第8話 ~心の翳~

 それから散らかした居間を片付け終えて夕餉ゆうげの時を迎えられたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。終わりが見えてきたところで梱包作業を俺に任せると、ユウナは夕食を作るために立ち上がった。俺はエプロンをつけて台所に立つユウナの後姿を眺めながら手を動かした。

 フライパンで何かを焼きはじめたあたりで部屋に良い匂いが充満し始める。「なに作ってるの?」と尋ねた俺にユウナは「すぐにわかるよ」と答えた。べつに答えを聞かなくてもなんとなくわかっていたが、いてもたってもいられなかった。

 同じ屋根の下、ユウナに手料理を作ってもらうというのは、なんとも感慨深いものがあった。

 ふっ、と。新田の時にはなかった、この感じ。はて、これはいったいなんだろう。

 ユウナの後姿を見つめていたら、どこか懐かしくなる。いつか遠い昔に、一度見たような光景だった。

 フライパンで焼く音。箸をフライパンに打つ音。水の音。シンクが鳴る音。部屋に漂う香ばしい匂い。鼻歌交じりに手を動かす彼女。そして料理が出来上がるのを今か今かと待っている自分。

 目を閉じていても、彼女の存在が鮮明に浮かび上がってくる。昼間とは違う、生活感のあふれた空間が心地よかった。

 ほどなくして料理が出来上がり、もう少しで片付け終えそうなところだったが「冷めないうちにたべよ」と催促され、食卓についた。

 ユウナが作ってくれたのは、ケチャップで可愛らしいネコの顔が描かれたオムライスとトマトとレタスのサラダ。

 今日一日中動き回り、今の今まで部屋の片付けをしてさらに体力を消費し、HP《ひっとぽいんと》がほぼゼロになりかけているところに、とっておきのご褒美イベントがやってきた。

 椅子に座り気が緩んだとたん。

「ユウキ……どうして泣いてるの?」

「え?」

 そうユウナに指摘されて初めて、涙を流していることに気付いた。

「なんでだろう……」

 確かにユウナの手料理は嬉しかったが、まさか泣くとは自分でも思わなかった。未だになぜ涙を零しているのか理解できていない。

 ただ、なんとなく。

「……家族で料理を食べられて、嬉しいんだ」

 独り言のように呟いた言葉に、ユウナも頷いた。

「ずっと一緒に食べてなかったからね。わたしもまたユウキと食べられて、嬉しいよ」

 真っ直ぐにそう言って微笑んでくるユウナ。目元に溜まった涙を拭って、初めて彼女から目を逸らすことなく向き合うことができた。

 微笑みかけると、ユウナはこくんと頷いた。

「それじゃあ」

 ユウナの合図に合わせて、手を合わせる。

「いただきます」

 同時に言って、スプーンを手に取った。

 ネコの顔を崩すのがもったいなく、端からちまちまとスプーンですくって運ぶ。

「ん~、ぅうまぁ~い!」

 案の定、ユウナの手料理は美味であった。口に入れた瞬間にふっくらと広がる卵の甘味に飢えた舌を刺激され全身が震えるのを感じた。

 そういえば、オムライスは優希の大好物だと、ユウナが言っていたっけ。

「このネコの絵、優希が教えてくれたんだよ」

 じーっとネコの絵を見つめていたところへ、ユウナが教えてくれた。

「そうなんだ」

 むろん俺が教えたことはない。

「うん。優希に比べたら、まだアレだけど……今日は上手く描けたかも。えへへっ」

 ユウナは少し気恥ずかしそうに目を逸らしながら、頬を人差し指で掻いた。

 疲れで理性が吹っ飛んでいたのかもしれない。あるいは、ユウナの手料理を食べた幸福感から、雰囲気に酔っていたのかもしれない。


「ユウナらしくて可愛いよ」


「え?」

 まるで予想外の返答を得たように、目を丸くするユウナ。

「……あ」

 ユウナの反応を見て自分が発した言葉を思い返し、俺の頭の中は一気に沸騰した。

「えっ、あ、ぁいいやぁこれはそのなんていうか別に深い意味はなくてただ純粋にネコも可愛いけどユウナも可愛いなって思って――ってあぁ何を言ってんのおおぉぉっ!!」

 体中から変な汗が噴き出てきた。恥ずかしすぎてもうユウナを直視できない。

 どこの誰が家族に向かって口説くかのように「可愛いよ」なんて囁くか!!

 いや家族によっては俺が知らないだけでそういう行いも日々行われているのかもしれない!? そんな家族あってたまるか!!

「だから、その……べつに変な意味はなくてですねっ、あの」

 そもそもこうやって動揺しなければごく普通の褒め言葉として受け取ってくれたはずだ。だとしたら弁解するのも不自然な行為ではなかろうか!?

