第7話 助けて! 元の世界への帰り方がわからないんで至急アドバイスが欲しい!

 これまで漠然と「平安時代にタイムスリップしてしまったんだろうなあ」とは思ってはいた。しかし、実際にその時代に生きている人からはっきりと、あの藤原道長がいまの左大臣だと聞かされると、タイムスリップという荒唐無稽な出来事が一気に現実的なものとして私に突きつけられたような気がした。

「そなたの生きていた世界は、聞いているとまるで浄土のように素晴らしい世界のように聞こえるが、帰りたいとは思わぬのか?」

 先ほどまで、興味深そうにワクワクした表情で私の話を聞いていた兄君が、ふいにそう尋ねた。おそらく、タイムスリップという現実を初めて真剣に考えたことで、私自身の表情にもそれが浮かんでしまったせいだろう。観察力の鋭い彼は、それを察して聞いてくれているのではないかと思った。

「向こうの世界には、そなたにも家族や友など、愛しい者たちがいるであろうし」

 家族、友。その言葉を聞いて、一瞬目の前の景色が滲んだ。兄君にこれ以上、心配させるのは申し訳ないと、私は潤んだ瞳を隠すように扇を目元まで上げる。

 いままで、この非日常的なアクシデントを、ゲームの中のイベントのひとつのように半分はドキドキ、ワクワクしながら楽しんでいる自分がいた。3Dのゲームをしていると、自分の身体は現実世界に存在しているのに、プレイしているファンタジー世界や過去の歴史の世界の中に、意識がどっぷりと入ってしまうような錯覚をすることがある。現実の身体の感覚がなくなっていって、視点が自分のプレイしているキャラに移行し、現実の自分の部屋は次第に消えていく。そして、背景はプレイしているゲームの世界のみとなり、私の身体もプレイしているキャラのものに変わってしまったような感覚がするのだ。そして、ゲームのキャラとなって、泣いたり笑ったり、その世界の友や恋人との交流を楽しんだりする。もちろんそれは、ただの錯覚でしかなくて、ゲームの電源を落とせば、私は21世紀の日本という現実世界にある、藤原香子の部屋へと瞬時にして戻ることができる。

 今回のタイムスリップも、そんな感覚で捉えて、現実の自分の身に起きたこととは真剣に考えられないでいたのかもしれないと思う。あまりにも非現実的な出来事で、脳が受け入れるのを拒否していたとも考えられる。

 しかし、ここは現実の世界だ。なぜなら、ゲームのキャラならば、現実の、藤原香子の世界に帰りたいかと問うことはけしてしない。

 階段で転倒したときに遠くで聞こえた、奈々美の声が思い出される。あの後、奈々美はどうしただろうか。消えてしまった私をひどく心配しているのではないか。そして、修学旅行で娘が行方不明になったと聞かされた父や母はどんなに嘆いているだろう。

 これまで、「ゲームやマンガ、妄想の世界だけで生きていけたらどんなに楽しいだろうか」なんて考えたこともあったけれど、いまあらためて思うのは、フィクションの世界を楽しめるのはリアルな現実という足場があってこそということだった。私はいま家族という庇護を失い、現実という足場を急に外されて、ただひとりで平安時代という現実に放り出されてしまっている。

「そもそも、そなたはどうやってこの世界にやって来たのだ? 未来には、時間を行き来できるまじないでも完成しているのか?」

 時間を行き来できる“機械”ではなく、“呪い”と考えるなんて、やはり平成の時代に生きる人間とはまったく違う思考回路を持っている人間。文化や科学の背景がまったく違うのだとあらためて思う。

「私もどうしてここにいるのかわからないのです。階段を踏み外したら、そのままこの時代に飛んでしまって」

 自分でそう言いながら、厳しい現実を突きつけられたような気がした。来たときの原因がわからないということは、帰るための手がかりもまったくないということだ。

 私がいままでプレイしてきたゲームだったら、こちらに召還してくれた存在がいて帰り方も教えてくれたり、時空を跳ぶためのキーアイテムがあったりした。そして、ゲームだから当然エンディングは用意されているわけで、決められたミッションをこなせば、元いた世界に帰ることができる。もちろん、恋愛が発生した場合には、彼とその世界に残留するというエンドも選べるわけだけれど。

 私が階段を落ちたときは何も持っていなかったからキーアイテムはない。そして、私を拾ってくれた弟君も私を召還したわけではないらしい。まだ召還してくれた人物と出会っていないという可能性はかすかに残されているものの、まずはこのタイムスリップという状況についてアドバイスしてくれるような人物はいないだろうか。目の前の兄君は、文学には詳しく、とても頭の切れる人物だということはわかったが、科学には疎そうだ。いや、そもそもこの時代に、科学や物理に詳しい人物なんているのだろうか。

 不可思議なこの状況に対してヒントを与えてくれるような人物……、と教科書の平安時代のページを思い出して見るものの、見事に“藤原道長”“摂関政治”“荘園”ぐらいしか思い出せない。むしろ、私の場合、ゲームやマンガを思い出した方がよさそうだ、と思考をそちらに切り替えてみる。

 不思議なこと、不思議なこと、……物の怪、鬼……、先ほど兄君は呪いと言っていたから、その方向で考えた方がよさそう、呪い、呪術……あ、陰陽師! 安倍晴明!! 彼もこの時代の人物ではなかったか?

