【二】

 さらさらと頬を撫でる風に心地よさを感じ、うっすらと覚醒した頭が、再び眠りの世界へ落ちそうになる。

 なんとか意識を引き戻し、重い瞼をゆっくりと開けると、周囲が思いのほか明るいことに気がついた。

 風に乗って運ばれた葉の匂いをたどって顔をそちらへ向けると、部屋の窓が半分ほど開けられ、その向こうに生い茂る木々が揺れているのが見えた。

 葉の隙間からは太陽の光がきらきらと注ぎ、陽の高いことを教えてくれる。

 凌幻はしばらくの間、無心でそれを眺めていた。

 すると、部屋の障子がすうっと開けられ、砕稜が盆を手に入ってきた。

「あ、なんだ、もう起きてたんですね」

 こちらに気がつくと、皮肉も含めた言い方で声をかけてきた。

「ああ、ついさっきな」

 砕稜はふうんと生返事をしながら凌幻の枕元に座ると、盆を自分のすぐ脇に置いた。

 盆の上には、濃い緑色の液体が並々と入った、少し小振りな椀が乗っている。

「兄上。薬湯を持ってきたんですが、起きられますか?」

 その言葉に促されるように、ゆっくりと上体を起こそうとすると、途中で見かねたのか、砕稜が背中を支えてくれた。

 珍しいこともあるものだと弟の顔を見やると、どこか居心地の悪そうな表情をしていた。

 大勢いる大天狗・幻濤の子らのなかで、凌幻と砕稜はもっとも歳が近く、いつも一緒にいたため、ほかの兄弟と比べて仲が良く絆も強い。

 あのとき、凌幻が倒れて気を失うほど無理をしていることに気がつかなかったことを、内心で反省しているのだろう。

「悪いな」

 こちらも照れ隠しのため遠回しに礼を述べると、砕稜は顔を逸らしてしまった。

 たまには、可愛らしい反応もするのだな。

 心の中で呟くと、砕稜がおもむろに顔を上げた。

 そして、薬湯入りの椀を差し出してくる。

 その色と漂ってくる匂いに、頬が引きつる。

「これ、は……誰が煎じた?」

「俺」

「っ、なっ」

「……ではありません」

「は?」

 肯定かと思いきや否定され、思考回路が一時停止する。

「だから、俺ではありません」

 もう一度、言い聞かせるような弟の言葉に、ようやく理解する。

 では、誰が……?という心の声に対して、回答はすぐに返ってきた。

「慶華殿です」

 その名を聞いた瞬間、納得と同時に長い溜め息を吐いた。

 慶華は、天狗随一とうたわれるほどの美貌びぼうの持ち主だが、彼女の利点はそれくらいしかない。

 黙って微笑んでいれば牡丹ぼたんとも芍薬しゃくやくとも百合とも思えるが、いざ口を開けば口調は砕け少々荒い。公の場に出ることも多い身ゆえ、そのときばかりはまるで別人の皮を被っているようである。

