっては私がシングルスに回り、鈴木さんがダブルスに組み込まれることも予定されていた。これを変則編成と呼んでいる。

 実力が全ての個人戦とは違い。団体戦ではある程度の戦略も大事になってくる。単一複二の全三試合で、どちらが先に二勝できるかが重要なのだ。

 実力で勝てるならそれに越したことはないが、例えば相手のシングルスが全国大会常連の強豪選手であった場合、もともとダブルスに重きを置いていた我が校はシングルスを捨て、ダブルス二本の勝ちを取りに行く作戦も想定されていた。とはいえ、全日本ジュニアや県総合体育大会とは違い、あくまで県内の選手強化が主目的である強化大会であるため、勝ちが絶対ではない。もちろん勝つことは大事だが、例え負けることになったとしても、より大きな大会で勝つための経験にと、そのままの編成で挑むことも十分にあり得る話だ。ともあれ、全てはコーチと監督の判断に委ねられるのだが。

 そして、鈴木さんは――さすがに既に引退した三年生の前部長には勝てなかったが――先輩たちを差し置いて我が校一番のプレイヤーだ。もちろん、それはシングルスだけの話ではない。ダブルスで組んだ試合形式の練習においても、小学校の頃は同じクラブに所属していたというだけあって、遠藤さんと鈴木さんのペアは息ぴったりだった。この春から組んでいる私たちもなかなかの練度に至っていると自負しているが、やはり鈴木さんの実力をもってすると遠藤さんがより輝いて見える――なんていうのは、ちょっとした嫉妬から来ているのかも……なんてね。

 ――そんなわけで、私は大人しく相方探しのために控えの先輩に頭を下げに走った。


 ところが、部活が終わってから異変が起きた。

「あれ……?」

 更衣室へ向かい、着替えようとロッカーを開けたとき、そこに入っているはずの着替えと、着ていた制服一式がなくなっていた。鞄はあるが、中身だけ綺麗に抜き取られていた。

(忘れてきた……? ううん、今朝はちゃんと入ってたし……今日は体育はなかった。じゃあ……どこ行ったんだろう……?)

 ロッカーは鍵がかからないタイプのものだったが、更衣室自体に鍵がかかっていたため、外部による犯行という線は薄い。ではいったい――

「どうしたの?」

 困惑して頭を抱えているところへ、遠藤さんが声をかけてきた。すぐに事情を説明し、「探すの手伝うよ」と言ってくれた遠藤さんと共に、他のロッカーを空けて確認する。

 と――

「遠藤さぁん、一緒に帰りましょう?」

 またしても。鈴木さんの声が掛かる。すると遠藤さんはまるで鈴木家の飼い犬のように、私に「ごめん」と一言だけ言い残し、去っていってしまった。

 制服が紛失した件は別段騒ぎ立てるつもりはなかったが、こちらの空気を意にも介さない、鈴木さんの図ったようなタイミングはどうにもキナ臭く思えて仕方がない。

 その後は部長が施錠する時間になるまで探すのを手伝ってくれたが、私の制服類は見つかることはなかった……。

 それ以来、もやもやとしたなんともいえない感覚が、胸のあたりにつかえ出した。

 翌日の朝。昨日起きたことを担任に相談しようかとも思ったが、確証もない戯言をまともに取り合ってくれるとは思えなかったので、体操着姿で登校し、真っ直ぐに教室へ向かった。幸い今日は一時限目が体育なので、予め朝の時間に着替えたとでもいえば、別段体操着姿で教室にいることも珍しくはない。

「おはよう、優希ちゃん」

 教室のドアを開けると、私の席に座っていた鈴木さんが声をかけてきた。そしてその手には、私のものと思しき衣類が抱えられていた。

「それって――」

 皆まで言うまでもなく、鈴木さんが頷いた。

「机の中に着替え入ってたってぇ。はい、二ノ宮さん。昨日忘れてったんでしょぉ。ドジなところも可愛いけどぉ」

「あ……うん、ありがとね、鈴木さん」

「どういたしまして♪」

 私はそこまで記憶力に自信がないわけではない。だが、いざすんなり見つかると本当にそうだったのかもしれないと思えてきてしまう。なんとなく鈴木さんを疑っていたのも、間違いだったのかな……?

