第3章

第9話 ~深淵~

 朝。ぼーっとした頭を起こすために顔を洗い、寝癖のついた髪をセットするべく鏡の前に立つ。昨日はあまり身だしなみに気を使わずに外出したが、今日は外見一つで交流の良し悪しが決まるといっても過言ではない。

「はぁ……」

 まずは制服に着替えなくてはならない。昨晩、就寝前にかけたアイロンのおかげでしわはほとんどない。だが問題はそこではない。とはいえ朝から溜息は良くないな。

「し、失礼します……っ」

 誰に言うでもなく断りを入れ、目を瞑りながら着替える。入浴に比べたら断然マシだ。マシなのだが、着替えている最中に下着が視界に入るだけで顔が真っ赤になってしまうのは相変わらずだった。

「はぁ……いつものことだけど、心臓に悪いよ」

 なんとか無事に着替えを終え、深呼吸。制服姿の優希と一日ぶりにご対面。

 髪が短ければ楽なのだが、優希の髪は肩ほどまで伸びている。無論こんなに長い髪を手入れしたことはない。昨晩はドライヤーでちゃんと髪を乾かさなかっただけで背後霊ハンマーに叩かれた。また適当にやると怒られそうだ。

 寝癖直しの霧吹き型トリートメントを使いつつ、傷まないよう丁寧に櫛で梳いていく。ユウナの髪に触れたことはないが、双子だからこんな感じなんだろうなと考えているうちに、見るも無残な寝ぐせ状態だった髪は予想以上に綺麗に流れ落ちて行った。

 櫛を置き、出来栄えを確認する。

「こんなもん……かな?」

 ついでににっこりとほほ笑んでみたりして、思わず鏡から目を背けた。優希の姿は今でも自分とは思えないほど人形のように繊細なつくりをしている。鏡の中の優希と目が合うだけで顔が火照った。

 今日も優希は可愛らしい。

 こういう場合、ナルシストにはならない、よね?

「おはよう」

 台所で朝食の用意をしていたユウナに声をかける。ユウナは制服の上にエプロンという、これまた乙女な格好をしていた。いいな、こういうの。

「あれ、優希どうしたの? こんな朝早く――ってその恰好、まさか」

「そのまさか。今日は一緒に学校行くからねっ」

 ふふん。そのために早起きしたのだ。予想以上にユウナが早起きだったので朝食を作る計画は失敗してしまったが。

「でも大丈夫かな……。優希、まだ完全に治ってないよね……?」

 ユウナの不安は当然のこと。俺の覚悟と意識によって結果的に症状が和らいでいるとはいえ、まだ対人恐怖症はご健在だ。学校に行けば嫌でも近い距離でクラスメイトと接しなければならなくなるし、予期せぬところで接触する危険もある。

 正直なところ、またあの感覚に襲われると思うと怖気付いてしまうし、大勢の人が集まる学校へ行くのは不安でしかたない。しかしそれではダメなのだ。何も行動しなければ時間は刻一刻と過ぎ去り、残された時間も減っていく。

 俺はその時その時、俺にできる精一杯のことをしたい。

 半分はユウナの、もう半分は優希のために。

「大丈夫だよ。一人でもなんとかできる。というかするよっ! 今の状態をいつまでも続けるわけにはいかないんだから」

 自信満々に言ってみたが、ユウナは手を動かしながらしばらく考え込んでいるようだった。

 朝食はユウナに任せて、一度部屋に戻り机の上に放置されていた数学の教科書を鞄に入れて居間に戻ると、二人分の朝食が食卓に並んでいた。

 傍らにいたユウナがエプロンの紐を解きながら言った。

「目、瞑って」

「どうしたの?」

「わたしは何もしないから。大丈夫」

 いきなりのことに戸惑いつつも頷いた。衣擦れの音がした後ユウナの気配が動きだすのを感じ、少しずつ動機が激しくなる。

 気配がだんだん近づいてくると、無意識にでも触れられることを意識して息が上がりそうになる。

「わたしは、何もしないよ……何も」

 目の前でユウナの声がした。言い聞かせるように、繰り返し呟いている。ユウナの言葉を信じ、深い呼吸を心掛ける。

 一歩、二歩と近付いてくる気配。微かに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 もうすぐそばまで来ている。ユウナの熱を感じる。何をしようとしているのかさっぱり分からないが、いろんな意味でドキドキする。

 発作による動悸なのか、異性を意識してのドキドキなのか判断が難しい。

「もういいよ」

 はっとなって我に返った時にはユウナは食卓の椅子に座っていた。

 …………あれ、今のはなんだったんだ?