「もう、ダメっ! あはは――っ!!」

 暴走して狼狽する俺のすぐ前でユウナが腹を抱えて笑い始めた。

 歯止めなく笑い転げるユウナをよそに、俺はユウナが倒しそうな牛乳の入ったコップを避難させ、椅子の上で縮こまる他なかった。

「穴があったら入りたい……」

 そのまましばらく笑い続けたユウナが落ち着くころには、俺は一足先に食べ終えていた。さすがに家事を任せっきりなのは申し訳ないので皿洗いを買って出ることにした。

「なんかごめんね、優希が可笑しすぎて……」

 食べ終えた食器を運んできたユウナの目にはまだ涙が溜まっていた。先ほど流した涙とは別物なのは喜ばしいことだが、あまり釈然としない。

「何もそこまで笑わなくても……」

 洗い終えた食器を布巾で拭きながら、ふてくされてみせる。

「しゅまんね。はい。ここ置いとくね」

 少し離れた位置に、食器を置くユウナ。

「……いいけど」

 ユウナの分の食器を容器に溜めた水に浸す。台所と廊下の仕切り部分の柱によりかかったユウナが話しかけてきた。

「優希、なんだか別人みたい」

「―ーあぶなっ!!」

 いきなりの核心を突く発言に危うく皿を落としかけ、間一髪のところで受け止めることに成功する。

「そ、それってどういう意味?」

 なるべく平静を装いながら、あくまで素知らぬ顔で問う。するとユウナは明後日の方を向いて、ゆっくりと語りだした。

「わたしね、今でも信じられないんだけど……優希が前みたいに明るくなってくれてよかったって思ってるんだ。優希にどんな心境の変化があったかは分からないけれど、前みたいに笑ってくれるし、普通に話すこともできる。触れることは出来ないままだけど……でも、少しずつ前のように戻れてる気がして、嬉しいんだ。えへへ」

 自然と笑みをこぼし、はにかむユウナ。俺はこびりついた汚れをとるふりをして、さりげなく目を逸らした。

「きのう優希がいなくなった後でね。優希の変わりっぷりがすごかったから、もしかしたら別人なんじゃないかってね、思ったの。前の優希からは考え付かないようなことをするし、すごく活動的だし。だから……ほんとはね、少し怖かったんだ。もうわたしの知る優希じゃないのかもしれないって……。探したところでまた避けられるだけかもしれないって……」

 訥々とつとつとユウナは自分の想いを口にする。

 俺が何も考えずに自由奔放に動きまわっていた時、ユウナはいろんなことを考えていた。

「だからわたしね、優希をほっとこうって……思っちゃったんだ」

 真正面から堂々と、だがどこか切なく微笑むユウナ。だが、その顔はすぐに沈んでいく。

「でもわたしには、優希がいなくなることの方が……ずっとずっと怖かった。このまま会えなくなるのかもしれないって考えたら、一人でいるのが怖くてたまらなくて……。優希はどこを探してもいないし、電話しても全然繋がらないし」

 デコピンをつくって構えてみせるユウナ。

「それは本当にごめん」

 謝ると、ユウナは小さく首を振った。

「やっとユウキに会えたとき、本当に嬉しかったから。それで、分かったんだ――優希は、優希なんだって。記憶を失くしたからって、何かが変わるわけじゃないもんね」

 けがれを知らない透き通った瞳が覗く。だが俺は、ユウナのその真っ直ぐな微笑みと向き合うことは出来なかった。

 なぜなら、本当の優希は今ここにいない。

 ユウキはユウキ。それは確かにそうだが、今ここにあるのは贋作フェイクだ。


「わたしは昔の優希も好きだけど、今の優希ももちろん、大好きだよ」


 まるで俺の心の声を読んだかの様な彼女の言葉に思わずユウナの顔を見る。

 彼女は笑っていた。だがそれは今まで見たことのないくらいに儚げで、俺の意識が彼女に釘付けになってしまった。

「だから、無理して変わろうとしなくてもいいんだよ。思い出すために、頑張らなくていいの」

 彼女の言葉が、俺の心の根底にこびりついていた何かを、そっと溶かしていく。

 これは、大塚祐樹のキオク。

 あの日からずっと失くしていた、誰かに必要とされている実感。なんてことはない、些細なつながりで良かった。それがどんな形であれ、自分に向けられているものであるならば。

 偽りの家族、偽りの感情、偽りの自分……。

 だからこそずっと本物を求めていた。

 空虚で空白だらけの俺の人生で、初めてできた本物の彩。

 どれだけ辛く苦しいことがあっても屈せずいられるのは、支えてくれる存在の大きさ故だ。

 どれだけ自分が分からなくても、存在なんて証明できなくても。自分のために生きられなかったとしても。

 俺は誰かのために生きることならできる。

 だからせめて、何も持っていない自分の命を賭してでも。

 たとえば、目の前で優しい笑みをたたえる天使のような少女のために。

 めぐりめぐって注がれているに過ぎないものかもしれない。

 それでもかまわない。

 ――贋作は、本物の代わりとして振舞うことができる。

 それ以上の存在意義は必要ない。俺はもうすでに、生きていた時以上のものをもらっているのだから。

「いつか……いつか絶対ユウナと触れ合えるようになる。今はできないけれど、それでも、必ず……!! ユウナの傍も離れないし、嫌いになったりもしない。だから……安心して、ユウナ――わたしが、約束する」

 今はこんなことしか言えないが、いまだ笑顔の裏にかげを隠し持っているユウナの気持ちを少しでもやわらげられるのならば。

 気付いたら俺は部屋に戻ろうとするユウナの背中に叫んでいた。

 ユウナは立ち止まり、一瞬だけ踵を返すそぶりを見せたが、振り向くことなく自室へ戻っていった。

 彼女の心の中でいったいどんな葛藤があるのかは想像すらできない。

 今まで俺に見せてきた笑顔だって、優希のためを思ってのものだ。本心から笑っているものは、そう多くはない。

 ユウナには、強いられることなく心から笑ってほしい。

 そのためにも俺は優希として。

 いったい何ができるだろうか……。

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