「遠藤さん、ごめん、机の中にあったみたい、えへへ」

 なにはともあれ、昨日一緒に探してくれた遠藤さんの席へ寄って報告をする。

「あ、そうなんだ。……よかったね、優希」

 だが遠藤さんの反応はどこかぎこちなかった。今までの遠藤さんなら「え、そうなんだ!? 相変わらずドジだなー、優希は」くらいのノリで言ってくれたのだが。

 ――しかし、私の身に降りかかったことはそれだけではなかった。

 同日。放課後になり、部活動参加のために制服から体操着に着替えようとしたとき、今度は体操着が体操着袋の中から忽然と消えていた。さすがにこれは異常だ。

「またどこかに置いたまま忘れたんじゃないのぉ?」

「ううん、そんなはずはないよ……」

 いくらなんでも数時間前まであったはずのものがなくなるのはおかしい。今日の一時限目は体育があり、それを終えて制服に着替えて以来、教室のロッカーに置いたまま放課後になるまで触れていないはずだった。

「みんな、ごめん。私の体操着がなくなったんだけど、誰か知ってる人いないかな……?」

 更衣室内の他の生徒にも呼びかけてみるが、皆同じような反応を示すだけ。

 ――否、一人だけ違った。


「……遠藤さんは何か知ってる?」


 一人だけ上の空だった遠藤さんに声をかける。遠藤さんは焦点の定まらない目で虚空を見つめていたが、私の言葉で我に返り、しばらく視線を泳がせてから、

「……わかんないや。ごめんね……」

 と、小声で答えた。遠藤さんは具合が悪そうだった。

「優希ちゃん、体育の時は着てたよね」

「なくなるなんておかしくない?」

「誰かがとったんじゃないの?」

「え、誰……?」

「……男子とか?」

「嘘でしょ」

「でも二ノ宮ちゃん可愛いから、男子なら有り得る。私が男子なら、目の前に置かれたら間違いなくとるもん」

「おい」

「でもロッカーにあったのになくなったんだよね……?」

「それってやっぱりおかしくない?」

「二ノ宮さん、心あたりある?」

 非常事態に、女子たちが口々に不安を呟く。皆は男子の犯行だと睨んでいるようだった。一人の女子から受け取った疑問を、私はそのまま鈴木さんにぶつけた。

「鈴木さんは、どう思う……?」

 皆の視線が一斉に鈴木さんに向けられる。鈴木さんはバドミントンだけでなく、成績も優秀だった。だから彼女の知恵を借りるのは、良い判断に思えた。とはいえ昨日の今日で、私の中で鈴木さんに対する猜疑心が強くなっていたというのもある。ぜひとも彼女の出方を伺いたいところ。

