妖怪叙事譚 飛べない天狗

金野 碧

序開

【一】

 妖怪暦一五六二年、玄玖げんきゅう二五年。

 人間では夜目も通らぬ暗闇のなか、一羽の天狗が生い茂る木々の合間を縫うように、風の如く飛んでいった。

 彼の通り過ぎたあとには赤い染みが残り、ゆっくりと地面へ吸い込まれていく。

「ちぃっ! どこまでもしつこい奴らだ!」

 悪態をつきながらも、翼を休めることはない。

 追手に捕まれば、命はないからだ。

「俺が何をしたというのだ!? 物見に出ただけではないか! それを奴ら、この 姿を見つけただけでこの仕打ちか……!」

 この時代、徳の高い妖怪の血肉を喰らえば、不老不死になれるだとか莫大な妖力を得られるとの噂が広まり、人間妖怪問わず、力の強い妖怪たちが襲われていた。

 なかでも天狗たちは、その筆頭だった。

 そして、追ってくる悪鬼たちの足は速く、弓矢を引き石礫いしつぶてを弾き飛ばして攻撃を仕掛けてくる。

 彼ら小物妖怪を束ねる立場にあるのは天狗や妖狐などの高等妖怪の役目であり、安易に殺すことはできない。

 悪意しかない妖怪たちをどうまとめるか、それは高等妖怪の手腕にかかっているのだ。

 また、彼ら高等妖怪たちにもそれぞれ縄張りが存在し、小物妖怪は自分たちを束ねる高等妖怪に手を出すことはない。

 その決まりを破れば、喰われてしまうからだ。

 逆を言えば、自分たちの束ねでない妖怪であれば、攻撃をしても誰にも文句は言われないということになる。

「っ!!」

 突然、背後から風を切る音が聞こえ、咄嗟に左へ避ける。

 すると、右脇腹のあたりを一本の矢が通り抜けた。

 着物の端に穴が開き、冷えた空気が肌に触れる。

「あっ、ぶないのう……」

 つうっと背中を嫌な汗が流れ落ちる。

 しかし、その攻撃を発端に、次々と矢が放たれた。

 天狗は華麗に交わしながら、さらに遠くへ逃げようと翼を羽ばたかせる。

 高度を変え、右へ左へ、縦横無尽に空を翔ける。

 そのときだった。

 地面すれすれを飛んでいたとき、遠くにうずくまる人影を認めた。

 同時に矢が何本か放たれ、いくつもの風を切る音が迫ってくる。

「まずい……!」

 天狗は翼を大きく何度か羽ばたかせると、速度を上げた。

 近づいてみると、人影の正体は悪鬼に囲まれて身動きの取れなくなっていた人間の女だった。

 彼女たちは、甘く柔らかい美しさを保つ血肉を持つといわれ、高等妖怪の次に狙われる存在でもあった。

 天狗は低空飛行を続けたまま、両腕をゆっくりと伸ばした。

 悪鬼たちが飛び上がり、彼女に襲いかからんとしたとき、一瞬早く辿り着いた天狗が女の両脇から腕を差し入れ、腰を抱いて急上昇した。

 同時に、背中に鋭い痛みが生じる。

「ぐぅっ!」

「っ!?」

 女のほうは、何が起きたかわからずに硬直している。

 それはそうだろう。

 悪鬼に襲われそうになったところへ、いきなり後ろから来た何者かに抱えられて空高く飛んでいるのだから。

 だが、天狗にとってはそのほうがありがたかった。

 急に暴れられては手を滑らせて落としかねない。

 せっかく助けた命も無駄になってしまう。

 それになにより、背中に受けた幾本もの矢が思いのほか深く、このまま自分の縄張りへ無事に帰れるかどうかもあやしい。

「……もう少しの辛抱だ。耐えてくれよ……?」

 天狗は誰ともなしに呟くと、自分の棲み処へと方向を変えて飛び去った。



                     ***



 なんとか追手を撒いて、どれほどの時間が経ったのだろうか。

 夜半は過ぎているのだろうが、空は相変わらず真っ暗で、月だけが煌々こうこうと輝いている。

 女を抱えた腕も痺れはじめ、自分がどこへ向かって飛んでいるのかもわからなくなってきた。