 空を翔けるのも男並みで身体を動かすことや、たいていの女ならば誰しも嫌がることも好んで行う。

 そんな男らしい彼女ゆえ、当然、苦手とするものがある。家事だ。

 特に料理においては、ある意味天才である。

 天狗の妻となるにはいくつかの条件があるのだが、その一つに家族や配下たちの『母』となること、という項目がある。

 内容はそこからさらに細分化されるが、一つには食事を作り活力を与える、というものである。

 慶華は、どこをどうしてそうなるのかはわからないが、料理をさせると見目も悪く、味は壊滅的という料理とすら呼べないものしか作れないのだ。

 また、洗濯をさせると着物はぼろぼろになり、掃除をさせると物を壊すというおまけ付き。

 凌幻の父は、彼女の容姿と猫を被った外面の良さに落とされ、息子の妻に迎えたがっているが、内情を知っているこちらとしてはいい迷惑だ。

 彼女を妻にと望む者は、よほどの物好きだろう。

 凌幻自身、まだ妻を迎えるつもりもないが、慶華を妻にするくらいなら、人間のほうがまだマシだ。

 だが、薬湯だけはどんなに不味くても効き目があった……気がする。

 受け取った椀に口をつけながらぼんやりと考えていると、『人間』という言葉にはた、と思い出した。

「そうだ、あの人間! あのときの人間の女はどうした?」

 急に元気になった兄に多少なりとも驚きながら、砕稜は答える。

「ああ、それならいまは戒蓮が引き続き、そばについていますよ。兄上より数日早く意識が戻ったと報告が……」

 女の意識が戻った。

 それを聞き、凌幻は彼女のところへ行かなければ、と自分でも理由が分からぬまま無意識に焦った。

 話の途中にも関わらず、椀の中身を一気に飲み干すと、まだうまく力の入らぬ身体をおして立ち上がろうとする。

 片膝を立てたとき、視界が大きくぐらりと揺れた。

「うっ……」

 なす術もなく、そのまま後ろの布団へ倒れると、苦笑している砕稜の顔が覗き込んでいた。

「こうしてまた無茶をすると思って、強くて即効性のある眠り薬も混ぜてもらってたんですよ。まだ傷も癒えていないんですから、もうひと眠りしててくださいね、兄上」

 砕稜め、出来すぎなんだ、お前は……。

 言いたいことは山ほどあるが、押し寄せる睡魔に抗えるはずもなく、凌幻はその魔の手に身を任せるほかなかった。



                     ***




 次に目覚めたときは、あたりはあのときと同じような闇に包まれていた。

 どのくらい眠っていたかわからないが、そばに砕稜の姿も見当たらない。

 傷はまだ鈍く痛んだが、なんとか体を叱咤して起き上がると、よろよろと別邸へと向かった。

「――で、――――すよ」

 近くまで来ると、話し声が聞こえた。

「……戒蓮?」

 障子の外からそっと呼び掛けると、戒蓮の驚きの声がした。

 バタバタと駆け寄る足音のあと、目の前の障子が勢いよく開け放たれる。

「凌幻兄者!」

 口を真一文字にして、瞳に溜まってくる涙をやり過ごそうとしている戒蓮の顔を見て、思わず呆れにも似た笑いが漏れる。

「兄者っ、あにじゃー……!」

 凌幻を呼びながらひしっと抱きつく。

 それはまるで、生き別れた兄弟の感動の再会を彷彿ほうふつとさせるようだった。

 仕方のないやつだなと思いながら、戒蓮の背中をぽんぽんと優しく叩く。そして、ふとここに来た理由を思い出し、彼の肩越しに人間の女の様子を伺う。

 すると彼女は二人の姿を見て、ふわりと微笑んでいた。

「……ほら、戒蓮。もういいだろう? 人間に笑われるぞ」

 耳の後ろから鼻をすする音がしていたが、凌幻は聞こえていないふりをして、自分から心配性な弟分を優しく引き剥がして、女と向き合った。

「見苦しいところを見せて申し訳ない。なにぶん、こういう質だからな、慕ってくれているのはありがたいんだが、少しばかり過剰でな」

「あっ、兄者、それはないですよ! 私がどれだけ……!」

「ところで、怪我の具合はどうだ?」

 戒蓮の反論をいつものようにさらりと聞き流すと、女に問う。

「おかげさまで、軽い捻挫と小さな擦り傷だけで済みました」

「爆発の衝撃で気を失っていたようだが、それも大事ないか?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 その言葉通りすっかり良くなったようで、女は綺麗に畳まれた布団の横に座していて、凌幻に対して深々と頭を下げた。

「それなら良かった」

「ですが、さすが凌幻兄者ですよ! あれだけの大怪我だったのに、ものの数日で起きてこられるんですから! それにこの山の結界だって、まったく弱くならない。もうここは、兄者なしではいられませんね!」