「髪、見てごらん」

 髪? そういえば首元がやけに風通りがよくなったような――

「あ――っ!」

 セミロングの後ろ髪がまとめられて一本に結い上げられていた。

 洗面台の鏡で確認すると、優希のうなじが少しだけのぞけていて、また少しドキッとした。

「ありがとう、これすっごく可愛いっ!」

 素直に感想を述べると、ユウナも嬉しそうに笑った。


 二ノ宮ツインズが通う学校は、電車で二駅乗り継いだ先にあるらしい。むろん俺は場所を知らないのでユウナに聞いた。

 通勤ラッシュを回避するために早起きした甲斐があり、通学中は特にストレスが貯まるようなことはなかった。駅から出て大通りを越え、十五分ほど歩いたところで『照月てるづき学園がくえん』の正門へと辿り着いた。

 西洋風の門構えをくぐり、銀杏や楓、桜などが並んだ並木道をしばらく歩き、ロータリーの真ん中にある噴水を半周して反対側へ回ると、やっと照月学園高等部の正面玄関が見えた。

 学園内は静かだった。まだ登校時刻に時間があるので当然と言えば当然か。

「ふぅ……」

「そうそう。優希のクラスに、茅ヶ崎ちがさき綾乃あやのっていう子がいるんだけど、頼りになる子だから、何か困ったことがあったらその子に言うんだよ? もちろん、わたしにもね。それと、携帯の電源は入れて肌身離さず持つこと。具合が悪くなったら、すぐ保健室に行くこと。それから……えっと――」

 教室の前。別れ際にユウナが取り決めごとを再三にわたって注意してきた。

「『一人で勝手にいなくならないこと』だよね? もう耳にタコができるくらい聞いたから大丈夫だよ~」

 この注意を聞いたのは、家を出るときと電車の中とロッカーの前と、そして今の計三回。「あ、そうだ」という前置きから始まり、少しずつ増えていった結果今に至る。

「でも……」

 しゅん。ユウナが怒られた子供のように萎れた。

「あまり心配しすぎて、ユウナが他のことに手がつかなくなるのも困るし。それに、クラスに茅ヶ崎さんっていう頼れる人がいるんなら、ユウナも安心でしょ?」

「それは……まあ、うん」

 ユウナをうなずかせてしまうほど、茅ヶ崎綾乃は頼りになる存在なのか。どんな子かな?

「あ、お昼は一緒に食べようね」

「もちろん」

「あとは……えっと、えっと」

 ユウナの心配性もここまでくると重症かもしれない……。

「ユウナ、用事あったんじゃないの?」

 ずっと俺の前から離れる気配がないので促すことにした。なんでもユウナは生徒会の手伝いをしているらしく、今朝早かったのも近々行われる体育祭の準備があるからだとか。

「あ、そっか。うん。それじゃあ……またあとでね」

「うん、また」

 廊下の角に消えるユウナを見送り、俺はAクラスの掛札を見上げた。ちなみにユウナはHクラス。ユウナの教室は今俺がいる西校舎ではなく東校舎にある。渡り廊下を挟み距離が大分開いているため、何かあってもなかなかすぐには駆けつけることはできない。心配してくれるのは嬉しいが、逆に気疲れしないかこっちが心配になる。

 家でさんざん迷惑をかけた分、せめて学校では大人しくしなくては。

 そしてあわよくば、ここで人と接していくうちに優希を苦しみの渦から救ってあげたい。

「学校……か」

 おそるおそる取っ手に指をかける。中に誰かがいたらどうしよう。

 息が詰まりそうになり、一度深呼吸をしてからAクラスの戸を開いた。

 教室内を見渡す。教室には一番乗りだった。不安は杞憂に終わったらしい。

 まるで転校生の気分だ。いったいこれからどんな学校生活を送れるのか楽しみでもあるし、不安でもある。

 一つに結った髪がリズムよくはねるのを感じながら、窓際最後尾の席についた。

 転校生はまず、第一印象から。

 鞄から鏡を取り出し、笑顔の練習。贔屓目ひいきめ100%だが、笑っていれば誰とでも仲良くなれそうな気がする。

 鏡に向かってにらめっこしていると、教室のドアがガラガラと音を立てて開いたので慌てて鞄にしまった。入ってきたのは、男子だ。半分寝た状態で目を細め、鞄を背中に担ぐように持ちながら、気怠けだるそうに俺の隣まで来るとドカッと音をたてて座った。きっと誰もが声をかけるのを委縮してしまうような、「俺に話しかけるんじゃねえ」オーラを漂わせている。