 気を抜けば意識も飛びそうになる。

 浅い呼吸を繰り返していると、喉の奥から血の臭いが上がってきた。

「げほっ……!」

 顔をそらして咳をしたが、同時に吐いた血が女の着物にも飛散した。

 女が体を引きつらせる。

 ふらふらと力なく飛んできたが、それも限界のようだ。

 目が霞み、腕の感覚もなくなってきた。

 羽ばたく力も弱まり、とうとう地面へ足をついてしまった。

「……あ、あの……?」

 うまく着地した女が、こちらを恐る恐る振り返りながら声をかけてきた。

 支えていた手を放してゆっくりと顔をあげると、女はびくりと肩を震わせた。

 天狗の姿を見て、驚いたようだ。

 顔がすっぽり隠れるはずの面は半分以上も割れて素顔が覗き、法衣は体中あちらこちらが破れてぼろぼろになり、本来は白いはずのそれは出血のために赤く染まっていた。

 長い髪もぼざぼさで幾筋かは顔にかかり、背に生える立派な翼がなければ、その様相はまさに般若はんにゃのようである。

 暗がりでも、これだけの至近距離ならばその姿をとらえることはできるはずだ。

 女は泣いていたのか、白く滑らかな頬に涙の筋が幾本も残っているのがわかった。

「…………」

 次に続く言葉はない。

 おそらく、恐怖やら衝撃やらの影響で言葉が出てこないのだろう。

 だが、このまま森の中の細道で女の言葉を待つ余裕はない。

 あの場所から無我夢中で飛んできたが、完全に悪鬼から逃げられたのか定かではないからだ。

 重い両足を叱咤しったして先へ進む。

 半歩遅れて女がついてくるのがわかった。

 歩きながら、背に刺さったままだった矢を抜き取る。

「俺としたことが……情けない……」

 痛みに耐えながら独りごちると、女に着物の裾を掴まれた。

「あのっ、あなたは天狗様なのですか……?」

 何をいまさら、と心の中で思う。

 この姿を見ればわかるだろうに。

 だが、天狗は答えなかった。

 女は震えながら顔を見上げてきている。

「この先の小川を超えれば、俺の縄張りに入る。それまではお前と話すことなどない」

 そうして再び歩き出そうとしたとき、遠くに殺気を感じた。

 はっとして振り返ると、撒いたと思っていた悪鬼たちの姿が見えた。

 まだこちらには気づいてはいない。

「女、走れるか!?」

 天狗の着物の裾を掴んだままだった女の手を握り、問いかける。

 その勢いにおされたのか、女はすぐに小さく頷いた。

 それを確認すると、女の手を引き、小股でなるべく音を立てないように走り出した。

 少し進むと、悪鬼がこちらの存在に気づいたようだった。

「……さすがに目ざといのう。いや、諦めが悪いと言うべきか」

「あっ!」

 後ろの気配に神経を集中させていると、女が足をもつれさせて転んでしまった。

「ちぃっ!」

 すぐさま腰を掴むと、小脇に抱えて再び走り出す。

「おい、わかっているのか!? 追いつかれれば、俺もお前も命はないのだ    ぞ!?」

「す、すみませ……っ」

「いい! 舌を噛まぬように黙っていろ!」

 天狗は走りながら、最後の力を振り絞って黒く美しい翼を広げた。

 軽く地面を蹴ると、翼をはためかせる。

 ふわりと宙に浮くと、ようやく見えてきた自分の縄張りとの境に張られた結界へ向かって飛んでいく。

 あともう少し、というところで、背後から重い何かが飛んでくる音が聞こえた。

 何かを確認する間もなく、重い「それ」は天狗の右翼に接触した。

 その途端、すさまじい爆発が二人を襲った。

「きゃあっ!」

「ぐあっ……!」

 爆風に吹き飛ばされるなか、天狗は無意識に女を胸に抱き寄せ、衝撃から守っていた。

 そしてその状態のまま、二人は小川を超えて天狗の結界のなかへ入ることができたのだった。



                     ***