 戒蓮の言葉に、女がはっとして凌幻を見やる。

 こちらをおもんぱかるような視線を受けて、余計な心配をかけてはならないと察した凌幻だが、弟分はそれにまったく気がついていない。

 なおも親愛なる兄者を誉めちぎるが、こちらを見つめる女の不安そうな表情に、凌幻が口を開いた。

「さきほども彼女に話していたのですが、兄者は――」

「戒蓮。無駄口を叩く余裕があるのなら、あの三つ子を呼んできてくれ」

 その言葉に、戒蓮の表情がゆっくりと嫌そうにゆがむ。

「え……あのガキどもを、ですか?」

「そうだ。お前の相手だけでは、彼女も飽きるだろうからな」

 言いながらにやりと笑うと、からかわれたと知った弟分は少し膨れながら部屋を出て行った。

 後ろ姿を見送ると、女と向かい合うように腰を降ろす。

 閉じた格子窓の向こうから、夜風に擦れる葉の音が聞こえる。

 ゆっくり一呼吸分置くと、落ち着いた低めの声で凌幻が話し出す。

「いろいろと話さねばならぬこと、聞かねばならぬことがあるのだが……まずは名乗ろう。俺はこの黒栄山こくえいざんの主、凌幻だ。他に、弟の砕稜がいる。戒蓮にはお前の世話を頼んでいたが、あれは俺の配下にあたる」

 女は静かに、そして真剣に話を聞いている。どうやら、馬鹿ではなさそうだ。

「では問おう。お前の名は?」

沙夜さや、と申します。生まれも育ちも穴蔵あなくらでございます」

 涼やかだが、芯のあるしっかりとした声で答えた。

 どこか聴き入ってしまうような不思議な魅力がある。

「穴蔵……というと、佐上藩の領内だな。あの藩主は我ら妖怪勢との定期的な交流を望んでいる。ここからだと、山一つ超えた先の町だ」

「左様でございます」

「そこの女がなぜ、この山の近くにいた? 女の身では、山を超えるのは簡単ではない。ましてや、そのための装備でもなかったようだからな」

「…………」

 女――沙夜は沈黙した。

 確かに、沙夜の姿は旅装束ではなかった。

 手荷物は少し多いようだったが、着物は、どこか近所へ出かけるような普段着だったのだ。

「私はいま、藩主、佐上様のお屋敷にてご奉公させていただいている身にございます。黒栄山付近に別邸があり、そちらの手入れのため、数日前から滞在していたのですが……」

 沙夜の話によれば、藩邸にて女中としての働きを認められ、別邸の管理を任されるようになったとのこと。

 数人の同僚と共に別邸を整えていると、怪奇現象が多発し、とうとう鬼に襲われて怪我人も出た、と。

 それを解決させるため、天狗が棲むという山へ助けを求めに行く道中、自らが襲われる羽目になった、という。

「なるほどな。無論、佐上殿の後押しもあったのだろう? でなければ、女一人でここまで来ようとは思わないはずだ」

「はい。さらに佐上様は、男を行かせるな、とも仰せでした」

 その言葉を聞いた途端、凌幻は目を丸くし、吹き出した。

「……ふっ、はははっ! さすが、できる人間は違うな!」

 突然笑い出した天狗を目の当たりにし、沙夜は戸惑っていた。

 先ほどまで、どこかピリピリとした空気が張りつめていたが、天狗の大笑いによってそれが吹き飛んでしまった。代わりに、ふんわりとした温かい雰囲気が漂う。

「あ、あの……」

「ああ、すまぬな、突然笑ったりなどして」

 凌幻は居住まいを正すと、柔らかい表情で沙夜へ向き直った。

「佐上殿から聞いているかも知れぬが、俺は人間が嫌いなんだ。弱いくせに虚勢ばかり張って、自分の力量を知ろうとしない。だが、佐上殿はそこらの人間とは一味違う。ゆえに、高く買っているんだ。女をここへ寄越したのも、俺が弱い者を放っておけない変わった天狗だと知ってのことだろう。ふっ、先読みされたか」

