番外編 その後の国時さん

 陰陽寮を出て、牛車に乗ろうとしたところで、供の者から行き先を尋ねられる。

「本日はどちらへいらっしゃいますか?」

「このまままっすぐ邸へ」

「本日も……お邸にまっすぐでよろしいのですか?」

「ああ、そのつもりだが」

 これまでの私は、都のあちこちに通う女性がいたため、邸に直接帰ることは少なかった。そんな私が急に遊び歩くことをしなくなったので、どのような心境の変化が起きたのかと供の者も訝しんでいるのだろう。

 月蝕の日を境に、私は女性たちの邸を渡り歩くことをしなくなった。

「あの……」

 牛車はまだ動き出さず、供の者は何か言いたげに私の傍に跪いている。

「どうかしたか?」

「い、いえ……何でもございませぬ……ただ、お預かりした文がございまして……」

 恐縮する供の者に私は片手を出す。

 私は受け取った文を開いて、目を通した。

 そこには、最近訪れがないことを嘆く歌が女文字で書かれている。

 これは……、五条辺りに住む女だっただろうか。

 私は、文を懐にしまうと

「しかし、私は邸に早く戻ってくつろぎたい」

と、だけ口にした。

 かつての私なら、請われるままこの文の相手の元を訪れたことだろう。

 しかしいまは、そんな気分になれないのだ。

 月蝕の日、愛しい人が遠く、天上の世界に昇って行ってしまってから。


 邸に着いた私は、先ほどの五条の女君に伺うことができない旨の返事をしたためようと、文机に向かった。

 しかし、いつもならあれほどすらすらと出てくる女性が喜びそうな言葉が、まったく頭に浮かんでこない。

 私としたことが……。

 撫でし子の君のことで頭がいっぱいのようだ。

 ふと気付くと、目の前の紙には五条の女君への返事ではなく、撫でし子の君への思いがとうとうと綴られていた。


『ああ、愛しい撫でし子の君。

 私は君への思いを最初から囁き続けていたのだけれど、君はまったく本気にしていませんでしたよね。

 確かに、私はこんな性分ですから、本気にされないのも仕方がないことでしょう。

 何しろ、女性に対してはその美しさを褒めることが礼儀であると思っておりますし、私自身、初対面のときから、君に恋していたかどうかと問われたら、すぐにだくとは言い切れませんから。

 でも、私が本当に君のことを愛しいと思っていたこと、月蝕の夜にはわかっていただけたでしょうか。

 それともまだ、本気でないからあのようなことができる……と、お思いですか?

 これまで、いろいろな女性とお話をする機会がありましたが、撫でし子の君のような女性とお逢いするのは、初めてのことでした。

 何と面白く、新鮮な女性だろう、と思うとともに、いつかそんな君がいた世界を共に見てみたいと思うようになったのです。

 撫子の君がいた世界。

 いったいどのような世界なのでしょうね。

 庭に咲く、前栽せんざいの撫子を見るたび、君と君のいた世界に思いを馳せているのですよ。

 愛しい我が君』

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【書籍化】平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです 中臣悠月 @yukkie86

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