 何かの焦げる臭いが鼻を突き、天狗は目を開けた。

 腕の中の女は気を失っているのか、ぐったりしている。

 背中が燃えるように熱く感じるのは、爆風に飛ばされたとき、地面に激しく打ち付けたからだろうか。

 天狗は上体をゆっくり起こすと、顔を上げた。

 どうやら、うまく結界のなかへ入れたようだった。

 その向こう側には、悔しそうに地団駄を踏む悪鬼たちの姿が見えた。

 この結界は、天狗の認めた者しか入ることはおろか、見ることさえできない。

 こちらから向こうの様子はわかるが、向こうからはただの木々にしか見えないはずだ。

 ひとしきり悪態をついた悪鬼たちが、諦めてすごすごと帰っていくのを最後まで見届けると、天狗はようやく一息ついた。

 ふと、翼に違和感を覚えて広げてみると、右側が軽い。

 振り返ってみると、先ほどの爆発で吹き飛ばされたのだろう、自慢の黒い翼は、左側は無事だが、右側は付け根のところにわずかに残っているだけだった。

「……あぁ、なんてことだ……」

 あたりに漂う焦げた臭いと、背中に感じる焼けるような痛みは、これだったのかと納得する。

 これでは、山の上にある棲み処まで帰ることができない。

 長い時間、追っ手を撒くために酷使してきた身体は、もはや限界を超えていた。

 ましてや、通りすがりに女を助け、ここまで連れ帰る予定などなかったのだ。

 予想外のことばかりが起き、天狗はほとほと疲れ果てていた。

 いまのままでは、女を抱えて歩くことはおろか、立つことすらできないだろう。

 どうしたものかと天を仰ぐと、遠くからこちらへ向かってくる羽音が聞こえた。

「兄上ー! 凌幻りょうげん兄上、ご無事ですか!?」

 こちらの姿を見つけて、近くに降り立ったのは、実弟の砕稜さいりょうだった。

 いまの凌幻の装いといえば、血まみれになったぼろぼろの法衣、割れて半分もない面、焼け焦げて片方しかない黒翼。

 どこの誰がどう見ても、「無事」ではない。

「砕稜。これが無事に見えるか?」

「いいえ、まったく」

「ならば聞くでない」

「嫌です、兄上の反応がおもしろいですから」

 この野郎、という目で睨みつけるが、当の本人はしらっとしている。

 さらに言い募ろうとしたとき、もう一つの羽音がこちらに向かってきた。

「砕稜兄者ー、速いですよ……。私ではもう追いつけません……」

 息を切らしながら辿り着いたのは、凌幻の弟分である戒蓮かいれんだ。

「りょ、凌幻兄者!! ど、どどど、どうしたんですかそのお姿は! ああっ、ご自慢の翼が! なんと無残な……!」

 戒蓮は目にいっぱいの涙を浮かべ、縋りついてきた。

 こいつ、男のくせに……と思うこともあるが、これが凌幻を姿を見たときの普通の反応だろう。

 実弟でありながら、心配一つしない砕稜には期待できない反応だ。

「お前たちが来てくれて助かった。この女を運んでくれぬか? いまの俺には支えることもままならん」

 鼻をすする戒蓮をそっと押しやりながら、仁王立ちの砕稜を見上げる。

「兄上が結界を通ったときに別の気配があったので、戒蓮を連れてきたんです。お安いご用ですよ」

 言うや否や、砕稜はいまだに意識の戻らぬ女を抱き上げ、踵を返す。

「戒蓮、お前もいつまでもうじうじするな。見ての通り、兄上は死んではおらん。肩を貸してやれ」

 それだけ言うと、地面を蹴って飛び立ってしまった。

「もっ、申し訳ございません……。それでは凌幻兄者、お手をお貸しくだされ」

 凌幻は素直に従うと、戒蓮の肩を借りて立ち上がる。

 その瞬間よろめくが、力だけが取り柄の戒蓮はたやすく抱き留めた。

「おっと、大丈夫ですか?」

「ああ、すまないな」

「いいえ、なんてことはありません。兄者の力になれることが、私の喜びですので」