 悔しそうな言葉を吐きながらも、その表情はどこか楽しそうだった。

 山の主という立場上、とても厳しく恐ろしい存在だと思っていた天狗が、これほど表情豊かだったと、一体誰が知っているだろうか。

 沙夜の知らない天狗の姿がそこにあった。

「兄者、失礼いたします」

 そのとき、障子の向こうから戒蓮の声がした。

「戒蓮か、入れ」

 凌幻の許しを得て障子を開くと、真っ先に入ってきたのは、ぱたぱたと足音を立てる子供たちだった。

 否、彼らは宙に浮いている。

 ぱたぱたと鳴っているのは、彼らの翼だ。

 そこに思い当たるまでのわずかな時間に、沙夜は三つ子に囲まれてしまっていた。

「こ、こんにちは」

 どうしてよいかわからず、とりあえず挨拶をする。

 すると、沙夜をじっと見つめていた三つ子たちは一度高く飛び上がると、彼女の周りをくるくると回りながら降りてきた。

「しゃ、喋った!」

「人間だ、人間だ!」

「女だ、人間の女だ!」

「すごいなー、初めて見た!」

「僕も初めて見た!」

「ずるいぞ、僕だって初めてだ!」

 子供特有の愛らしい声がひっきりなしに飛び交う。

 凌幻たちが『三つ子』と呼ぶ通り、彼らの容姿と声色は判別がつかない。

 飽きずに自分の周りを飛び続けている彼らをどうしたものかと思い、ふと視線をあげるとこちらを見つめていた凌幻と視線が合った。

 彼は、灯火のような橙の混じった金色の瞳をしている。

 その暖かな瞳に思わず魅入っていると、凌幻は一度瞑目し、溜め息と共に瞼を開いた。

凰蓮おうれん洸蓮こうれん颯蓮そうれん

 凌幻に名を呼ばれた三つ子は、ぱたりと飛ぶのを止めると横一列に並び、沙夜にくるりと背を向けて整列した。

「「「はい、凌幻兄者!!!」」」

 ピシッと音がしそうなほどに揃って姿勢を正す。

 三つ子の態度を見て、戒蓮はいつものように愚痴る。

「……なんでお前らは、実の兄の俺より凌幻兄者のいうことは聞くんだよ……」

 凌幻はいつものようにそれを聞き流すと、三つ子とそれぞれに視線を合わせる。

「いいか、よく聞け。お前たちには、これから大切な仕事を任せる。それは、とても気を配らねばならぬし、丁寧に扱ってもらわなければならない。そうしないと、すぐに壊れてしまうからな」