 鈴木さんはしばらく考える素振りを見せてから、口を開いた。

「冷静に考えればぁ、今日は移動教室が多かったから、その時に盗まれたと考えるのが妥当でしょうねぇ」

「じゃあやっぱり……」

「私もぉ、男子が盗ったと思うわ」

 鈴木さんの言葉に、女子たちが総意を得たと確信して「やっぱりそうだ」と頷きだした。と、そこへ更衣室の扉が開いて部長が入ってきた。

「おーい、一年どうした? 更衣室内で何駄弁ってんの、大会明日だよ練習始めるぞ? 特に二ノ宮と遠藤とすず」

「部長、二ノ宮さんの体操着が何者かによって盗まれました」

 意外にも部長の発言を遮ってそう申し出たのは鈴木さんだった。

「なにィ? それマジ?」

「その線が濃厚という段階ですが、おそらくは間違いありません。私たち、これからそれを確かめるために少々時間を頂戴したいのですが、宜しいでしょうか?」

「うーん……」

 部長が顔を渋らせた。そこへ鈴木さんが続ける。

「このまま練習に参加しても、練習に集中できませんの。打てる手を打って、見つからない場合はすぐに戻ってきます」

「もし体操着見つからなかったらどうすんの」

「私のユニフォームがありますので、それを二ノ宮さんに貸します。それでいいわよね、二ノ宮さん?」

 鈴木さんに問いを投げられる。

「え? えっと……いいの?」

「もちろん♪」

 鈴木さんは微笑んだ。

「じゃあ私も探すの手伝う!」

「私も!」

「人数は多い方がいいもんね!」

 と、口々に協力の意思を示す女子たち。

「……すみません、部長。みんな、ありがとう」

 私は皆に頭を下げた。

「あい分かった! ……ユニフォーム持ってきてんの鈴木だけだぜェ。一年合流するまでは二年生で使うから、来たらしばらく一年だけで使っていいよ」

「お気遣いありがとうございます」

 最後まで律儀に、礼儀を貫き通す鈴木さん。私の中に存在していた彼女への疑心が、少しずつ違うものへと変化していく。

(やっぱり、私の思い過ごしだったのかも……)

 鈴木さんも、根は良い人なのだ。きっと、話せば解ってくれる。

 大会が終わったら、ちゃんと話そう。 

「二ノ宮」

 更衣室を出る前に、部長が声をかけてきた。

「体操着、見つかるといいな」



 ――そして、探し始めてから十分後。

「あったよ!」

 女子部員の一人が、嬉々とした表情で走って知らせに来た。

「どこ!?」

「こっちこっち!」

 その女子に先導され、私は走った。「よかったね」といわれて、私の顔も自然と緩んだ。

 場所は二階、理科実験室。そこは今日の三時限目の理科の時間に移動教室で使用した教室だった。実習の時以外はほとんど人が立ち寄らない、静かな場所だ。

 実験室の前には、知らせを受けていた部員たちが既に何人か集まっていた。だが、皆どこか様子が変だった。ある者は涙を流し、ある者はそれを慰め、ある者は身内を事故で無くしたようにお通夜状態だった。

「なに? どうしたの……?」

 その異様な光景に、先導していた女子が尋ねる。すると、意気消沈している女子たちの視線は、私に気付くと私へと向けられた。

 何だろうと思いながらも、実験室の中を覗く。中にも数人いて、何かを囲むように立っていた。私はそこに体操着があると確信した。

「ねえ――」

 枠に手をかけ、中へ呼びかける。しかし、そこで何者かに腕を掴まれた。

「優希、行っちゃダメ…………!」

 遠藤さんだった。

「ど、どうして……? ていうか、遠藤さんその顔……」

 遠藤さんは顔面が蒼白だった。明らかに具合の悪そうな、生気のない顔をしていた。

 私の問いに遠藤さんは黙って首を振るだけだった。

「いいから……!」

 何がなんだかワケが分からないまま、遠藤さんに実験室の前から連れ出された。

 何を聞いても遠藤さんは答えず、ただ黙って私の腕を引っ張った。

 途中、女子部員に連れられた学年主任とすれ違った。いよいよただ事ではない空気が私にも伝わってきた。――なにより、遠藤さんが何も言わずに私の腕を引いていることが、その証拠だった。

 この感じ、前にもあったっけ。

 遠藤さんは、私に惨たらしいいじめの光景を見せないために、私を別の世界へ連れ出してくれた。

 遠藤さんは、私のことを守ってくれる。だからきっと、これもそうなんだ――。

 私はそのまま、黙って遠藤さんに連れられて体育館へと戻った。


 結局、私はその日の練習を鈴木さんのユニフォームを借りて参加することになった。

 学年主任からは、

「来週には新しい体操着を用意するから、それまで待っててくれ」

 とだけ言われた。

 どうして? とは聞かなかった。皆誰も何も言わなかったし、何より遠藤さんがしてくれたことの意味がなくなってしまうから。

 だから私は、明日の大会のことにだけを考えて練習に臨んだ。

 大会へは優雫の体操着を借りて集合場所へと向かった。

 そして最初から最後まで遠藤さんとペアを変えることなく試合に出場し、準決勝まで無敗で進んだが、来る準決勝にて因縁とも呼ぶべきライバル校とぶつかった。

 結果はというと――。

 第一試合、シングルス。鈴木さんが二年生の格上相手にフルセットまで粘ったが惜敗。続く第二試合のダブルスは、先輩たちが圧勝。

 そして、互いに一勝して迎えた決戦――第三試合、ダブルス。

 私と遠藤さんのペアは、しかし一セットも取ることなくストレート負けをした。

 敗因として、相手がこちらの裏を読んで実力の勝る第一シングルスを第二シングルスとして当ててきたことと、遠藤さんのミスを上手い具合に誘発され、失点を重ねたことだった。