 落ち着いた戒蓮はとても男らしいのだが、心酔している凌幻の大事とあっては、先ほどのように取り乱すことも多々ある。

 戒蓮はもう一度凌幻の身体を支え直すと、大きな翼を広げて、力強く飛躍した。

 凌幻がとしているのは、このあたりでは比較的高い山、黒栄山こくえいざんの頂上付近だ。

 天狗たちは成長すると、親元を離れて自分の棲み処を探す。

 自分の棲み処を得て、子分や小物妖怪を束ねられる存在となって、ようやく一人前と認められるのだ。

 凌幻のように高い山を棲み処とし、それを維持できるのは、力の強い者だけがなせるわざだ。

 まず、巣立ったばかりの天狗は、兄弟や友人の棲み処に身を置き、修行を重ねる。

 ある程度の力を身につけたあとで、自分好みの山を探しに行くのだ。

 そうして見つけたとき、無人であれば幸運だが、そうもいかない場合がほとんどだ。

 そういうときは、前の主に力づくで退いてもらわなければならない。

 負ければ、当然怪我どころでは済まない。

 下手をすれば、命まで取られかねないのだ。

 逆に、よそ者を迎え撃つ側も油断はできない。

 いつ、自分の棲み処を追われるかわからないからだ。

 凌幻のように結界を張っていたとしても、それを突破してくる強い天狗もいつかは現れる。

 それまで、己と手下たちを鍛えるのも、山の主となった者の務めでもあった。

「もうすぐですよ」

 戒蓮の声に、意識を戻す。

 どうやら、少しの間落ちていたようだ。

「……すまない」

「なんのことです?」

 いろんな意味を込めて謝罪の言葉を口にすると、戒蓮はそれをさらりと受け流した。

 彼は、こういうときの気配りがうまい。

 それに何度心を救われたかわからないくらいだ。

 ようやく見えてきた屋敷に安堵していると、同時に嫌な気配も察知した。

 隣からもびくっと肩を震わせた振動が伝わる。

 もしかしたらという疑念は確信に変わった。

 門前に降り立つと、内側から勝手に門が開かれる。

 その向こうにいたのは、やはり仁王立ちの砕稜だった。

「兄上、お待ちですよ」

 明るめの声が少し震えているのは、これから起きることがわかっているからだろう。

「ああ、わかっている。だが、お前は外せ。話がややこしくなる」

「いいえ、俺も参列するように指示を受けていますので、勝手ながらお供させていただきます」

 盛大に溜め息をつくと、身体を支えてくれていた戒蓮が心配そうに見上げてきた。

「では、私も参ります! 兄者を放ってはおけません!」

「いや、戒蓮は女のほうを頼む。意識が戻ったら、すぐに俺を呼べ」

 凌幻から指示されれば、戒蓮は従うしかない。

「……わかりました」

 ぼそぼそと返事をすると、凌幻の支えを弟に託して、別邸へと飛んで行った。

 その背中が小さく見えるのは気のせいではないだろう。

「では、行くか」

 凌幻は砕稜に支えられながら、重い足取りで母屋へ向かった。

 居間へ着くと、父から譲り受けた名刀の前に、その張本人である大天狗・幻濤げんとう鎮座ちんざしていた。

 両腕を組んで胡坐あぐらをかき、目を伏せている。

 立派に蓄えられた髭が見事だ。

 大きな翼はたたまれているが、それでもこの部屋が手狭に感じられるほどの存在感がある。

 父の正面に凌幻が、砕稜は兄の斜め後ろに座する。

「お元気そうで何よりです、父上」

 何事もなかったかのように、凌幻が挨拶をする。

「近頃は、妖怪も人間もあからさますぎて、やり過ごすのに骨が折れます。人間はまだ良いのですが、悪鬼どもは疲れというものを知りませぬゆえ」

 そこまで話すと、父の深い灰色の瞳が開かれた。

「この……愚息めが! 今宵はそのような話をしに、わざわざ来たのではないわ!!」

 腹の底から放たれた低い怒声は、手負いの身体にびりびりと響く。

