1日目 21時00分


「入りたいんだけど。どいてくれない?」


 言って、美しい彼女、鶇屋凍子は僕の目を見る。

 刺々しい言葉に、刺々しい視線。記憶の中にある彼女の姿と、目の前の彼女の姿とが、重なり合っては違和感を生み出す。彼女の声は、こんなにも透き通っていただろうか。彼女の声は、こんなにも冷たい響きを纏っていただろうか。違和感が嵩を増し、心の内側に影を落とす。


「お久しぶりです......」


 間抜けにも聞こえるそんな言葉を返し、僕は扉から一歩離れる。彼女、凍子さんは瞳で何か言いたそうにしながら、僕の脇をするりと抜けて、部屋の中央へと足を進める。僕は扉をそっと閉め、振り返った。先ほどまで僕が眠っていたベッドの脇に立ち、凍子さんは周囲を見回している。


「あの、何で......」


 僕はこんなところにいるんですか。口から出掛かった言葉が、歯の裏にぶつかって喉へと返る。それが彼女にぶつけるべき疑問であるのか否か、判断がつかなかったからだった。気遣いの名を借りた下らない遠慮が、喉を支配してしまったからだった。

 ベッドの縁へと乱暴に腰を下ろし、凍子さんは気怠げに脚を組む。トレンカに包まれた細い脚に、灰色のキュロットと、ロングスリープの黒いセーターが良く合っている。


 凍子さんは一度大きく息を吐き、手に持っていたらしい小さな紙箱を指先で開くと、取り出した白いスティックを軽く咥える。箱の中に一緒に仕舞われていたらしいライターで先端に火を灯し、形よい唇からゆっくりと紫煙を吐き出した。


「煙草ですか......?」


 誰にだって見れば分かる。いちいち口に出すまでもない、知恵の足りない質問。それでも言葉にしたのは、ショックだったからだった。彼女が煙草を吸うという事実が、僕にとっては重みを伴うものであったからだった。


「凍子さん、まだ10代ですよね?」

「だから?」

 

 冷たい視線とともに返された冷たい言葉に、胸が詰まる。魚の骨か何かが突き刺さりでもしたかのように、ずきりと喉が痛む。継ぐ言葉を見つけられず、僕は黙って扉の前に立ち尽くす。目の前で脚を組んでいるのは本当に僕の知る先輩であるのかと、やっぱり馬鹿みたいな疑問符が頭の中に浮かんでは消えていく。


 一年と少しの昔、鶫屋凍子は優しかった。言葉も声も、何もかもが柔らかかった。笑顔以外ほとんど見た記憶がないし、少なくとも法に反するようなことに手を染めるタイプには絶対に見えなかった。つまらない僕の、優しい先輩。つまらない冗談を口にしては、1人で楽しそうに笑っていた優しい先輩。持っていたイメージが、寄せていた信頼が、心の何処かで拠りどころにしていた懐かしさが、脆くも崩れ去っていくように感じた。


 座れば、と一言口にして、凍子さんは自身の隣を右手でぽんぽんと叩く。少し迷ってから勧めに従い、僕は再びベッドへと舞い戻る。何故だか冷たい先輩と、10cmほどの隙間を空けて並んで座る。きしりと、ベッドが嫌な音を立てた。


「次のゲーム、君にとって最初のゲームまで残り14時間。時間はなくもないけど、わたしも寝たいし、説明は簡潔にするね。君が臨む最初のゲームは……」

「ちょっと待って下さい」


 何やら話し出そうとした凍子さんの目の前に掌を突き出し、叫ぶように僕は言う。説明と聞いてほんの一瞬期待したけれど、何だか違う。聞きたかったのはゲーム云々なんて話じゃなく、どうして放課後に学校を出た僕が訳の分からない部屋になんているのかということだった。どうして1年も顔を合わせることのなかった凍子さんが、当たり前のように僕の目の前にいるのかということだった。


「ここ、どこなんですか? 僕、家に帰ろうとしていたんです。凍子さん、何か知ってますか?」


 尋ねれば、凍子さんは大きく息を吐き、それから少し視線を伏せて言った。訊かれることは勿論分かっていて、それでも訊いて欲しくない。僕が口にしたのは、どうやらそんな質問であったらしかった。


「悪いけど知らない。君がどうしてここにいるのかも、ここがどこなのかも、わたしは知らない。だから教えてあげることもできない。だけど、君がこれからどうするべきなのかは知ってる。それなら、教えてあげられる」


 意味が分からなかった。ここがどこなのか分からないのなら、凍子さんはどうやってこの部屋にやってきたのか。もしも僕と同じように、気が付いたらこの部屋にいたっていうのなら、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。