 スコアだけ見ると、


第1セット

23‐25


第2セット

12‐21


 と、そこそこ悪くないように見えるが、第二セットで一年という壁――実力差が圧倒的に表れたといっても過言ではない。一方的にペースを握られ、立て直す前に勝敗が決した。二年生のペア相手に、奇跡の番狂わせは起こせなかったのが悔やまれる。

「次頑張ろうね」

 なんて話を遠藤さんとして、抱き合った。

 その後の三位決定戦では逆にこちらが主導権を握る展開が多く、鈴木さんのシングルス、私と遠藤さんのダブルスが勝ち、先輩たちは消化試合を行ってその日のプログラムは全て消化され、大会は幕を閉じた。

 三位に入ったことで表彰され、賞状とメダルをもらった。表彰台の上で遠藤さんともう一度抱き合った。

 そのとき、遠藤さんが言った。

「優希、私とペア組んでくれてありがとう……!」


 ――そしてその日を境に、遠藤さんとは顔を合わせていない。



「――えー、家庭の都合により、遠藤は転校しました。突然のことだが、本人もなかなか言い出し辛かったんだろう。別れを言えないのは寂しいが、察してやってくれ。……とはいえ、日本は狭い。いずれまたどこかで会うかもわからない。そのときは、旧友として仲良くしてやってくれ」



「――ねえ、知ってる? この前二ノ宮さんの体操着が盗まれた件、転校した遠藤って子が手引きしてたらしいよ」

「えー、うそぉ!? それがバレそうになって転校?」

「マジ有り得ない……」

「仲良さそうにしてたけど、実は裏ですごい陰口言ってたらしいじゃん。ブスとか」

「えー、ひどいねー」

「てかウケる。二ノ宮さんブスならあいつなんなんだよ」

「ただのひがみっしょ。てかさー、聞いて聞いて――」



「ほら見ろ! あたしに構うからそーなるんだ!」

 ある日、昼休みにウサギ小屋の前でぼーっとしていると、背後から突然怒鳴り声がした。

 振り返ると、そこに居たのは茅ヶ崎さんだった。

「久しぶりだね、茅ヶ崎さん……声かけてくれて嬉しいよ」

 微笑みかけると、茅ヶ崎さんは口をへの字にした。

「アンタどうしてそんな目にあってまで笑っていられるの……? あたしにはわからないよ」

「そんな目って……?」

「あんたってさ、バカだよね。自分の都合の良いようにしか解釈できないの? 頭の中お花畑? さぞ綺麗な花ばっかり咲いてるんだろうね」

「……どういうこと?」

「あたしが教えてあげよっか。これはね、全部あいつ――鈴木の仕業なの」

「鈴木さんが……? 鈴木さんが何をしたの?」

「ここまで言って分からないのは救いようがないね……少しは人を疑うことを覚えたら? いい? あんたは、友達を一人、鈴木のせいで失ったの!」

 茅ヶ崎さんは食指をいちいち私に突き刺す様に告げた。

「……遠藤さんが転校したのは、鈴木さんのせいってこと……?」

「そう!」

「どうして……?」

 尋ねると、茅ヶ崎さんはこれでもかというほど大きなため息を吐いた。

「……鈴木はね、狡猾なやつなんだ。表では絶対に自分を悪いようには見せない。だから、あんたには直接的に嫌がらせをしないし、そんな姿も見せないからわからないかもしれない。けど……あんたは鈴木に騙されてる」

 茅ヶ崎さんはウサギ小屋の扉に手をかけた。

「順を追ってネタばらしをする――まずこの鍵。誰が何と言おうと、外したのは鈴木だ。もしくは誰かに命令をして外させた。あいつが絡んでるのは百パーセント、間違いない! ――見て、これ」