 思わず身震いすると、後ろから吹き出す声が聞こえた。

「くくっ……! このやり取り、何度見ても飽きないなぁ」

 小さいころから砕稜は、兄が父に叱られるのを見るのが楽しくて、凌幻と行動を共にしてきたのだ。

 そのたびに悪さばかりして、砕稜は兄に責任を押し付けるものだから、凌幻は父にこっぴどく叱られる。

 懲りるということを知らない砕稜は、また兄を連れ出し、一度言ったら聞かない弟に少し甘いところがある凌幻は、それに付き合うしかない。

 その悪循環は、凌幻が一人前となったあとでも、まだ続いていたようだ。

「凌幻。そろそろお前にも身を固めてもらおうと、大事な話をしに参ったのだ。だが、ここに来てみれば当の本人はおらず、悪鬼どもに襲われたと。砕稜と戒蓮が手負いのお前を迎えに行ったと聞き、待っておれば、なんと人間の女を連れ帰ってくるとは……!」

 ああ、また始まった、と凌幻は思った。

 父が感情的になると、口にする言葉はいつも決まって同じだった。

 心の中で、そっと口を開く。

「凌幻。お前は我が一族の中でも、特に優秀な天狗だ。文武両道、眉目秀麗、法術の力、扱い方も申し分ない。天狗の中の天狗だ。わしも鼻が高い。だが、いかんせん、色恋には疎いようだのう。何度見合いの席を設けても、お前はのらりくらりとかわし、逃げてしまう。そのたびに、わしがどれほど説得しても、まだいいの一言で片づけおって……」

 前からは鼻をすする音が、後ろからは笑いを堪える声が聞こえる。

 話はまだ続く。

「……だが、今度こそはと思い、また話を持ってきてみれば、人間の女をこの結界内に入れるとは! あれほど人間嫌いだったお前が、なんと情けない! あれにどれほどの魅力がある!? からす天狗の慶華けいか殿のほうが、よほど美しいではないか! お前を、そのような腑抜けに育てた覚えなどないわ! もう一度鍛え直してくれる! そこへ直れ、凌幻!! この馬鹿息子めが!!」

 そこで、言いながら片膝を立てる。

 凌幻は、思わず小さく笑った。

 心の中で、父の口上を真似ていたのだが、一言一句違わずに言えたことに自分でも感心する。

 特に、最後の動作まで把握して心中で呟いたところ、ちょうどいいところで父が本当に片膝を立てたのだ。

「何を笑うことがある!? 立て、凌幻! それでも男か!?」

 激怒した父を鎮めるのは、いつも母の役割だったが、ここにはいないため、いまはそれも望めない。

 後ろをちらりと振り返ると、砕稜が足を崩して笑い転げていた。

「あはははっ! もう最高ーっ! くくくっ!」

 もう何度目かわからない溜め息をつくと、凌幻は父に向き直った。

「恐れながら申し上げます、父上。私は、口は達者ですが、身体は限界を超えております。こうして座しているのもやっとなのです。一人では立つこともできませぬ」

 静かに答えると、父はようやく自分の姿をまじまじと見つめた。

 止血する余裕すらなかったために、傷口からは絶えず血が流れ、凌幻の周りに血だまりができつつあった。

 普段なら鼻の利く父ではあったが、想定外のことが一度にいくつも起きたために、勘も鈍っていたのだろう。

 父の目がゆっくりと見開かれる。

「……凌幻、お前……。い、致し方ない! まずは手当てを受けよ! 話はそれからだ!」

「感謝いたします、父上……」

 軽く頭を下げると、めまいを起こしてそのまま横に倒れた。

「凌幻!」

「あ、兄上!!」

 凌幻は、自分に駆け寄る数人の気配と何かを大声で指示する声、そして自分の名を呼ぶ声を遠くに聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。

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