 三つ子は、尊敬する凌幻から仕事の依頼を受けて、瞳を輝かせている。

 これから何を任されるのかと、期待に満ちた眼差しである。

「お前たちに任せるのは、後ろにいる人間の世話役だ。戒蓮、お前がすべてを監督しろ。いいな」

「えっ、ええっ!?」

 その場にいた者はみな、静かに息を飲んだ。

 戒蓮以外は。

「戒蓮。お前はこの子らの実兄なのだから、当然のことだろう?」

「で、ですが……」

「異論は聞かない。先ほどまで、沙夜とも親しげに話していたではないか。その賜物か、少しずつ緊張が解れているようだ。ならば、お前以外に適任はいないと思うが」

 凌幻の言葉を受けて沙夜を見やれば、少し席を外している間に、雰囲気がぐっと和らいでいる。

 実際に彼女の緊張を解いたのは、凌幻の大笑いなのだが、そのことはそっと胸にしまう沙夜であった。 

「わ、わかりましたよ……。まったく、兄者には敵わないな……」

 戒蓮はしぶしぶ了承した。

 そして何かを思い出したようにはっとすると、凌幻へ向き直った。

「そうだった、兄者! 大天狗様が慶華様と共に部屋へ向かうと仰られていました!」

「なにっ!? そういうことはもう少し早く言え!」

 凌幻は怪我を感じさせない身軽さですっくと立ち上がると、踵を返して颯爽と部屋を出ていった。

 沙夜はその背中を見て、はっと息を飲んだ。

 長い黒髪に隠れてはいたが、その存在感は別物だ。

 あのとき、傷つきながらも自分を抱えて飛び立てるほど力強い立派な黒い翼は、いまや片方しかなかったのだ。



                     ***



 凌幻が慌てて部屋へ戻ると、すでに父と慶華が鎮座して待っていた。

 間に合わなかったか……。

 長い生涯、時には諦めも肝心だ。

 仕方ないと開き直り、堂々と彼らと向かい合うように腰を降ろす。

 胡座をかいて背筋を伸ばすと、瞑目めいもくしていた幻濤が瞼を開いた。

「具合はどうだ?」

 どこか優しい響きを残す声に、凌幻は少なからず驚く。

 やはり、目の前で倒れたのが効いたのだろうか。

「お陰様で、自力で歩けるほどには回復いたしました。慶華殿にも感謝いたします」

 薬湯の礼を述べると、慶華は頭を垂れて黙礼した。

 やはり、慶華の薬湯には随一の効果があったようだ。

 だんだんと痛みも引いており、無理をしなければ近いうちに傷口も塞がってくれるだろう。

 幻濤もそうかと頷くと、改めて息子を見やる。

「ところで、いまはどこへ行っていた?」

 やはり来たか。

 凌幻は覚悟を決めて答えた。

「あの人間の様子を見に行っておりました」

 悪びれもせず素直に告白した瞬間、幻濤の眉が引きつった。

 だが、覚悟していた怒声は降って来ず、代わりに深い溜め息が聞こえた。

 知らず伏せていた瞳を上げると、怒りを鎮めようとしている父の何ともいえない歪んだ顔に出会った。

「……そう、か。いや、そうだな。お前が自らの片翼を犠牲にしてまで守り抜いた娘だ、気にならないほうがおかしいだろう。ふむ……」

 幻濤の言葉は、自分に言い聞かせるようなものだった。

 その、どこか辛そうな表情を見ていると、こちらが居たたまれない気持ちになる。

 凌幻は切り替えることにした。

「ところで、父上。私の翼は元に戻るのでしょうか?」

 翼は天狗にとって、命と同じくらい大切なものだ。

 これがなくては、自分の山を見回ることも、手下妖怪たちの監視も、いつ来るとも知れない敵襲にも対応できない。

 それらを補うためには自分の翼の代わりとして、絶対的な信頼を置ける、それ相応の力ある者を采配しなければならない。

 凌幻の脳裏に数名の顔が浮かぶ。

 彼らならば役に立ってはくれるだろうが……。

「そのことだがな、凌幻」

「はい」

 急に改まった父の態度に、自然と姿勢を正す。

 そして、次に紡がれる言葉を一言も漏らさぬようにと耳を澄ませる。

「わしにはいい考えが浮かばず、いま鴉たちを飛ばして、古き友らに手段はないかと問うているところだ」

 幻濤のいう「鴉」とは、大天狗の眷属けんぞくである鴉天狗のことだ。

 天狗にも格付けがある。

 頂点には、体も翼も法力もすべてにおいて最大最強を誇る大天狗が君臨し、ついで、生前に霊力の高い修練者などが死後になるとされる、赤ら顔で鼻の長い、一般的に知られている天狗が存在する。