 茅ヶ崎さんは、金属の取っ手を捻って穴に通す必要のある小屋の鍵を一度閉めてから、開けて見せた。

「ここの鍵は、担任は緩んでたって言ったけど、四月からずっとこの調子。結構錆付いててむしろ固いくらいのものなの。だから自然に外れるなんてことは有り得ない」

「でも……鈴木さんはなんのためにそんなことを……?」

「あんた、トイレの中で聞いてたんでしょ? だったら解ると思うけど、あたしに対する嫌がらせよ」

「そんなことのために……?」

「あんたはそう思うだろうけど、あいつは違う。あたしの泣き顔でも見たかったんでしょうね。可愛そうに、食い殺されて……ラビチョフ。あたしはウサギは好きだけど、別にウサギが亡くなったからって泣きはしない。……泣いてたあんたには非情に聞こえるかもしれないけど」

「……なんで茅ヶ崎さん、私が泣いてたの知ってるの?」

「あの日トイレの前に居たから。だから後から入ってきた鈴木たちがあたし一人だと思い込んであんなことしたの。あんたが居ると知らずにね」

「そうなんだ……」

 茅ヶ崎さんは最初から分かっていたのだ。私よりもずっと先に、見抜いていた。事故ではなく、人為的によるものだと。

「そしてウサギと同じように――もしもあんたがあの時トイレから出てこなければ、遠藤は消えなくて済んだかもしれないね」

「……え……?」

「さっきも言ったけど、鈴木はあんたに対してはあたしみたいに嫌がらせができないの。なんでかわかる?」

 私はふるふると首を振った。

「あんたは人気者だからよ」

「……そんなこと、ないよ」

「今は謙遜とかは要らない。客観的に見た事実を言ってるんだから。あんたは可愛くて、優しくて、明るくて、女子男子問わず好かれてる」

 面と向かって言われるとなんだか恥ずかしい。

「いちいち照れなくてよろしい。――で、だ。あんたに手を出すと、鈴木は損をする。鈴木があんたのことをどう思ってるかは知らないけど、あんたからの印象を落とすことは自分の評判を落とすことに繋がる。鈴木の発言力は十分に強いけど、あんたには敵わないからね。だからあんたからの信頼を回復するため、かつ自分が犯人だとばれずにあんたに嫌がらせをするために、一手間打ち、自ら火消しを図った。所謂マッチポンプ――自作自演よ。イジメをしている場面をあんたに目撃されたら、いつどこで自分が関与していたことが広まるか分からない。イジメをしていることがばれたら、どうなる?」

「怒られる」

「他には?」

「叱られる」

「訊いたあたしがバカだった……。イジメが公の場で公表されたら、怒られるのはもちろん、一気に学校での立場が悪くなる。進学や成績にも響く。最悪の場合、部活で大会にも出られなくなる。自分では拭えない、黒歴史を背負わされる羽目になるの。だから、あんたからの信頼を取り戻す必要があった。まさか体操着を隠した主犯が、積極的に探すのを手伝うとは誰も思わないでしょうから」

 茅ヶ崎さんの言っていることが真実かどうかはさておき、たしかに私の心境としては茅ヶ崎さんの言う通りだった。一度鈴木さんへ向けていた疑心暗鬼の目は、部長へ進言したことでほぼ払拭された。その後も鈴木さんは私に対して特に何かしてくることはなかったし、茅ヶ崎さんのことを話したら「もうあんなことはしない」と誓ってくれた。部活でも遠藤さんが居なくなってからはずっと一緒にペアを組んでいる。

 だが、それでもまだわからないことがある。

「でも……どうして、それで遠藤さんが転校するまでになっちゃったの……?」

 仮に鈴木さんが事件のすべてを目論んでいたとしても、遠藤さんが学校へ来なくなり、やがて転校する理由が考え付かなかった。

「……それは、彼女が優しい子だったからよ」

 遠藤さんにいじめを受けていたはずの茅ヶ崎さんは、そう言った。

「もしくは、本当にあなたのことが好きだったんでしょうね。彼女の場合、あたしをいじめる大半の理由があんたに近付いた~とか、話しかけた~とかだったから。女の嫉妬、あるいは独占欲ってやつかしらね? あんたの興味があたしに向いてることが許せなかったんだと思う」