「おはよう」

 相手は誰であれ、挨拶をしてみる。第一印象がだいじなのだ。

「あ?」

 男子は椅子の深くまでもたれかかり、ゆりかごのように椅子を前後にぶらぶらしながら、薄く目を開いて必要最低限の角度だけ首を動かしギロッと俺を睨んできた。

 目線が合い、相手からの返答を待ってみるが、彼は返す気配はなかった。それどころか、ゆりかごを中断して俺に向き直ると、やたらじろじろ見回し、

「お前、誰だ?」

 とガンを飛ばしてきた。

「わたしは二ノ宮優希だよ。……キミは?」

「あぁ?」

 名前を聞こうと返したつもりだったが、癪に障ったのかいきなり声を荒げた。

「……俺はレンだ」

 だがちゃんと自己紹介はするらしい。

「そっか。よろしくね、レンくん」

 笑顔で言うと、レンに鼻で笑われた。そこで会話が終了し、無言しじまが訪れる。何かを話しかけようにも、男子と何を話せばいいのか分からない。

 我慢比べにも似た静寂が続き、一分も経たないうちにレンが立ち上がりそのまま教室を出て行った。

 再び独りきりになってしまった。

「うぅむ……」

 なかなか最初から距離を縮めるのは難しい。

 教科書をパラパラとめくってはみたが、勉強する気にもなれず、教室を出ることにした。取っ手に手をかけた、その瞬間。

「ふぁっ――っ!?」

「あっ……」

 俺が開けるより先にドアが開き、びっくりして尻餅をついてしまった。

「どうしたの? 早く入ってよ」

 先に顔を見せた二人の間から、気の強そうな女子が顔を覗かせた。

「あぁ……」

 その女子はこちらを見るなり何かを納得したようにうなずき、

「かわいいパンツだね、ユウキちゃん」

 からかわれて初めて自分の態勢に気付き、慌てて立ち上がった。その女子は俺の無様な姿を嘲り笑うと、

「いこ?」

 二人を引き連れてさっさと自分の席へと向かった。

「あ、あの……おはよう」

 遅れて挨拶をしてみるが、最初に鉢合わせした子がこちらを一瞥したくらいで、挨拶が返ってくることはなかった。

(無視、かぁ。結構くるな、やっぱ)

 こちらの存在など意にも介さず、すぐに別の話題で盛り上がる三人。明るい返しを期待していただけに、この反応は想定外だった。

「おはよー」

「おは――」

「「おはよー」」

 続けて入ってきた女子生徒も、俺の方には目もくれずに三人の輪に入っていく。

 あれ……?

 その後も何人か教室に入って来るが、皆一貫して無視を貫いていた。いや、無視というよりも、気付いていないとでも言う風に、こちらを気にかける人は誰一人としていなかった。