 眷属である鴉天狗は、体躯は人間と変わらない大きさで黒い翼を持ち、くちばしの形をした装飾具で口元を覆っている。

 小柄ゆえに飛行速度は最速を誇り、その名の通り、鴉へと姿を変えることもできる。

 また、本来、鴉天狗以外の天狗の翼は黒くはない。

 凌幻と砕稜の兄弟は、鴉天狗との間に産まれたため、黒い翼を持つまれな大天狗である。

「そうですか」

 大天狗の長である幻濤は、他の天狗たち、おきなじいと呼ばれる老齢の天狗たちとの交流を絶やさず、今回のような非常事態のときには、その情報網が役に立つ。

 しばらくの時があれば、良くも悪くも応えが返って来るだろう。

「前例がないゆえ、少し時はかかるだろう。待てるか」

「はい。私のほうでも独自に調べてみるつもりです」

 過去に、悪鬼たちに翼を喰われた天狗の話を聞いたことはあるが、その天狗は老齢だったこともあり、しばらくは山に籠って人間として暮らしていたという。

 彼は翼を喰われたときに人間に助けられたことがあり、その恩義を返すため、自身の高い霊力を使って人々を助けていたそうだ。

 それから長い時を経てようやく天命が下り、その生涯に幕を閉じたが、人間たちの間では、仙人やら神やらと崇められ、彼の存在が伝説や物語となって後世に残されたと伝わっている。

「……俺もあのようになるのか……?」

 後半はいい話だが、そんなふうにはなりたくない。

 彼は両翼を失い、けがれてしまったゆえに天狗の山にも戻れず、人間として生きなければならない運命だったのだ。

 だが、自分が失ったのは片方の翼のみで、穢れてもいない。

 戻る可能性もあるのではないか?

 それに何より、天狗としての一生を終えられないなど、考えられない。

 そんな気持ちが思わず口をつい出てしまった。

 凌幻の呟きを聞き流さなかった幻濤は、息子にすり寄ると優しく体を抱き締めた。

「っ!?」

「大丈夫だ、凌幻。きっと方法はある。ここで諦めるお前ではあるまい?」

 父からの突然の抱擁ほうように驚き、身動きが取れなかった。

 たが、耳元で囁かれる優しい言葉に、その愛情の深さを知る。

「父上……」

 大きく温かく包んでくれる温もりに、悲観的になりかけていた思考がほぐれていく。

 怪我の軽い左腕で父の背中を抱き締め返す。

「もちろんです。私は、父上の自慢の息子ですからね」

 凌幻のその言葉に、もう迷いはなかった。

 幻濤もそれを感じ取り、身を引いた。

「うむ。時折……いや、なかなか言うことの聞かぬ愚息な一面もあるがな」

 そしてお互いに顔を見合わせて、ニッと笑う。

 いまここに砕陵がいたら、きっと『親子だなぁ』と呟いていることだろう。

 くすりと小さな笑い声が聞こえ、慶華の存在を思い出す。

「ああ、いや、これは慶華殿の前で失礼した」

 幻濤が詫びると、慶華はころころと笑った。

「いいえ。素敵な親子愛だと感心しておりました」

「いや、お恥ずかしい」

 父上、騙されてはなりません。

 凌幻の心の警告は、照れたように笑う父には届かないようだった。

「さて」

 幻濤はひとつ膝を叩くと、視線を慶華から凌幻へ戻した。

「それそろ刻限だ。あまり長居をするとあれに拗ねられかねんからな」

 父の言う「あれ」とは、凌幻、砕稜の母のことである。

 それを察した凌幻はふわりと笑った。

「そうですね。お早いお戻りをと、きっと釘を刺されていることでしょうし、そうしてあげてください」

 うむ、と苦笑を漏らす幻濤だが、その表情はどこか嬉しそうである。

「凌幻。無理はするでないぞ」

 言いながら立ち上がった父に合わせ、凌幻も立ち上がる。

 凌幻もずいぶんと前に一人前となった天狗だが、その体躯はどうあっても父には敵わない。

 こうして向き合って立っていても、大天狗である父を見上げるほどだ。

「……善処します」

 ほんの少しの反抗心も手伝って、肯定とも否定ともつかぬ返答をする。

 そうして帰る父を見送るために、連れ立って外へ向かうのであった。

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