「でも私が茅ヶ崎さんと話すようになったのはつい最近だよ?」

「そう。鈴木と違って、遠藤があたしのいじめに加担したのはあの時だけだった。おそらく鈴木にそそのかされたんだろう。遠藤は鈴木とも仲良かったみたいだし」

 なんてことだ……。

「やっぱり、あたしのせいだったんだ……」

「なんでそうなるの? 履き違えちゃいけないのは、悪いのはすべて鈴木であって、あんたじゃない。もちろん遠藤でも、私でもない。……ついでに言うと、虐められる側にも責任があるとかほざくバカがいるけど、他人の痛みが解る人はそんなこと口にしない。あのとき遠藤は自分の気持ちを優先させたから、あたしに手を出しただけ。でも、その後でちゃんと気付いたんだ……鈴木と違って、あいつは良い奴だよ」

「……うん」

「――って、なんであたしがここまでいじめっ子のフォローしなきゃいけないんだか」

「それは茅ヶ崎さんも、優しいからだよ」

 茅ヶ崎さんは顔を赤くして、一瞬止まった。

「……ま、まあ、鈴木や遠藤にとって予想外だったのは、あんたの体操着が男子のジイに使われたことでしょうね……」

「ジイ……って、なに?」

「オ○ニーのこと。――……ああ、まだ知らないって顔ね。いいわ、まだ知らなくていい。今のは忘れて。品のない話だから」

「うん、分かった」

「まあとにかく、センコーから新しい体操着もらったっしょ?」

「うん」

「それは男子によって、あんたが着れなくなるくらい汚されたからよ。遠藤は、それが鈴木によって手引きされたことを知っていた。……どのタイミングで知ったのかは分からないけれど」

 遠藤さんは最初、制服がなくなった時は普通だった。もしも制服の一件も鈴木さんによる犯行なのだとしても、そのときは遠藤さんは知らなかったのだろう。だが明らかに体操着の時は様子がおかしかった。もしかしたら、あの時には既に知っていたのかもしれない……。

「でも、遠藤は止められなかった……。幼馴染が友達の体操着を盗み隠していたことも、それを欲しがってる男子に渡したことも知っていたのに、出来なかった。ひどく自分を責めたでしょうね。止めていればこんなことにはならなかったかもしれない――って。あんたに隠したまま顔を合わせ続けることはできない。嘘を吐き続けるのは、辛いでしょうから……。ならいっそ秘密をばらせばいいのに。遠藤はしなかった――……ここだけはどうしても理解できなかったんだけど、遠藤が優しい子だったと仮定したら、すべて合点がいったよ」

 茅ヶ崎さんは大きく息を吸った。

「遠藤は、鈴木のこともとしてみてたんだろう。あのサイテーで傲慢で自尊心の高いクズでも、一人の友達として、ね。その友達の悪事をばらすことはできないし、ばらせばあんたも悲しむと考えた。……本当にバカなやつ。鈴木クズを守るために、自分が犠牲になるなんてね……。まあ、所詮周りに合わせることしかできないやつは、そうやって自分がパンクしそうになってもどうにもできずにそのままパーン――爆発して崩壊するの。ほんとバカだよ……」

 茅ヶ崎さんは、悲しそうにつぶやいた。

 茅ヶ崎さんの推理は、驚くほど真実味を帯びていた。それはたぐいまれなる彼女の分析力、洞察力から導き出された結論なのかもしれない。

「茅ヶ崎さんは、どうしてそこまで解るの……?」

「同じ穴の狢だから。あたしもね、小学生のときまでは虐める側だったの」

 とてもそんなふうには見えない。

「でしょうね。だから鈴木の考えそうなことは大体わかる。だからあいつにいじめられたところであたしは何とも思わない。むしろあたしは、可愛そうだと思うよ。そういうことでしか、自分の優位性を示せない愚かで弱い人間だとね……」