 なんだこれ。上手く状況が飲み込めない。

 ドンッ。

 急に視界が揺らぎ、足元がふらついて何かにぶつかった。

「あ、すっ、すまん……」

 ロッカーに体を打ち付けた衝撃で中に入っていた掃除用具が大仰に音をたてて床に散らばり、気付いた時には多くの生徒がこちらを見ていた。

 見渡す限りの視線。

 目。目。目。

 教室が静まり返り、全員の視線が注がれていた。

 空気が重みを増していく。それにつれて、胸がどんどん締め付けられていった。

「っ……!!」

 喉の奥から何かが込み上げて来るのを感じた途端、口元を手で押さえながら教室を飛び出した。

 トイレに駆け込み、洗面台にたどり着いた瞬間に嗚咽おえつし、むせかえる。

「……ぇほっ、ごほっ――はぁっ、はぁっ」

 ずっと息が止まっていたらしい。酸素を求めて肺が過剰運動を起こし始める。脚に力が入らない。壁に背中を預けて何とか支えた。

 油断するとすぐに意識が飛んでしまう。洗面台の縁、仕切りの板など手当たり次第に掴めるものを掴む。とにかく必死に痛みを紛らわすために指先に力を込める。

 胸の奥が苦しい。喉の奥が痛い。何かが呼吸の邪魔をしている。息を吸いたい。痛い。吸えない。痛い。

 前回よりも激しい身体の暴走が続いた。何かを考える余裕なんてもはやなかった。

 なんとか意識が飛びそうになるのを耐えることはできたが、依然として苦痛の時間は続く。

 やがて狂気の時間が過ぎ去り、呼吸が落ち着いてくるとワケも解らぬまま笑いが込み上げてきた。

「ふっ……ふふふっ……」

 しかし笑いはすぐに涙へと変わり、静かに涙が頬を伝い落ちていくのが分かった。

 笑っていても、泣いていても、恐ろしいくらいに心が空っぽだった。そこに心だとか感情の類は存在しない。只々ただただ止め処なく涙が溢れ出てくる。

 そして、真っ白な頭の中に。

 ある言葉が浮かんだ。


 ――死にたい。


「――――っ!?」

 眼下に広がる光景を前に絶句した。一寸先は闇ならぬ、空だった。眼下には広大な照月学園の敷地を見渡せる。俺はなぜこんなところにいるんだ……?

 記憶をたどるが、頭がズキズキして思い出せない。教室にいたところまでは思い出せる。その後は……。

「ユウキ、何してんの!?」

「え――」

 屋上の鉄扉が勢いよく開く音。振り返ろうと足元から意識が逸れた、刹那。

 身体が宙を舞った。

 重力の感覚を見失い、今まで立っていたはずの屋上が真下に見えた。

 地球の重力の向きが変わったのかと錯覚するような反転。

 やがて、景色が。

 落ちる――。


 ♪


「ちょっと奥さん、聞いた? 近所のあの子の話」

「聞いたわよー。全然そんなことするような子じゃなかったのに、怖いわねーほんと」

「いい顔してた手前、裏では虐待があったんじゃないかってウワサよ」

「あらそうなの? 人は見かけによらないってホントね」

「ほんとよー。……あらやだ、例の子こっち見てるわよ」

「まあ、怖いわね……」

 ――あることないことをうそぶく近所のおばさんたち。

「ごめんね、二ノ宮さん。お母さんから、二ノ宮さんとはもう関わるなって……進学先も二ノ宮さんとは違う場所になったの。別に私は何とも思ってないんだけど、一緒にいるとこ見られたら他の子にもなんて言われるかわかんないし……ごめんね」

 ――友情を誓い、未来を語り合った大切な友達。

「ねえ、なんであいつが学校にいるの?」

「さぁ……? ちょーイミフなんですけど」

「マジ何考えてるかわかんないよね。怖すぎ」

「推薦で受かってた学校もなしになったんだってな。あー、殺人者と同じ高校になんなくてよかった」

「あいつと話してたらこっちまでおかしくなりそうだよな。正直学校くんなって感じ?」

「ハハハハハ!!」

 ――三年間の思い出と時間を共有したクラスメイト。

「二ノ宮、何か辛いことがあったらいつでも先生に言うんだぞ? 先生は二ノ宮の味方だからな」

「あーあ、ほんと俺ついてないですよ。初めて受け持ったクラスに、まさかあんな子が来るなんて……もう少しで生徒と先生の感動の卒業式が迎えられたってのに」

「あら、あなたさっきは味方だとかどうのこうの言ってたじゃない?」

「よしてくださいよ。あんな問題児は本当は相手にしたくないんですから。そうしたほうが、先生っぽいかなと思って言っただけです」

 ――親身に取り入ってくれ、信頼していた担任の先生。

「ねえ……どうして…………何か言ってよ…………ねぇ――っ!! どうしてあんなことしたの……どうしてよ…………ユウキ――ッッ!!」

 ――大好きなユウナ。

「ユウキ……ごめんね」

 ――そして、お母さん。

 みんな、私から離れていく。今まで傍にいてくれたはずの人たちが、みんな……。

 今までの思い出も、誰かと過ごした幸せな時間も何もかもが、薄っぺらなはりぼてに変わる瞬間を見た。

 私に笑いかけてくれていた人も、手を差し伸べてくれていた人も。

 みんな嘘だった。何もかも、すべて。

 私の、記憶も。心も。

 後に残っているのは何?