「あの、安倍晴明とかだったら、なぜ私がタイムスリップ……つまり、時間を遡ったのか、とか何か教えてはもらえないでしょうか? 若い頃から鬼が見えたとか、呪文だけで蛙を殺したとか、邸には誰も使用人がいないのに勝手に扉が開くとか、蘆屋道満と戦ってその式神を奪ったりとかしていた、すごい陰陽師ですよね?」

 我ながら、すごい人物を思い出せたものだ。もちろん、すべてマンガや映画の知識だけれど。自分を大絶賛しながら、これで万事解決とばかりに笑顔で兄君に詰め寄った。

「安倍……、ああ、安倍左京権大夫あべのさきょうのごんのだいぶのことか」

「サキョ……? ダイブ……? 陰陽師ではないんですか?」

「いや、いまは陰陽寮の所属ではいないというだけで、陰陽師ではあられる。しかし、先ほどそなたが言ったような話は噂としても聞いたことがないのだが」

「えっ、じゃあ陰陽師としての力は何も持っていない、ということですか?」

 名案だと思ったのに、と私はがっくりと肩を落とす。

「というよりも、そなたの陰陽師に対する理解が異なっているように思う。安倍左京権大夫はもともと天文博士だ。天の動きと陰陽五行を元に、先のことを占い、何か凶事が起こりそうなときにはお主上かみに奏上する。宮中の行事を行うのにいつが良き日か暦から占い、お主上や宮、后、大臣おとどなどに病があればその原因を探る。そういったことがおもなお役目なのだから、むやみに蛙を殺すような意味のないことはなされないし、誰かと戦ったりもせぬ」

 はあ~、とため息をつきながら、さらに私は肩を落とした。「お母さんが狐なんてすよね」まで言わなくて本当によかった、と思いながら。どうやら、私が聞いたことのある安倍晴明の行ったことというのは、ほとんど創作のようだ。まあ、マンガや映画の知識だから、フィクションでも仕方ないだろう。でも、きっと21世紀の日本人、晴明についてはほぼ私と同じような誤解をしている、と思う。だって、兄君の話を聞く限りだと、晴明って宮廷のための占い師? それなら、浄霊したりオーラを見たり、未解決事件を解決したりする、テレビに出てくる21世紀の霊能者の方が、なんだかすごいんじゃないかと思ってしまうのだ。

「じゃあ、私に起きている現象についてもきっと何もわからないということですね」

「いや、そうとばかりも言えないだろう。安倍左京権大夫は、他の陰陽師よりも、泰山府君祭たいざんふくんさいを得意としている。泰山府君祭とは延命長寿のための祭祀であるが、魂をあの世から呼び戻せるとも言われている。本当にそこまでできるものか私にはわからぬが、延命長寿にしても時というものが関わりがあと考えることもできるのではないか。そもそも、陰陽五行とはすべてのことわりの根底にあるものだし、時を遡るというのも天文や暦の学問の範疇であろう」

 兄君の言っていることはほとんど意味がわからないけれど、安倍晴明がただの占い師ではないということを教えてくれているのだろうというのはなんとなく理解できた。

「じゃあ、その安倍のサキョなんとかさんに頼めば、もしかしたら!」

「いや、期待を持たせてすまなかった。貴族とはいえ我が家程度の中の品の者では、左京権大夫殿に呪いを頼むことはできぬよ。先ほども言ったように、そもそも国のために働く方だ。私的に動かれるときも、いまは左大臣さのおとどぐらいの権勢を持つ者でなければ無理であろう」

「やはり、無理なんですね……」

 ああ、何度喜んだり悲しんだりすればいいのだろうか。

「ただ、そなたはいいことに気がついたな。左京権大夫とまではいかなくとも、陰陽寮にいる天文生てんもんしょう暦生れきしょうであれば、何かしらそなたの現象について示唆をくれるかもしれない。弟が邸に帰って来たら、陰陽寮に伝手つてがないかどうか聞いてみるとしよう」

 兄君のその答えを聞いて、私はまた浮上する。

「やった! キュウキュウニョリツリョウッ! って感じですね!」

と、唯一私がゲームやマンガで知っている陰陽師の使う呪文を織り交ぜて喜びを表現すると、兄君は一瞬目を丸くした後、破顔した。これまで見せたことのない大笑いだ。

「アハハハ」

 いつもはキリッと上がっている目尻が少し下がって、柔らかな表情になる。いままでは、“生徒会長”もしくは“風紀委員”みたいなツンキャラ全開だった人が見せる笑顔って、なんて破壊力があるんだろう。そう思いながら、胸のどこかがトクンと波打つのを感じた。

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