 茅ヶ崎さんは本当に同い年タメなのだろうか。考え方が私よりもずっと大人びている。

「一人でいる時間が多いと、自然とこうなるもんよ。頭だけは達者にね。妙に理屈っぽいのも、そのせい。自問自答を繰り返して、繰り返して、繰り返して……思考の世界に浸っていると、生意気にマセていくの。……そのくせ、てんで自分のことになるとどうしたらいいか分かんなくなっちゃうんだけどね」

 最後の方は小声であまり聞き取れなかった。

「……でも私は、茅ヶ崎さんと違って知らないことがたくさんある……。遠藤さんの気持ちも、悩みも、気付いて……聞いてあげられなかった……」

「そうね。それだけは残念、本当に。今となっては聞くこともできない。鈴木の思惑通りにすべてことが運ばれてしまった……。今では、あの時男子に手引きしたのは遠藤ってことになってるからね。噂の出所は知らないけど、どうせ鈴木あいつよ。ほんと、ムカつく。犯人の男子も名乗り出ないしほんっと、サイアクだわ」

 遠藤さんがいなくなってしまった今、真実を知る術はない。茅ヶ崎さんが言っていることは、あくまで推論に過ぎず、どこまで真実かは判別できない。

 だが今となっては、私にとっては十二分に、それが真実足りえた。

 私は、遠藤さんを信じていた。いや、信じたかった。

 当然私も耳にしていたその噂を否定する根拠が欲しかった。

 遠藤さんは違う、そんなことしないんだって。周りを納得させられるだけの根拠を挙げられなかった。広がっていく噂に歯止めをかけられず、悪者にされていく遠藤さんを、次第に疑い始めていく自分が許せなくて――。

「わたし……どうすれば……いいかな…………?」

 また自己嫌悪に苛まれて、涙が溢れてきた。もう何度目だろうか。誰かを助けたくても、助けることが出来なかった……。

「わたし…………なにも……なにもできなかったよぉ……っ!」

 遠藤さんがいなくなって、私の日常は変わった。ふとした瞬間に、寂しさを感じるようになった。

 寂しくて、悔しくて、悲しくて、辛くて、情けなくて――。

 遠藤さんに、ごめんなさいも、ありがとうも言えなかった。

 遠藤さんは、私との約束を守ったのだ。

 誰も傷つけることなく、全部自分だけで背負って、どこかへ行ってしまった。

 今更になって、表彰台での「ありがとう」の意味が分かった。

――あれは、お別れの言葉だったんだ……。

 遠藤さんがいなくなってから、はじめて泣いた。心のなかにぽっかりと空いた穴の正体に、やっと気づいた。


「あんた、あたしのこと忘れてないでしょうね?」


 目の前に、ハンカチが差し出されていた。

「何もしてないなんて、嘘いわないで。目の前であたしを蔑ろにされるのは、いくらあんたでも赦さないよ」

「……ぐすんっ、……?」

「少なくとも、あんたのお蔭で、あたしはあいつらにいじめられなくなった。入学してからずっとあったいじめがぱたりと止んだんだ。どういう心境の変化かは知らないけれど、めんどくさい絡みをしてくることもなくなったし、あたしとしては、平和に一日を過ごせる場所ができたんだもの。嬉しいことこの上ないね。それは、他ならぬあんたのおかげだよ」

 茅ヶ崎さんは、そう言って、はじめて笑って見せた。

「茅ヶ崎さん……」

「なに?」

「……笑うんだね」

「人間だもの。笑うさ。嬉しいときくらい」

「……みつを」

「それっぽくなるからやめて、恥ずかしい。そんなつもりで言ってないから」

「あはは……っ」

 泣きながら笑って、変な気分だった。悲しかったはずが、次の瞬間には笑えて来てしまう。

 後ろ向きだった気持ちもどことなく晴れて、雨上がりの陽の光を浴びているような、心地よい気分だった。

「なんか、わたし……助けられてばっかりだね」

「そんなことない。あたしもあんたに助けられた。だから御相子様」

 何もしてないなんて、嘘いわないで。そう、茅ヶ崎さんは言った。茅ヶ崎さんには嫌われていたと思っていた。でも茅ヶ崎さんは、私を慰めてくれた。御相子様だと、言ってくれた。