 ただ深い深い、闇が広がっているだけ。

 私は、もうここにはいない。

 ならばなぜ、まだ生きているの?

 そうだね。もう、いらない。何も。

 闇に堕ちていく。

 どこまでも、果てしなく。

 堕ちていく――。


 ♪


「ユウキぃ――っ!!」


 落ち掛けた身体が空中で制止した。

 伸びきった右腕に全体重の負荷がかかり、苦痛に顔を歪めてその先を仰ぐ。

 咄嗟に右手をへりにかけることで落ちるのを免れていた。だが少女優希の筋力では、それも長くはもちそうにない。

 左手でつかもうにも、右手に更なる負荷がかかり伸ばしきれない。またしても非力な腕力が仇となった。

「ぐっ……――」

 コンクリートの地面が遥か下に見える。地上五階の高さともなれば相当な距離がある。ここから落ちたら間違いなくただでは済まない。下手すると、たぶん、間違いなく本当に死んでしまう。

 落ちたくない。そうは思うが、右腕はもう耐えられそうになかった。

「ユウキ……――ユウキっ!! 今行く、もう少しだからね!!」

 と、一人の女子生徒の声がする。ガシャガシャと鉄柵を慌ててよじ登る音がしたかと思うと、血相を変えた少女が顔をのぞかせた。

「待ってて……!」

 へりを掴んだ右手を引っ張り持ち上げようと試みるが、俺の身体は持ち上がらない。いくら軽いとはいえ、人ひとり分の幅しかない屋上の縁で十分な力を発揮できるほど、少女は力持ちではなかった。何度か体勢を変えて試みるが、それでもやはり持ち上がらなかった。

「ユウキ、つかまって――ッ!!」

 少女は上半身をギリギリまで乗り出し、俺が左手でつかみやすい位置まで手を伸ばしてくれた。

 左手で掴み取ることができたなら、あるいは……。

 人のてのひら。

 あれだけ掴み損ねたというのに。

 差し伸べられた手に、触れることなんてできるのか……?

 逡巡。そのわずかな時間で、指先が限界を迎えそうだった。この時点でほぼ余力は残っていない。筋肉が痙攣をおこし始めていた。


「お願い、ユウキ――ッ!!」


 頭上から降り注ぐその言葉を聞いて、最後の力を振り絞り左手を伸ばした。

 これを掴み損ねれば、落ちる。

 はたして俺は自らの手で、しっかりと少女の手を掴むことに成功した瞬間、限界を迎えた右手が縁から離れた。

 少女が口もとを緩ませた。

 静謐な顔立ちの少女に見覚えはない。だがすぐに分かった。

「茅ヶ崎綾乃……」

 呟くと、彼女は引きつった笑みを浮かべた。

「お、おう……ッ!! 今あげるから、しっかり摑まってるんだよ……ッ」

「うん……!」

「せ、えのッ!!」

 綾乃が掛け声をあげ、身体がゆっくりと引き上げられていく。俺は宙を彷徨った右手でもう一度縁をつかみ、力を込めてよじ登った。

 そして、綾乃の力を借りつつなんとかよじ登ることに成功した。

「わわっ、あぶないあぶないっ!!」

「わふっ!!」

 が、再び落ちそうになり、二人で流れるように綾乃と抱き合う形で屋上の縁に倒れた。

 や、やわからい胸が……!!

 離れようと手を床について立ち上がろうとするが、綾乃が手を背中に回して放すまいと抱きしめてきた。

「ちょっ――ふみゅっ!?」

「間に合ってよかった……ほんとに……」

「ふもむぅっ!!?」

 いやいや綾乃さん、別の意味でこれは苦しい、息ができない――ッ!!