 知らないうちに、僕の視線には非難の色が込められていたらしい。凍子さんは小さく舌打ちすると、僕の目を見て気怠そうに言った。苛立ったような舌打ちは、やっぱり凍子さんには似合わない汚らしい音だった。


「分かったよ。最初から説明してあげる。聞いても何も分からないと思うけど……それ取って」


 紫煙を噴き上げる細長い煙草を僕の目の前で軽く振りながら、凍子さんは顎をしゃくってみせる。ベッドの脇。小さな木製のサイドテーブルの上に、ガラス製の灰皿が置かれている。少し迷い、凍子さんの視線に押されるようにして腰を上げる。灰皿を持ち上げ、二人の間にそっと置いた。指先でとんとんと煙草の中心辺りを叩き灰を落としながら、凍子さんは話し出す。


「わたしも君と同じ。気が付いたらここにいた。もう結構前のことだけどね。それで、ずっと空室だった隣の部屋で物音がしたから、1時間くらい前に見にきたの。そうしたら君が寝てた。知り合いだからちょっと気になって、もう一度見にきたら、今度は起きてた。それだけ」

「それだけ……?」

「それだけ。君がどうしてここにいるのかも、ここがどこなのかも分からない。さっきそう言ったでしょ?」


 何の解決にもならなかった。彼女の言葉の通りだった。だけどそれならそれで、やるべきことはあるんじゃないだろうか。そう思えた。

 常識的に考えればまずは、この建物から出てみるべきだろう。少なくとも、煙草を吸いながらおしゃべりに興じている場合じゃない。家に向かって歩いていたはずが、気が付いたら見知らぬ部屋で眠っていた。僕一人だけなら兎も角、全く別の場所にいたはずの凍子さんまで同じ目に合っている。何らかの犯罪に巻き込まれたと考えるのが妥当なような気がした。


「建物の外には出られない。正確には、このフロアから出られない。階段に続く金属扉には鍵が掛かっているし、エレベータも動かない。廊下の端の窓なら開くけど、飛び降りたら死ぬ。ここ9階だからね」


 僕の考えていることなどお見通し。と言うよりも、凍子さんが試したのだろう。試して、悩んで、そうして諦めた。部屋で目を覚ました、恐らくはその直後に。


 ベッドから立ち上がり、慎重に部屋を出る。絨毯張りの廊下は長く、直線的にどこまでも続いている。どうやら僕が目覚めた部屋は、長い直線廊下の丁度真ん中辺りにあるようだった。見る限りでは、部屋を出て右に進めば開けた場所へ、左に進めば窓のある突き当たりに辿り着くようだ。

 少し迷った末右方向を選択し、ゆっくりと足を進める。廊下の左右には幾つもの木製扉。中心少し高い位置に、部屋番号が記されている。905、904、903、902。僕のいた部屋は908。数字からも、凍子さんの言っていたようにここが9階であると読み取れる。


 端にあった901号室の前を抜け、部屋の前から見た開けた場所へと辿り着く。目の前には2基のエレベータ。凍子さんは動かないと言っていた。金属のプレートと一緒に壁に埋め込まれた透明なボタンを押し込んでみる。点灯しない。9階に停まらないように設定を変更されたか、或いは電源そのものが切られているのだろう。動かないと言うのは、どうやら確かなことのようだった。


 未練がましくボタンを連打した後、周囲を見渡す。エレベータホールの端に金属製の重そうな扉を見つけ、ノブを回す。かちゃりという音が響くばかりで、引き開けることはできない。多分これが、階段へと続く扉。こちらも先輩の言葉の通り、鍵が掛かっているようだった。


 エレベータホールを出て、今度は廊下の反対側、突き当りを目指す。凍子さんは、窓は開くと言っていた。窓が開くなら、少なくとも自分がいるのがどういった建物で、その建物がどういった場所に建っているのかは分かるはずだ。9階と言っていたから大声を張り上げる必要はあるだろうけれど、人通りのある場所なら通行人に助けを求めることだってできるかもしれない。


 一歩一歩足を進め、最後の方は走るようにして、窓の前へと辿り着く。壁に両手を突き、硝子の向こうを覗き込んだ。


「何だよこれ……」


 クレセント錠を外し、両開きの窓を慌てて押し開く。縁に手を掛け顔を空中に突き出し、周囲に視線を彷徨わせる。


「森……?」


 そうとしか表現のしようがなかった。どこまでも続く木々の群。夜の帳が下りた暗い世界に、馬鹿みたいに濃い緑だけが延々と続いている。吐き気のするような単色の世界。眩暈のするような暗色の世界。人通りなんてあるはずもなく、つまりは助けなんて求められるはずもなく。


 僕と彼女とを閉じ込めるビジネスホテルじみた建造物は、広大な森の中に割拠していた。


 

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