 私も、茅ヶ崎さんを慰められた……のだろうか。あの時は一方的に拒絶されてしまったけれど。

「……そうだといいな……」

 そうあってほしいと願いながら、ひとりごちる。

「あ……それと、さっきはあんたのせいで遠藤が転校したって言い方したけど、結果論だから。運命の巡り合わせ……っていうの? べつにあんたが悪いっていうわけじゃなくて、もしもの話。たらればの話だから。そのことで傷つけてたら……その、ごめん」

 運命の巡り合わせ。確かに、あのときああしなければ、別の未来が待っていたかもしれない。トイレから出なければ、遠藤さんと一緒に居られる未来も。

 でも私は、出てよかったと思ってる。遠藤さんと離れてしまったのは悲しいけれど、ふてぶてしい顔しか向けてこなかった茅ヶ崎さんの、こんな表情を見られるのだから。

「ううん、だいじょうぶだよ。ありがとう」

「そっか……。じゃあ、あんたはこれからどうしたい?」

 私は……どうしたい?

「まずは……茅ヶ崎さんにその呼び方を辞めてほしい!」

「あんたのこと?」

「そう、それ」

「名前なんだっけ?」

「もう! 前に言ったよ!?」

 茅ヶ崎さんはけたけたと笑い声をあげた。

「冗談よ。二ノ宮さんね」

「優希だよ」

「知ってるよ」

「じゃあ、綾乃ちゃんって呼んでいい?」

「……べつにいいけど」

 茅ヶ崎さん――もとい、綾乃は少しだけ恥ずかしそうに、視線を逃れた。

「じゃあ、友達のあーくしゅー」

「そういうのはいいから」

「はい、おててとおててをつなぎましょーねー」

「はいはい、わかったからもう!」

 私と綾乃は、互いの手をしっかりと握りあった。

「はい、友達完了♪」

「あほくさ。どうでもいいけど、あんた――おほん、二ノ宮さんとあたし、周りからなんて呼ばれてるか知ってる?」

「ううん。なんて?」

「キューティーアンドポーク」

 美女と野獣ビューティーアンドビーストならぬ――。

「……ごめん、ちょっと笑っちゃった」

「失礼な」

「でもって、可愛いよ」

「ポークは子豚じゃなくて、豚ね。ついでに言うと豚は豚でも豚の肉だから。――って、なんであたしが解説しなきゃいけないのよ!」

「あははっ。でも子豚ってかわいいよね」

「それはフォローとして受け取っておく」

「本音だよ?」

「……あたしはこのままでいいのよ。好きで豚になってるから」

「そうなの? それならそれで、ほっぺぷにぷにできるしいいけど」

「やめろ鬱陶しい!」

「あはは、怒ったー!」

「まったく……コホン。で、本題から大分それたけど、他にしたいことは?」

 綾乃が咳ばらいをして真面目なトーンに戻った。

「あ、うん……私は、遠藤さんにもう一度会って、謝って、お礼を言いたい。できれば、鈴木さんも一緒に」

 遠藤さんには何度か電話をしてみたが、繋がることはなかった。アドレスも変更したのか、送信すらできなくなっていた。

「それは簡単なようで、難しいことだなあ。遠藤には会おうと思えば、またそのうち会える。担任に聞けば、転校先くらいは教えてくれるよ、たぶん。でも、もう鈴木と遠藤を会わせない方が良いと思う。少なくとも、鈴木が自分から会いたいって言い出さない限りは。遠藤も辛い決断をしただろうしね」

「そっか……そうだよね……気持ちの整理の時間が、必要だよね……」

「……まあ、すぐには無理でも、いつか時が経てば、それもできるかもしれない。あたしは鈴木と仲良くするなんてごめんだけどね! あたしはこれからもこのスタンスを変えるつもりはないし、鈴木もよほどのことがない限り変わらないと思う。これからも、きっと。でも、二ノ宮さんなら――」

 綾乃はもう一度私を見て、笑った。


「もしかしたら、あの鈴木でも変えられるんじゃないかなって思うよ」

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なきっつらにふぁみりー 真白流々雫 @mashiroluna

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