「むふーっ! むーっ!」

「あ、ごめん、忘れてた」

「ぷはぁっ!! ……はぁー、死ぬかと思った」

 綾乃から解放され、新鮮な空気を吸いこむ。

 右手がじんじんと痺れていることに気付き、生を実感した。

「落ちて死ぬより、私の胸で死んだ方がマシじゃない?」

「そりゃあまあ……って言わせないでよ!!」

 あまりにも綺麗な顔でおどける綾乃の発言はジョークなのか本気なのか判別に困る。

「よい、しょ――あれ」

 立ち上がろうと脚に力を入れるが、うまく力が入らずに尻餅をついた。再度挑戦してみるも、神経が麻痺していてやはりよろけてしまう。

 手すりに手をつきながらやっと立ち上がることが出来たが、見事に膝が笑っていた。

「そんなフラフラしてたら、また足滑らせるよ」

 隣では綾乃が足を空に投げ出して座っていた。綾乃の言う通り、一歩踏み間違えれば今度こそ落ちてしまいそうだ。

「どのみち一限の授業はもう間に合わないから、まあゆっくりしてけって」

 床を手でペチペチと叩き、座るよう促す綾乃。その時ちょうど一限目開始のチャイムが鳴り渡った。

 俺は綾乃の隣に少し距離を置いてから、彼女に倣って座った。

「茅ヶ崎綾乃さん……だよね」

 確認の意味を込めて尋ねると、綾乃は苦い顔をした。

「なんでフルネーム? 綾乃でいいよ。あやのんって呼んでくれてもいいよ?」

「あ、あや……茅ヶ崎さん、その……ありがとう」

「どういたしまして」

「どうして、ここが解ったの……?」

「ただならぬ様子で飛び出していくのを見たっていう子がいたから、なんとなくそうかもって思って」

「べ、べつに飛び降りようとしたわけじゃないよ……!」

 変な勘違いをされかねないので、これだけは訂正しておきたかった。

「そうなの?」

「……たぶん」

「なんじゃそら」

 正直なところ、自分でも良くわかっていない。優希として生活している間に記憶が飛ぶなんて初めてのことだったから。

「うん。でも、そうなのかもね」

 綾乃が俺の顔を見て何かを納得したように、一人で頷いた。

「……一人で納得しないでよ」

「ふふっ、なんていうのかな。もしユウキが本当に飛び降りようとしていたのなら、今こうやって普通に話すこともできないんじゃないかなって」

「……どーゆーこと?」

 尋ねると、綾乃は「んー」と少し考えるそぶりを見せてから答えた。

「今から死のうとか、死にたいって考えてる人には、かげがあるんだ。だけど、今の優希には前と違ってそういうのがないっていうのかな……」

 人が死地に赴くにはそれなりの理由があるわけだし、片足を突っ込んだところで引き留められたとしても、その余韻を残さずに生活できるとは思えないのだと綾乃は語った。

 なるほどたしかに俺は一切そんな精神状態を持ち合わせていない。死にたいなんて思うもんか。

 頭痛も治まっているようだし、健康状態は悪くなかった。

 よくよく考えれば俺自身に起きている発作なのに、俺は今まで異常なまでに冷静に対処し、客観的に制御ができていた。それはつまり、優希の負の感情に屈さない俺自身の精神を保つことで、心の安寧を得られているということになる。しかしそれはまた俺と優希は別々の意識で存在しており、俺は優希にはなりきれていないということでもある。

 しかしさっきの一件は違う。

 俺は負の感情に負け、自制を失くして記憶に穴を空けた。危うく自らの身を投げるところまでに制御ができなくなっていた。もしも優希が俺に身体を渡す前に死を考えていたのなら――本当に先ほどの行動が優希本人による意思によるものなのだとしたら。

 俺は負の感情に支配されてはいけない。俺が負けてしまったが最期、優希は自ら身を投げ出すだろう。

 いったい何が彼女をそこまでさせるのか。

 いよいよ本格的に、優希の過去と向き合わなければいけないのかもしれない。

「茅ヶ崎さんって……わたしと友達、なんだよね?」

「え?」

「あ、その……実は、わたし記憶喪失で……昔のことをまったく覚えてないの。……茅ヶ崎さんのことも」

「ユウナから聞いてたけど、本当なんだ……」

「うん。……ごめんなさい」

「いいよ。気にしないで。それで?」

「あ、うん。だから……記憶を失くす前のわたしに何があったのか、茅ヶ崎さんが知っていることを教えてほしい」

 ユウナに聞くのは色々と躊躇ためらわれることでも、友達である綾乃にならば相談できる。直接的に関わりがあるユウナに過去を掘り返させるのは、傷つけてしまいそうでできなかった。

 お願いをすると、綾乃は頷いてくれた。

「……私が教えられることは限られてるけど、知ってることは教えてあげる」

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